中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

金生山 明星輪寺の「こくぞうさん」②(旧中山道を歩く 265)

2011年09月03日 10時35分52秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(参道脇にある奥の細道の芭蕉の句碑)

(赤坂宿3)
金生山 明星輪寺の「こくぞうさん」の参道に入ると、
左右に沢山の石灯篭が並んでいる。

参道の左脇に、「奥の細道 芭蕉句碑」の看板が目に付く。
脇の林の一段登った所に句碑はある。
碑は金生山産の大湖石(石灰岩)で、芭蕉翁の俳句が右上に刻まれ、
左下に大垣市文化財保護協会が建てた由来を述べている。

右上に、
(・鳩の聲(こえ)身に入(しみ)わたる岩戸哉   はせお)

左下に、
(赤坂の虚空蔵にて
   八月二十八日奥の院      はせお
・はとのこえみにしみわたるいわとかな

芭蕉奥の細道の旅元禄二年の作(漆島所載)を
故吉田門治郎氏の遺志を継ぎここに建碑す。
昭和四十七年秋 大垣市文化財保護協会)とある。

松尾芭蕉は「奥の細道結びの地」として大垣に滞在したが、
その間に、赤坂の「こくぞうさん」に参詣したようである。

「こくぞうさん」は、修験道の開祖 役の小角(えんのおずの)が
朱鳥元年(686年)に開基したと伝えられ、
本尊は小角が岩窟の中に彫ったと言われ秘仏であるという。

参道には「日本三尊佛随一」の石塔がある。
(その三尊とは、伊勢朝熊山の朝虚空蔵、京都嵯峨野の昼虚空蔵と共に、
赤坂の宵虚空蔵といわれている)(大垣市赤坂商工会)
この石塔の奥に山門はある。


(日本三尊佛随一の石塔)

山門には、両側に金剛力士像が安置され、
岐阜県の重要文化財に指定されている。
(檜材を主体とした寄木造りで鎌倉時代の初期の製作で、
仁王像の中では比較的大きい秀作である。
山門右側に阿形(あぎょう)、左側に吽形(うんぎょう)の
二尊が安置されている。)(大垣市赤坂商工会)


(右の阿形(あぎょう)


(左の吽形(うんぎょう)

この仁王像の「阿(あ)」と「吽(ん)」は、「アイウエオ」の「ア」と
「アイウエオ」50音の「ン」を表わしている。
「ア」から「ン」までの間に、
辞書を見れば世の中の凡そ「すべて」が記されているように、
「ア」から「ン」までの、世の森羅万象の「全て」の間を抜けて、
つまり、仁王像の阿形から吽形の間を通り抜けて、
極楽浄土(=天国)つまり本堂への道をたどる。

ここで問題は、阿形が右側、吽形が左側にあることだ。
つまり横書きにした場合、今ボクが書いたように「左から右へ」
「ア」から「ン」が並ぶ所が、
太平洋戦争以前は、横書きの場合、右から書くのが正しかったからだ。
つまり「アイウエオ」は「オエウイア」と右から書くのが正しかった。
ということは、「ア」から「ン」は、
右書きだから阿形が右、吽形が左にあって正しい。

話がそれてしまったが
山門をくぐると、参道の脇に水屋があり、
身を清め本堂に向う。


(水屋)


(子育大菩薩地蔵堂)


(仏像群)


(仏像群2)

途中、国宝 子安子育地蔵大菩薩があり、
沢山の仏像殿があり、見るところは多い。
一番奥に明星輪寺本堂がある。
大垣市重要文化財に指定されている本堂について、
(この本堂は、文久三年(1863)に
大垣藩主戸田氏彬(うじあきら)によって再建され、
日本三大虚空蔵の一つである本尊の虚空蔵菩薩が安置されていることから
「虚空蔵堂」とも呼ばれています。
正面は入母屋造りで、唐破風の向拝が付けられ、
背面は切妻で、本尊が祀られている岩窟を覆う屋根が続いています。
――後略)(大垣市教育委員会)とある。

この本堂は最初慶長十四年(1604)、明暦二年(1656)に再建され、
さらに(1863)に再度建設されたという。
本堂入り口には本尊御前立の仏像が安置され、
奥に岩窟に入る順路がある。
(有料の案内があった記憶である。
秘仏の虚空蔵菩薩には会えるかどうか不明。
投稿者ケンさんのご指摘により訂正。後ほど確認の予定。)

金生山明星輪寺をあとに、
きた道を戻り中山道を西に進む


(本尊御前立の仏像)


(本殿の入母屋造り)


(明星輪寺から見た赤坂の街)