中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

世界遺産:中尊寺と金色堂(芭蕉の道を歩く 66)

2019年10月16日 07時36分07秒 | 芭蕉の道を歩く
(杉木立の月見坂)


(平泉 6)
月見坂をさらに進むと右手の石段の上に中尊寺の山門がある。

平泉には二度目の訪問であるが、前回は観光バスでやってきて、
記憶に残るのは金色堂だけである。
平泉に来たのに中尊寺そのものが全く記憶にない。
まして本堂がどんな形であったのか、仏像はどんなだったかも覚えていない。

前回訪ねた時には、中尊寺そのものが無かったのではないだろうか、と思えるほどだ。

(中尊寺山門)

(中尊寺本堂)

(本堂入口の参拝客)

(本堂の金色の仏像)


本堂に上がって仏像を眺める。金ぴかの坐像である。
仏像がどんな印を結ぶのか、その印がどんな意味を持つかよく知らないが、
確かに見たことのない印の形をしている。
仏像の右手は手の平を前に向けて胸の高さに有り、
左手は甲を前に向けて、二本の指(親指と人差し指)を上に向けている。

中尊寺は、最澄を祖とする天台宗と言うから、密教で、
寺格は別格大寺、天台宗大本山である。

仏経なのになぜ密教と言うのか、以前 疑問を持ったことがある。
お釈迦様が涅槃に入り、真理の中で楽しんだ時の教えだから、
つまり死後の世界を漂うなかでの教えと言うから、
誰にも分らない秘密の教えー密教と言う仏教らしい。

物語で言えば「西遊記」であるが、玄奘三蔵法師がインドから中国に帰国後、
翻訳した聖典ーお経は極楽浄土へ行く方法を記したものーで、
実に八万五千通りあると言う。

韓国を旅行した時「海印寺」で、八万大蔵経の版木が八万枚残されていた。
しかもこの経典が戦火で無くなっても、つまり浄土への道のりの教えが無くても、
極楽往生できるのが禅宗で、努力に努力を重ね修行に修業を重ね、
自らその道を会得する教義を持つ教えをお釈迦様は残された。
それが禅宗で、これが武士の世界に共感を呼び広まったらしい。

話がそれてしまったから、戻そう。
平泉は、奥州藤原氏が密教の教えに従って想い画いた、
仏国土(極楽浄土)を現わす建造物と庭園群により、世界遺産に登録されることになった。

中尊寺の仏像は、その浄土を説き指し示しているのではないだろうか。
金色堂が示すように、
この世にない黄金の輝きの中に浄土を探し求めたように思える。

さらに進むと、金色堂、経蔵、旧覆堂に着く。

芭蕉は、
兼ねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、
光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、
珠の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、
すでに頽廃空虚の叢(くさむら)と成るべきを、四面新に囲みて、
甍を覆ひて風雨を凌ぐ。
暫時(しばらく)千載の記念(かたみ)とはなれり。

・五月雨の 降りのこしてや 光堂
」と述べている。

(金色堂の案内)

(金色堂への道)

(「七宝散りうせて」の七宝を散りばめた柱(東北歴史博物館のレプリカより)

芭蕉が尋ねた時は、すでに四面を囲み覆堂が出来ていた。
現在の覆堂はコンクリート製であるが、旧覆堂も残っている。
芭蕉が言う二堂開帳すの二堂は、覆堂内の金色堂と経蔵のことだ。
光堂には「三代の棺を納め」とあるのは、
初代清衡、二代基衡、三代秀衡の三人の遺体を指しているが、
義経を自害させ、頼朝に討たれた泰衡の首級が納められており、
今では、親子四代のご遺体が納められていることが判っている。

(撮影できない金色堂ネットから)

(撮影できない金色堂内陣ネットから)


芭蕉が言う「経堂は三将の像を残し」と言っているが、これは現在の経蔵のことではないようで、
金鶏山のことを言っているようだ。(奥の細道菅菰抄より)

*「奥の細道菅菰抄」は別名 高橋利一著の解説書で、
芭蕉の100年後に著わされた、第一級の解説書と言われている。

(経蔵)


(芭蕉が見た旧覆堂)

(芭蕉像と「奥の細道」文学碑)


・秋風の 祈りにほほ笑む 仏さま  hide-san