book565 商う狼 江戸商人杉本茂十郎 永井沙那子 新潮社 2020
4 嗤う 樽屋の死後、茂十郎の強権を揶揄して「毛充狼」という呼び名が広まるが、茂十郎は意に介せず、堅実な商いをする者を重用し、新たな商売をする者を支援するなど三橋会所の運営を見直した。文化14年、凶作で米価が値上がりし、三橋会所は備蓄の米を売って潤い、差加金を返還したので旦那衆も納得した。
話が前後する。1779年に10代将軍家治の世嗣が急逝したため、一橋家の豊千代が家治の養子になって家斉と改め、1787年、家治の跡を継いで15歳で11代将軍に就く。豊千代にはすでに薩摩島津茂姫が許嫁になっていたので、将軍の御台所は公家の習わしに従い茂姫を近衛家の養女に出し名を近衛ただ子と改め、1789年に家斉のもとに輿入れする・・この結果、島津が力を持つ・・。
家斉は当初、老中首座・松平定信の寛政の改革を進めたが、やがて(父・一橋治済の意に従い?)松平定信と対立して松平信明を老中首座とした。松平信明は松平定信の路線を引き継ぐも、家斉は父・一橋治済、弟・一橋民部(永代橋落下の話で前出)の金遣いの荒さを容認し、40人ともいわれる側室に金がかかり、愛妾の言いなりで人事を動かすなど、政道が乱れた。
文化14年1817年に松平信明が逝去して家斉の歯止めがなくなる。次の老中首座には、家斉の側用人で駿河国沼津藩主・水野忠成55歳が就く。水野忠成は家斉の言いなりといわれる。
江戸で砂糖の抜け荷が急増し、砂糖の値が崩れる。茂十郎の調べで薩摩御用商人の仕業と分かる。薩摩島津藩主・島津重豪の放蕩で島津家は金が必要になり、砂糖の抜け荷で儲けようとした・・茂十郎は金の力で刀に対抗してきたが、島津重豪の娘が家斉の正室であり砂糖の抜け荷を追究すれば葵の御紋と対立することになる、茂十郎の戦略は?・・。
新たな寺社奉行・水野忠邦は老中首座・水野忠成の縁戚である。水野忠邦は唐津藩主だが唐津藩は長崎警固に多忙で出世に限りあり、縁戚の水野忠成が老中首座に就いたいまが出世のチャンスと、重臣の言葉を聞かず10万石の減収にもかかわらず浜松へ転封し、寺社奉行に就いた。
(和菓子店大坂屋の養女・恂は唐津藩の殿に見初められ奥入りし、水野忠邦を生んだ。忠邦が唐津藩の世継ぎになったため恂は城から出され、恂は大坂屋に戻り、2代目と結婚する。恂の仲立ちで大坂屋は水野忠邦、松平定信にひいきにされ、江戸で屈指の御用達の名店になった。店名に松平定信の雅号である風月を賜り、恂は虫が付かないようにと風を凮にしたなどの話が挿入される・・いまの凮月堂の所以・・。恂は茂十郎に好意的だが本筋には関わらない)。
寺社奉行に就いた水野忠邦が茂十郎に、(家斉の愛妾・美代の実父・日啓が下総中山・智泉院の僧で、智泉院の祈祷所を城の中奥に建てるため)金を出すようにと伝える。茂十郎は水野忠邦に、昨年、今年と江戸で大火が続いたので手元不如意と断り、代わりに勧進能を提案する。
勧進能は能を見せて観客から金を集め寺社の再建などに使う集金方法で、勧進能に町人が出店すれば町人も潤い、一挙両得になる。筋違橋門外に能舞台が作られた。舞台に近い畳敷き枡席の上等席、ござを敷いた大衆席、高くしつらえられた屋根付きの特等席に分けられていた。
茂十郎の娘・文13歳も来るが、文も本筋には関わらない。
砂糖の抜け荷が茂十郎によって露見させられた 薩摩御用商人・浜崎太平次も来る。薩摩の威光で武家、仲間外商人と付き合い、羽振りが良い。茂十郎に毛充狼と嫌みを言い、弥三郎にはいつか風向きが変わると呟く(薩摩が茂十郎追い落としを画策か?)。
茂十郎は紀州藩江戸家老三浦為積の家来と話す(薩摩、葵の御紋と対抗する茂十郎の作戦か?)。
能舞台は鵺(ぬえ=妖怪)を演じて幕になった。茂十郎は、鵺は時の帝に都合の悪い者だが鵺は1匹の妖怪、毛充狼は茂十郎が作り上げた三橋会所、菱垣廻船積株仲間たちがいて、人の顔、蛇の尾、狐狸の手足、狼の体が混じり合っている。茂十郎1人を退治しても蛇の尾、狐狸の手足、狼の体が生き残り、亡霊になって現れる、と笑う。与三郎は、茂十郎の笑いは力強く自信に満ちていると感じた。
5 牙剝く 弥三郎は、会所で働く茂十郎の姉の子・宗八郎から、会所の金100両以上が帳簿から消えていることを聞く。茂十郎に確かめると、蔵前の潰れた札差近江屋の蔵に堆く積み上げられた米俵を見せられる。1000両にも及ぶ米俵だが、張りぼてで、実際にはない米に値をつけ切手を発行する空米だった。
空米切手は御法度だが、茂十郎は紀州藩江戸家老三浦長門の頼みで空米切手を発行したと話す。紀州徳川家は徳川御三家だが、藩主徳川治春に嫡男が生まれなかっため、5女の豊姫に家斉の7男・斉順を婿に迎え養子にした。となると、家斉の父・一橋治済や正室の父・島津重豪の影響が強くなる。紀州藩は、薩摩島津に対抗するための力=金が必要になったのである。
薩摩の砂糖抜け荷で江戸市場が混乱するのを防ぎたい茂十郎と紀州の思惑が一致し、同席した三井八郎右衛門も意見を同じにする・・三井家は政情をよく観察して振る舞っているようだが。本筋には関わらない・・。
茂十郎は弥三郎に、農民たちが困窮し農地の荒廃がじわじわ進んでいるが、お上は困窮する者を救わず身内に湯水のように金を使わせ、寺社奉行、町奉行、勘定奉行は老中の顔色をうかがって、会所に金を出せと要求するのは正道ではない、忠義なんざくそ食らえ、と話す・・いよいよ茂十郎が毛充狼となって牙をむき出すか?・・。
文政2年1819年4月、北町奉行・永田正道急逝、後任は勘定奉行だった榊原忠之54歳である。榊原は茂十郎に、会所から借りていた万両を越える手形を帳消しにしろと言い、茂十郎は断る。毛充狼の護符だった老(老中)、寺(寺社奉行)、町(町奉行)、勘(勘定奉行)は、死去、引退、対立し、茂十郎の立場は厳しくなった。
茂十郎の下男・利助が弥三郎に、茂十郎が捕らわれたと知らせる。間もなく、弥三郎も唐丸駕籠に押し込まれて北町奉行所の囚人牢に入れられる。翌日、弥三郎は白州で町奉行・榊原から茂十郎が集めた金が消えている、その行方を白状せよと責められる。弥三郎は利助から届けられた茂十郎からの暗号が、張りぼての俵から空米切手が露見し、その出所を探ると紀州に行き着き、お上と御三家の対立になりかねないのでどこかで奉行は手を引かざるを得なくなる意味だと理解し、近江屋の蔵の中に茂十郎の全てが隠されていると白状する。榊原は(借金が帳消しにできると思い)、弥三郎を解き放す。
5月のある日、紀州江戸屋敷から奉行所に使いが走る。翌日、茂十郎は牢から唐丸駕籠で運ばれ、恵比寿庵=三橋会所に押し込められた。周りは役人が取り囲んでいる。弥三郎は物売りに化け、日が暮れてから、猪牙船で日本橋川に面した恵比寿庵に行き、裏木戸から利助に声をかけてなかに入り、満身創痍の茂十郎に会う。
奉行は茂十郎を闇から闇に葬ることができたのだが、茂十郎は奉行所の動きに気づいて奉行の借金の手形全てと、薩摩・島津重豪の名が記された大量の手形が紀州に渡るように仕組んでいて、奉行は茂十郎に手が出せなかったようだ。
茂十郎と弥三郎が話していると頭巾で顔を隠した2人の男が刀を抜いて侵入してきた。茂十郎は煤けた鼈甲の櫛と小さな独楽(八重と栄太郎の形見)を懐に入れ、薩摩の手形を弥三郎に預け、痛めつけられた足を引きずりながら外に逃げる。弥三郎は、猪牙船に茂十郎を乗せ、薩摩の手形を船に投げ込み、生き延びろと声をかけ、茂十郎を逃がす。
終 天保12年初夏、老中首座・水野忠邦の三田中屋敷で、堤弥三郎の長い話が終わる。
茂十郎は逃げたあと行方が知れず、茂十郎不在のまま奉行所から、1万200両を会所入用にあてた咎で(実際には会所から20万両が消えていた)、三橋会所解散、十組問屋頭取解任、恵比寿庵などの茂十郎の財産没収が杉本茂十郎の名代堤弥三郎に言い渡された。
5年後の文政6年に茂十郎の甥・宗八郎が弥三郎を訪ねて来て、どなたかが茂十郎の遺髪を甲斐の菩提寺・報恩院に納めに来た、と話す。
弥三郎は菱垣廻船の再建を終えて隠居する。
茂十郎の娘・文は婿を迎えて大坂屋11代目を継ぐ。
水野忠邦は弥三郎の話を聞き終え、お上が腐れば民は混乱を極める、己の命を賭して誅することこそ忠義と悩んだが、家斉逝去まで動けず、いま20年分の膿を出す、それが私の努めと決意を語る。弥三郎は、茂十郎が説いたお上が私欲を捨てて君子たり、商人が忠義を持って尽くしていればと口惜しさを呟き、幕が下りていく。
徳川政権下、政道の乱れで民が苦しむ話は多くの作家が主題にしている。永井氏は実在の杉本茂十郎に焦点を当て、金の力で刀に対抗しようとした江戸商人毛充狼の生き様を浮き彫りにしている。歴史に「もし」は無いが、もし徳川政権が各藩の産業振興と全国の物流を促進させていたら国のかたちは変わっただろうし、将軍を有能さで選ぶ推挙方式、政策の公開と民による評価方式を採り入れたら国のかたちは大きく変わったと思う。
これからの時代でも、有能さで選ぶ方式と政策の公開と国民による評価は必須であろう。 (2024.5)