♪ そうさ 男は 生意気ぐらいが 丁度いい ♪ とカラオケで熱唱したものです。・・・生意気とはどんなことでしょう?
生意気=年令・経歴・能力にふさわしくないようなことを得意げに言ったり したりすること。またそのさまや人(大辞林)
生意気=①目上も相手もかまわずに、知識や意見を振り回すさま
②若い者が気負って言ったりしたりするさま。 Selfconseit
(日本語大辞典)
Selfconseit=自負心 うぬぼれ 虚栄心
年を取っても、生意気の対象から外されず、私は誹られ罵倒されています。不徳のいたすところと思いながらも、「生意気とは何だ?」と考えています。
山本七平さんの「日本人とアメリカ人」が復刻されました。その中で生意
気についての面白い文章を見つけました。
日本でもアメリカでも 小学生がある一人を「やっつけちまえ」ということがあるでしょう。 日本では「生意気だやっつけろ」ですが、アメリカでは「フェアでないから」となるのです。
この場合「生意気」も「フェアでない」もともに自己の暴力を正当化するための名目にすぎない。 ただ面白いのは、正当化の一方の名目が「生意気」でもう一方が「フェアでない」という事実である。
このことは そう判定されれば もうどうにもならないから「生意気と言われまい」また「フェアでないと言われまい」と子供のときから自己規制し、それが大人の世まで通じていることを意味する。
「真珠湾攻撃はフェアでない」となるとアメリカというクラス全員が「やっちまえ」で原爆まで突っ走る。
彼らの使う「フェア」の意味は公正・淡白・率直 等のほかにさまざまのニュアンスがあって非常に複雑だが一応定義出来る。 だが「生意気」となると実に定義しにくい。
「長幼序あり」の規範であろうと言われることもあるが、考えてみると いわゆる「低姿勢」や「お願いします」に代表される日本にいくらでもある「生意気と言われまいとの自己規制」はフェアとは異質の規制だが それを踏み外すと「やっちまえ」的一斉非難になる点は似ている。
「生意気排除」が序列的平均化の世界の原則なら「フェア」は競争社会の原則であろう。
30年前に書かれた本ですが、2005年の「グローバル・スタンダード」と「ジャパニーズ・スタンダード」の相容れない根本の心情の解説と言えるし、「ホリエモン叩き」の心理的説明とも思えます。
戦後 スーザン・ベネディクトさんが「菊と刀」で日本は恥の文化ときめつけ、自虐的日本人はそれを認めて恥ずかしい思いをしてきました。
この本を読んで「恥の文化」じゃあない 「生意気排除文化」だ 「長老文化」だと表現した方がいい と提案したくなりました。
私たち66才は「爺さんは偉い」「年長者の言う事はだまって聴こう」「父親は全権力がある」などと身に染み付いていますが、「長老文化」の時代に育ったせいだ と考えるとぴったり来る気がします。
この長老文化を崩しているのが団塊の世代であり、テレビ・マスコミだ。そして次の世代はフェアの世代だ。グロ-バル・スタンダードなどと呼ぶ日本スタンダードに対立するような言い方を止めて、単にフェアな方式を意味する名前を付けましょう。郵政フェア化・フェア取引(公正取引)などフェアをはやらせたいですね。
生意気=年令・経歴・能力にふさわしくないようなことを得意げに言ったり したりすること。またそのさまや人(大辞林)
生意気=①目上も相手もかまわずに、知識や意見を振り回すさま
②若い者が気負って言ったりしたりするさま。 Selfconseit
(日本語大辞典)
Selfconseit=自負心 うぬぼれ 虚栄心
年を取っても、生意気の対象から外されず、私は誹られ罵倒されています。不徳のいたすところと思いながらも、「生意気とは何だ?」と考えています。
山本七平さんの「日本人とアメリカ人」が復刻されました。その中で生意
気についての面白い文章を見つけました。
日本でもアメリカでも 小学生がある一人を「やっつけちまえ」ということがあるでしょう。 日本では「生意気だやっつけろ」ですが、アメリカでは「フェアでないから」となるのです。
この場合「生意気」も「フェアでない」もともに自己の暴力を正当化するための名目にすぎない。 ただ面白いのは、正当化の一方の名目が「生意気」でもう一方が「フェアでない」という事実である。
このことは そう判定されれば もうどうにもならないから「生意気と言われまい」また「フェアでないと言われまい」と子供のときから自己規制し、それが大人の世まで通じていることを意味する。
「真珠湾攻撃はフェアでない」となるとアメリカというクラス全員が「やっちまえ」で原爆まで突っ走る。
彼らの使う「フェア」の意味は公正・淡白・率直 等のほかにさまざまのニュアンスがあって非常に複雑だが一応定義出来る。 だが「生意気」となると実に定義しにくい。
「長幼序あり」の規範であろうと言われることもあるが、考えてみると いわゆる「低姿勢」や「お願いします」に代表される日本にいくらでもある「生意気と言われまいとの自己規制」はフェアとは異質の規制だが それを踏み外すと「やっちまえ」的一斉非難になる点は似ている。
「生意気排除」が序列的平均化の世界の原則なら「フェア」は競争社会の原則であろう。
30年前に書かれた本ですが、2005年の「グローバル・スタンダード」と「ジャパニーズ・スタンダード」の相容れない根本の心情の解説と言えるし、「ホリエモン叩き」の心理的説明とも思えます。
戦後 スーザン・ベネディクトさんが「菊と刀」で日本は恥の文化ときめつけ、自虐的日本人はそれを認めて恥ずかしい思いをしてきました。
この本を読んで「恥の文化」じゃあない 「生意気排除文化」だ 「長老文化」だと表現した方がいい と提案したくなりました。
私たち66才は「爺さんは偉い」「年長者の言う事はだまって聴こう」「父親は全権力がある」などと身に染み付いていますが、「長老文化」の時代に育ったせいだ と考えるとぴったり来る気がします。
この長老文化を崩しているのが団塊の世代であり、テレビ・マスコミだ。そして次の世代はフェアの世代だ。グロ-バル・スタンダードなどと呼ぶ日本スタンダードに対立するような言い方を止めて、単にフェアな方式を意味する名前を付けましょう。郵政フェア化・フェア取引(公正取引)などフェアをはやらせたいですね。