(東京大学と中山道最初の一里塚)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/d0/3c5a954099e5b85f9d6a624a2221c182.jpg)
(有名な東大赤門)
街道に戻り、正面の東大赤門をくぐってみよう。
赤門は文政10年(1827年)加賀藩主 前田齋泰(なりやす)に
嫁いだ十一代将軍徳川 家斉の息女溶姫(ようひめ)のために
建てられた御守殿門である。 と案内看板がある。
赤門をくぐると守衛所があるが、気にしないで奥へ進もう。
突き当たりの建物の左横にうっそうとした林が見られる。
その林の方へ下りていくと、夏目漱石の小説「三四郎」で
有名な「三四郎池」にでる。
なかなか見晴らしの良いところで、四季折々に、
季節の風景を描く画家や、写真を撮ろうと、
三脚を立てて光線の加減を待っている人に出会うこともある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/13/c61f1d87e73f51ccd201734fa8fd6514.jpg)
(三四郎池1)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/96/a53af01e2a20ea0b22aa21741f7c8024.jpg)
(三四郎池2)
ここで一服したら、また街道へ戻り、歩を進める。東大正門前で
道路は二手に分かれる。いわゆる本郷追分である。
追分とは、街道と街道の分かれ道である。
直進すれば、将軍が日光東照宮に参拝する日光御成道
いわゆる(岩槻街道)で、左折すれば旧中山道に分かれる本郷追分。
本郷追分の二股の間には、江戸時代から続く老舗の高崎屋酒店がある。
高崎屋酒店は、両替商を兼ね「現金安売り」で繁盛していた。
(文京区教育委員会)
言ってみれば、昔のコンビニエンス・ストアだったのであろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/6d/41ccc55de26991f231313b41e0e51c88.jpg)
(高崎屋酒店)
日曜・祝日でなければ、酒店は営業しているので中に入ってみよう。
江戸時代の高崎屋を描いた浮世絵や昔の酒屋の立派な看板、
往時に使った徳利などを見ることが出来るし、
写真も撮らせてもらえる。
帰りにジュースか缶ビールなど求めれば良い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/3f/8adfc9f057970258d0c901d2eb51bff6.jpg)
(昔の高崎屋の看板)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/3b/25ab25490bb24b692496871ea86d2776.jpg)
(江戸時代に使用したと思われる徳利)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/4c/259183d0c37051b69a9b43596c07b9f8.jpg)
(江戸時代の高崎屋を描いた浮世絵)
その高崎屋の前に、昔は中山道最初の一里塚があったという。
「一里塚は、江戸時代街道筋に一里(約4K)ごとに
造られた塚である。荷駄の運賃の目安、道程の目印、
休息場所として、旅人に多くの便宜を与えた。
榎が植えられていたが、度々の災害と道路拡張によって、
昔の面影をとどめるものは無い。
分かれ道に在るので、追分一里塚とも呼ばれていた。
信長時代から一里塚はあったが、全国的に一里塚を設定したのは、
家康である。」(文京区教育委員会)
また、この辺りは、昭和40年頃までは森川町といった。
「江戸時代は森川宿と称し、明治5年には高崎藩主
本多氏の屋敷地と、先手組屋敷と併せて森川宿から
森川町と名づけた。当時は馬建場で人馬の休息場所であった。
先手組頭は森川金右衛門で、中山道の警備に当たったという。
町内には、徳田秋声などの文人が多く住んだ。」(文京区)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/48/d81c1e6ed2c5fe462405266bf3d2679f.jpg)
(森川町の案内)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/d0/3c5a954099e5b85f9d6a624a2221c182.jpg)
(有名な東大赤門)
街道に戻り、正面の東大赤門をくぐってみよう。
赤門は文政10年(1827年)加賀藩主 前田齋泰(なりやす)に
嫁いだ十一代将軍徳川 家斉の息女溶姫(ようひめ)のために
建てられた御守殿門である。 と案内看板がある。
赤門をくぐると守衛所があるが、気にしないで奥へ進もう。
突き当たりの建物の左横にうっそうとした林が見られる。
その林の方へ下りていくと、夏目漱石の小説「三四郎」で
有名な「三四郎池」にでる。
なかなか見晴らしの良いところで、四季折々に、
季節の風景を描く画家や、写真を撮ろうと、
三脚を立てて光線の加減を待っている人に出会うこともある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/13/c61f1d87e73f51ccd201734fa8fd6514.jpg)
(三四郎池1)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/96/a53af01e2a20ea0b22aa21741f7c8024.jpg)
(三四郎池2)
ここで一服したら、また街道へ戻り、歩を進める。東大正門前で
道路は二手に分かれる。いわゆる本郷追分である。
追分とは、街道と街道の分かれ道である。
直進すれば、将軍が日光東照宮に参拝する日光御成道
いわゆる(岩槻街道)で、左折すれば旧中山道に分かれる本郷追分。
本郷追分の二股の間には、江戸時代から続く老舗の高崎屋酒店がある。
高崎屋酒店は、両替商を兼ね「現金安売り」で繁盛していた。
(文京区教育委員会)
言ってみれば、昔のコンビニエンス・ストアだったのであろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/6d/41ccc55de26991f231313b41e0e51c88.jpg)
(高崎屋酒店)
日曜・祝日でなければ、酒店は営業しているので中に入ってみよう。
江戸時代の高崎屋を描いた浮世絵や昔の酒屋の立派な看板、
往時に使った徳利などを見ることが出来るし、
写真も撮らせてもらえる。
帰りにジュースか缶ビールなど求めれば良い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/3f/8adfc9f057970258d0c901d2eb51bff6.jpg)
(昔の高崎屋の看板)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/3b/25ab25490bb24b692496871ea86d2776.jpg)
(江戸時代に使用したと思われる徳利)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/4c/259183d0c37051b69a9b43596c07b9f8.jpg)
(江戸時代の高崎屋を描いた浮世絵)
その高崎屋の前に、昔は中山道最初の一里塚があったという。
「一里塚は、江戸時代街道筋に一里(約4K)ごとに
造られた塚である。荷駄の運賃の目安、道程の目印、
休息場所として、旅人に多くの便宜を与えた。
榎が植えられていたが、度々の災害と道路拡張によって、
昔の面影をとどめるものは無い。
分かれ道に在るので、追分一里塚とも呼ばれていた。
信長時代から一里塚はあったが、全国的に一里塚を設定したのは、
家康である。」(文京区教育委員会)
また、この辺りは、昭和40年頃までは森川町といった。
「江戸時代は森川宿と称し、明治5年には高崎藩主
本多氏の屋敷地と、先手組屋敷と併せて森川宿から
森川町と名づけた。当時は馬建場で人馬の休息場所であった。
先手組頭は森川金右衛門で、中山道の警備に当たったという。
町内には、徳田秋声などの文人が多く住んだ。」(文京区)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/48/d81c1e6ed2c5fe462405266bf3d2679f.jpg)
(森川町の案内)
そうしないとやっぱりやっていけないのかなあ~。寂しい気がします。