中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

長久保宿本陣と「うだつ」(旧中山道を歩く 131)

2008年06月14日 09時21分11秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(長野新幹線 上田駅)

(2008年6月10日時の記念日(快晴、気温27度予想。
旧中山道を再スタートするに当たって)

日本橋から中山道を歩いて、順番では長久保宿から次は和田宿に入り、
その先の下諏訪宿に行くのが普通である。
和田宿から先は、標高1600mの和田峠があり、その峠は下諏訪宿まで、行程約22kmある。
標高1600mというものの、実際には標高差800mほどで、
それも12km歩くと峠に出るというから、
1mの高さを登るのに15mあるからそれほど困難では無さそうだ。
それにしても、山道を22kmというと、旧道を探し探し、
しかもボクのように史跡があれば立ち止まって、昔をしのび考えながら歩く者には、
どうしても丸一日が必要になる。
そのため前日には和田宿で一泊は必要であり、
今までのように、今日は天気がよいから出かけようなどと簡単にはいかない。
どうしても二日間好天に恵まれた日が続き、
しかもボク自身の用事の無いときでなければ出かけることができない。

昨年10月から立春までは日が短く、仮に朝早く出ても夕方17時には暗くなってしまう。
さらに3月ころまでは寒さと残雪に悩まされそう。
まして今年(2008)は天候不順で、4月になり少し暖かくなってきたと思うと、
今度は雪が降りなどして、出かける機会が無く過ごした。
好天が続く日は、ボクに所要があって出かけられず、とうとう5月も終わりに近づいた。
止むを得ず和田峠越えは後回しにして、その先に歩を進めないといつまで経っても、
旧中山道を完歩することはできない。

なかなか機会が無いと嘆いていた和田峠を歩くチャンスが、思ったより早く巡って来た。
条件は、天候に恵まれた二日間で、ボクの野暮用が無く、和田宿で旅館が取れる日、
しかもカミさんの用の無い日。
6月10・11日がその日に当たる。
そこで一度飛ばしかけましたが、やはり順序どおり旧中山道をたどりたいと思います。

日本橋を出てから通算二十五日目、長野新幹線 上田駅からバスで一時間。長久保宿に到着。)


(バス停 上田市は真田幸村の郷 六文銭の家紋が見える)

(長久保宿2)
田舎道では滅多に人に出会わない。会うのが珍しいくらいである。
長久保宿では、犬を散歩に連れ出している人に出会った。その時、
バス停の位置をお訊ねしたのである。男性は、
「この道を行くと、道路がT字路になり、
突き当たりに(よねや)左側に(濱田屋)の旅館があります。
(よねや)は営業していませんが、そのT字路を右折したところにバス停があります。」と教えてくださった。
そのバス停に14:30に到着した。中山道を少し戻ると、立派な黒門の家まで歩く。


(長久保宿のT字路突き当りに「よねや」が見える)


(大きな木のある黒門の家)

このあたりが長久保宿の中心地なのかもしれない。
このT字路に突き当たる手前の右側に、黒い大きな門構えと庭に大きな木が生えている家である。
門に近づくと左側に大きな看板が建っており、
「長和町指定文化財 長久保宿 旧本陣 石合家住宅」とある。

説明によれば、
「江戸初期の本陣建築で、大名、公卿等の宿泊した御殿の間と呼ばれる
上段の間、二の間、三の間入側等を現存する。書院様式で、大柄な欄間意匠には、
寛永前後(1624前後)の風格がしのばれ中山道旧本陣中、最古の建築として貴重である。
寛永三年(1850)の本陣絵図には、上段の間ほか客室、茶の間、台所等
二十二室が主要部分で、ほかに問屋場、代官詰め所、高札場を併設し、
ご入門ほかいくつかの門、御番所二ヵ所、お湯殿四ヶ所、雪隠七ヶ所、土蔵、馬屋等があった。
旧本陣石合家には、江戸初期よりの古文書、
高札等貴重な文書、資料が数多く残されている。」(長和町教育委員会)とある。


(長久保宿本陣の門)

黒門の横に通用門が開いていたので中に入ってみると
「Close」と書いた看板が庭の苔の上に無造作に置かれていた。
庭は手入れが行き届いていて、普段は公開されていると思われる。


(本陣の庭)


(白壁がつながる釜鳴屋)

その先同じ右側に白壁の塀が続き、「うだつ」が上がった家がある。
玄関先に元酒造業を営んでいた「釜鳴屋」の看板がある。

説明によると、
「釜鳴屋(かまなりや)は、寛永時代より昭和初期まで酒造業を営む。
この住宅の建立年代は江戸前期といわれるが不詳である。
大きさは間口九間半(約17m)奥行き十間半(約19m)
正方形に近い形で建坪約百坪(330平方m)――中略――

屋根には「本うだつ」が上げられている。
「うだつ」については、多くの論考があるが、機能については、
防火のためと格式の表示のためと二論ある。
「うだつ」にはここに見るような「本うだつ」と2階の軒下部分の「軒うだつ」と二種類ある。

竹内家には、笠取峠立場図版木と宿場札の版木もあり
文化財として指定されている。」(長和町教育委員会)
(笠取峠と中山道原道(旧中山道を歩く129)の浮世絵の大きなタイル絵参照)


(二階の屋根に取り付けられた「うだつ」)

説明のように「うだつ」は「卯建」とも書き、防火壁でもある。
後には装飾的な意味に重きが置かれるようになる。
自分の財力をアピールする為の指標として関西地方を中心に商家の屋根上には
互いに競って立派な卯建がつけられたと言う。


(反対側から見た「うだつ」は家の両側にある)


(「本うだつ」を持つ釜鳴屋、元酒造業)

子供のころ、間の抜けたことをしていると、
「それだからお前はうだつが上がらない」などと、よく親にからかわれた覚えがある。

「卯建が上がらない」とは、出世が出来ない。身分がぱっとしない事を指す。
富裕の家でなければ、「うだつ」を上げることが出来なかったことから転じたといわれる。(広辞苑)

中山道はT字路に突き当たるが、突き当りに「よねや」旅館、
手前左側に旅館「浜田屋」、右に折れた右側に「長久保新町道路元票」と
「左ぜんこうじ 中山道 長久保宿 」の道しるべが並んで建っている。

ここは追分で、中山道はここで左折する。


(旅館濱田屋を左折する)


(濱田屋の反対側にある道標と道路元標)