7月31日、読売新聞の西部本社(福岡市)版の記事についてブログを書いたとこ「(健)さん」から興味深いコメントが寄せられましたので、以下引用させていただきました。
「『富岡史』に記載されている工女郷貫調査によれば、明治初年の九州からの工女の在籍者数は明治14年1月現在大分が25長崎が4、15年大分25長崎4、16年大分76長崎2、17年大分44長崎2となっており、九州から来た工女は此の2県のみです。
この内大分県から工女が多く来た理由の一つと思われる考察が、2005年1月13日付上毛新聞の「視点」オピニオン21に今井幹夫先生が「世界遺産登録に向けて」と題した文の中に書かれています。その中には、『彼女たちの富岡行きには福沢諭吉の助言が有った。』や『富岡への途中、彼女たちは11月18日に東京三田の福沢諭吉の家で一泊している。』など興味深い事が書かれています。
又、2004年12月3日付の同じ「視点」には、今井先生の「富岡製糸場と福沢諭吉」と題した文が載っており、『官営製糸場が渋沢栄一の影響下にあった尾高惇忠らの埼玉県勢が主導したのに対し、三井時代は福沢門下生の大分県勢が主導したという興味ある図式が、ここに描けるのである。』と記しております。」
富岡製糸場の官営時代から三井時代にかけての考察の一端が垣間見られるお話と思います。有難うございました。
「『富岡史』に記載されている工女郷貫調査によれば、明治初年の九州からの工女の在籍者数は明治14年1月現在大分が25長崎が4、15年大分25長崎4、16年大分76長崎2、17年大分44長崎2となっており、九州から来た工女は此の2県のみです。
この内大分県から工女が多く来た理由の一つと思われる考察が、2005年1月13日付上毛新聞の「視点」オピニオン21に今井幹夫先生が「世界遺産登録に向けて」と題した文の中に書かれています。その中には、『彼女たちの富岡行きには福沢諭吉の助言が有った。』や『富岡への途中、彼女たちは11月18日に東京三田の福沢諭吉の家で一泊している。』など興味深い事が書かれています。
又、2004年12月3日付の同じ「視点」には、今井先生の「富岡製糸場と福沢諭吉」と題した文が載っており、『官営製糸場が渋沢栄一の影響下にあった尾高惇忠らの埼玉県勢が主導したのに対し、三井時代は福沢門下生の大分県勢が主導したという興味ある図式が、ここに描けるのである。』と記しております。」
富岡製糸場の官営時代から三井時代にかけての考察の一端が垣間見られるお話と思います。有難うございました。
最近見つけた速水堅曹自叙伝にこの工女たちに関するエピソードが載っていました。明治21年3月富岡製糸所所長であった堅曹が大分県出張に行ったとき、小野惟一郎の製糸所で富岡で伝習中に亡くなった工女たちの招魂祭が盛大に行われた。拝礼後に開かれた宴会では120~30人の列席者はみな落涙し、小野の誠意誠心を感じたとあります。
また堅曹は明治12年12月に福沢諭吉と初めて会い製糸業について大いに同意し、中津藩の製糸業の今後の指導を依頼された、ということも自叙伝に書かれています。そのような経緯で中津藩(大分県)の工女たち25人が明治13年富岡に伝習にきたとおもわれます。
招魂祭の記述を読んだときには富岡から帰った工女たちが当時大切に扱われていたのを感じ胸が熱くなりました。