(乙姫像と日本橋魚市場発祥の地の碑)
![0005 0005](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/ad/5bacd41cddfd1f0b5ec26f173185bc78.jpg)
(日本橋 2)
日本橋を渡ると、
東側の橋の袂に、「日本橋魚市場発祥の地」の石碑と乙姫(?)像が安置されている。
この乙姫像の並びの川岸に、江戸時代には沢山の舟が寄り集まり、
新鮮な魚を卸してていた。
今は築地に移ってしまったが、この頃は魚河岸があったところである。
(昔はこの川岸に舟が集まり魚を卸した)
![0003 0003](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/11/7774951627f50829f33555f125b8ddf2.jpg)
(昔の魚市場の写真)
![0007 0007](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/8c/f5a865211e0b95cf808f7c85239cc3a6.jpg)
日本橋の上には高速道路が伸びており、
高速道路を支えるコンクリートの柱には、いろはカルタが描かれていて、
「いつの世も 道の基点は 日本橋」とあり、
ここ日本橋が道路の基点であることを示している。
高速道路の別の橋脚には、
「双六は 日本橋から 京上がり」とあり、
日本橋はスタート地点で、双六では京都が上がりで終点だといっている。
いろはカルタとは言え、上手く表現している。
(いろはカルタ1)
![0004 0004](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/98/dcc7548edaf33bb951cd984cb4dee62c.jpg)
(いろはカルタ2)
![0005_2 0005_2](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/a4/33b93337da9d80113c82b80eaf1e4bbe.jpg)
以前にも触れたが、五街道の基点は日本橋ではあるが、
旅立つ人は、わざわざ日本橋まで来て、そこからスタートした訳ではない。
田町(日本橋と品川の間にある)からスタートして、
東海道を京に向って歩く人は、
東海道第一の宿場町、品川宿が起点になるはずである。
わざわざ日本橋まで戻って、
♪お江戸日本橋 七つ立ち・・・♪なんて、
朝四時までに日本橋まで戻って出発するような無駄な事はしない。
品川宿で親族が集まり、お見送りをしたであろうことは容易に考えられる。
だから、各街道の第一番の宿場町は拓けており、
旅籠や宿場女郎なども沢山いたであろうと想像に難くない。
中山道の板橋宿、甲州道中の内藤新宿、日光・奥州道中の千住宿、
いずれも旅行のスタート地点として、賑わいを見せたであろうことは、
お分かりいただける。
そもそも昔は今と違って、
旅に出るということは殆んど無かった。
せいぜい隣村からお嫁入りしたとか、
大山詣で、伊勢詣で、森の石松ではないが金毘羅代参、
あるいは、お殿様のお国替えで、行列のお供をしたとか、
そんなことでもない限り、一生を同じ村で過ごした時代である。
何かの用事で、上方まで旅をするとなると、
歩いての旅になり、わが村から先の道はどうなっているのかさえ、
分からない時代であった。
だから旅に出るということは、
あるいは生きて帰ることが出来ないかもしれない、
というほどのものであったように思われる。
江戸から庶民の楽しみの一つ“大山参り”なども、
落語にあるように、出かける前には餞別を渡し、
前途を祈ったということは充分考えられる。
だから第一番の宿場町で、出発前夜ドンちゃん騒ぎをしたに相違ない。
翌朝、4時頃、手甲脚絆(てっこうきゃはん)に三度笠で草鞋を履いて、
凛々しく出立して行ったに違いない。
(乙姫像)
![0006 0006](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/c6/0c5d200423a80ec7977aabe545576d99.jpg)
![0005 0005](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/ad/5bacd41cddfd1f0b5ec26f173185bc78.jpg)
(日本橋 2)
日本橋を渡ると、
東側の橋の袂に、「日本橋魚市場発祥の地」の石碑と乙姫(?)像が安置されている。
この乙姫像の並びの川岸に、江戸時代には沢山の舟が寄り集まり、
新鮮な魚を卸してていた。
今は築地に移ってしまったが、この頃は魚河岸があったところである。
(昔はこの川岸に舟が集まり魚を卸した)
![0003 0003](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/11/7774951627f50829f33555f125b8ddf2.jpg)
(昔の魚市場の写真)
![0007 0007](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/8c/f5a865211e0b95cf808f7c85239cc3a6.jpg)
日本橋の上には高速道路が伸びており、
高速道路を支えるコンクリートの柱には、いろはカルタが描かれていて、
「いつの世も 道の基点は 日本橋」とあり、
ここ日本橋が道路の基点であることを示している。
高速道路の別の橋脚には、
「双六は 日本橋から 京上がり」とあり、
日本橋はスタート地点で、双六では京都が上がりで終点だといっている。
いろはカルタとは言え、上手く表現している。
(いろはカルタ1)
![0004 0004](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/98/dcc7548edaf33bb951cd984cb4dee62c.jpg)
(いろはカルタ2)
![0005_2 0005_2](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/a4/33b93337da9d80113c82b80eaf1e4bbe.jpg)
以前にも触れたが、五街道の基点は日本橋ではあるが、
旅立つ人は、わざわざ日本橋まで来て、そこからスタートした訳ではない。
田町(日本橋と品川の間にある)からスタートして、
東海道を京に向って歩く人は、
東海道第一の宿場町、品川宿が起点になるはずである。
わざわざ日本橋まで戻って、
♪お江戸日本橋 七つ立ち・・・♪なんて、
朝四時までに日本橋まで戻って出発するような無駄な事はしない。
品川宿で親族が集まり、お見送りをしたであろうことは容易に考えられる。
だから、各街道の第一番の宿場町は拓けており、
旅籠や宿場女郎なども沢山いたであろうと想像に難くない。
中山道の板橋宿、甲州道中の内藤新宿、日光・奥州道中の千住宿、
いずれも旅行のスタート地点として、賑わいを見せたであろうことは、
お分かりいただける。
そもそも昔は今と違って、
旅に出るということは殆んど無かった。
せいぜい隣村からお嫁入りしたとか、
大山詣で、伊勢詣で、森の石松ではないが金毘羅代参、
あるいは、お殿様のお国替えで、行列のお供をしたとか、
そんなことでもない限り、一生を同じ村で過ごした時代である。
何かの用事で、上方まで旅をするとなると、
歩いての旅になり、わが村から先の道はどうなっているのかさえ、
分からない時代であった。
だから旅に出るということは、
あるいは生きて帰ることが出来ないかもしれない、
というほどのものであったように思われる。
江戸から庶民の楽しみの一つ“大山参り”なども、
落語にあるように、出かける前には餞別を渡し、
前途を祈ったということは充分考えられる。
だから第一番の宿場町で、出発前夜ドンちゃん騒ぎをしたに相違ない。
翌朝、4時頃、手甲脚絆(てっこうきゃはん)に三度笠で草鞋を履いて、
凛々しく出立して行ったに違いない。
(乙姫像)
![0006 0006](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/c6/0c5d200423a80ec7977aabe545576d99.jpg)