中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

勝海舟と三囲(みめぐり)神社(旧日光・奥州街道の番外記 5)

2013年06月26日 11時27分00秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(勝海舟=勝安芳の像)

(勝海舟=勝安芳の像2)

(アサヒビールの雲の形のオブジエ)



(三囲神社)
本所吾妻橋を渡って見上げると、
アサヒビールの雲のオブジェが屋上に見える。
口さがない江戸っ子は朝日に照らされた金色のウン〇と呼んでいる。

その横に墨田区役所はあって、前庭に勝海舟の像が立っている。
勝海舟生誕180周年(2003)に建てられたものだ。
時の墨田区長の建立の記によると、
(勝海舟は通称麟太郎、名前は義邦、のち安房、安芳は、
江戸本所亀沢町(現、両国四丁目)で、父小吉の実家男谷邸に生まれ、
明治32年赤坂氷川邸で逝去された。
勝海舟は幕末と明治の激動期に、
世界のなかの日本の針路を洞察し、
卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、
多くの人材を育成した。
西郷隆盛との会談により、
江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、
今日の東京の発展と
近代日本の平和的軌道を敷設した英雄である。-後略)とある。
(勝海舟生誕地の碑)

因みに勝海舟の生誕地は、同じ墨田区の墨田警察署近く、
両国公園の一角に生誕地跡の碑はある。

勝海舟の(銅像には安芳とある)銅像のある場所は、
水戸徳川家下屋敷の敷地であった。
水戸徳川家の下屋敷は隅田川に沿って北東に広がる庭園が続いており、
途中(言問通り)でさえぎられるが、
その言問通り手前に牛嶋神社がある。

広大な水戸徳川家下屋敷庭園の中ごろ東側に、
小説家 堀辰雄の旧居跡(向島1-7)があって、
この牛嶋神社に詣でて、
「ここにはメランコリックな眼をした牛がいる」といった撫で牛がいる。
なるほど、うっとりした様な眼差しの牛の、
自分の弱い部分を撫でると効験あらたかであるらしく、
ツルツルに光っている。

もともと牛嶋神社は、隅田川沿い弘福寺あたりの裏手にあったのを、
関東大震災で焼失し、現在地に建てられた本所の総鎮守である。
牛嶋神社を出て言問い通りに出る。
(弘福寺あたりの裏手の牛嶋神社の碑)

(水戸徳川家下屋敷庭園の天皇行在所)

(下屋敷庭園東にある堀辰雄居所のあったところ)

(牛嶋神社)

(堀辰雄がメランコリックな眼差しといった撫で牛)

(水戸徳川家庭園)

信号を渡って水戸徳川家下屋敷庭園沿いの、見番通りを進むと、
三囲(みめぐり)神社がある。
(三囲神社は、弘法大使が祀った田中稲荷が始まりで、
当時は現在地より北の田圃の中にあった。
文和年間(1352~56)に近江の三井寺の源慶が社を改築した際、
土中から白狐にまたがる老翁の像を発見。
その像の周りを白狐が三度回って消えたという縁起から、
三囲(みめぐり)の名がついた。
三井家は江戸進出の際に、その名にあやかって守護神とし、
平成21年(2009)に旧三越池袋店から、
シンボルの青銅製のライオン像が境内に移された。
(見番通りの案内)

(三囲神社)

(三越のシンボルライオン像)

(越の字に〇の台座)
日照りが続いた元禄6年(1693)、
俳人宝井其角が能因法師や小野小町の故事に従い、
「ゆたか」を題字に詠みこんだ
「()うだちや 田()を見めぐりの 神(み」ならば」の句を献じた所、
翌日には雨が降り評判になったという話が伝わっている。)(墨田観光協会)
ゆたかの文字を読み込んだ句碑)

(雨乞いの碑)

この解説通り、三井家が奉納した狛犬ならぬ一対の神狐は、
目尻が下がった様子から「三囲のおこんこんさま」と親しまれている。
また、宝井其角の雨乞いの句
「ゆふだちや・・・」の句碑と雨乞いの碑も境内にある。
そして三井家のライオン像と三越との関係を物語る越の字に〇の台石もある。
さらに三囲(みめぐり)神社の神殿前には、
神狐が一対あり、その狐の表情たるや、
三越の店員の心がけの模範となる、
目じりの下がった笑顔がほのぼのとして微笑ましい。
(おこんさま)

(神狐の三越社員の表情の模範となった顔)


他に、宝井其角 惜春の句碑

・山吹も 柳の糸の はらミかな   晋其角

もある。
(宝井其角 惜春の句碑)