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yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

「火喰鳥」斜め読み1/3

2025年03月12日 | 斜読

book577 火喰鳥 羽州ぼろ鳶組 今村翔吾 祥伝社文庫 2017  1/3

 2023年4月に大津を訪ね、比叡山延暦寺、日吉大社、坂本の町並みで穴太衆による石垣を見た。予習で、穴太衆などの石垣職人を主題にした今村翔吾著「塞翁の盾」が2022年の直木賞を受けたことを知った。直木賞を受け「塞王の盾」は図書館の予約数が500?600?になった。
 穴太衆の復習はあきらめ、今村氏のデビュー作といえる「羽州ぼろ鳶組 火喰鳥」を読むことにした。この本で、2018年に第7回歴史時代作家クラブ賞の文庫書き下ろし新人賞を得ていて、その後「火喰鳥」シリーズが13巻まで発行されている。

 江戸は、1657年の明暦の大火、1772年の明和の大火、1806年の文化の大火の三大大火を始めとする火災で大きな被害を受け、幕府は火除け地をつくる、用水を引く、防火構造を勧める、火消を組織するなどの対策を講じてきた。
 「羽州ぼろ鳶組 火喰鳥」は、明和時代に出羽新庄藩火消組頭取に仕官した松永源吾30歳が火消組を再編し、火消しに奔走、狐火と呼ばれる放火犯を火付盗賊改方長谷川平蔵と力を合わせて取り押さえる物語である(本書に登場する長谷川平蔵は、池波正太郎著「鬼平犯科帳」に登場する長谷川平蔵と同じ火付盗賊改方で同名だが「火喰鳥」に登場する平蔵の子である)。
 物語は、序、第1章 土俵際の力士、第2章 天翔ける色男、第3章 穴籠もりの神算家、第4章 花咲く空の下で、第5章 雛鳥の暁、第6章 火喰鳥 と展開する。


 (10年ほど前、宝暦8年1758年)新庄藩士・折下左門19歳が九段阪飯田町で火事に遭遇し、年の変わらない「火喰鳥」と呼ばれる火消が、煙に巻かれて逃げ遅れた姫を助けるため炎に覆われた店に飛び込み、助け出すのを目撃する(姫が物語の主要人物であろうことは想像できるが明かされるのは第5章である)。
  話は10年後の第1章 土俵際の力士に飛ぶ。(源吾は「序」に描かれた活躍のあと月本右膳の娘・深雪と結婚する。深雪が源吾に惚れ父が結婚を許すのだが、新庄藩松平家用人の甥・鵜殿平左衛門が深雪に横恋慕していて、源吾の脚に傷を負わせ、源吾はそのため火事の現場で恐怖から体が動かず、火消を止める。「火喰鳥」はこうした唐突な展開が多い。こうした唐突さが評価され賞につながったのかも知れない)。

 深雪23歳と貧乏暮らしをしていた松永源吾30歳の住まいに新庄藩6万8千2百石の家臣・折下左門が訪ねてきて、新庄藩火消組を立て直すため(理由はあとで分かるが定員110名の鳶は24名を残して辞めてしまい壊滅状態)、主君・戸沢浩太朗の命で源吾を300石で火消頭取として召し抱えたいと話す。源吾は火消しの仕事を躊躇するが深雪は大乗り気で、仕官が決まる。
 新庄藩上屋敷は江戸城大手門から32丁≒3.5km南の芝飯倉森元町(現麻布台)に位置する。
 源吾が家老・北条六右衛門に謁見すると、家老は200両で火消組を再興させよと厳命し、源吾は1年半で結果を出すと啖呵を切る。

 江戸の消防組織が紹介される。大名屋敷から8丁≒870m四方を範囲とする「八丁火消」(小大名では5丁、3町と小さくなる)、江戸城本丸や西之丸、紅葉山、浅草御蔵、増上寺など要所を守る「所所火消」、10万石以上の大名4家ずつが桜田組、大手組としてその方角から迫る火災を消し止める「方角火消」の大名火消と、4000石以上の旗本に組織された「定火消」が常設され、さらに48組の「町火消」が発足した。
 源吾が仕官した戸沢家は桜田組に属する方角火消で、宝暦13年1763年に拝命してから8年になるが、火消組頭取・眞鍋幸三が家老・北条六右衛門を諫めようと切腹し、頭取を慕う鳶が大挙して止めたため、再建が急がれた。しかも、纏、竜吐水、大団扇、梯子、鳶口、刺叉、玄蕃桶の七つ道具も不足していた。

 源吾を補佐する火消頭取並は鳥越新之助である。新之助の父・蔵之介は眞鍋幸三諫死のあと火消組頭取代行として人材不足の火消組を率い、狐火と呼ばれる正体不明の火付けによる赤羽橋近くの木綿問屋「日野屋」の火事に方角火消として一番乗りして鎮火したが、耐火造りの土蔵に小さな穴を空けたとき、穴から炎が噴き出し(付け火による爆発的な火災を朱土竜(あけもぐら)というらしい)命を落とした。
 それを聞いた源吾は、蔵之介はなぜ朱土竜が見抜けなかったのか腑に落ちないと思う(腑に落ちない理由は第5章で明らかになる)。

 源吾は新之助に、消防は初動の一番組30名で7割が決する、なかでも俊敏で度胸の据わった纏持ち、怪力の壊し手、火消しの軍師となる風読みは欠かせないと話しながら、定員を補う80名を集めようと日本橋の口入れ屋・越前屋を訪ねる。
 越前屋が越前から80名を雇うと人足料は283両と見積もると、源吾は深雪を呼び出す。深雪は見積もりを155両と見直し、さらに口止め料と足代3両を受け取る(深雪は算術に強く押しも強い)。
 越前から80名が着くまで2ヶ月かかる。そのあいだに火消組の柱となる纏持ち、壊し手、風読みを探さなければならない。

 (まず壊し手探し)。新之助が怪力がたくさんいる相撲興行に源吾を誘う。
 身丈6尺4寸≒192cm、目方45貫≒168kgの巨漢・前頭14枚目の荒神山寅次郎31歳が土俵に上がるが、あえなく叩き落とされる。寅次郎には前頭筆頭で将来が期待される達ヶ関森右エ門という弟がいて、達ヶ関が火消鳶と諍いを起こしたとき寅次郎が止めに入って膝を壊し(因縁は第5章で明かされる)、以来寅次郎は負けが続いている。
 寅次郎は千秋楽で達ヶ関と取り組むのを最後に引退し、田舎で田畑を耕そうと思っていた。寅次郎が気になり源吾と新之助が千秋楽を見に行くと、結びの一番、達ヶ関と寅次郎の対戦が始まろうというとき、半鐘の連打=火元近しが鳴り、火が迫ってきた。
 観衆も行事も逃げ出す。土俵にあがった寅次郎は源吾の軍配で達ヶ関と取り組み、力を出し切る。対戦を終えた寅次郎は髷を切り、源吾に弱き者を助ける火消しになりたいと頭を下げる。

第2章 天翔ける色男  
 (次は纏い持ち探し)。新庄藩火消屋敷のそばに鳶たちが住む長屋が併設され、巨漢の寅次郎は二部屋分をぶち抜いた一部屋に入り、鳶たちといっしょに3日に一度の教練を受ける。
 源吾は新之助と左門が集めてくれた7年分の火消番付をにらみながら人材を探す。7年前の番付表の東大関に松永源吾の名があった。西の大関は大音勘九郎である。東前頭7枚目は、新之助の父・鳥越蔵之介だった。
 7年前に十両、今では西前頭3枚目になったに組の花纏・甚助に着目する。甚助を引き抜くには20両、に組に祝儀30両が必要になる。翌日、源吾は新之助、寅次郎と甚助に会いに行く。
 甚助が引き抜くなら50両欲しいと言っているところに、上背5尺5寸≒165cm、24・5歳の役者に並ぶ男前の人気軽業師・彦弥が飛び込んできて、立て替えたお夏の借金を返せと甚助に詰め寄る。に組の鳶仲間が彦弥を押さえるが、隙を見て彦弥は逃げ、あっという間に3間半≒6.3m先の屋根に飛び渡った。
 
 甚助、彦弥、お夏の3人は孤児で、同じ寺の和尚に育てられた幼馴染みである。彦弥は軽業師に、お夏は茶屋に奉公し、甚助は鳶になった。病で伏せった和尚の治療代を、甚助はすでに借金を重ねていたので、お夏が高利貸しの丹波屋から金を借りたが証文が書き換えられて30両になり、吉原に売られようとしていた。
 彦弥はお夏に片思いしていて、お夏と甚助の相思相愛を知っていたが、高利貸しから30両を借りてお夏を助ける。責任を感じたお夏は証文を焼いてしまおうと丹波屋に忍び込み、見つかって押し問答しているときに店に火がついてしまう。火付けは重罪である。丹波屋の嘘の証言でお夏は火付けの責めを負わされると思い、身投げしようと高さ4丈≒12mの火の見櫓を登る。

 火元の丹波屋に、町火消に続いて源吾、寅次郎、彦弥が駆けつけ、火の見櫓のてっぺんのお夏を見つける。源吾が足をすくませているところに甚助も駆けつけ、火が回り始めた火の見櫓を登り出す。甚助は、お夏まであと少しのところで足場が崩れて落下する。
 そこへ大声で新庄藩火消と名乗りながら彦弥が現れ、火が回った櫓を登ろうとすると、源吾の予想を裏切って風の向きが変わり、火の見櫓が崩れ始める。お夏は彦弥にありがとう、さようならと言って身を投げる。その瞬間、彦弥が空に飛び、お夏にしがみついて自分の体を下にして落ちる。櫓の下では寅次郎が構えていて、踏ん張りながら二人を受け止め、二人とも命が助かる。
 火付盗賊改方の詮議で失火が認められ、お夏は江戸所払いとなる。甚助は見送りに来た源吾、彦弥に、お夏と夫婦になり、亡き和尚の故郷・甲斐で田畑を耕すと話す。彦弥は源吾から纏持ちとして前借りした30両を二人への餞別として渡す(今村氏はそれぞれの章ごとに人情味ある小話を挿入する。これも好評の理由であろう)。  続く

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2009.3ヨルダン見聞記 ジェラッシュ遺跡2/2

2025年03月09日 | 旅行

2009.3 ヨルダン見聞記 ジェラッシュ遺跡2/2 フォーラム カルド マセルム ニンファエウム アルテミス神殿 バシリカ式教会堂

 南門を抜けた左にゼウス神殿、その左に南ローマ劇場がある。私たちのツアーは南ローマ劇場には行かず、ゼウス神殿の石段の上の円柱を眺めながら通り過ぎ、楕円形広場フォーラムに入る(写真)。
 長径70mほどの広場は石畳で、イオニア式オーダーを乗せた円柱がまぐさ石で結ばれフォーラムを囲んでいる(写真は帰りに高台から見下ろした眺め、右奥は南門)。

 フォーラムの中央に円柱が立っている(写真、後はゼウス神殿跡)。イオニア式オーダーを乗せていて、隣には台座だけが残っている。たぶん2本の円柱が立ち、上にまぐさ石を乗せた門形だったようだ。儀式が行われたのだろうか。
 フォーラムから北に延びる列柱道路カルドを歩く(写真)。カルドは石敷きで、両側にはコリント式オーダーを乗せた円柱が並ぶ。少し先の円柱の上にはまぐさ石が残っているから、かつては全ての円柱がまぐさ石でつながれていたようだ。
 アラビア半島に進駐したローマ兵は、ローマと変わらぬ町並みを作り、故郷と変わらぬ風景に安堵して兵役に就いたのであろう。

 カルドは北に向かって下り勾配になる。幅広の中央部分は一段低く、両側は一段高い。中央が馬車用、両側が歩道で、歩車分離だったようだ。
 左の石段を上がり、コリント式オーダーを乗せた円柱が八角形広場を囲む食品市場マセルムを見る(写真)。石敷き広場の中央に噴水跡も残っている。噴水を使って食品を加工したのだろうか、食品を味見しながら噴水で涼をとったのであろうか。想像は限りない。
 マセルムを過ぎると、南北のカルドと東西のカルドの交差点になる。交差点は40mほどの円形広場になっていて、広場に石積みの台座が残っている。何のためか、思いつかない。
 カルドを北に歩く。右=東下がりの傾斜になっていて、中央の馬車用の右はいままでと同じ一段高い歩道だが、左の歩道は1m近く高い。傾斜地でも都市計画の基本通りに町づくりを進めたようだ。
 右の列柱は一段高い歩道に並んでいるが、ほとんどが崩れたまま放置されていて柱脚しか残っていない。左の列柱は1mほど高い歩道に並んでいて、保存状態はいい。
 
 左の石段の上に角柱にまぐさ石を乗せた門形の門が構えている。奥にはコリント式オーダーを乗せた円柱、その先の石段上に石積みの壁が見える。メモには教会と記されている。
 ジェラッシュにローマ軍が進駐したころはまだキリスト教は公認されていないから、メモが正しいとすれば313年のミラノ勅令の後に建造された教会ということになる。イスラム帝国進出で放置されたのか、地震で倒壊したのか、廃墟化している。
 教会の北隣に泉の神殿ニンファエウムが建つ(写真)。ニンフは泉の神だから、ここに泉が湧いていたようだ。半円形平面で2階建ての高さ、191年に建造された。
 コリント式オーダーを乗せた円柱、アーチ形と門形を交互に並べた凹みなど、造形に工夫が施されている。水の大切さの表現であろう。原形をよく留めているのは、イスラム教徒にも水は欠かせなかったし、半円形平面が構造的に安定していたためであろう。

 ニンファエウムの北隣にアルテミス神殿の入口部分の遺構が残り(写真)、奥=西に向かう階段を上っていくと高台が聖域になっていて、最奥に主室部分の列柱と祭壇の遺構が残っている(写真)。

 アルテミスは古代ギリシャ神話の女神で、ローマ神話ではディアナに相当するといわれている。ローマ人が進出後であればディアナ神殿になるはずなので、セレウコス朝時代にジェラッシュの守護神として町を見下ろせる高台にアルテミス神殿が造営され、ローマ進出後も町の守護神として信仰されたようだ。
 祭壇前の円柱の高さは人の高さの7倍以上≒13m以上もあり、円柱頂部にはアカンサスの葉を3段重ねにしたコリント式オーダーを乗せていて、神殿の崇高さを象徴しているようだ。
 アルテミス神殿から遠望すると南門から北門まで見渡せる。まさに町の安寧は、女神アルテミスの庇護によるということである。

 アルテミス神殿の高台から北に少し下ると教会の遺構がある。西を入口、東を祭壇とする東西軸の長方形平面であるバシリカ式教会堂である(写真)。558~559年ごろの東ローマ帝国時代に建てられたビザンチン様式の教会である。

 床には動物、植物、壺、幾何学模様のモザイク画が描かれていて、鮮明に残っている(写真)。

 私たちのツアーはここから高台を通り、東西の列柱道路カルドを横切り、楕円形広場フォーラムを抜けて、南門を出てバスに戻った。
 アルテミス神殿の北を下ると北ローマ劇場が残っているそうだが、見ていない。8:10ごろにハドリアヌス凱旋門を見始め、戻ってきたのがほぼ10:00、見どころはおおむね見学し、たっぷり歩いた。この先の予定もあるのでローマ劇場は想像力を働かせることにして、バスに乗り込む。 (2025.3) 

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ヨルダン見聞記・ジェラッシュ1/2 

2025年03月08日 | 旅行

2009.3 ヨルダン見聞記 ジェラッシュ遺跡1/2 ハドリアヌス凱旋門 ヒッポドローム 南門

ツアー6日目
 6:00のモーニングコールで起き、6:30に朝食をとり、7:30に出発する。ツアーではこうした早立ちは珍しくない。飛行機などの時間にあわせ5:00や5:30出発もある。慌ただしさも異文化体験である。
 バスはアンマンの北50km、ローマ時代の遺跡が残るジェラッシュに向かう。
 バスが動き出すと、ガイドがアンマンはダビデに負け、支配下に置かれたと話しだす。
 ダビデ(BC1000 ?-BC961?)はイスラエル第2代の王で、エルサレムを首都とし支配勢力を広げ、エジプト・プトレマイオス朝とも闘っていた。ダビデの子どものアドニヤとソロモン(ダビデには多数の子どもがいる)がエジプト軍と戦闘中にダビデが危篤になる。
 ソロモンはイスラエルに戻るが、アドニヤはエジプトに残り、エジプト軍に参戦していたシバの女王マグダに服従を迫るが、マグダは拒否する。
 ダビデはソロモンに王位を継がせ息を引き取る。マグダはソロモンを改宗させ民衆から離反させようと首都エルサレムを訪ね、ソロモンに近づくうちに2人は愛し合うようになる・・。
 ガイドの話はもっと簡単だったが、ユル・ブリンナーとジーナ・ロロブリジーダ主演の映画「ソロモンとシバの女王」を思いだして補足した。テレビで再放送された映画も見た。映画では壮大なスケールで、ソロモンがアドニヤの策謀、エジプト軍の進撃、イスラエル人の離反を乗りきり、ソロモンが神との契約を誓うと傷ついたマグダが元気になり、マグダは神との契約に従ってシバに帰る、といった展開だったと思う。
 イスラエルはその後、ローマ帝国、イスラム教アッバース朝、オスマン帝国に支配されるなかで離散し、キリスト教徒から迫害を受け、アウシュビッツなどの悲劇が起きてしまうが、1948年にイスラエルが建国される。建国にともないイスラエルに住んでいたパレスティナ人が難民化し、1967年には中東戦争が勃発して多くのパレスティナ難民がヨルダンに住みつくことになった。世界史の勉強では知識の鵜呑み鳴ってしまいがちだが、現地でのガイドの説明や映画と重ね合わせると理解が深まる。

 8:00過ぎ、ジェラッシュ(ジャラシュとも表記)の町に入る。ジェラッシュは標高600mほどの丘に位置し、農耕が盛んらしい。
 紀元前2000年ごろ、ジェラッシュには15000人が住んでいたようだ。BC331年にアレキサンダー大王が侵攻しセレウコス朝支配となり、のち古代エジプト・プトレマイオス朝の支配になり、BC64に古代ローマ・ポンペイウス将軍によってジェラッシュは古代ローマ・シリア属州になる(ペトラを都とするナバテア王国も併合される)。
 ローマ帝国13代皇帝トラヤヌス時代にジェラッシュはローマ街道の町として栄える。
 ローマ帝国14代皇帝ハドリアヌスが129~130年にジェラッシュなどを巡察し、その記念に凱旋門が建てられる。東のイラン高原にはササン朝ペルシャが栄えていて、しばしばローマ軍と対立する。
 610年に始まるイスラム教は急速に広がり、ジェラッシュもイスラム帝国の支配下に置かれる。747年に起きた大地震(746年の説もある)で町は崩壊し、そのまま放置された。十字軍時代に遺跡が要塞として使われ、イスラム王朝、オスマン帝国時代には小集落が作られ、シリアからの入植もあった。
 1920年代からローマ遺跡の発掘が始まる。現在は遺跡を囲むようにパレスティナ難民の居住地が広がっているそうだ。
 
 ローマ遺跡の南側に構えるハドリアヌス凱旋門近くの駐車場でバスを降りる。凱旋門はハドリアヌス帝が巡察したときの記念に建造された(写真)。修復中なので通り過ぎたが、幅は37m?、高さは21m?、奥行きは9m?の規模を誇る。
 中央のアーチ門が皇帝用で左右の小さなアーチ門が兵隊用だろうか。付け柱の円柱にコリント式オーダー、門頂部にはペディメントをのせ、軒下に浮き彫りを施すなど手の込んだ表現である。ローマ帝国の力強さを象徴したのであろう。
 ペトラに柱脚だけが残る凱旋門も同時期に同じようなデザインで建てられたのではないだろうか。

 凱旋門を通り過ぎると長さ250m、幅50mほどの競馬場ヒッポドロームがある。チャールトン・ヘストン主演の映画「ベン・ハー」では、ローマ帝国2代皇帝ティベリウス時代に、ローマのヒッポドロームで開催された戦闘馬車による競争がクライマックスだった。
 ジェラッシュのヒッポドロームでも戦闘馬車による競技が行われたのであろう。15000人?の観客が競技を楽しんだといわれる。
 ヒッポドローム沿いに馬屋が設けられている(写真)。映画「ベン・ハー」から類推すると、ここで馬に台車をつなぎ、着飾った衣装の戦士が台車に乗り込んで、合図とともに出場することになる。
 壁は四角く加工された石を垂直に積み上げ、天井は加工された石をアーチに積んでいる。アーチ天井は、奥が低く、手前が高い。観客席の勾配を利用して馬屋を設けたらしい。よく計算されている。ローマ人の技術レベルは高い。

 ローマ遺跡の残る標高600mの丘は起伏があり、ヒッポドロームあたりは高く、前方=北の低地に町並みの遺構が広がっている(写真)。手前右が南門、手前中央が楕円広場、北に列柱道路が延び、先にアルテミス神殿が見える。
 丘を下り、南門を抜ける(写真)。塩野七生著「ローマ人の物語」によれば、ローマは侵攻した地域の防衛のため兵士を駐屯させ、ローマの都市計画を基本に兵士が暮らす町を計画するそうだ。
 地形条件が良ければ、町づくりは南北、東西の列柱道路カルドを基本に、カルドに沿って、神殿、集会施設、広場、商店、浴場、娯楽施設などが配置され、カルドの南北、東西の両端に門が設置される。この門から中がローマ人の居住区ということになろう。
 南門は3連アーチ門で、ハドリアヌス凱旋門が記念的性格ならば、南門は防衛的性格が強調されているように感じる。中央の大アーチはジェラッシュ基地の将軍や皇帝用で、左右の小アーチが兵士や商人の通行用であろう。   続く

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弥生3月のカレンダー挿絵はドバイ

2025年03月01日 | 斜読

弥生3月の手作りカレンダー挿絵は、ドバイのブルジュ・アル・アラブ=アラブの塔ジュメイラ・モスク、ドバイ博物館に展示されていた風の塔である。
 「ドバイ見聞記1」「ドバイ見聞記2」から挿絵に関する見聞記を抜粋する。全文はブログのURLを参照されたい。

8:30ごろ、バスはビーチに停車する。風で帆をはらませたイメージのホテルが見える(写真)。1999年に完成したブルジュ・アル・アラブ=アラブの塔で、高さ328mの自称7つ星ホテルである。
 地震がないこともあろうが、ドバイが世界からの投資を呼び込むための際だったデザインと高さを表現する戦略は成功しているようだ。
 ツアーの仲間はさっそくペルシャ湾に浮かぶブルジェ・アル・アラブを背景に記念写真を撮っていた。肉眼では分かりにくいが、150kmほど先の対岸はイラン=ペルシャだそうだ。中近東を実感する。
 
 9:00過ぎ、バスはジュメイラ・モスクで止まる(写真)。1979年に完成したファーティマ(シーア派の一つのイスマーイール派が建国したイスラム王朝)様式のモスクで、1200人が礼拝できる。青空に2本のミナレットが伸び上がり、椰子の木や芝生の緑に白壁が映えている。ドバイで最も美しいモスクといわれる。

ドバイ博物館の中庭に庶民の住居が展示されていた(写真)。木造の柱と梁に、屋根に椰子の葉?を乗せ、壁は細木を縦に並べて横木で組んだだけの簡素な作りだが、屋根の上に大げさな四角い塔=風の塔が突き出ている。
 風の塔は4隅の柱に屋根を乗せた作りで、中から見上げると四角い塔の上に対角線に間仕切り壁が設けてある(写真)。どちらの方角から風が吹いても、間仕切り壁に当たって風が下に吹き降ろてくる仕掛けである。
 庶民は隙間だらけの壁+風の塔で暑さをしのいだようだ。

 ドバイは2009年3月にシリア・ヨルダンツアーのとき、乗り継ぎのあいだに見学した。中東の政情は安定していて、現役で海外旅行に行く経済的なゆとりがあり、新型コロナウィルスなどの感染もなかったころである。見聞の記録と写真を見ながらドバイ、ヨルダン、シリアを追想している。

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e-Tax送信 フィッシング詐欺に注意

2025年02月25日 | よしなしごと

2025.2 e-Tax送信 フィッシング詐欺に注意

 例年通り、1月中ごろに国税庁からEmailで、e-Tax=国税電子申告・納税システムの個人メッセージボックスにメッセージを送った旨の連絡が来る。
 さっそく、e-Tax のホームページを開き、パソコンにICカードリーダーを接続し、マイナンバーカードをのせ、利用者証明用電子証明書パスワードを入れて、届いたメッセージを読む。
 内容は例年通りのe-Taxによる確定申告(2月17日~3月17日)の案内である。毎年のことなので、すでに2024年分の公的年金などの源泉徴収票、社会保険料や生命保険料の控除通知などはまとめてある。残りは医療費控除用の領収書の集約である。

 思い立ったが吉日、2月18日に医院別に医療費領収書を整理し、医院別に合計金額を算出する。e-Taxは毎年使いやすく進化している。かつては医療費控除のため、医院ごとに医院住所、治療内容、金額を1枚ずつ記入したこともあって、これはたいへんな手間になった。いまは、医療費集計のexcelフォームがあり、ダウンロードして医療費を記入すると合計を計算してくれ、保存しておくことができ、さらに領収書類を保存しておけば医院ごとの合計金額の記入だけで申請できるようになった。今年も保存しておいた昨年の医療費集計フォームをダウンロードし、医院ごとの医療費を訂正し、不要な医療を削除し、新たな医療を付け加えて、今年用の医療費控除明細を作成することにした。

善は急げ。作業開始。
1. パソコンを立ち上げICカードリーダライタを接続

2. Microsoft Edgeで国税庁 確定申告書等作成コーナーを開き、「作成開始」

3. マイナンバーカード・ICカードリーダライタ利用 →令和6年分申告書等作成→所得税→マイナポータルと連携しないを選び、事前準備・推奨環境を確認し、利用規約に同意

4.「マイナンバーカードの読み取り」→「利用者証明用電子証明書のパスワード」を入力

5.「申告書作成」→「収入金額・所得金額の入力」 雑所得の項目で、公的年金、その他を入力

6.「所得控除入力」 前述した前年の医療費集計フォームを読み込み、今年の医療費を記入→社会保険料控除、生命保険料控除、地震保険料控除、配偶者控除などを記入

7.「計算結果」の画面で、「納付する(還付される)金額」が表示され2024年分の申告票作成は終了する。
 ここまでの内容を保存し、申告内容確認票を印刷する

8.印刷した申告内容確認票を確認し、誤りがなければ「利用者証明用電子証明書パスワード」を入力し送信する
 もし誤りが見つかれば、保存した確定申告書を呼び出し、必要な修正を加え、保存し直し、確認票を印刷し直し、送信する

 作成開始から送信まで1時間ほどで申告内容確認票を印刷し、送信した。
 「確定申告書等作成コーナー」のトップ画面に戻り、右の「メッセージボックスの確認」欄の「確認する」をクリックし、ICカードリーダーにのせたままのマイナンバカードのパスワードを入力して「ログイン」すると、送信した申告票が着信されているか確認できる。
 全ての作業を終え、小さな達成感に浸りながら夕食でビールを傾ける。

 フィッシング詐欺着信! e-Taxを送信して数日後、国税庁から「前年度の所得税に滞納金あり、差し押さえの手続きを開始する」というメイルが届いた。メイルにはもっともらしいURLが記されているが、瞬時にフィッシング詐欺と気づく。
 理由① 前年度はe-Taxで申告を終えていて、前年度のメッセージボックスに所得金額の納付・還付金が通知され、所得税の納付・還付も終了しているので滞納金はあり得ない。
 理由② 国税庁からのEmail連絡は「メッセージボックスにメッセージを送った」との連絡が届き、自分でICカードリーダーとマイナンバーカードをセットし、パスワードを入れてe-Taxにログインし、メッセージボックスを開かなければメッセージ内容は分からない仕組みになっている。Emailによる直接の連絡はあり得ない。
 直ちにフィッシング詐欺報告をし、メイルを削除した。多様な詐欺被害が発生し、テレビなどで報道されている。迷惑なメイルも毎日着信する。慌てず騒がず、冷静に事態を分析し、被害を未然に防ぐ心構えを。
  (2023.2)

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