先に紹介いたしました、フランスの文書館の資料のいくつかの日本語訳です。
1、 フランス共和国
外務省
1852年3月16日付デクレ第11条が必要としている義務を果たす時間の無い候補者、または普段フランスに駐在して商業や工業など何らかの職業を営む外国人を、レジオン・ドヌールのシュバリエにノミネートするためのデクレ(政令)案のための証拠資料
姓 ブリュナ
名 フランソワ・ポール
出生地と出生日 ブール・ド・ペアージュ(ドローム県)1840年6月30日
居住地 上海
国籍 フランス
社会的地位 卸売商人
上海(フランス)租界市議会議長
大学の学位 バカロレア合格(大学入試資格者)理科系
その他の職、公職等 1896年から1900年まで、日本、中国、トンキンにおけるリオン絹の取引に従事
1881年、18882年、1892年、1900年に会長
1884年トンキンにおいてフランス商工会議所の派遣団
2、 フランス共和国
ドローム県ブール・ド・ペアージュ市役所
1840年出生証明書抄本
ブリュナ・フランソワ・ポールは、1840年6月30日ドローム県ヴァロンス郡ブール・ド・ペアージュにおいて、ブリュナ・フランソワ・ユリスとCeisserire(?)・マリー・ジャンヌ・Wigirrie(?)の息子として生まれた。
この証明書は、1840年6月1日第49号の戸籍簿に基づいて記載された。
これは、戸籍登録簿原本に相違ないことを証明する。行政機関のため、任意の様式にて、無償で交付されたものである。
1908年5月13日 ブール・ド・ペアージュ市長
3、 レジオン・ドヌール
登録番号 62029
登録証明書番号 (空欄)
姓 ブリュナ
名 フランソワ・ポール
身分または職階 上海(フランス)租界市議会議長
生年月日 1840年6月30日 於ドローム県ブー・ド・ペアージュ
上記の者は、外務省からの報告に基づく1900年(?)月14日のデクレ(政令)により、(m.jour?)の一員となるためレジオン・ドヌールのシュバリエに任命された。
勲章の開始日 (空欄)
証明の開始日 (空欄)
登録証明書の開始日 (空欄)
死去の日 1908年5月7日・ 1908年5月
4、中国上海の資料によると
ブリュナの中国上海での通称は”寶昌”と呼ばれていたと記されています。
写真はブリュナが亡くなった時の地番の現在の家です。たぶんその当時のものでしょう。
1、 フランス共和国
外務省
1852年3月16日付デクレ第11条が必要としている義務を果たす時間の無い候補者、または普段フランスに駐在して商業や工業など何らかの職業を営む外国人を、レジオン・ドヌールのシュバリエにノミネートするためのデクレ(政令)案のための証拠資料
姓 ブリュナ
名 フランソワ・ポール
出生地と出生日 ブール・ド・ペアージュ(ドローム県)1840年6月30日
居住地 上海
国籍 フランス
社会的地位 卸売商人
上海(フランス)租界市議会議長
大学の学位 バカロレア合格(大学入試資格者)理科系
その他の職、公職等 1896年から1900年まで、日本、中国、トンキンにおけるリオン絹の取引に従事
1881年、18882年、1892年、1900年に会長
1884年トンキンにおいてフランス商工会議所の派遣団
2、 フランス共和国
ドローム県ブール・ド・ペアージュ市役所
1840年出生証明書抄本
ブリュナ・フランソワ・ポールは、1840年6月30日ドローム県ヴァロンス郡ブール・ド・ペアージュにおいて、ブリュナ・フランソワ・ユリスとCeisserire(?)・マリー・ジャンヌ・Wigirrie(?)の息子として生まれた。
この証明書は、1840年6月1日第49号の戸籍簿に基づいて記載された。
これは、戸籍登録簿原本に相違ないことを証明する。行政機関のため、任意の様式にて、無償で交付されたものである。
1908年5月13日 ブール・ド・ペアージュ市長
3、 レジオン・ドヌール
登録番号 62029
登録証明書番号 (空欄)
姓 ブリュナ
名 フランソワ・ポール
身分または職階 上海(フランス)租界市議会議長
生年月日 1840年6月30日 於ドローム県ブー・ド・ペアージュ
上記の者は、外務省からの報告に基づく1900年(?)月14日のデクレ(政令)により、(m.jour?)の一員となるためレジオン・ドヌールのシュバリエに任命された。
勲章の開始日 (空欄)
証明の開始日 (空欄)
登録証明書の開始日 (空欄)
死去の日 1908年5月7日・ 1908年5月
4、中国上海の資料によると
ブリュナの中国上海での通称は”寶昌”と呼ばれていたと記されています。
写真はブリュナが亡くなった時の地番の現在の家です。たぶんその当時のものでしょう。