yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

弥生3月のカレンダー挿絵はドバイ

2025年03月01日 | 斜読

弥生3月の手作りカレンダー挿絵は、ドバイのブルジュ・アル・アラブ=アラブの塔ジュメイラ・モスク、ドバイ博物館に展示されていた風の塔である。
 「ドバイ見聞記1」「ドバイ見聞記2」から挿絵に関する見聞記を抜粋する。全文はブログのURLを参照されたい。

8:30ごろ、バスはビーチに停車する。風で帆をはらませたイメージのホテルが見える(写真)。1999年に完成したブルジュ・アル・アラブ=アラブの塔で、高さ328mの自称7つ星ホテルである。
 地震がないこともあろうが、ドバイが世界からの投資を呼び込むための際だったデザインと高さを表現する戦略は成功しているようだ。
 ツアーの仲間はさっそくペルシャ湾に浮かぶブルジェ・アル・アラブを背景に記念写真を撮っていた。肉眼では分かりにくいが、150kmほど先の対岸はイラン=ペルシャだそうだ。中近東を実感する。
 
 9:00過ぎ、バスはジュメイラ・モスクで止まる(写真)。1979年に完成したファーティマ(シーア派の一つのイスマーイール派が建国したイスラム王朝)様式のモスクで、1200人が礼拝できる。青空に2本のミナレットが伸び上がり、椰子の木や芝生の緑に白壁が映えている。ドバイで最も美しいモスクといわれる。

ドバイ博物館の中庭に庶民の住居が展示されていた(写真)。木造の柱と梁に、屋根に椰子の葉?を乗せ、壁は細木を縦に並べて横木で組んだだけの簡素な作りだが、屋根の上に大げさな四角い塔=風の塔が突き出ている。
 風の塔は4隅の柱に屋根を乗せた作りで、中から見上げると四角い塔の上に対角線に間仕切り壁が設けてある(写真)。どちらの方角から風が吹いても、間仕切り壁に当たって風が下に吹き降ろてくる仕掛けである。
 庶民は隙間だらけの壁+風の塔で暑さをしのいだようだ。

 ドバイは2009年3月にシリア・ヨルダンツアーのとき、乗り継ぎのあいだに見学した。中東の政情は安定していて、現役で海外旅行に行く経済的なゆとりがあり、新型コロナウィルスなどの感染もなかったころである。見聞の記録と写真を見ながらドバイ、ヨルダン、シリアを追想している。

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e-Tax送信 フィッシング詐欺に注意

2025年02月25日 | よしなしごと

2025.2 e-Tax送信 フィッシング詐欺に注意

 例年通り、1月中ごろに国税庁からEmailで、e-Tax=国税電子申告・納税システムの個人メッセージボックスにメッセージを送った旨の連絡が来る。
 さっそく、e-Tax のホームページを開き、パソコンにICカードリーダーを接続し、マイナンバーカードをのせ、利用者証明用電子証明書パスワードを入れて、届いたメッセージを読む。
 内容は例年通りのe-Taxによる確定申告(2月17日~3月17日)の案内である。毎年のことなので、すでに2024年分の公的年金などの源泉徴収票、社会保険料や生命保険料の控除通知などはまとめてある。残りは医療費控除用の領収書の集約である。

 思い立ったが吉日、2月18日に医院別に医療費領収書を整理し、医院別に合計金額を算出する。e-Taxは毎年使いやすく進化している。かつては医療費控除のため、医院ごとに医院住所、治療内容、金額を1枚ずつ記入したこともあって、これはたいへんな手間になった。いまは、医療費集計のexcelフォームがあり、ダウンロードして医療費を記入すると合計を計算してくれ、保存しておくことができ、さらに領収書類を保存しておけば医院ごとの合計金額の記入だけで申請できるようになった。今年も保存しておいた昨年の医療費集計フォームをダウンロードし、医院ごとの医療費を訂正し、不要な医療を削除し、新たな医療を付け加えて、今年用の医療費控除明細を作成することにした。

善は急げ。作業開始。
1. パソコンを立ち上げICカードリーダライタを接続

2. Microsoft Edgeで国税庁 確定申告書等作成コーナーを開き、「作成開始」

3. マイナンバーカード・ICカードリーダライタ利用 →令和6年分申告書等作成→所得税→マイナポータルと連携しないを選び、事前準備・推奨環境を確認し、利用規約に同意

4.「マイナンバーカードの読み取り」→「利用者証明用電子証明書のパスワード」を入力

5.「申告書作成」→「収入金額・所得金額の入力」 雑所得の項目で、公的年金、その他を入力

6.「所得控除入力」 前述した前年の医療費集計フォームを読み込み、今年の医療費を記入→社会保険料控除、生命保険料控除、地震保険料控除、配偶者控除などを記入

7.「計算結果」の画面で、「納付する(還付される)金額」が表示され2024年分の申告票作成は終了する。
 ここまでの内容を保存し、申告内容確認票を印刷する

8.印刷した申告内容確認票を確認し、誤りがなければ「利用者証明用電子証明書パスワード」を入力し送信する
 もし誤りが見つかれば、保存した確定申告書を呼び出し、必要な修正を加え、保存し直し、確認票を印刷し直し、送信する

 作成開始から送信まで1時間ほどで申告内容確認票を印刷し、送信した。
 「確定申告書等作成コーナー」のトップ画面に戻り、右の「メッセージボックスの確認」欄の「確認する」をクリックし、ICカードリーダーにのせたままのマイナンバカードのパスワードを入力して「ログイン」すると、送信した申告票が着信されているか確認できる。
 全ての作業を終え、小さな達成感に浸りながら夕食でビールを傾ける。

 フィッシング詐欺着信! e-Taxを送信して数日後、国税庁から「前年度の所得税に滞納金あり、差し押さえの手続きを開始する」というメイルが届いた。メイルにはもっともらしいURLが記されているが、瞬時にフィッシング詐欺と気づく。
 理由① 前年度はe-Taxで申告を終えていて、前年度のメッセージボックスに所得金額の納付・還付金が通知され、所得税の納付・還付も終了しているので滞納金はあり得ない。
 理由② 国税庁からのEmail連絡は「メッセージボックスにメッセージを送った」との連絡が届き、自分でICカードリーダーとマイナンバーカードをセットし、パスワードを入れてe-Taxにログインし、メッセージボックスを開かなければメッセージ内容は分からない仕組みになっている。Emailによる直接の連絡はあり得ない。
 直ちにフィッシング詐欺報告をし、メイルを削除した。多様な詐欺被害が発生し、テレビなどで報道されている。迷惑なメイルも毎日着信する。慌てず騒がず、冷静に事態を分析し、被害を未然に防ぐ心構えを。
  (2023.2)

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上野de宮里直樹テノール&水野琴音ヴァイオリンを聴く

2025年02月15日 | よしなしごと

2024.11上野deクラシック 宮里直樹テノールを聴く

 東京文化会館小ホールで毎月開催される上野deクラシック第100回は、宮里直樹氏が熱唱するテノールである。
 宮里直樹氏は、第10回東京音楽コンクール声楽部門第2位及び聴衆賞を受賞、東京芸術大学首席卒業後、同大学院オペラか修了、ウィーン国立音楽大学オペラ科で2年間学び、イタリアで研鑽し、リッカルド・サンドナーイ国際音楽コンクールで第2位など国際的なコンクールで優勝、入賞している。N響などのオーケストラと共演し、「ラ・ボエーム」ロドルフォ役、「愛の妙薬」ネモリーノ役などオペラの主役に出演するなど、若手テノール歌手として注目されているそうだ。
 ピアノを担当する水野彰子氏は、東京芸術大学、同大学院修士課程室内楽研究分野首席修了、室内楽、声楽、弦楽、管楽、合唱などのアンサンブルピアニストとして定評があり、国際音楽祭、テレビ朝日「題名のない音楽会」、BS-TBS「日本名曲アルバム」などに出演、現在はSHALON株式会社代表で、新国立劇場劇場ピアニスト、藤原歌劇団ピアニストなどを努めているそうだ。

 水野彰子氏と呼吸を合わせ、宮里直樹氏が歌い出す。
1曲目 高田三郎作曲 「くちなし
2曲目 小林秀雄作曲 「落葉松」 文藝評論家として知られる小林秀雄が作曲も手がけていたことを初めて知った。

 一息したあと、22分のペトラルカの3つのソネットを歌う。
3曲目 リスト作曲 「ペトラルカの3つのソネット
第1曲「平和を見出さず」
第2曲「幸いなるかな、あの日よ」
第3曲「地上に見た天使のような姿」

 一息し、聴き覚えのあるオペラの一節を歌う。
4曲目 ドニゼッティ作曲 オペラ「愛の妙薬より人知れぬ涙
5曲目 ヴェルディ作曲 オペラ「リゴレットより女心の歌
 宮里氏は汗を拭きながら、拍手に応え、アンコールに馴染みのある「オーシャンゼリゼ」と「be may love」を歌う。

 拍手喝采して小ホールをあとにしたあと、東京駅まで出て、キッテ東京6階のレストラン「平田牧場」で金華豚のカツを食べ、2~3階の東京大学総合研究博物館+JPタワー学術文化総合ミュージアムを一回りし、1階のスターバックスでコーヒーを飲むなど、聴覚、視覚、味覚、嗅覚、触覚?の五感を大いに刺激し、帰宅した。


 
2024.12上野deクラシック 水野琴音ヴァイオリンを聴く

 上野deクラシック第101回は水野琴音氏が弾くヴァイオリンである。水野氏は東京音楽コンクール弦楽部門第2位及び聴衆賞を受賞している。氏は、東京芸術大学付属音楽高等学校を経て同大音楽学部宗次徳二特別奨学生として3年に在学中である(つまり、まだ学生)。在学中に平山郁夫文科芸術賞を受賞、第92回日本音楽コンクール1位、レウカディア賞、鷲見賞、INPEX賞、第15回アルテュール・グリュミオー国際ヴァイオリンコンクール1位など数多くの賞を受賞し、財団法人ITOHから1721年製ピエトロ グァルネリが貸与されている。
 ピアノ演奏は吉武優氏で、東京芸術大学、同大学院修了後、ベルリン芸術大学ディプロマ課程国家演奏家コースを修了、第28回飯塚新人音楽コンクール及び第7回かずさアカデミア音楽コンクール優勝、第81回日本音楽コンクール入選、第69回ジュネーブ国際音楽コンクールセミファイナリスト、フランス、ドイツの音楽祭に出演、現在、桐朋学園大学、東京芸術大学などの講師、霧島国際音楽祭、河口湖ヴァイオリンセミナーなどで公式伴奏者を努めている。

1曲目 クライスラー作曲 「美しきロスマリン」 軽やかな踊りを感じながら聴く。
2曲目 チャイコフスキー作曲 「懐かしい土地の思い出 Op.42」 水野氏はバレエを習っていたのでチャイコフスキーに親しみを感じていて、この曲を選んだそうだ。暖かなメロディーのなかに切なさも感じられる。
3曲目 ラヴェル作曲「ヴァイオリン・ソナタ ト長調」 ラヴェルはフランスの女性ヴァイオリニストと親交があり、この曲を彼女に献呈したそうだ。第1楽章Allegrettoはピアノ演奏から始まり、第2楽章Blues:Moderatoはブルース調で、第3楽章Perpetuum mobile:allegroはヴァイオリンが響く。
4曲目 サン=サーンス作曲「序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調Op.28」 馴染みのある曲だが、毎回、新しさを感じる。演奏者の個性にもよるが、聴き手のそのときの気分で印象が変わる。

 アンコールはクライスラー作曲「シンコペティーション」で、ヴァイオリンを楽しげに演奏していた。
 拍手喝采して小ホールを出る。東京国立博物館の「百合の木」で食事を取り、東博の展示を見ようと東博に向かったが、模様替えか?改修か?、閉館してしていた。代わりに、上野東照宮横の伊豆栄梅川店で鰻を食べた。上野池之端・伊豆栄本店は徳川第8代吉宗の代から続く老舗である。本店で鰻を食べたことはないが、梅川店も負けず劣らずであろう。
 ヴァイオリン演奏と鰻で心身を滋養し、帰路につく。 (2025.2)

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ヨルダン見聞記 ワディ・ラム砂漠 アムラ城

2025年02月11日 | 旅行

2009.3 ヨルダン見聞記 ワディ・ラム砂漠 アムラ城

ツアー5日目 昨日の夕食時に、夜中の0時に冬時間から夏時間に変わると案内されていたので、寝る前に時計を1時間遅らせておいた。朝5:30(昨日までの6:30)にモーニングコールが鳴ったが、慌てず起きる。ヨルダン・ハシミテ王国時間=東ヨーロッパ時間EETは日本時間JST-6時間になる。
 スーツケースをまとめ、朝食をとり、チェックアウトする。7:15にバスに乗り、ペトラから直線で100kmほど南、「アラビアのロレンス」の舞台になったワディ・ラム砂漠に向かう。
 ホテルを出てすぐにゴツゴツした岩山の風景になった(写真)。ペトラはギリシャ語で岩の意味だそうだ。イエス・キリストの使徒ペテロは岩を意味する。ペテロがヨルダンではペトラになったのであろう。
 ペトラから10分ほど走り、ワディ・ムーサの町を通る。ワディは谷、ムーサはモーゼのことで、モーゼが岩を杖で突くと水が湧き出したと伝承される。記憶が怪しいが、映画「十戒」でモーゼが杖を突き水が湧き出た場面があったと思う。
 湧水のあるワディ・ムーサにナバテア人が住みつき、隊商の中継基地として栄えたそうだ。このあたりは標高900mほどで、どこまでも岩山が続くから、人は水場を求めて集まり、隊商の中継基地になり、町ができ、栄えたのであろう。
 延々と岩山が続くなかに町並みが現れた(写真)。平地に茶褐色の四角い平屋の住居が密集していて、池のような水場があり、ところどころに樹木も生えている。少し先の斜面には白い四角い2階建ての住居が見え、さらに上には3~5階建ての建物も見え、樹木も多い。
 想像するに、水場の周辺に茶褐色の煉瓦積みの平屋が建ち並び、町の発展とともに地下水脈が発掘されて、斜面に2階建て、3~5階建てが建ち並んだのであろう。想像が膨らむ間もなく町並みを通り過ぎ、岩山の風景になる。

 車窓の右下前方で光が反射する。ヨルダン川が流れ込むアカバ湾のようだ。中東の地図を思い起こす。対岸はイスラエルになる。
 8:30ごろ、ガソリンスタンド+コンビニ風の店でトイレ休憩になる。1ドルのコーヒーを飲んだ。コーヒー粉を煮込んだコーヒーで、ドロッとしている。ふだんコーヒーはブラックで飲んでいるが、いかにも苦みがありそうなので砂糖を加え上澄みを飲んだ。トルコで飲んだコーヒー=トルココーヒーに共通する。同じイスラム教圏だからコーヒーの習慣も似たのであろう。

 9:00過ぎ、ワディ・ラム砂漠に着く。観光の定番のようで、荷台を6人乗りに改造した4WDに分乗して、砂漠を走る(写真)。運転手は手慣れたもので、砂埃を立てながらハンドルを右に左にきり、「アラビアのロレンス」の気分にさせてくれる。
 イギリス軍人トーマス・エドワード・ロレンス(1888-1935)はオスマン帝国から独立しようとするアラブ人を支援し、ロレンスの生き方がピーター・オトゥール主演の「アラビアのロレンス」として映画化された。
 砂は赤茶色で、粒子が細かい。風は冷たいが、日射しは強い。ロレンスは駱駝も乗りこなし、映画では砂漠をアラブ人とともに疾走していた。
 ワディ・ラム砂漠にはところどころ岩山がむき出している。最高峰は1740mのラム山で、岩山の裾に湧水があり、「アラビアのロレンス」でもアラブ人が水場に集まっていた。たぶん、湧水は古くから貴重な水場として利用されていたのであろうが、第1次大戦中の1917年にロレンスがその泉を発見し「ロレンスの泉」と名づけられた、と流布されている。ロレンスがアラブ独立のために生涯をかけたことに敬意を表してロレンスの泉と名づけられたのだと思う。

 ロレンスの泉から引いたのかは分からないが、砂漠に水路が導かれている(写真)。その水路の近くにはベドウィンのテントがいくつも張られている(写真)。いくつかのテントでは、ベドウィンが観光客相手に手工芸品を並べ、紅茶などの飲み物を振る舞っている。
 紅茶を飲んで一息しながら、ベドウィンのテントを観察する。ベドウィンは多妻制で、4人まで夫人が認められている。1997年にモロッコを訪ねたとき、多妻制を見聞し、遊牧民のテントでは中ほどの仕切りで男女に分かれ、(女性は家族以外の男に素顔を見せないため)女性側は外からのぞかれないようになっていた。ベドウィンのテントは観光用のためか仕切りが無いが、男しかいない。女性は別のテントにいるようだ。

 4WDでカザリ渓谷と呼ばれる岩盤の割れ目に向かう。両側の岩盤が迫り狭い道=シークになっていて(写真)、古くから隊商の休み場所として使われてきたそうだ。
 岩盤にはナバテア人の主神ドゥシャラーを祀る祠や、駱駝などを描いた絵文字が彫られている(写真)。絵文字は8世紀ごろとの説もある。8世紀はペトラの衰退が始まり、ガリラヤ地震が起き、ペトラが放棄されたころである。ドゥシャラーの洞から、ナバテア人が似たような地形のカザリ渓谷のシークを仮住まいとし、祠を祀ったと考えられるし、駱駝の絵文字から駱駝を引き連れた隊商がシークで休み、砂嵐などで動けないときに隊商の安全を祈って絵文字に残したと考えられる。想像は限りなく広がる。
 11:30ごろ、4WDの出発点に戻り、バスに乗り換える。バスはデザートロードと呼ばれる砂漠の道を北上する。車外は赤茶色の砂が舞っている。砂嵐のようだ。砂嵐でぼやっとした風景のなかにモスクのある家並みが現れ、通り過ぎる。
 13:50ごろ、レストランに着き、ランチになった。

 14:40ごろ、バスは北に向かって走る。砂嵐は収まり、どこまでも茶色の起伏が続く砂漠の風景になった。メモが途切れた。同じ風景を眺めているうちウトウトしたらしい。
 ワディ・ラム砂漠を出てから北に4時間以上走った16:25ごろ、茶色い砂漠の風景に茶色の建物が見えた(写真)。あとで地図をにらむと350kmぐらいだった。
 どこまでも茶色が続く砂漠にポツンと一軒家のように建つ建物は、世界遺産に登録されたアムラ城=カスル・アムラである。8世紀に、ウマイヤ朝のカリフの離宮として建てられ、歴代のカリフがお忍びでアムラ城を訪ねたといわれる。
 外観は日干し煉瓦を積み重ね、ボールト屋根、ドーム屋根を乗せた謁見の間とハマム=浴場の小規模な建物なので、世界遺産といわれてピンとこなかった。
 ところが中に入ると、壁、アーチ、天井に、ところどころ風化しているが豊かな表現のフレスコ画が描かれている(写真)。ドーム天井の星座は世界でも初期の天体図であり、アーチや壁には動物や鳥、人物、裸婦や踊り子が描かれている。イスラム教では偶像崇拝は禁忌だが、カリフが厳格なイスラム教の教えをひとときだけ忘れ、お忍びで裸婦や踊り子のフレスコ画を楽しんだらしい。フレスコ画の手本はビザンティン美術らしい。
 ハマムには水が欠かせない。隣接した建物に深さ25mの井戸が掘られていて(写真)、貯水池、排水管も残されている。
 ウマイヤ朝時代の建築、美術がよく保全されていることで世界遺産に登録されたようだ。

 アムラ城は、アンマンの東およそ80kmに位置する。アムラ城の見学を終えて、アンマンに向かう。18:20ごろ、ホテルにチェックインした。19:00に夕食を取り、食後、ショップでアムステルビールを買う。入浴後にビールを飲みながら一日を振り返り、明日の予定をチェックする。毎日、異文化体験で充実した時を過ごしている。一日が長い。明日も異文化の見どころが多そうだ。スーツケースを整理し、ベッドに入る。  (2025.2)  

 

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ヨルダン見聞記 ペトラ遺跡 ローマ劇場 大神殿 エド・ディル

2025年02月08日 | 旅行

2009.3 ヨルダン見聞記 ペトラ遺跡 ローマ劇場 墳墓群 大神殿 エド・ディル

ツアー4日目 
映画「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」の舞台にもなったエル・ハズネの岩盤の先にも、ローマ建築をモデルにしたファサードが浮き彫りされている(写真)。エル・ハズネのような奥行きはないが、入口らしい穴が空けられているから、墳墓だったのであろう。岩盤は平に削られているがファサードが未完の壁面もある。墳墓を作り始めたが、ナバテアが放棄されたため未完になったのであろうか。

 その先は、左右の岩盤が後退し景色が開ける。通りはファザードの道と呼ばれる。後退した左の岩盤は4層の段々になっていて、墳墓に使われた穴がたくさん空けられている(写真)。エル・ハズネがナバテア王の墓、続く岩盤のファサードが貴族、有力者の墓、4層の墓は市民ということだろうか。死んだあとも身分に縛られるのは、古代社会では当たり前だったようだ。
 ファザードの道には掘っ立て小屋のような簡易な作りの店が建っていて、飲み物などを売っている(前掲写真左下)。その横に簡易なトイレがある。観光客が多く、どちらも混み合っていた。

 左に、岩盤の地形を活かした半円形のローマ劇場が残っている(写真)。舞台はすでに崩落して円柱が数本残り、石段や席も崩れている。ローマ帝国がナバテアを支配下に置いたころ作られたようだ。長く放置されたため劣化が進んでいるが、かろうじて原型をとどめている。33段あり、5000人を収容できたらしい。
 ローマ劇場を過ぎると、ファザードの道の右のエル・フグダと呼ばれる丘に設けられたシルクの墓、コリントの墓、宮殿の墓、アーンの墓が見える(写真=丘、写真右からシルクの墓、コリントの墓、宮殿の墓)。
 いずれの墳墓もローマ建築をモデルにしたファサードで、ほかに未完成のファサードもある。ナバテアに進駐したローマ人が故郷を偲び、ローマ風のファサードで墓所を作ったのだろうか。2000年の歴史はさまざまな想像をかき立てる。
 
 ファザードの道の左右がさらに開け、通りは石畳になって西に延び、名前がコロネードの道と変わる(写真)。右=北の石積みが残るニンフの泉を通り過ぎる。かつての水場だったのであろう。いまは涸れているらしい。
 ローマ帝国時代、コロネードの道の両側=南側と北側に施設が建ち、商店が並んだらしいが、いまはその面影はない。
 コロネードの道の左=南側の斜面にグレイトテンプル=大神殿の円柱が見える。石段を上り大神殿跡を見る(写真)。説明板によると、東西55m、南北110mの大きな神殿だったらしい。斜面の先=南側に岩盤が迫っていて、そのあいだを2段に造成したようで、さらに石段を上った先にも背の低い円柱が残っている。
 北側の手前が3重に円柱を並べた神の領域、南側の一段高くなった奥に神殿が配置されていたようだ。多神教時代のローマ神殿のようだ。
 コロネードの道に戻る。道の左=北の斜面にライオン神殿跡があるらしい。斜面を眺めて通り過ぎる。
 コロネードの道に石積みの門が構える(写真web転載)。2世紀に凱旋門として建造されたとの説がある。mapにはtemenos-torと記載されている。temenosは神聖な領域といった意味らしいからローマ帝国時代はここまでがローマ人の領域だったのだろうか。それともこの先が神聖な領域だろうか。解説はない。
 コロネードの道の向こうは岩盤が立ちふさがっている。門を過ぎた左の岩盤の麓にナバテア人の主神ドゥシャラーを祀ったカスル・アルビントの廃墟が見える(写真web転載)。ナバテア王国が栄えていたころに祭壇として建てられ、ローマ帝国支配を経て、イスラム帝国支配下でナバテアが衰退し、大地震の崩壊で放棄されたのであろうか。解説はない。

 12:50ごろ、コロネードの道の西外れに建つレストランで昼食になった。 
 昼食を終え一休みし、13:40ごろ、レストランを出て岩山を登り始める。岩盤が蛇行するように割れたのか、岩盤を雨が削って谷ができたのか、岩盤のあいだの谷筋に石段の登山路ができている(写真web転載)。石段は800~900段あるらしい。登り始めのレストランあたりから高低差500mほどを40分ほどかけて登ると、岩盤が後退した広場に出る。
 正面の岩盤にはエド・ディル修道院と呼ばれる建物が彫り込まれている(写真)。
 エル・ハズネと似ているが、エル・ハズネは岩盤のなかに彫られていたが、エド・ディルは岩盤の表面に彫られていて、砂岩の色もエル・ハズネは赤味が強く、エド・ディルは茶色みが強い。プロポーションはエル・ハズネが高さが強調されているが、エド・ディルは縦・横がほぼ等しく安定している。ファサードのデザインはローマ建築風で共通する。建設はエル・ハズネとほぼ同じ時期で、エル・ハズネがナバテア王の墓所、エド・ディルは神格化されたナバテア王との説がある。

 エド・ディル修道院の周りは岩山で囲まれていて、20分ほどで頂上に登ることができる。頂上からエド・ディル修道院を見下ろすと、岩山に溶け込んでしまう。岩山そのものがナバテア人にとって神の山であり、神格化されたナバテア王を祀ったのかも知れない。頂上から荒涼とした風景を遠望していると想像が次々に膨らんでくる(写真)。

 ゆっくりと登山路を下り、15:30ごろ登山路入口のレストランに戻り一休みする。往復1時間45分だった。
 岩盤のせいか、夕方になると一気に冷え込んでくる。16:00ごろコロネードの道を戻り、エル・ハズネをもう一度見上げ、シークを抜け、17:00ごろホテルにたどり着く。朝9時にホテルを出て、夕方5時に戻ったからのべ8時間、ほとんどが歩きで、メモにはクタクタと記されていた。
 部屋で一休みし、19:00にビールとワイン21ドルを飲みながら夕食を取る。
 翌朝は早いので、スーツケースを整理し、早めにベッドに入った。 (2025.2)

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