下流志向2009/01/28
街のスナックの常連の友達、小野さんは、郵貯銀行の課長代理でしたが、民営化に際し自分の意思で平社員に降格しました。責任が重くやっていられないそうで、そういう格下げ希望者は郵貯銀行に多いそうです。
彼らは、時代の最先端の人たちです。
NHKの漢語論語(1/25)で「下流志向」という題の番組がありました。
中学校の野球部でクラブ活動している生徒がいます。クラブ仲間は「きつい練習しても、プロ選手になれる訳もない。こんなクラブ辞めよう」と次々に辞めて行きます。辞めてブラブラしているうちに、女子同級生を恐喝するようになりました。
その子の父親のサラリーマンも、「お前は俺の子で、スポーツの才能なんかない、辞め辞め!」と言います。
白けた子供を見るのは嫌になったところで、
「改」「起」の漢字は「己」が走ったり、何度もやり直すことから出来た字だ。
「己(おのれ)」がやらなければ何にも始まらない。
と解説します。
脚力尽くる時 山更に好し 蘇軾
人の老いるをおそれず 只心の老をおそる 孟子
人自ら侮(あなど)りて 然る後人之を侮る
など古典の文章を挙げ、人間は昔から、努力のプロセスを生甲斐として来たと説明します。
山登りで高いところまで登り、もう登れないと諦める時に、景色が一番良い。
人生は山登りの様なものだ。最初からすべて分かった道ばかり行くのでは面白みはない。
と私たちの慣れ親しんだ人生論で終わりました。
世界各国のアンケート調査がありました。
中学生相手のアンケートで「大きくなったら、社会の役に立つ人間になりたい。尊敬される人間になりたい」でyesと答えたのは、日本では25%程度でした。アメリカ・中国・フランスでは50%以上でした。
大人相手のアンケートで「より大きい責任のある仕事をしたい」の質問で、yesと答えたのも25%程度です。アメリカ・中国・フランスではいずれも50%以上でした。
下流志向は、日本では、現在の大人世代からの伝統のようです。
日本の義務教育では、差別はあってはいけない、競争は悪である。ゆとりをもって心豊かに生きよう、と教え込みます。
現代の大人、団塊の世代以降の日本人の根本にそんな考えが植え込まれていると、感じます。
出世しないでいい。給料がそこそこあればいい。苦労のないのがいい。妻子を養う責任は重い。結婚しようと口説くのが気が重くなる。
生活の基本の考えがそのようになると、派遣社員・フリーター・非正規社員などもそれでいい と思ってしまうのではないか?
正月に「ルーキース」の総集編、「ごくせん」の総集編を続けて見ました。
どちらの高校も、将来のため今勉強が必要とか、ともに前進しようとかの雰囲気は感じられませんでした。
学校教育もテレビ教育もマンガ・アニメの教育も社会に生きるという感覚がなく、狭い範囲の仲間が大切だ、そんな仲間に嫌われないように生きるのが、日本社会のモラルである、と教え込んでいるように感じます。
私も暇なときはテレビを観ていて、ああもうこんな時間か!とびっくりすることが多いです。
思い出してみると、私の父親や祖父はテレビをほとんど見ませんでした。
庭いじり、謡曲(うたい)、雑談、計算などに集中している姿が眼に浮かびます。
私も生活の質を上げるべく、テレビをみるのを止めよう。
まわりの人を喜ばせる作戦を考え、実行しよう。
下流志向に陥るのは、他に影響力を及ぼしたくない、責任が自分に掛かるのはいやだなど考えて他人と付き合いが薄くなる生活習慣からだろうと思います。
私の小学校の同級生の中野裕夫君は世話好きでクラス会の名幹事です。彼が同じ町内にいて、町内の世話を焼いてくれるといいなと思うほどです。
会社で仕事をするにも、そんな世話役を志し付き合いを深めるのも、若い人が下流志向に陥らない手段かなとも思います。
身の回りにいる世話役さんを探し観察し真似しましょう。
街のスナックの常連の友達、小野さんは、郵貯銀行の課長代理でしたが、民営化に際し自分の意思で平社員に降格しました。責任が重くやっていられないそうで、そういう格下げ希望者は郵貯銀行に多いそうです。
彼らは、時代の最先端の人たちです。
NHKの漢語論語(1/25)で「下流志向」という題の番組がありました。
中学校の野球部でクラブ活動している生徒がいます。クラブ仲間は「きつい練習しても、プロ選手になれる訳もない。こんなクラブ辞めよう」と次々に辞めて行きます。辞めてブラブラしているうちに、女子同級生を恐喝するようになりました。
その子の父親のサラリーマンも、「お前は俺の子で、スポーツの才能なんかない、辞め辞め!」と言います。
白けた子供を見るのは嫌になったところで、
「改」「起」の漢字は「己」が走ったり、何度もやり直すことから出来た字だ。
「己(おのれ)」がやらなければ何にも始まらない。
と解説します。
脚力尽くる時 山更に好し 蘇軾
人の老いるをおそれず 只心の老をおそる 孟子
人自ら侮(あなど)りて 然る後人之を侮る
など古典の文章を挙げ、人間は昔から、努力のプロセスを生甲斐として来たと説明します。
山登りで高いところまで登り、もう登れないと諦める時に、景色が一番良い。
人生は山登りの様なものだ。最初からすべて分かった道ばかり行くのでは面白みはない。
と私たちの慣れ親しんだ人生論で終わりました。
世界各国のアンケート調査がありました。
中学生相手のアンケートで「大きくなったら、社会の役に立つ人間になりたい。尊敬される人間になりたい」でyesと答えたのは、日本では25%程度でした。アメリカ・中国・フランスでは50%以上でした。
大人相手のアンケートで「より大きい責任のある仕事をしたい」の質問で、yesと答えたのも25%程度です。アメリカ・中国・フランスではいずれも50%以上でした。
下流志向は、日本では、現在の大人世代からの伝統のようです。
日本の義務教育では、差別はあってはいけない、競争は悪である。ゆとりをもって心豊かに生きよう、と教え込みます。
現代の大人、団塊の世代以降の日本人の根本にそんな考えが植え込まれていると、感じます。
出世しないでいい。給料がそこそこあればいい。苦労のないのがいい。妻子を養う責任は重い。結婚しようと口説くのが気が重くなる。
生活の基本の考えがそのようになると、派遣社員・フリーター・非正規社員などもそれでいい と思ってしまうのではないか?
正月に「ルーキース」の総集編、「ごくせん」の総集編を続けて見ました。
どちらの高校も、将来のため今勉強が必要とか、ともに前進しようとかの雰囲気は感じられませんでした。
学校教育もテレビ教育もマンガ・アニメの教育も社会に生きるという感覚がなく、狭い範囲の仲間が大切だ、そんな仲間に嫌われないように生きるのが、日本社会のモラルである、と教え込んでいるように感じます。
私も暇なときはテレビを観ていて、ああもうこんな時間か!とびっくりすることが多いです。
思い出してみると、私の父親や祖父はテレビをほとんど見ませんでした。
庭いじり、謡曲(うたい)、雑談、計算などに集中している姿が眼に浮かびます。
私も生活の質を上げるべく、テレビをみるのを止めよう。
まわりの人を喜ばせる作戦を考え、実行しよう。
下流志向に陥るのは、他に影響力を及ぼしたくない、責任が自分に掛かるのはいやだなど考えて他人と付き合いが薄くなる生活習慣からだろうと思います。
私の小学校の同級生の中野裕夫君は世話好きでクラス会の名幹事です。彼が同じ町内にいて、町内の世話を焼いてくれるといいなと思うほどです。
会社で仕事をするにも、そんな世話役を志し付き合いを深めるのも、若い人が下流志向に陥らない手段かなとも思います。
身の回りにいる世話役さんを探し観察し真似しましょう。