(旧安中藩武家長屋の案内)
(安中宿 8)
「風呂」に「お」をつけて、「お風呂」と敬語をつけるのは何故だろう?
「お」をつける言葉には、お箸、お米、お酒、お皿、お金、お財布、お産、お祝い、お経、お坊さん・・・
生きるための食事に関係するもの、生死に関係するもの、それらを購入する金銭に関わるものなどに、
「お」をつける。
「お風呂」はその歴史が物語るように、日本人のお風呂は、最初は、温泉から始まったようだ。
岩穴に溜まる温泉の蒸気を利用、ついで中国から薬湯の考えが渡来し、柚子湯、菖蒲湯、
今で言うハーブ湯が親しまれ、寺院に湯殿を設けては入る。江戸時代には銭湯が出来るが、
湯気によるものであったようだ。今で云うサウナである。
お風呂はさらに進化して五右衛門風呂ができ、各家庭に浴槽が出来るにいたった。
そもそもの考えが、お風呂は健康を維持するものという考えから始まっている。
「健康を維持する」は、人にとって大切なことだから敬語の「お」がついて「お風呂」になったのであろう。
さて、今回はそのお風呂のこと。
前回に引き続き、安中市の史跡を訪ねて歩く
大名小路の信号を西に進み、旧安中藩武家長屋に寄る。
説明によれば、
「安中藩は、三万石の小藩でしたので、最も高禄の年寄級
(家老職)でも300石未満で多くの藩士はつつましい暮らしを
していました。家臣団(徒歩格以上)は、約240名でその内安中に約140名、
江戸の藩邸に100名ほどが暮らしていた。
住居についても郡奉行役宅のように、一戸建ての独立家屋に住めたのは、
30名ほどの上級藩士だけで、ほとんどの藩士は長屋住まいであった。
復元されている武家長屋の前庭は、今は見事な庭園になっているが、実際は畑で、
少しでも生活の足しになるようにと野菜を作っていました。
旧安中藩武家長屋に実際に住んでいたのは、西側から
弓削田発(儒者見習い、給人、十人扶持)
飯島伴四郎(近習、朱印番、大小姓、十石、二人扶持)
佐藤鎌蔵(広間平番、中小姓、八石三人扶持)
小野盛太郎(勘定役、大小姓、八両三人扶持)の四人。
ずれも安中藩では中位の藩士でした。
建物の構造は、木造平屋建て茅葺きで、間取りは、西側から間口
八間、六間、六間で一番西側の弓削田発家だけが一間多く、
それ以外は、台所、上座敷、下座敷、流し場、便所、押入れ、
床の間、縁側で構成されている。建築年代は、柱の寸法、
描かれている絵図などから1800年代と推定されている。」
(安中市教育委員会)
(修復中の武家長屋跡)
(武家長屋の間取り、二軒分で中央の飛び出たところがトイレ)
見学した折は、ちょうど補修工事中であったが、長屋らしさは、二軒の家でお手洗いが
隣り合わせになっている点から伺える。
それにしても、郡奉行役宅にも武家長屋にもお手洗いはあるが、
お風呂が見当たらない。後で訪問した新島襄の旧宅にもお風呂の形跡はない。
浮世絵などを見ると風呂上りの美人図などがあるし、銭湯の図などもあるが、
これは江戸(東京)のことで、田舎には風呂は無かったのであろうか?
いやいや、田舎でも板鼻本陣の図面を見ると、湯殿が四箇所もある。
どこであったか忘れたが、お城を見学していたとき、殿様の風呂の間を見たことがあった。
予期していた浴槽は無く、板の間だけで、水が流れるように床の板が傾斜していたことを思い出した。
これと同じで、本陣の湯殿といっても、お湯につかるのではなく、板張りの部屋で、
お湯を体に流すだけの部屋であったかもしれない。
江戸庶民の長屋にもお風呂は無く、週に一回は銭湯に行き、後は行水で済ませたというから、
安中では、行水だけで済ませたのであろうか?
水戸黄門の漫遊記などのテレビドラマで、お風呂の場面が出てくるが、
安中藩のように、禄高三万石の小禄では、お風呂を造る余裕が
無かったのであろうか?
「ナガシバ」って洗面所?台所は横にあるから流し台ではないだろうし・・・。
若い頃に住んでいた県営住宅がこんなものでしたわ(^_^.)。
それから「お」生きていくのに必要なものにつけられているとは、なーるほど、うなづけます。
洗い物やまな板包丁を使った所です。