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〇×式

2021-02-06 12:28:35 | 日記
平成4年に宅建士の国家試験を受けた。テストは50問で、4者択一方式でマークシートのやり方だった。すぐに昔の〇×式を思いだした。つまり、計算や作文とは違って、はじめから正答が設問の中に存在するのであって、犯人は誰だ的な形で〇を探すのだ。

私達(昭和23年の学制改革時に中学1年になった)のことを〇×式世代と呼ばれていた時期があった。要するに頭の中が〇×でできているという冷やかしだ。たしかに、中学時代のテストはその種のものが多かった。ほかには棒線で結ぶもの、カッコの中に文字を入れるもの等がテストの主流だった。棒線というのは、例えば上段に夏目漱石、島崎藤村、山本有三、森鴎外・・・といった作家名が並び、下段にある作品名とを棒線で結ぶやり方だ。

〇×式は出題側も考える。意地悪をする。なんとか間違えさせてやろうとする。これも宅建テストに似ていた。前記の棒線式で言うと、上段に作家名を7つ挙げ、下段の作品名は8つ並べる。こうなると答える方が少し違う。誰かの作品は2つあるのか?それとも1つは上段に出ていない作家のものか?となる。

日本国は三権分立で成り立っている。では、その三権の長は誰か。以下の中に該当するものがあれば〇をつけよ。
①内閣総理大臣②衆議院議長③参議院議長④最高裁判所長官・・・これは私が中学2年のときの社会科テストに実際に出た問題だ。もちろんあらかじめ正答を知っていればなんのことはないのだが、記憶がアヤフヤだと鉛筆が止まる。

三権の長だから3人かな。すると1人は外れることになる。それは参院議長ではないか。たしか、授業中に衆議院の優位性とかいうのがあった。予算案などは衆院で可決されれば参院で否決されても成立するのではなかったか。そうだ、1人はずすのは参院議長だろう・・なんていうことになって来る。〇×式をバカにしてはいけない。宅建同様、ヤバいところもあるのだ。

現金

2021-02-06 12:18:28 | 日記
結婚祝いに、紅茶セットをもらう。内側に布が張ってある立派な箱、紅茶を淹れる器、半ダースのカップと皿、スプーン、ミルクポットとシュガーポット、美しい花柄の模様で揃えられている。ピカピカの幸福感がある。しかし、新婚家庭にはそれに見合う洋風の応接間はない。あるのは畳を6枚敷いただけの和室だ。やがて夫婦は転居する。転居するたびに、紅茶セットは邪魔になっていく。結果として一度も使われることなく・・・といったようなことが、昭和の頃はよくあった。それが次第に無くなった。結婚祝いも転居祝いも、出産、栄転、入学、卒業・・・あれこれの祝いに際しては現金を渡すのが習慣化した。祝い事だけでなく香典は昔通り、病気見舞いも果物籠からキャッシュに変わった。便利になった。もらう方も、1万円の紅茶セットよりは福沢諭吉1枚の方がありがたいのだ。

学生仲間と麻雀を打つ。勝負が終わって支払いの段になると、貸し借りが始まる。それが続くと面白みが薄らいで、現金払いの町の雀荘へ行くようになる。私はそうやって麻雀の腕を磨いた。半荘キャッシュのルールは、懐中にナンボかの余裕がないと打てない。懐が寒いときは、現金麻雀はまず勝てないものだ。腕時計を質に入れてでも、ハコテンになっても大丈夫程度の現金を持っていなければダメだ。また、貸し借り麻雀では腕は上がらない。時間と体力の浪費である。

キャッシュレスの時代なのだそうだ。私は土曜と日曜にJRAの馬券を買っている。それのための預金があって、馬券は電話で買える。老人にとって、これほどありがたいものはない。「競馬は的中馬券を払い戻し窓口で現金に換えるときが最大の喜びだ」と言ったのは誰だったか忘れたが、昭和は遠くなった。

税金泥棒

2021-02-06 12:09:57 | 日記
農長が校庭の隅の穂で何か畑で獲れた作物をムシロの上に広げていた。ノウチョウというのは生徒間の呼び名であって、最長老の教員で、教頭でもあった。授業は農業を担当していたが、時間の半分ほどは、日の当たる窓際で居眠りをしていた。その時間、教科書を朗読するのが、速読ナンバー1の私の役目だった。もちろん私の声の内容を聞いている生徒なんか1人もいない。教師は日向ぼっこで眠っている。そのうちに終業のベルが鳴る。つまり、農長は教師としての役目を何も果たしておらず、いわゆる税金泥棒の代表例だった。

農長が校庭に広げていたのは、彼自身が校庭裏の土地を耕して作った畑で収穫したものだった。たしか芋類などが多かった気がする。その作業を教室の窓から眺めていた誰かが「ノウチョウ!」を声を出した。冷やかした。すると5分と経たぬうちに、音楽教師のノベが教室に走り込んで来た。休み時間だったのだが、どこかで私達のことを見ていたのだろう。ノベ(本名 池辺の略称)もまた税金泥棒だった。端的に言えば、何も教えていないのである。私を含め、その茨城の中学を卒業して楽譜を読める人間は誰もいない。「いまここに居た者は全員名前を書け!」と、ノベが怒鳴った。

70年前の田舎の中学には実際にこのレベルの教師が多かった。最近はその程度の人間はまず教師として採用されることはないだろう。時代と言ってしまえばそれまでだが、その通り、ひどい時代だったのだ。

ノベは職員室に戻って私達のクラス担任の新人教師にコトのいきさつを説明し、昼休みが終わると、新人担任がノベから受け取った紙を見ながら、私を指名して、「教頭先生に謝って来い!」と大声を出した。私は喜んで、職員室でくつろいでいる農長のところへ行った。前述の教科書の音読のこともあり、私は農長に貸しがあった。農長は私の顔を見て、「なんだ、おまえか」と半分笑顔になった。そのオッサンが税金でメシを食っているのだった。

銀座

2021-02-06 12:03:44 | 日記
家人は銀座が好きだ。1丁目から8丁目まで好きだ。結婚前、茨城に住んでいた家人とのデートの待ち合わせ場所が有楽町駅になることも少なくなかった。結婚後も家人は日本橋の証券会社に勤めていたこともあって、銀座には詳しい。現在でも何かのことで、あの辺がテレビに映ると熱心に観ている。

昭和30年代の初め頃、フランク永井さんが唄った『有楽町で逢いましょう』が大ヒットした。その2章に<心にしみる愛の歌 駅のホームも濡れたろう 小雨に煙るデパートよ>というくだりがあって、このデパートは阪急である。阪急百貨店が西から進出してきたのだ。それだけでも街に勢いのようなものがあった。もちろん、背景には高度成長があった。

昭和40年頃になって、仕事の関係で勤務先の蒲田から墨田・葛飾の方へ行くようになり、外注先の若社長と仲良くなり、2人で銀座で呑む夜もあった。あれは3丁目あたりだったかと思うが、ふと入った<中島>という店が気に入った。いわゆる大衆割烹で酒も料理も旨く、我々でも手の届く値段だった。主人は話好きで、おもしろい人だったが、アル中気味なのが心配だった。私の知っている銀座はそのぐらいのものでしかない。

このコロナ時期に、銀座の高級クラブをハシゴした国会議員が週刊誌にバレて、議員辞職したりしてニュースになっている。やはり、男性は酒と女の魅力にはいつの世も勝てないのだろう。<銀座の街 きょうも暮れて 赤い灯燃ゆ 恋し東京>って、何の歌の始めだっけ?最近はこういう小さいことが思い出せない。

ホステス

2021-02-06 11:56:33 | 日記
サラリーマン時代、上司のお宅でよく麻雀をやった。そこで打つのが楽しみだった。奥様が明るいのである。気さくな人柄だから気楽なのだ。すなわち、居心地が良いのである。上司に半荘に一度は満貫をあがらせて気分を良くさせてあげたいような気分になって来る。

70歳代の夫婦と40歳代の夫婦が同居している。それと中学生の子供が1人。40代の方の夫が70代の方の長男だ。この家では主婦が2人いるわけだが、その2人の関係がうまくいっているかどうかで、その家の雰囲気が決まる。「お義母さま、今夜は、田中さんからいただいた牛肉の塩麹漬を焼いてみましょうか?」「あら、私もそう思っていたのよ。あれ、おいしそうね」。こういう家に遊びに行くとほっとする。旨い酒が呑めそうだとうれしくなる。

ホステスという語を辞書で引くと何と書いてあるか知らない。まさか、最初に、キャバレーやクラブなどで男性客を接待する女性のこと、とは記されていないだろう。第1行には、女主人とあるはずだ。家庭にはホステスが不可欠である。家庭だけではない。私の経験から言えば、クラス会とか趣味の集い、昔の仕事仲間との集まり、あるいは葬式の後の弔いの酒席だって、ホステス役の気配りのある女性が要るのだ。

以上のように、ホステス必要論を書いて来たが、現実にはその心配はそれほどしなくても大丈夫だ。私は60歳を過ぎてから昔の会社の同僚を集める宴会のまとめ役を2,3度経験したが、万事をもとの女子社員にゆだねて成功した。ホステスに向いている女性は、この世に居るものなのだ。ただし、最初に書いた、明るい家庭の場合は、出しゃばり姑や気が強すぎる嫁などが邪魔をして、時には離婚騒動になったりする例もあるだろう。これだけはどうにもなりまへんな。