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8月26日

2012-08-26 20:52:43 | 日記
目が覚める何秒か前の、夢か現かの状態のときに、大阪桐蔭高校の校歌の終節「研磨の雄叫び来たり聞け」が頭の隅の方で鳴った。何度も聴いているうちに、いつのまにか録音されたのだろう。朝食の小型パン(バターロールと言うそうだ)に茹で卵とマヨネーズとチーズをミックスしたのがはさんであって、これには練りウニが合うと思った。 生ウニは、時々家人が買ってくるデパートの鮨で口にするが、練りウニは久しく食べていない。ニュースはこのところ竹島と尖閣が中心だが、昨日友人と電話で話した時、「こういう場合、日韓議員連盟といったルートは何の役にも立たないのか」と、2人で首をかしげた。競馬は新潟2歳ステークス。 岩田康誠騎乗のタガノラルフから穴を狙ったが、いいところなし。 土曜日はそこそこ当たるが、日曜日はハズレという状態が続く。  週末のニューヨーク(ダウ)は100ドル上げているので、明朝の東京市場も上げで始まるだろうが、9,000円(日経平均)をウロウロし続けて長い。松本人志さんのキンチョールのCMの「ぱっとせんなぁ」を思い出す。 夕食の主菜は、豚シャブで、既製品のわさびドレッシングが秀逸。それにしても、最近の市販の調味料は、よくできている(研究してくれている)と感心する。血圧も睡眠もOKだが、半分以上薬の力なのだろう。

行儀

2012-08-26 20:45:53 | 日記
「こら、お行儀よくしなさい!」、つまみ喰いをしようとした私に、セーラー服姿の叔母が言い、祖父も叔父達も笑った。朝食の時間だったが、まだ全員が揃っていなかった。 みんなが笑ったのは、私の悪戯のことではなく、叔母の言葉が祖母の口癖を真似たものだったからだ。 お行儀よく~の注意を受けるのは叔母と私だけで、叔父達は、その辺は卒業していた。 やがて、祖母が台所から戻って「さあ、いただきましょう」と言う。まだ平和な時代だった。いちばん上の叔父が、まもなく(昭和17年6月)ミッドウェー海戦で戦死するなんて、誰も想像すらできなかった。高校野球の閉会式で高野連の会長が「花巻東の大谷君(球速160キロが話題になった)を甲子園で観ることができなかったのは残念」と語ったが、多くのファンもそう思っただろう。 しかし、それを言うなら、その大谷君に打ち勝って岩手代表となった盛岡大付属は、さすがによくまとまったチームでしたと続けるのが、礼(行儀)というものであろうし、後味の好くない挨拶だった。  古い話だが、ウィーン少年合唱団が公演のために来日したとき、「少年達は行儀がよく、食事の時では、咳(しわぶき)ひとつ立てることなく~」と報道され、それについて前田武彦氏が、そんなは気持ち悪いと評した。私もマエタケさんの言うことがわかるし、厳しすぎる躾だとも思う。しかし、この話のポイントは、それが自然であるかどうかではないだろうか。行儀・礼儀・躾の基本は、その行動(行為)が何かの教科書を真似た芝居ではなく、ごく普通にできているかどうかであるはずで、ウィーン少年合唱団のみなさんのことはわからぬが、礼儀正しく気持ちのよい子供というのを、私は何人も知っている。

2年

2012-08-25 09:26:17 | 日記
私の胸部大動脈瘤破裂の手術が始まったのは8月24日の午後3時を少し過ぎた頃だった。家人と娘達は、医師から「極めて深刻。危険な状態」との説明を受けていた。当然のことであって、この病気は即死(心臓がすぐに止まるわけではないが、保って数時間)のケースが多く、河野一郎さんや藤田まことさんがその例だ。 後になって癌で亡くなる石原裕次郎さんも、これで倒れ、慎太郎氏は、生存確率3パーセントと告げられたそうだ。 しかもその時の裕次郎さんは50歳前であり、私は74歳なのだ。 家人と2人の娘は、表玄関に近いロビーにいた。外来の患者さん達や職員も次々と帰路につく。 手術室はどうなっているのか。長女が気分が悪くなってソファに横たわる。 家人と次女が雑談を始め、長女が「心配じゃないの?」と咎めると、「すべてはドクターに委ねるしかない。そして、すでに3時間が過ぎている。もしダメなら、もう結果は出ているはず」と次女が応え、これぞまさに正論である。この辺のことを、長女は、血液型の差だと説明する。 いま8月24日午後6時。2年前のこのとき、私は手術台の上で、生死の境目を彷徨していた。 8時間のオペで私の血液の80%が見知らぬ誰かのものと入れ替わった。家人は、血液が換わったことで、「お酒が呑めない体質にならないかしら」と期待したようだが、それはなく、私の目の前には、生還記念日の水割りのグラスがほほえんでいる。 365日×2+1(閏年の分)=731日か。なんだか、申し訳ない気がしてくる。

8月23日

2012-08-23 23:05:33 | 日記
夏の甲子園が終わった。 私は、大阪桐蔭の春夏連覇は有望だが、そのためには2番手投手をどう使うかがカギで、そこは監督の勝負カンと書いたが、監督は2試合目に№2の沢田君を先発させて、結果は完投勝利。  このゲームで、チーム全体が連覇への手ごたえを充分に感じとっただろう。  閉会式を観て、病院(内科、脳梗塞の再発ケア)に行く。待合室でA子さんに久しぶりに会えた。A子さんはナースではなく事務系だが、何かと親切にしてくださり、家人が御礼にささやかな品をプレゼントしたら、今日は、冷却枕をいただいた。彼女は愛くるしい顔と元気さ、明るさが魅力であって、通院日には「会えるといいなぁ」と家人と話し合うような存在で、病人にとっては、ありがたい人だ。年齢は30代半ばと見えるが、独身のような気がする。  B医師の問診は、例によって「相変わらずお酒は呑んでいますか?」から始まるが、私の目で見ると、B医師もまた相当なドリンカーの雰囲気だ。睡眠、食事は?と話が進むので、「睡眠や食事は生活ですが、酒は人生ですから」と言いそうになったが、やめておいた。 昨年の暮れに道で転んで、右脚の踝に近いところに鉄板のようなものを入れていた次女が、それを外すオペを(昨日の昼頃)受け、先刻退院したとメールがあった。 転んだだけで何年も寝たきりになった人を私は知っているが、子供のように、「今日、ちょっと転んでヒザをすりむいちゃった」とはいかぬようだ。 私のように腰痛で、スケートの初心者のように、静々と歩く人間の方が却って安全ということもあるかもしれない。

自転車

2012-08-22 20:43:00 | 日記
自転車に跨って、まさに喜色満面の表情になっている私の写真がある。小学校の1年生だったか、初めて自転車に(補助輪無しで)乗れた日に叔父が撮ってくれた記念モノである。 昭和17年、戦時ではあったがまだ空襲はなかった。 やがて戦争は激化し、私の自転車も別の役目を担うことになって、それが英霊の出迎え(戦地で亡くなった方の御霊を駅で迎える)であって、そのとき近所のかわいい女の子(1級下だったか)を荷台に乗せるのがうれしかった。 それから7,8年が経って、似たようなことが茨城の町であった。私は高校1年生で、徒歩通学が可能だったが、帰りがラクになるように自転車で登校し、別に、初恋ムードではなかったが、級友達からは冷やかされた。  50歳になる頃だったと思うが、同好会で知り合った年下の女性が、何かのパーティーの進行役をおうせつかったが、アガリ症で困っている、どうすればいいかと訊かれた。 私はすぐに、自転車と同じだと答えた。 一度ペダルを踏んでしまえば、あとは楽勝。走り始めれば、あとはハンドル操作だけと付け足したが、この、最初に踏むペダルとは、「みなさん、こんにちは(あるいは、こんばんは)」であって、それに続けて自分の名を言えば(それだけで)緊張がとれるものであり、あとになってみれば、本当に自転車に乗れたのに似ていると頷いてもらえるはずだ。  12年前、家人の姪の結婚披露宴の司会を娘が担当したが、私に教わることもなく、無事と言うより上手にその役を務めた。 娘は幼い頃から自転車遊びが好きだったから、ある種の呼吸のようなものが身についていたのかもしれぬ~と書くのは、コジツケに過ぎるだろうが。