秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

鵺池。京都非観光迷所案内その32.

2008年02月28日 07時56分24秒 | 京都非観光迷所案内
頭が猿で胴が狸、足が虎で尾が蛇。ショッカーがネタ切れでヤケクソで創った怪人では無い。
仁平年間、清涼殿辺りに夜な夜な現れ、公家や近衛天皇を悩ませた「物の怪」、すなわち鵺。

近衛天皇に命じられた源頼政、「わしゃ、そんなナンギな怪物、手におえまへん」
とも断れず、夜中に不気味な声のする天空へ矢を放ち、見事打ち取ったり・・。

その血が付いた鏃を洗ったのが、この公園にある「血洗い池」です。
  
元禄時代に頼政の子孫が、石碑を建てたそうですが、文字が風化してしまっていた
ので、新たに石碑はリニューアルしたそうです。

祠は鵺を祀ってます。明治時代はこの辺り、監獄だったそうですが、当事の官僚が
鵺の古事を知ったうえでこの場所を選んだとは思えませんが・・・・なんだかねぇ。

以前はこんな綺麗な公園ではなかった、と、思ったら、やはり2005年に整備された
そうです。今は親子連れで賑う明るい公園になってます。

場所は堀川丸太町を西、NHKの塔を目印に南へ。二条城のすぐそばですけど、
そこは「迷所案内」で紹介する所ですから、他にはなんにもありませんよ~。

ところで討ち取られた鵺は空船(うつほ船。中が空洞で密封状態。)で川に流され
芦屋川河口近くに漂着。その地に埋めた(鵺塚があるそうです)、という説と、清水
の岡に埋められた、という説があります。

頼政以外にも、平清盛や他の人物による「鵺退治」の話はあるので、「鵺」は
けっこうポピュラーな物の怪だったんでしょう。

もともと鵺とは「トラツグミ」をさす呼び名だったけど、その泣き声が薄気味悪い
もんで、いつのまにか得体の知れぬ物の怪にその名を奪われたようです。

鵺、とは別系統になるけど、いつか「土蜘蛛」や「鬼退治」の話もしたいと思って
います。これは朝廷に「まつろわぬ」人々の話もからんでくるので、別の折にまた・・。

カニっ子ラーメン。

2008年02月27日 06時40分40秒 | グルメなのか?
京都は毎日雪模様です。こんなに雪が続くのは最近では珍しいことですね。
こんな寒いときは暖かいラーメン。・・・いや、寒くなくても食べてますけど。

これは昨日鳥取から帰ってきた相方のお土産、境港の「ゲゲゲの鬼太郎ラーメン」。
まだ食べてないけど、麺にカニ独特の風味を加え、昔ながらの寒づくり製法で60時間
に及ぶ特殊低温乾燥により、生麺風味を、出すようされているそうです。
伯耆名物麺の会KT
境港(鳥取)にも行ったことあるけど、さすが水木先生生誕の地、いろんなグッズ
に「鬼太郎」が使用されてました。版権だけで凄い金額になるだろなぁ。

もっとも先生は半分妖怪だから、そんなコトには無頓着かも知れませんナ。

で、これは変った自販機、エントリー№3「商売気の無い自販機」。ほとんど商品
が入ってません。品揃えが驚くほど少ない雑貨屋の物ですが、最近店も開いてない
様子。でも機械が新しくなっているのは「tasupo」導入のおかげでしょうね。
                   

どうやら、「通風様」もいずこかへ去られたようです、ヤレヤレ・・・・。

京言葉ではナイけれど。

2008年02月25日 06時48分33秒 | Weblog
今まで普通に使っていた言葉でも他人が聞くと?て思われる言葉ってありますね。

「ひきずる」。相方はこれを「ひこずる」だと言ってゆずりません。

彼女は同じ京都でも東山区で育ってますけど、東山区だけでそんな言い方して
たのか、その一家だけで「ひこずって」たのかは不明。

これも京都弁ではないんですけど、以前広島出身の人に、京都の人って同じ言葉
を繰り返すことが多いね、と指摘されたことがあります。

たとえば、「暑いなぁ」が「あっつい、あっつい」というふうに。

そう言われてみればそうかも知れないナ、と納得したもんです。

我が家では、お袋が変な言葉(単語)使ってたな。

たとえば、「シュミーズ」。今どきまだ「シミーズ」ってあるのかどうかは知らない
けど女性の下着です。もしかしたら「シュミーズ」で良かったのかも(そのほうが
オシャレに聞こえますよね)知れないけど、まわりは「シミーズ」って言って
たのに、お袋は「シュミーズ」って呼んでました。

あとは「ぱんす」。これは「パンツ」の事。今どきのパンツではなくて、下着の事。

「パンツ」も「シミーズ」も昔からあったもんじゃないし、どんな呼び方しても
いいと思うけど、今から思うと「ぱんす」「シュミーズ」のほうが何となく
京都の風土に合ってるような気もします。

いや、もしかしたらオフクロはプロバンスあたりの出身だったのかも?
(ジョークにもなってませんナ・・・・・。)

アンニュイどすなぁ。

「よさり」と「よんで」(京言葉)

2008年02月23日 11時05分38秒 | Weblog
「通風」のおかげで休日というのに部屋篭り・・・。

暇ができたら読もうとストックしておいた本があったので、助かった。
(ケシテ不精を決め込んでいるワケではありません。と、誰に言うとも無く言い訳)

そのうちの一冊が「京ことばの知恵」。  河野仁昭氏著。  光村推古書院。
              

河野氏は愛媛県生まれで、学生時代から京都に住んではります。
だから、当初は京都弁や、言葉の裏に隠されたニュアンスのようなものに戸惑われ
たという話です。

私も京都とはいえ、下京の下町育ちだし、本当の京都弁を知ってるかというと、
怪しいもんです。

この本を読んでいてフト思い出したのが、「よさり」、と「よんで」。

「よさり」は日の暮れ、夜分という意味です。(「よ」は夜。「さり」は来る。)

老舗の漬物屋の若旦那との会話のなかに「よさり」、という言葉がでてきたんで
すが、氏はまだ30台後半くらいの年齢だったのに、さすがやなぁ、と感心した事を
覚えてます。(20年くらい昔の話です。)

著者の河野氏も、今では年老いた方以外は使用していない言葉だと書いておられます。

そのお店は祇園にも近いし、なにしろ若旦那が大学生時代から親が祇園で遊ばして
いたくらいの老舗ですからね。

遊ぶ、といっても芸妓はんたちと、早い目に綺麗な遊びを覚えておけば、先で色香
に迷ってしくじる事のないように、という親心からです。

若旦那以外にも、西陣のボンなど、高校生の頃から百貨店ではサインだけで買い物
済ませてたし、まぁ下町で鼻たらして遊んでた私たちとは別世界でしたわな。

だからそんな言葉もさりげなくでてきたのかも知れません。

「よんで」、というのは「おぶう一杯よんで」(お茶を一杯下さい)なんて使い
かたをするんですけど、この言葉も耳にする事はなくなりましたね。

学生時代の同級生で、川端三条の箱屋の息子がおりました。

彼がよく、この「よんで」を使ってましたね。多分その頃にはもう死語に近かった
と思いますけど、かえって私たちには新鮮に聞こえたもんです。

「おう、煙草一本よんで」、とか言って嬉しがって使ってました。

あとは「きずつない」とか「せんぐり」、「だんない」などはかろうじて使って
たけど、今はあまり聞かなくなったかなぁ。

まったく知らなかったのが「ごりがん」「のつこつ」「ざんない」。
ごりがん→無理を通す。 のつこつ→もてあます。 ざんない→だらしない。

京都弁と一口にいっても花街と西陣とは若干違うと思います。

「はんなり」、とか「ほっこり」とかは今でも良く使われるけど、そのうち消滅
してしまう言葉もあるでしょう。これも時代の流れ、仕方ないんでしょうね。




ヤツが来た・・・。

2008年02月23日 06時44分28秒 | Weblog

ヤツ・・。口に出すのもおぞましい。

 

 2,3日前からじくじくと右足の親指が痛いから、覚悟はしていたけど・・・。

 

そう、つ、つうううう、つうふふふのふ。 通風だぁ~!!言ってしまった・・・。

 

 催事のない土日で良かった。 この二日間、生活行動半径は2メートル内です・・・。

 なんぎなコトどすなぁ。


知恩院から三条通り。

2008年02月22日 07時33分37秒 | Weblog
まだ19日のネタでひっぱってるのかい?なんて言わずにご辛抱ください。何しろ、
京都に半世紀も暮らしていながら、市内の名所旧跡にはほとんど縁が無いもので、
観光客になって散策してます。(多分京都生まれの人は似たようなもんだと思いますよ。)
  

三条通りから東大路への抜け道で、昔はよく車で通過したもんです。ちょうど祇園
石段下へ出るのに便利なんですよね。でも歩いたのは初めてです。

  
↑花園天皇十楽院上陵。ほとんど観光客は訪れないでしょうね。

   
青蓮院のクスノキ。夜中に見ると物の怪と見間違いそうだ。

   

       ←親鸞聖人の植髪堂。

三条通り近くの民家。もう人は住んでないのか・・だとしたら、もったいないなぁ。↓
   
昔はこの「格子の幅」でその家の商売がわかったそうです。↑

知恩院、といえば毎年恒例の除夜の鐘で有名ですね。その知恩院と混同しやすいの
が左京区百万遍の「知恩寺」。こちらも法然上人ゆかりのお寺です。
この知恩寺と浄土宗の本寺争いが天正年間にあったそうです。

結果は正親町天皇の論旨にて1575年に知恩院が本寺であることがみとめられたとか。

知恩寺のほうは最近、「手づくり市」や「古本市」で市民に親しまれています。


今日のどうでもいい一言。
最近除夜の鐘を聞いていない。ナゼ?それは酔いつぶれて寝てしまっているから。

友禅斎に会いに行く。

2008年02月21日 07時10分12秒 | Weblog
祇園から東大路を渡って知恩院へ。法然上人800年大遠忌が近づいています。
  
この急な石段や堅固な山門を見ると、この寺が黒谷の光明寺とともに、江戸幕府の
京都における隠し城だった、という話もうなずけます。

坂を登るとナゼか大衆演劇の看板が・・。和順会館で襲名公演なんですと。
よく意味がわからんけど、宗教はもっと大衆に浸透すべきだ!という趣旨では無いと思う・・。↓
  

↓なんで今回知恩院までやって来たか、というとですな「友禅斎さん」に会いにきたんです。
  
この像を建てるにあたって寄付された問屋の名が刻まれています。すでに鬼籍?に
入った会社の名もあったかも知れませんが・・・。

宮崎友禅斎の名は「友禅染」で知れられていますが、実際は謎の人物です。
知恩院の門前で扇子の絵付けをしていた、と言われてますが、架空の人物、という説もあります。

  

それは大正時代に、金沢で加賀友禅を売り出すために作り出された人物、という
記録が残っているからです。

私も金沢の竜国寺の友禅斎像を見た限りでは、偽者っぽい印象は受けましたね。

ただ、その時代に残された文献では、友禅の扇子(好色一代男)の名も上がって
いますし、「友禅ひながた」「余情雛型」にも名は残されています。

本名は日置清親である、という説と別人という説がありますが、私は後者を支持
してます。(私が支持したところでなんの影響もないしね。)

  

おそらく扇子の絵も描けば、着物や風呂敷の図案も手がけていたんだと思います。

調度友禅さんが知恩院前で暮らしていた、といわれるのが法然上人の「500年遠忌」の頃。
近頃私の頭の中で友禅斎や光琳、西鶴たちが生き生きと甦ってきているようです。

えっ、大丈夫ですよ、ヘンな声が聞こえたりしてませんから・・・。

今日のどうでもいい一言。
尾形光琳が優雅に海原を泳ぐ鯛ならば、友禅は岩場に潜む根魚。たまにちょろり、
と顔を出してはすぐに海底へ潜って隠れてしまう・・・。





昼下がりの祇園街。

2008年02月20日 09時21分06秒 | 路地と廃屋
祇園といえば「糸編」(繊維業界)と持ちつ持たれつの間柄ですが、最近は大変だろうなぁ。

一時は祇園で石を投げたら当たるのは坊さんの頭ばかり、と言われるほど落ち込んだ
けど、今はどうなんでしょうね。昔のように「一見さんお断り」の姿勢を頑なに
守っている店は少なくなったかも知れません。(ご無沙汰してるのでわかりませんけど。)
  
「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水の流るる」・・・か。

新興の享楽街と違って、昼の顔もしっとりしてます。新興といえば元禄時代は祇園
もまだ新興の遊郭だったんですよね。中京衆、と呼ばれる商人たちがどんどん力を
つけてきて、島原まで行くのは面倒だ、なんてことで祇園街が栄えたとか。

当事幕府公認の遊郭は島原だけだったんですが、格式ばった遊びより、もう少し
気楽に遊ぶ場所が求められたんでしょうね。

幕府も島原からの要請で何度か祇園や他の歓楽街の取り締まりを行ったそうですが、
お上の管理するモノってどうしても庶民の感性とはズレてしまいますよね、今でも。

  
↑これはなにかといいますと、舞妓さんたちがこの黒板に書かれているスケジュール表
を見て毎日稽古してはります。例えば井上八千代先生の舞踊の稽古日は何日と何日、
とかいう具合。茶道華道、鳴物、絵画と、大変どす。

↓こんな建物が残されていると、つい嬉しくてシャッターを切ってしまう。
  
舞妓、芸妓以外にも祇園で働く女性はぎょうさんいてはります。そんなお姉さんたち
にオネダリされてプレゼントした宝石やバッグはこちらへ・・ってコトかな。質屋さんです。↑

祇園でひっかかって(夜でないところがちょっと悔しい)今日も知恩院まで辿り
着けなかった。続きはまた明日。誰も見てなくても投稿するもんね。

今日のどうでもいい一言。
アナタのブログ自体がどうでもいいって?それを言っちゃあオシメイョ。


京都南座、北座。

2008年02月19日 18時47分04秒 | Weblog
↓松葉の窓際に付いて?いる鳥。一瞬本物かと思ってしまいます。
      
出雲の阿国。1603年に四条河原にて河原歌踊りをしてはったそうです。↑

↓南座。来月からは「玉さま」が登場。中国・昆劇と合同公演の予定。
      
そして、北座跡の石碑。おそらく最近建てられたと思います。↑

寛永17年(1670年)の鴨川護岸工事にともない、鴨川の西にあった芝居小屋二軒を東
(今の位置)に移転した、という話は以前調べて知っていたけど、元和年間(1615~
1623年)に官許された時には七座あった、という事は知らなかった・・。その後六座
になり、文化文政の時代に二座になったそうです。以来明治26年まで二座が営業し
ていました。現在の外観になったのは昭和四年のことだとか。

明治20年に南座、北座ともに改築しているのに、その僅か6年後に北座は廃座して
いるのはナゼだろう?またいつか調べてみよう。(またそんなコトばかりしていて
イイんかい、という声は聞こえないふり)

火事、といえば江戸を思い浮かべるくらいですが、京都も江戸時代何度も大火事に
みまわれています。当然芝居小屋も全焼していますが、その都度、驚くべきスピード
で復興されています。興行主の都合もあったと思われますが、それだけ庶民に支持
されていたんでしょうね。

そういえば、年末恒例の「まねき」。江戸時代は南座(京都)は屋根より低くあげ、
歌舞伎座(江戸)は屋根より高くあげた、とありますが、今はどうなんだろう?

この後、昼の祇園街を抜けて知恩院へ。これはまた明日にでも。



今日のどうでもいい一言。
若い頃、木屋町で飲むときは阪急デパート前、祇園で飲むときは南座前が待ち合わせ
場所だったなぁ。今じゃ、とんとご無沙汰デス・・・。



そうだラーメンだ。

2008年02月18日 17時29分12秒 | グルメなのか?
寒い毎日が続いてます。こんな日はラーメンもコッテリ目がいいですな。
と、いうことで一乗寺ラーメン激戦区へ。

久しぶりに「珍遊」でも、とガレージに駐車して店の前まで行ったら定休日・・。
まだまだ「定休日男」のパワーは健在だぞ。

この珍遊、移転するたびに(最初はもう少し北で営業、その後ナゼか宝ヶ池の喫茶店で営業
その後、今の場所に)追いかけてたんですけど、ここ1年ほどはご無沙汰だった
けど、またしばらくお預けだな。

で、100円パーキングに駐車したもんで(珍遊営業してたら無料だったのに!)、近所
を歩いてコチラのお店へ。↓
  
らーめん「大蔵」。店内はカウンターのみ、9人で満席です。

コッテリの他のもアッサリスープもあります。餃子や唐揚げのセットで注文している
人が多かったですね。麺は極細。一味味噌(ニンニク入り)や、タレもテーブルに
置いてあるので、自分の好みで楽しめます。あ~温まった・・・・・。


今日のどうでもいい一言。
「へたり牛」って名付けた人って、どんな人なんだろ・・・。