中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

乙姫様と日本橋魚市場発祥の地(旧日光・奥州道中を歩く 3)

2013年04月20日 10時52分07秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(乙姫像と日本橋魚市場発祥の地の碑)
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(日本橋 2)
日本橋を渡ると、
東側の橋の袂に、「日本橋魚市場発祥の地」の石碑と乙姫(?)像が安置されている。
この乙姫像の並びの川岸に、江戸時代には沢山の舟が寄り集まり、
新鮮な魚を卸してていた。
今は築地に移ってしまったが、この頃は魚河岸があったところである。
(昔はこの川岸に舟が集まり魚を卸した)
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(昔の魚市場の写真)
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日本橋の上には高速道路が伸びており、
高速道路を支えるコンクリートの柱には、いろはカルタが描かれていて、
「いつの世も 道の基点は 日本橋」とあり、
ここ日本橋が道路の基点であることを示している。

高速道路の別の橋脚には、
「双六は 日本橋から 京上がり」とあり、
日本橋はスタート地点で、双六では京都が上がりで終点だといっている。
いろはカルタとは言え、上手く表現している。
(いろはカルタ1)
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(いろはカルタ2)
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以前にも触れたが、五街道の基点は日本橋ではあるが、
旅立つ人は、わざわざ日本橋まで来て、そこからスタートした訳ではない。
田町(日本橋と品川の間にある)からスタートして、
東海道を京に向って歩く人は、
東海道第一の宿場町、品川宿が起点になるはずである。
わざわざ日本橋まで戻って、
♪お江戸日本橋 七つ立ち・・・♪なんて、
朝四時までに日本橋まで戻って出発するような無駄な事はしない。

品川宿で親族が集まり、お見送りをしたであろうことは容易に考えられる。
だから、各街道の第一番の宿場町は拓けており、
旅籠や宿場女郎なども沢山いたであろうと想像に難くない。
中山道の板橋宿、甲州道中の内藤新宿、日光・奥州道中の千住宿、
いずれも旅行のスタート地点として、賑わいを見せたであろうことは、
お分かりいただける。

そもそも昔は今と違って、
旅に出るということは殆んど無かった。
せいぜい隣村からお嫁入りしたとか、
大山詣で、伊勢詣で、森の石松ではないが金毘羅代参、
あるいは、お殿様のお国替えで、行列のお供をしたとか、
そんなことでもない限り、一生を同じ村で過ごした時代である。
何かの用事で、上方まで旅をするとなると、
歩いての旅になり、わが村から先の道はどうなっているのかさえ、
分からない時代であった。

だから旅に出るということは、
あるいは生きて帰ることが出来ないかもしれない、
というほどのものであったように思われる。
江戸から庶民の楽しみの一つ“大山参り”なども、
落語にあるように、出かける前には餞別を渡し、
前途を祈ったということは充分考えられる。

だから第一番の宿場町で、出発前夜ドンちゃん騒ぎをしたに相違ない。
翌朝、4時頃、手甲脚絆(てっこうきゃはん)に三度笠で草鞋を履いて、
凛々しく出立して行ったに違いない。
(乙姫像)
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