学生時代、Y君の家がよく麻雀の場となった。学校帰りに日吉の雀荘で打つ。夕暮れになってY君が「今夜、俺ん家(ち)でやらねえか」と言い出し、もちろん誰もが賛成するという形だった。彼の家は杉並区の西田町というところにあって、大きな屋敷だった。お母さんがいつも歓迎してくれた。夕食にすきやきをご馳走になり、麻雀明けの朝にはサンドイッチにコーヒーが用意してあるといった厚遇ぶりだった。よく笑うお母さんだった。
これと同じことがサラリーマン時代にもあった。上司であるO氏の家だった。夏休みの初日、年の暮れには必ずO家が徹マンの舞台となった。O夫人も明るい人だた。夫の部下達を楽しませようという気遣いが、温かく伝わって来た。
来客の多い家は好い家である。そして、そこには必ず明朗で親切な主婦がいるものだ。家庭は主婦で保っているのである。主人という名の父ちゃんなんかどうでもいいのである。
O氏が亡くなったのは15年ほど前だ。その前から続いていた会社の昔の仲間の会にO夫人を招待し、夫人はO氏の遺影を抱いて参加してくださった。種々の雑談の中で夫人が「主人は家では無口でした。ほとんど何もしゃべりませんでした」と話したときは驚いた。会社でのO氏は多弁だった。酒場でも、呑めない酒をよく呑み、よく喋った。それが家では無口だと言う。私が思ったのが大正の男だった。大正生まれは明治を背負って生きているところがある。男子たるものペラペラと喋るな、である。O夫人は、退屈な夫に堪えたのか。だから、大勢の部下達が来るのを喜んだのか。その辺のことまではわからないが、とにかく、O夫人は満点の主婦だった。客の多い家は好い家、を100%証明していた。
これと同じことがサラリーマン時代にもあった。上司であるO氏の家だった。夏休みの初日、年の暮れには必ずO家が徹マンの舞台となった。O夫人も明るい人だた。夫の部下達を楽しませようという気遣いが、温かく伝わって来た。
来客の多い家は好い家である。そして、そこには必ず明朗で親切な主婦がいるものだ。家庭は主婦で保っているのである。主人という名の父ちゃんなんかどうでもいいのである。
O氏が亡くなったのは15年ほど前だ。その前から続いていた会社の昔の仲間の会にO夫人を招待し、夫人はO氏の遺影を抱いて参加してくださった。種々の雑談の中で夫人が「主人は家では無口でした。ほとんど何もしゃべりませんでした」と話したときは驚いた。会社でのO氏は多弁だった。酒場でも、呑めない酒をよく呑み、よく喋った。それが家では無口だと言う。私が思ったのが大正の男だった。大正生まれは明治を背負って生きているところがある。男子たるものペラペラと喋るな、である。O夫人は、退屈な夫に堪えたのか。だから、大勢の部下達が来るのを喜んだのか。その辺のことまではわからないが、とにかく、O夫人は満点の主婦だった。客の多い家は好い家、を100%証明していた。