中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

昼飯(ひるい)と青墓(旧中山道を歩く 266)

2011年09月08日 09時55分33秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(善光寺「晝飯」御憩旧蹟)


(史跡の里 「青墓」町)

(赤坂宿4)
中山道を西に進むと、左手に赤坂宿御使者場跡の石柱があり、
その右手に小山を昇る石段がある。

大垣市教育委員会の案内によれば、
(この墳丘は、関が原決戦の前日(1600年9月14日)、
杭瀬川の戦いに笠木村で戦死した東軍、中村隊の武将を葬り、
その鎧兜を埋めたと伝えられ、
以後この古墳を「兜塚(かぶとづか)」と呼ばれている。)とある。


(兜塚)

その先にある踏切を渡り昼飯町(ひるいまち)にはいる。
しばらくすると、左手のやや奥まった所に大きな古墳が見える。
大塚古墳というらしい。
ここ昼飯町から、その先訪れる青墓町、垂井町にかけては、
沢山の古墳があるようだ。


(大塚古墳)

中山道を進むと、その先右手に「浄土宗 如来寺」がある。
ここに「昼飯町の由来」が出ているので紹介する。

(むかし、善光寺如来という仏像が、大阪の海から拾い上げられ、
長野の善光寺に納められることになりました。
その仏像を運ぶ人が、青墓の近くまで来た時は五月の中ごろでした。
近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花咲き乱れる素晴らしい光景です。
善光寺如来を運ぶ一行は、小さな池のそばでゆっくり休み、
美しい景色に見とれました。ここで一行は昼飯(ひるめし)をとりました。
そこから、この辺りを昼飯(ひるめし)というようになりました。
しかし、その呼び名が下品であるというので、
その後、飯の字を「いい」と音読みにして「ひるいい」と
呼ばれるようになりました。でも、「いい」は発音し難いため、
「い」の一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになりました。
また、この池は一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」といわれ、
記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたということです。)
(大垣市立青墓小学校 (大垣市史青墓編より)とあり、
非常に解りやすくやさしく書かれている。

きっと、これは小学生が「ひるめし」と書くのに、
どうして「ひるい」というのかと、
先生や親御さんに詰め寄って、
自分がわかるように、いろいろ質問するから、
詳しく、しかもやさしく説明がしてあると思われる。


(如来寺とその奥にある「昼飯の由来」)


(如来寺の山門、鐘楼、本堂)

中山道はその先東海道本線のガードがあるが、
その手前右手の広場に(史跡の里 青墓の案内図)がある。
「青墓」には沢山の史跡があり全部見て歩くには、
たっぷり二日ほど必要になりそうである。
ガードをくぐって「青墓」に入る。


(東海道のガード)


(青墓の史跡案内図)

すぐ目の前に、田舎にしては目立つ「史跡の里 青墓町」の
白い標柱が建っている。
道路両側に古い家並みがしばらく続く。
右手の延長寺に石柱があり、
民家の間を抜ける参道があって、その先に山門があるが、
その山門のうえに天守閣のような一室が乗っている。
奇妙な門で、その下をくぐりたくなり、お寺に向う。
山門の上の天守閣の中は、下から見ると、がらんどうで、
ただ門に威厳を持たせただけのように見た。
何か理由があるのかもしれない。

後で調べたら、この天守閣のような、櫓のような山門は、
青野城の大門であったものを移築したものらしい。
青野城藩主は稲葉石見守正休で、
江戸城内刃傷事件の二件目の主犯であった。


(青墓の古い街並)


(延長寺)


(山門に天守閣が乗っている)

話をもどして
その先の右奥に白髭神社があり、
ここにも(史跡の里 青墓町)の白杭があって目立つ。
この杭の左手を奥に進むと圓興寺があり、
国宝 観世音菩薩の石碑が中山道脇に建っていたが、
距離がありそうなので行くのを止める。
時間が在り、興味のある人は訪ねると面白いと思われる。


(白髭神社と青墓の白杭)


(中山道沿いにある円興寺の石碑)


(立派な長屋門)

中山道を先に進むと、右手に立派な長屋門がある。
今時、このような立派な長屋門はなかなか見ることができない。
少し進むと左手の金網のフェンス角に、「照手姫水汲井戸」の石碑があり、
後ろの電柱に「照手姫水汲井戸」は左へと矢印がある。
その10mも先の右手に、目立つ白杭(史跡の里 青墓町)があり、
その杭の右横に(∴よし竹 円願寺)と書いてある。

近づくと、(青墓のよしたけあん)として伝説が書かれている。
その左隣に(小笹竹の塚)とあり、
伝説に伝えられる照手姫の墓がある。


(照手姫水汲井戸の石柱)


(青墓のよしたけあん)