中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

旧安中藩郡奉行役宅(旧中山道を歩く 94)

2007年05月01日 08時03分42秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10


(旧安中藩郡奉行役宅跡の入り口)

(安中宿7)
安中教会を出て大名小路を約400メートル西に向かうと
平成6年に復元された旧安中藩郡奉行役宅、その先に旧安中藩武家長屋がある。

安中藩の藩主については、((旧中山道を歩く 92)参照)で
詳しく述べたが、その続きで安中教育委員会は次のように記している。

「藩主の中でも15代藩主の板倉勝明は、学者大名として有名で、
新井白石や荻生徂徠といった古今の学者の未刊の書を集めた
「甘雨亭叢書(かんうていそうしょ)」を刊行し新島襄ら藩士に洋学を学ばせ、
日本最初のマラソンとして名高い「遠足(とおあし」を実施するなど、文武の効用に勤めました。
また高島秋汎の西洋砲術を採用し藩の軍備の近代化を進めました。
さらに長崎に「種痘」が伝来するやいち早く領民に実施したり、
領内に漆苗百万本を植え、その利益の一部で窮民を救おうとするなど善政を行いました。

その英明の藩主 板倉勝明の側近 山田三郎(1804~1862)が
この旧安中藩郡奉行役宅住んでいたと伝えられ、およそこのころの建築と考えられる。
その後、猪狩幾右衛門懐忠(1820~1883)が入居しました。
郡奉行とは、安中藩の民生をつかさどる役で、
安中藩には三人の奉行とその配下に四人の代官がいて、
年貢の割り当てから取り立て、お触れの通達、領内の治安裁判などの仕事をしていました。

この建物は猪狩さんの子孫の猪狩芳子氏より、安中市に建物が寄贈されたのを機会に
安中市の重要文化財に指定しました。
母屋は県内でも珍しい曲がり屋形式で、上段の間、土間、式台つき玄関、茅葺き屋根、武者窓、
砂ずりの壁など、いずれも素朴で重厚な地方武家屋敷の姿をとどめている。(以下省略)」
(安中市教育委員会)

(旧安中藩郡奉行役宅跡)

(曲がり屋の役宅母屋と玄関、中庭)

大名小路から、茅葺きの長屋門を入ると、母屋との間の中庭(?)に入る。
曲がり屋の角に玄関がある。後ろを見ると長屋門の脇の部屋は明かり障子が閉められている。
中に人がいるのかどうか分からないが、障子前に小さく入場料210円とある。
母屋の玄関方面に砂利を踏んで数歩進むと、明かり障子が開いて、
入場料はこちらですと声を掛けられた。
長屋門の入り口らしき明かり障子の戸を引くと、なるほど受付がある。
安中城地図や安中市史跡案内を書いた資料なども置いてある。
有料のものもあったが、資料を求めながら入場料を払う。
入場料に但し書きがある。安中市住民は無料だ。
管理費用は住民税からでているのだろうか?

訪問したこの時期に、住居の座敷で雛人形展を開催していて、
ボクが始めて目にする「享保雛」が飾られていた。普段、我々が目にする大きさの
五倍もの大きさであったのに驚いた。

(役宅の座敷側から)

(台所から見た座敷、雛人形が飾られていた)

(雛人形の数々、ひときわ大きいのが享保雛)

(享保雛)

もう一つ驚いたことがある。
台所の土間の片隅に「男部屋」なるものがある。
下男か中間の部屋と見受けられるが、ただの一畳分の板の間である。
飯炊きや庭掃除に使ったのであろうが、身分の低い男かどうか知らないがあまりにも狭い場所である。

(男部屋)

(男部屋の内側)

人間立って半畳、寝て一畳というが、まさにその範囲を出ない居場所であるのに驚いた。
説明していただいた案内の方にも、
この部屋がどのように使われたか良くわからないとの返事であった。

旧安中藩郡奉行役宅を出て、交差点ななめ向う側を見ると、立派な生垣がめぐらされた家があったが、
案内の方の説明によれば、三人居た郡奉行のもう一人の役宅があった跡だそうであるが、
今は新しい家が建っていた。

(もう一人の郡奉行役宅があったと言われる所)
信号を渡って、大名小路を西に向かうとすぐ左側に、旧安中藩武家長屋が残っている。
ここは郡奉行所役宅で入場料を払えば無料である。
つまり旧郡奉行所役宅と旧安中藩武家長屋と両方で、入場料は210円である。

なお、郡奉行所役宅の長屋門の住まいには、同心が住んでいたと
案内の方のお話であるが、何人住んでいたのかは分からない。
念のため申し添えます。



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