gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

男女同権

2021-02-20 18:53:38 | 日記
私は大きなカン違いをしていた。森喜朗氏がJOCのトップだと思っていた。この組織委員会とはそもそも何なのか?JOCとの関係は?テレビで毎日、次の委員長は誰か、ばかりやっているが、その辺の説明をするコメンテーターが一人もいない。要するに今回のオリンピックを仕切るのはJOCなのか組織委員会なのか、老人にもわかるようにしてほしいのだ。

ことの発端となった森発言は、男女平等のオリンピック精神に反するということだった。それについては前に書いたので省略するが、とにかく、それ以来、日本国は遅れているとなって、組織委員会の長には女性を、とマスコミが選ぶ候補者の名がズラリと並んでいる。実際にこの7月に東京大会の開催が可能かどうかは不明だが、とにかく、この話は急に忙しくなった。リードするのはテレビのワイドショーである。

終戦の年、私は小学校4年生だった。次々に新しい言葉があらわれた。男女同権もその一つだった。授業が終わって、教室の掃除が始まる。「男女同権なんだから、女だって窓拭きをやればいいんだねぇか」と誰かが言う。窓拭きは高い所へ上がるので、男生徒の役と決まっていた。「んだら、おめぇ、女便所の掃除、できんのかよ」と別の誰かがまぜ返し、笑いが起きた。

4月になって進級し、新しい学級編成が行われ、各学級でクラス委員長の選挙が行われる。立候補制ではない。男子優等生1名、女子優等生1名が各学級に配置されていて、男の方を委員長、女の方を副委員長に選ばれるように暗黙のルールがあるというか、つまり出来レースである。私はソレに反対した。優等女子に委員長、優等男子に副委員長と投票した。目的は笑いととることにあって、それは的中した。優等女子に委員長の1票が入り、それが読み上げられるとみんなの笑いの中で彼女は真っ赤な顔になった。「ヤボが書いたんだっぺ」という声があり、私は「男女同権」と答えた。再び笑い声があがった。

10年前

2021-02-20 18:46:49 | 日記
13日の東北地震で10年前の3.11を思い出した方は少なくないだろう。被災地の方で、10年前の経験との比較を、「今回の方が壊れたものが多かった」と話されているのがテレビに映ったが、比較をするとすれば、やはり津波ではないだろうか。

3.11の翌日からの報道で、次々の津波の被害がわかった。テレビの画面を観ながら、私は悪夢という言葉を思い浮かべた。悪い夢でも見たような・・と言うが、こんなことが本当にあるのか、と思った。つまり現実感がないほどのすごさだった。津波が市街地を走る。高いビルの3階まで達する。あとには40メートルの高さまであったとのことも伝わった。危険なので高所へ逃げてくださいと車でアナウンスをしてまわった女性が亡くなった。小学生が裏山への避難が遅れたことについて、後に裁判になるということもあった。

13j日の発災時のテレビ速報の中に、津波の心配はありませんとあって、離れたところに住む私もほっとした。死者も出なかった。私は昭和34年の伊勢湾台風で水の恐怖を知っている。我が家は床上1メートルまで浸水した。水位があと30センチ上がれば祖父を助ける方法はなかったかもしれない。伊勢湾の死者は5千人を超えている。祖父が助かったのは運でしかない。

地震の予防というのは、ほぼ不可能だ。揺れが来たときに、どこねどうやって逃げればよいかを考えておく程度のことしかできない。我が家は海抜25メートルと書いた立て札の近くのマンションだが、40メートルの津波には抗すべきものがない。あとは、運である。

2月14日

2021-02-20 18:40:15 | 日記
ゆうべは7時半からのNHKテレビ『ブラタモリ』を観ながら眠くなるのを待った。タモリ氏の訪問先は大分県日田市で、日田と言うと甲子園の常連校の日田林工高だ。私の日本地理は高校野球とともにある。日田杉という言葉を聞いたこともあるので、樹木の街、木製品の街だと思っていたが、下駄の生産もすごかった。そのうちに眠くなった。

眠って何時間経ったか、ベッドが揺れた。地震だ。娘は仕事で東京泊まりだが、家人はまだ横のベッドに居ない。まだ居間でテレビを観ているのだろうと思って、「オーイ!」と大声で呼んだが返事がない。とにかく様子を知ろうと、テレビをつけてみると、すでに地震ニュースが流れていた。震源地は福島で、震度6強と報じていた。あの3.11から10年、悪夢の再来かと思ったが、津波の恐れなしとのことでほっとする。家人が部屋に入って来た。「この辺も触れたの?」とケロリとしている。揺れの最中、家人は入浴していたそうだが、湯船の中では震動は感じないのか。それとも家人が超鈍感人間なのか。

先週は森失言騒動でテレビがにぎやかだったが、この話は今週も続くのか。それとも、明日からはワクチンが主役になるのか。とにかく、明るい話題を聞かなくなって久しい。

バレンタインデーで長女から高級チョコレートの箱をもらった。水割りウィスキーではもったいないので、最後のヒトクチをストレートにしてチョコレートを頬張る。これが旨い。不思議に旨い。今朝の血圧は139ー78。

短文

2021-02-20 18:33:19 | 日記
<以下の短文を使って文章を作れ。ただし、文字数は××いないとする>といった問題がテストによくあった。小学校にも中学校にも高校にもあったのではなかったか。指定された短文は教科書からとられることは少なく、ちょっとヒネってあること多かった気がする。たとえば、<思いがけず>とか<罪滅ぼしに>なんていうのが中学の頃の夏休みの宿題帳にあったような気がする。前者についてはラブレターの返事をテーマにして作ろう、後者については賭けビー玉で大勝したことを主に書こうとした(たぶん書いた)ような記憶があって、教室の笑いをもらったのも頭に残っている。

結婚する前の家人は茨城に住んでいて、私も時々そこへ遊びに行っていた。家人は4人姉弟の長女で、下の3人はまだ小中学生だったから、私がよく遊び相手になった。夏休みだったか、正月休みだったかに行ったとき、下の方の妹が宿題帳に取り組んでいた。宿題帳というのは我々の時代には存在しなかった。教科書とは無関係に作られているから実力テストを兼ねていると言っていい。そのとき、下の妹は中学2年か3年だったか。例によって、短文を作るページがあって、私がそれを手伝った。中に<噛めば噛むほど味が出る>というのがあって、私はそれに<スルメは>という文字を上乗せした。義妹は読み返すことなく、そのまま教師に提出したらしい。<スルメは噛めば噛むほど味が出る>は非の打ちどころがない文章だ。しかし、教師はその文を授業中に披露し、教室の笑いのネタにしたそうだ。義妹は、あれほど恥ずかしい想いをしたのは生まれて初めてだと、怒ったような顔を作って言っていた。

その義妹は50歳を待たずに手遅れのガンで亡くなった。短い文章のような一生だった。

行儀

2021-02-20 18:11:27 | 日記
昭和15年か16年か、その頃の自分の記憶と8つ年上の叔母の証言をあわせた話である。私は祖母によく「お行儀よくしなさい」と言われていた。朝の食卓。畳の部屋に大きな和机が置かれ、その一角を祖父が占めている。祖父だけが家族と違うものを食べている。みんなは米飯に味噌汁、ほうれん草のおひたしに目玉焼き玉子と佃煮数種類だが、祖父だけは食パン、オートミール、半熟卵に、チシャ菜といったメニューだった。祖父が西洋かぶれなのではなく、専売局勤務時代に2年間のロンドン駐在の経験があって、そのときの習慣をひきずっていたらしい。チシャ菜は苦みがあるので他の誰も食べることはなかったが、時々私だけが祖父の席へ行って食べさせてもらっていた。もちろん5歳の子供に生の葉野菜が美味であるわけがない。私が欲しかったのは、その葉に塗るマヨネーズの味だった。昨今のチューブ入りと違って、昔のマヨネーズは大きな丸瓶に入っていて、それをスプーンでとって、チチャにのせるのだ。私がそれを狙って席を立つと祖母の声が飛んで来る。「坊や、お箸を1本だけ持ってどうするんですか。お行儀よくなさい。走ってはいけませんよ」。私は行儀という言葉を見るたび、聞くたびに、祖母の声を思い出す。最近はあまり使わない言葉であるようだが。

トイレへ行くために廊下に出ると、お嬢が端の方に佇んでいる。何を考えているのかわからない(それがネコの価値の最たるもの)が、前脚を揃え、かしこまっているような形に見える。つまり行儀のよい雰囲気がある。一方のリャンピンは、常に動いているので佇むという形にはならない。決して行儀が悪いわけではなく、自由が好きなのではないか。家人や娘がよく、ネコが2名いるからおもしろいと言うが、その通りだろう。2名がどちらもお行儀良しでもおもしろくない。