森の中のティータイム

離婚を経験し子供達も独立 
暮らしの小さな発見をノートに。

「変な人ホイホイ」

2019-08-15 | 思い・つれづれ
先日放送の「かくて“自由”は死せり ある新聞と戦争への道」を観た。

(以下、番組紹介文から抜粋)

なぜ日本人は、戦争への道を歩むことを選択したのか。これまで"空白"だった道程を浮かび上がらせる第一級の史料を入手した。治安維持法制定時の司法大臣・小川平吉が創刊した戦前最大の右派メディア「日本新聞」である。1925~35年に発行された約3千日分が今回発見された。発刊当時、言論界は大正デモクラシーの全盛期。マイナーな存在だった"国家主義者"は、「日本新聞」を舞台に「デモクラシー=自由主義」への攻撃を開始する。同志の名簿には、後に総理大臣となる近衛文麿、右翼の源流と言われる頭山満などの実力者が名を連ねていた。国内に共産主義の思想が広まることを恐れた人たちが、日本新聞を支持したのである。さらに取材を重ねると、日本新聞は地方の読者に直接働きかける運動を展開していたことも明らかになってきた。そして、ロンドン海軍軍縮条約、天皇機関説排撃など、日本新聞が重視した事件がことごとく、社会から自由を失わせ軍の台頭を招く契機となっていく。知られざる日本新聞10年の活動をたどり、昭和の"裏面史"を浮かび上がらせる。
新聞が発行されていた11年間は、日本が「大正デモクラシー」から急速に「軍国主義」に傾斜していった時代だった。なぜ日本人は、一度は手にしていたはずの「自由」を手放し、「戦争への道」を進んだのか。「日本新聞」を手がかりに、見つめていく。


「日本新聞」という強力な右派新聞が、僅かな年月の間に人々を一気に戦争へと誘導した経緯は、
現代の若い人たちが現政権のトップに迎合しているこの傾向と、何だかとても似ているなぁ・・
と、私は少しうすら寒く感じた。

さて、今日二女と電話で話していて、どうも我が家の人間は「変な人」に気に入られたり、引き
寄せたりする傾向があると言う話題になり、「それって変な人ホイホイやん」と笑ったのだが、
ネットで調べてみるとあったあった!「変人ホイホイ」と言う言葉を使っている人が@@;
もしかして結構自分も変わり者だったりするのかもしれない。類は友を呼ぶってヤツ?(笑)

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