家族の為に働く?
2013/06/29
昨日、「国の為に戦いますか?」と言う調査統計を見ました。
言葉の遊びのようですけれど、「家族の為に働く」と検索して見ますと、「恩着せがましい」とか、「自分の目的の為に働け」とか、家族の為に生計を得ることを否定する意見ばかりでした。
仕事のあるなし、正社員でない事、収入不足とかの原因とする自殺は多いです。仕事のないことは、自分の存在価値がないと解釈もされるのです。
仕事は、自分が生きることを目的した、生活費を稼ぐ手段と考え、目的と手段の関係で説明するページがありました。
1つめに、目的と手段が一体化するという形。手段という行為がそのまま目的化するもので、これを「自己目的的」と呼びます。例えば、芸術家の創作がそうです。画家は絵を描くために、絵を描きます。美の創造はそれ自体目的であり、手段ともなるのです。岡本太郎はこう言っています。
■「芸術というのは認められるとか、売れるとか、そんなことはどうでもいいんだよ。無条件で、自分ひとりで、宇宙にひらけばいいんだ」──岡本太郎『壁を破る言葉』
次に、目的がなく(またはその意識がなく)、ただその行為に没頭する形です。これは、ポジティブな「無目的的」行為で、例えば、子どもの遊びが当てはまるでしょう。『エクセレント・カンパニー』の著者であるトム・ピーターズは、砂で遊ぶ子どもの様子をこう書いています。私たちも子どもの遊びのように、一心不乱に仕事に没頭できたら幸せですね。
■「遊びはいい加減にやるものではない。真剣にやるものだ。ウソだと思うなら海辺で砂のお城を作っている子供を見てみるといい。まさに一心不乱、無我夢中…。作り、壊し、また作り、また壊し……。何度でも作り直し、何度でも修正する。ほかの物は目に入らない。ぼんやりよそ見をしていれば、お城は波にさらわれてしまう。失敗は気にしない。計画はいくら壊してもいい。壊していけないのは夢だけだ」──トム・ピーターズ『セクシープロジェクトで差をつけろ!』
そして3番目は、目的がなく(またはその意識がなく)、ただその行為に漂流する形です。これはネガティブな「無目的的」行為であり、例えば、絶望者の行動が当てはまるでしょう。社会学者のクルト・レヴィンは、絶望者の行動を次のように表現しています。
■「人は希望を放棄したとき初めて「積極的に手を伸ばす」ことを止める。かれはエネルギーを喪失し、計画することを止め、遂には、よりよき未来を望むことすら止めてしまう。そうなったとき初めて、かれはプリミティヴな受身の生活に閉じこもる」──クルト・レヴィン『社会的葛藤の解決』(村山昇)
私達、戦後派は、自分のしたい職業を決め、それを学ぶため学科を選び勉強し、企業に就職しました。目的と手段は一体化した芸術家的生活だったなぁと思えます。戦後復興の目的のはっきりした幸せな時代に生きたのです。
無目的の子供の遊びのような雰囲気もありました。
家族の為に働くと言う考えは、やはりありませんでした。仕事第一で、「家族が大切か?仕事が大切か?」と訊かれると皆仕事優先でした。
私(渡邉)は土建屋の現場監督で、工事の円滑な遂行に生き甲斐を感じていましたが、一緒に仕事している土方の下請け人夫さんも、大工さん・鉄筋屋さん・左官さんも、工事の完成を目標として、それを生き甲斐とするように熱心に協力してくれていました。皆、仕事が目標でした。
私のして来た仕事は、土建屋の次は水栓金具の加工工場ですから、どちらも製造業で造るものがはっきりし、出来の良し悪しのハッキリ見えるものでした。
最近の新しい仕事では、コンピューター・ソフトなど根を詰めて夜通ししたり、通販流通など、伝票に追われてするなど、ロボットの変わりのような仕事も多く、やりたいでする仕事ではない仕事も多いようです。
自動車の組み立て工場に見学に行くと、人間が機械に使われているロボットに見えます。あれは、自分の意志など持っては出来ない仕事に見えます。
そして、高い給料が貰えることだけが仕事の動機に感じます。
製造コストを下げるため、製造業は、中国その他へ移転します。中国で出来ると同じ単価で、日本で加工組立することは、不可能で、工場は海外移転、日本に残る仕事は、介護・通販・スーパー・コンビニ・外食産業などで、能力の劣る人間は人材派遣を通じ低賃金で働くしか職場は無い時代になったようです。
生計のため、嫌な仕事でも、家族の為と心を決めて、しなければならないと感じるのですが、「家族のために働く」と検索して見て下さい、それを嫌がるのは、日教組教育の結果でしょうか?
生活保護して貰うより、嫌な仕事でも働いて稼ぐのが、日本人と思いますが。
2013/06/29
昨日、「国の為に戦いますか?」と言う調査統計を見ました。
言葉の遊びのようですけれど、「家族の為に働く」と検索して見ますと、「恩着せがましい」とか、「自分の目的の為に働け」とか、家族の為に生計を得ることを否定する意見ばかりでした。
仕事のあるなし、正社員でない事、収入不足とかの原因とする自殺は多いです。仕事のないことは、自分の存在価値がないと解釈もされるのです。
仕事は、自分が生きることを目的した、生活費を稼ぐ手段と考え、目的と手段の関係で説明するページがありました。
1つめに、目的と手段が一体化するという形。手段という行為がそのまま目的化するもので、これを「自己目的的」と呼びます。例えば、芸術家の創作がそうです。画家は絵を描くために、絵を描きます。美の創造はそれ自体目的であり、手段ともなるのです。岡本太郎はこう言っています。
■「芸術というのは認められるとか、売れるとか、そんなことはどうでもいいんだよ。無条件で、自分ひとりで、宇宙にひらけばいいんだ」──岡本太郎『壁を破る言葉』
次に、目的がなく(またはその意識がなく)、ただその行為に没頭する形です。これは、ポジティブな「無目的的」行為で、例えば、子どもの遊びが当てはまるでしょう。『エクセレント・カンパニー』の著者であるトム・ピーターズは、砂で遊ぶ子どもの様子をこう書いています。私たちも子どもの遊びのように、一心不乱に仕事に没頭できたら幸せですね。
■「遊びはいい加減にやるものではない。真剣にやるものだ。ウソだと思うなら海辺で砂のお城を作っている子供を見てみるといい。まさに一心不乱、無我夢中…。作り、壊し、また作り、また壊し……。何度でも作り直し、何度でも修正する。ほかの物は目に入らない。ぼんやりよそ見をしていれば、お城は波にさらわれてしまう。失敗は気にしない。計画はいくら壊してもいい。壊していけないのは夢だけだ」──トム・ピーターズ『セクシープロジェクトで差をつけろ!』
そして3番目は、目的がなく(またはその意識がなく)、ただその行為に漂流する形です。これはネガティブな「無目的的」行為であり、例えば、絶望者の行動が当てはまるでしょう。社会学者のクルト・レヴィンは、絶望者の行動を次のように表現しています。
■「人は希望を放棄したとき初めて「積極的に手を伸ばす」ことを止める。かれはエネルギーを喪失し、計画することを止め、遂には、よりよき未来を望むことすら止めてしまう。そうなったとき初めて、かれはプリミティヴな受身の生活に閉じこもる」──クルト・レヴィン『社会的葛藤の解決』(村山昇)
私達、戦後派は、自分のしたい職業を決め、それを学ぶため学科を選び勉強し、企業に就職しました。目的と手段は一体化した芸術家的生活だったなぁと思えます。戦後復興の目的のはっきりした幸せな時代に生きたのです。
無目的の子供の遊びのような雰囲気もありました。
家族の為に働くと言う考えは、やはりありませんでした。仕事第一で、「家族が大切か?仕事が大切か?」と訊かれると皆仕事優先でした。
私(渡邉)は土建屋の現場監督で、工事の円滑な遂行に生き甲斐を感じていましたが、一緒に仕事している土方の下請け人夫さんも、大工さん・鉄筋屋さん・左官さんも、工事の完成を目標として、それを生き甲斐とするように熱心に協力してくれていました。皆、仕事が目標でした。
私のして来た仕事は、土建屋の次は水栓金具の加工工場ですから、どちらも製造業で造るものがはっきりし、出来の良し悪しのハッキリ見えるものでした。
最近の新しい仕事では、コンピューター・ソフトなど根を詰めて夜通ししたり、通販流通など、伝票に追われてするなど、ロボットの変わりのような仕事も多く、やりたいでする仕事ではない仕事も多いようです。
自動車の組み立て工場に見学に行くと、人間が機械に使われているロボットに見えます。あれは、自分の意志など持っては出来ない仕事に見えます。
そして、高い給料が貰えることだけが仕事の動機に感じます。
製造コストを下げるため、製造業は、中国その他へ移転します。中国で出来ると同じ単価で、日本で加工組立することは、不可能で、工場は海外移転、日本に残る仕事は、介護・通販・スーパー・コンビニ・外食産業などで、能力の劣る人間は人材派遣を通じ低賃金で働くしか職場は無い時代になったようです。
生計のため、嫌な仕事でも、家族の為と心を決めて、しなければならないと感じるのですが、「家族のために働く」と検索して見て下さい、それを嫌がるのは、日教組教育の結果でしょうか?
生活保護して貰うより、嫌な仕事でも働いて稼ぐのが、日本人と思いますが。