秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

西陣界隈オマケ。たんきり飴本舗。

2009年01月31日 07時35分47秒 | グルメなのか?
http://www.nishijin.or.jp/※「たてへ」しながら目にとまったのがこの「お店」。

たんきり・・・。ズイブン ストレートなネーミングですこと。

その名が示すとおり、このあたりの職工さんたちが、仕事の合間に喉を労るため
に舐めていた(今も)飴だそうです。

余談ですが、昔の機織機は絹糸が乾燥して切れないよう土間に穴を掘って構え
ていたので、織子は湿気にやられリューマチや結核に冒される事が多かったとか。

そんな織子さんたちの健康維持に一役かっていたこの飴。一番上質な土生姜を使用
して、一つ一つ手作りで仕上げてはります。風邪の時期には注文が殺到するそうですよ。

(いや、実はそんな有名な店とは知らず、帰ってネットで調べて驚きました。)

なにしろ、甘味系統はつい敬遠しがちなもんで・・・・。場所は大宮通寺之内。

やはりこの辺りを歩くと機織の音があちこちで聞こえてきます。盛期から比べる
べくもありませんが、この音が聞こえなくなった時は京都が終焉を迎えた時かも知れません。

この界隈、組紐体験、金箔体験などの体験や機織見学(すべての機屋が見学できる
わけではありません。予約の上、という所もあります。)、織や染めの洒落た小物
を商う店など、「和好き」の人にはいろいろ楽しめるスポットだと思いますよ。

団体客のほとんどは「西陣織会館」だけ見学してさっと帰ってしまうけど、
もったいないやね。

おや、今回は迷所案内らしからぬ?いや、織と染めは両軸ですから、私たちの
創る着物に帯は必要不可欠。お互い頑張って、生き抜いていきたいもんです。

※千本通りや大宮通りを上がったり下がったりすること→整経(整織の準備工程)

西陣散策の参考。西陣織工業組合 http://www.nishijin.or.jp/

 


京都非観光案内66.西陣界隈 5。

2009年01月30日 07時21分48秒 | 京都非観光迷所案内
今回の西陣シリーズ、書き込みながらフト気がついたんですけど、普通に名所で
案内してもいいくらいかも。・・でも観光客がひきもきらず訪れるほどでもないしナ。

猫寺を拝観した後は、織成館の前あたりもずいぶん変わったようだし、
帰り道にちょっと散策。

館の前は石畳がひかれ、ちょっとこのあたりだけ、雰囲気が違ってます。
その織成館の斜め向かいにあるのが、この「大岩さん」。

もとは二条堀川付近に社殿と一緒にあったそうですが、二条城築城のおり、
社殿だけが岩上通六角に移されたということです。

その後、御所の庭に移動されたけど、この大岩、そうとうな「ヤンチャモン」。

夜中に帰りたい~、なんて泣くわ、別の所に移そうとしたら吠えるわ、あげくに
は子供の姿に化けて歩きまわったとか。

高さが四尺、五尺になった石を丑寅の方角に立てると霊石となったり、魔物が
やってくるたよりとなる。と平安時代の「作庭記」にあります。この時はどこ
に安置したんでしょうね。

さすがに宮中の方々も参ってしまい、真言の僧侶を呼んで今の場所に安置。

寺は二度の大火で焼失してしまったけど、この大岩は残されて、近所の人たちの
信仰の対象になっています。

この岩の前でじっと合掌すれば「ワシもなぁ、昔はエライ無茶したもんやでぇ。
今はこうしておとなしゅうしとるけどナ。」なんて声が聞こえてくるかも知れません。

西陣界隈1~5ですが、時間がかかったようにみえますが、実際は1時間ほど。
密集してますからね~。

時間に余裕があれば、千本通りまで足を伸ばして「千本閻魔堂」や「釘抜き地蔵」
を見学してもよいでしょう。あ、そうそう人形寺(宝鏡寺)も近所です。

http://hitoritabi.sakura.ne.jp/


 

京都非観光案内65.西陣界隈 4。

2009年01月29日 07時24分14秒 | 京都非観光迷所案内
「染殿井」だけで帰ろうと思っていたのに、街角に置かれていた「西陣ふっとマップ」
を手にしたもんだから、ますます迷走してしまう。

雨宝院を出てさらに北へ上がると、道はTの字に。それを左にとって二筋目を
また北へすこし歩くと、「猫寺」へ到着。

猫寺、といっても境内に猫があふれていたり、猫が袈裟を着てお経をあげている
わけではありません。(あたりまえでんがな)

正式な名称は「称念寺」。浄土宗知恩院派のお寺です。創建は慶長十一(1606)年
松平伊豆守信吉が師僧の嶽誉上人のために建てたお寺。

なんで「猫寺」と呼ばれるようになったか?

寺も三代目住職のころになると、松平家とも縁遠くなり、かなり貧窮してきました。

この三代目、かなりの猫好きだったけど、ある夜この愛猫が夜中に美しい姫に
化けて舞いを舞っているのを見てしまいます。

「あ~ワシがこんなに頭を悩ませておるというのに、このバカ猫め!」
(怒るより、私なら驚いて腰抜かしますけど・・・。)

「とっとと出てけ~」と、この猫を放逐しちゃいました。

ところがある夜、この住職が眠っていますと、夢枕にこの猫がたち(たつのは変
か。でも舞を舞うくらいだから、たってもおかしくはないわナ)

「おっしょさん、安心しとくれやす。ウチがあんじょう松平はんトコと縁とり
持ちましたえ」(適当に台詞書いてます)

どうやって復縁工作をしたのかは知りませんが、その後、寺は見事に復興した
そうです。で、その猫の霊を祀るため、猫が伏せているような松を植樹したんですと。

善峰寺にも、こんな姿の松がありますが、そういえばあそこも徳川家由縁の寺ですな。
(別に関係ないか・・・。)

カレー饂飩専門店「一松」

2009年01月28日 21時06分16秒 | グルメなのか?
本日は西陣散策を少し休んで(まだ続ける気かい)、昨日の昼食のお話。

カレー饂飩の有名な店は京都にも何件かありますが、専門店ってのはあまり
みかけない気がします。(先日の味味香は専門店だったかな?)

この「一松」は開店してまだ一年は経っていないとおもいます。

どちらかといえば蕎麦派なんだけど、カレー系は別。たまにカレー蕎麦も食べ
るけど、やはりカレーと相性が良いのは饂飩ですね。

カレーの辛さは小辛~激辛まで選べます。(アタシャ当然激辛デス)

これはお昼の「肉カレーセット」700円。確かに辛いけど、私には許容範囲内。

ようするにカレー粉の量で辛さを調節するようで、激辛の場合、カレーライス
のルーの中に饂飩をほり込んだ感じ。(饂飩が見え無い。)

味を吟味するには普通の辛さでないとダメですね・・・。

評価は、私のカレー饂飩ベストワンの「日の出食堂」を抜く味ではなかった、
とだけ申しておきましょう。(美味かったです。でも「日の出」は別格だし)

お店の場所は葛大路四条西、南側。モスバーガーのお隣です。



京都非観光案内64.西陣界隈 3。

2009年01月27日 09時39分40秒 | 京都非観光迷所案内
さて、本隆寺を出ますと、通りを一本上がった(北)雨宝院へ向かいます。

実は今回はこの寺だけが目的だったんですが、近所に面白いところがけっこう
あるから、つい寄り道してしまった。(迷走するのは文章だけじゃナイ)

もとは大聖歓喜寺という大寺院のなかの小寺だったそうですが(今も小寺です)
応仁の乱で歓喜寺は消失、この雨宝院だけが再興されたようです。

最初は真言宗、その後禅寺となり、また真言の寺になったとか。

もとの雨宝院は弘仁十二(821)年、弘法大師が嵯峨天皇の病気快癒祈願のため、
大聖歓喜天像を安置されたのがおこりといわれています。

西陣聖天とも呼ばれるこの寺の境内には「染殿井」がありますが、この井も西陣
五水の一つに数えられています。

井の名前から、周りに染屋が多いと書かれている本もありますが、厳密に言えば、
反物を染めるのではなく、撚糸や、糸染めの関係が多いということになります。

反物はやはり排水や水元の必要性から川のそば(今は川では水元はしないけど)
で染められることが多いのです。

このお堂の面白い点は、釈迦如来や菩薩、大黒天、毘沙門天などを拝むため、
障子の一角だけ切り取られていて、それぞれ穴の横に真言が書かれています。

一つ覗く(拝む)たびにカタカナでかかれた真言を唱えるわけです。

私も理解できぬまま、「なんたらかんたらソワカ」などと唱えているうち、
溜まりに溜まった罪悪が消えてゆくような気がしてきましたね。

創建のさいには弘法大師と嵯峨天皇が一文字づつ書かれた雨宝院の額が掲げ
られていたとか。もちろん今は焼失してないと思いますが。

この雨宝院と本隆寺の間の土塀も(正確には本隆寺の土塀)も古い瓦を積み重ね
てあって、なかなか良い味を出してます。


京都非観光案内63.西陣界隈 2。

2009年01月26日 06時37分54秒 | 京都非観光迷所案内
首途神社から再び智恵光院通りに戻り、少し歩くと敷地数三千三百坪を有する
「本隆寺」がみえてきます。(※法華宗京都八本山の一つ)

長享二(1488)年に四条大宮に開山されましたが、※天文法乱により消失、
天文十一(1542)年に現在地に再建されました。

その後、御所炎上で類焼しましたが、明暦三(1657)年に再建、享保と天明の
大火事のおりは、本堂と祖師堂か火災から逃れたため「不焼寺」(やけずの寺)と
呼ばれるようになったとか。

西陣五井の一つ、「千代野井」の井戸も境内にあります。

またまた話は迷走しますが、大昔は火事で井戸の囲いが焼け落ちて、知らずに
井戸に落ちて亡くなった人がけっこういたようです。

たくさんの宝物を持つ寺ですが、庶民と縁が深いのは「夜泣止の松」。

大永四(1533)年の元旦に、乳飲み子を抱えた婦人が、日諦上人に「この子をどうか
育ててください」と言い残し行方をくらましたそうです。

母恋しさに夜泣する赤子を抱えた上人、困り果てて松の周りをぐるぐる歩くと
アラ不思議。夜泣がぴたりと泣き止んだ。

それを聞いた夜泣で悩んでいた母親たちが、この松の霊験にあやかろうと、松の
皮を剥がして持ち帰ったそうです。

そのためかは知りませんが、松は枯れはて、現在は三代目だそうです。
(案内文には落ちている松葉を枕の下にひく、と書かれているのはそのためかも)

偉い上人さんが、夜中に赤子をあやしながら、松の周りを回っている
姿を想像すると、なんだかホノボノとした気持ちにさせてくれますね。

※西陣の織屋は大舎人座のころから信心堅固な法華宗徒だった。法華の御経講へ
加入しないと織屋を始めることができなかった。機織職人を「おへこ」と呼んだ
のは、御経講が訛ったものだ、ともいわれる。

※天文元(15329)年細川晴元の軍勢と手を結んだ日蓮衆徒は、その後五年間、京の
町の自治権を得たが、天文5(1536)年比叡山との法戦がきっかけで、延暦寺は
日蓮宗21寺すべてに末寺になるよう要求。それを拒否されると、今まで敵対
していた宗門とも結託した延暦寺は洛中洛外のすべての日蓮宗の寺を焼きはらった。
以後六年間は京の町では日蓮宗は禁教となった。


京都非観光案内62.西陣界隈1。

2009年01月25日 10時36分28秒 | 京都非観光迷所案内
西陣に父親の妹(叔母ですな)が暮らしています。

子供時分、時々泊りがけで遊びにいかせてもらいました。

市電の22番(だったと思う)にごとごと揺られて行くのが楽しみでしたな。

その西陣宅でTVを見てたら、日清食品から「日清ランチ」という、インスタント
ピラフのようなモノが新発売、ってCMが流れてました。

叔母に「食べてみたい」、「じゃあ買っておいで」、とお金を貰い近所の食品店へ。

ところが、まだ店には入っていなくて、その店のオバちゃん曰く
「日清ランチ?知らんなぁ。西陣団地やったらそこにあるけど・・。」

今なら「上手い!座布団一枚!」なんて言ったかも。

そんな(どんなやねん)西陣界隈をちょっと歩いてみました。
と、いっても西陣は広いもんで、ごく一部ですが・・・。

まず、今出川智恵光院を北へ。一筋目を左に曲がると見えてくるのが「首途神社」
(かどでじんじゃ)。もとの名は内野八幡宮ですが、源義経が奥州へ向かうさい、
この社に参って武運長久と旅の無事を祈ったことから、首途神社と呼ばれるように
なったとか。

同行したのは金売吉次、物語では陸地伝いに奥州へ向かった、となっていますが、
当時はすでに海路も開発されており、実際は船で行ったのではないか、とも言われています。

その頃奥州に膨大な領地を持っていた藤原秀衝は情報収集や、物産の保管場所
としての出先機関をこの地に置いていたのではないか、といわれています。

吉次は今でいう、支社長みたいなもんでしょうか。

ところで、この社ができる以前は、この地は桃園と呼ばれていたそうです。
由来は貞純親王の邸がこの辺りにあったからだそうです。
(貞純親王は清和天皇の第六皇子で、桃園親王と称されていた)

ん?桃園。記憶のどこかにひっかかるモノがあるぞ・・・。

そうだ、日本最古の古墳発掘記で登場する地だった。調べてみたらやはりそうでした。

「宇治拾遺物物語」の巻六「世尊寺に死人を掘出事」。

971年藤原伊尹が太政大臣になったおり、庭にあった墓を取り除き仏堂を建てよう
としたところ、中から石棺があらわれたそうです。

石棺の中には美しい着物を幾重にも纏った美しい尼が生きているように納められ
ていたとか。ところが、突然西風が吹き、棺の中のものは金の器以外は全部塵とな
って消えうせ、翌年伊尹はこの世を去った・・・・。

伊尹(これただ)さんは政敵だった藤原朝成の生霊に取り殺された、という話も
残されているので、よほど不審な死をとげたと思われます。

京都の街はミルフィーユのように、幾層にも歴史がかさなっとりまんなぁ。

あ~、また今回も話が迷走してしまった。

「迷走こそ我が人生ナリ・・・・・。」

京都非観光案内61・森蘭丸の墓。

2009年01月24日 06時08分38秒 | 京都非観光迷所案内
昨日の「幸神社」から寺町通りを少し北へ行くと右手に大きな寺の伽藍がみえてきます。

この寺が「阿弥陀寺」です。もとは近江国坂本にあり、その後今出川大宮東に
移転。この地に移されたのは天正15(1587)年です。

この寺に織田信長、信忠親子の墓があるのは、恥ずかしながら知らなかった。
(別に恥ずかしくないか。他にも本能寺の信長廟や大徳寺などにもあります。)

子供時分に「戦国武将伝」を読んで、信長に対する悪印象がずっと残ってます。

比叡山焼き討ちの徹底した残虐性や、人質となっていた光秀の母親を見殺しに
した、というのは戦略的な部分もあるかも知れません。

しかし、自分の留守中に家臣たちが勝手に外出して遊興した、といってその者
たちを処刑した、という話を読んで、なんちゅうことすんねん、と子供心に
憤りを感じましたね。

もしかしたら、この本を書いた人は信長嫌いだったかも知れませんが、以来、
映画やTVでどんなに素晴しい英雄として扱われても、好きにはなれない。

また話が横道にそれました。(毎度のことです)

開創は清玉上人。本能寺の変の翌日に現場へ赴き、信長の遺骸を引き取り、
その後百有余あった家臣たちも阿弥陀寺に埋葬したといわれます。

墓自体はアレ?と思うくらい小さなものです。その後ろを守るように家臣たち
の墓標。左手の三っつ並んでいるのが森蘭丸、坊丸、力丸の墓です。

他の信長の墓は上記以外は妙心寺、建仁寺、大雲院にあるそうですが、こちら
は観光スポットから外れているため、訪れる人は少ないかも知れませんね。

そのぶん、静かに信長の遺功を忍べるかも。え?嫌いじゃないのか?って?
いや、死ねば皆、仏です。

京都非観光案内60.幸神社。

2009年01月23日 21時49分57秒 | 京都非観光迷所案内
最近の世情は気持ちが滅入るニュースばかり・・・。

せめて私のブログぐらいは明るいタイトルを、って事で今回は「幸神社」
(読み方は「さいのかみのやしろ」。なんだか幸せな気持ちになりそう)

場所は今出川寺町を北へ。寺町の名が示すとおり、この近辺はお寺だらけ。

かつてこの辺りには出雲族が暮らしていたといわれ、少し行くと出雲路橋にでます。
その出雲族の道祖紳である猿田日彦大神と天細女命(あめのうずめのみこと)を
祀るこの社は縁結びの神社としても有名。

出雲族はツチグモと呼ばれた土着民族という説もあります。

一方天細女命は天照大紳が天岩屋戸に隠れた折に、見事な舞を見せて引き出した
天照系の女神。

出雲族はやがて出雲に追われ、残された一部の民は「土蜘蛛塚」の伝説が示す
ように、迫害、殺戮された、とも考えられています。
(出雲から移ってきた、という説もありますが)

その相反する神様たちが結ばれた、という事は恋愛には効果テキメン、、かどうか
は知らないけど・・・。

男女の話ならこの社にはもう一つの言い伝えがあります。

それが境内東隅にある「おせきさん」と呼ばれる陽石。平安時代からのご神体
とも伝えられているこの石、狂言の「石神」に登場する石だといわれています。

この話は縁結びとは逆の話ですけどね。

石を持ち上げて占う、という行為はずいぶん昔からあったんでしょうね。

占い、とは違いますが、江戸時代から昭和にかけて、全国で「力石」を用いた
力比べが行われていたそうです。

町の辻辻や、神社の境内などにある大きな岩を持ち上げ競う娯楽だったそうです
が、近年では忘れられつつあり、それを危惧した方が全国の「力石」を調べ、出版
されています。

ん~、世の中はいろんな人がいます。だから楽しいんですけどね。

今夜は烏賊の一夜干。

2009年01月22日 18時12分47秒 | グルメなのか?
今回の勝浦(和歌山)の土産に予定していたのが「秋刀魚の丸干」

開きの一夜干はどこでも見かけますが、丸々干したのはこの辺りの名産品。

ホテルや駅前の海産物屋でも入手可能ですが、せっかく港の近くに来たんだし、
漁港まで足を伸ばしてみました。

港の前にも海産物を商う店はありましたが、港の一角で烏賊を干しながら販売
している婆様を発見。

台の上には目当ての秋刀魚の丸干がゴロンとならんでます。

こっちは買う気でいるけど、婆様、冷やかしと思ったのか、
「安くしとくよ!秋刀魚丸干し、これでしまいやし、400円でええよ!!」

見ると10匹はあります。と、いうことは一匹40円!

4人で分けてもいいけど、ここはH氏とK氏に秋刀魚はゆずって、私は太刀魚と
うるめ鰯の一夜干を購入。

「烏賊はいらんかぁ?6枚で1000円やけど、もう1枚おまけしとくよ~」
と、言われて「おまけ」、「サービス品」「割引」という言葉に弱い私、
計7枚の烏賊を購入。

(烏賊は生きてるのはイッパイ、ニハイと数えるけど、干したのは一枚、二枚
で良かったっけ?)

それはともかく、7枚は多すぎるもんで、帰り道に相方の家に5枚渡して、今夜
は残りのうち1枚を焼いていただきます。

一夜、というより半夜くらいの状態で身は非常にやわらかいくて、弾力があり、
こりゃ、お酒が「すすむ君」だぞ。

ところで商売上手な婆様の隣にいたのが、旦那さんだと思うけど、一言も喋らなかったナ。

たぶん、主人は漁担当、商売は女将さん任せなんでしょね。