さよなら ぼくの ともだち

2018-12-18 03:51:29 | 森田童子
森田童子 / さよなら ぼくの ともだち



長い髪をかきあげて
ひげをはやした
やさしい君は
ひとりぼっちで ひとごみを
歩いていたネ
さよなら ぼくの ともだち

夏休みのキャンパス通り
コーヒーショップのウィンドウの向う
君はやさしい まなざしで
ぼくを呼んでいたネ
さよなら ぼくの ともだち

息がつまる夏の部屋で
窓もドアも閉めきって
君は汗をかいて
ねむっていたネ
さよなら ぼくの ともだち

行ったこともないメキシコの話を
君はクスリが回ってくると
いつもぼくに
くり返し話してくれたネ
さよなら ぼくの ともだち

仲間がパクられた日曜の朝
雨の中をゆがんで走る
やさしい君は それから
変ってしまったネ
さよなら ぼくの ともだち

ひげをはやした無口な君が
帰ってこなくなった部屋に
君のハブラシとコートが
残っているヨ
さよなら ぼくの ともだち

弱虫でやさしい静かな君を
ぼくはとっても好きだった
君はぼくのいいともだちだった
さよなら ぼくの ともだち
 さよなら ぼくの ともだち




森田さんは、1975年(昭50)にこの曲「さよなら ぼくの ともだち」でデビューしました。

若さとむなしさが充満する歌詞と、語り掛けるような歌声が特徴で数々のヒット曲を出しています。

ライブハウスを中心に活動を展開し、若者に支持されましたが、83年に東京・新宿ロフトでの公演後、活動を休止。

明確な引退宣言はありませんでしたが、引退後は主婦として暮らし、表舞台には出ませんでした。

ところで、今回、本稿作成のために森田さんのことを調べて少し驚きました。

情報が、殆どなかったからです。

楽曲とその他の公表されているトピックから推測して、彼女のアーティスト性を分析しているようなブログはいくつか見かけましたが、

ちゃんと事実認定されている事柄は多くありません。

多分Wikipediaがいいところ、そもそも本名も公表されていないし、サングラスを外した素顔もよく分かりません。

デビューが1975年と、今から40年以上も前とあってはそれもやむなしと考える向きもあるかもですが、1975年は井上陽水のアルバム『氷の世界』が

日本のアルバム史上初のミリオンセラーを記録した年。

加えて、小室等、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるがフォーライフレコードを設立したり、夏には伝説のオールナイトコンサート

「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」されたりと、フォークの勢いがこの上ないほどあった時期です。

演歌、歌謡曲がシーンのメインストリームであったとはいえ、歌声と楽曲にあれだけの特徴があって、しかも決して大衆性がないわけではないものを、

スタッフが積極的に情報発信しなかったとは考えられないです。

まぁ、それは今考えたら“考えられない”のであって、当時はそれが普通だったか、あるいは森田さん本人がその活動においてインデペンデントな精神を

貫いたのか──彼女の情報が少ないのはそのいずれかでしょうが、おそらく後者のような気がします。

ご存知の通り、1976年発売のシングル「ぼくたちの失敗」が1993年放送のテレビドラマ『高校教師』の主題歌に使われたことで、森田さんの名前は

一気に全国区になりました。

それでもプライベートに関することは当然のこと、楽曲に関してすら本人が直接語ることはなく、再発売された「ぼくたちの失敗」は約90万枚を売り上げ、

その年の年間チャートで20位に入るほどの大ヒットとなったというのに・・・

その彼女が4月にお亡くなりになったとか。

しかし、その事実が約2ヵ月後、日本音楽著作権協会の会報に訃報が掲載されたことで発覚したというのは、何とも彼女らしさを感じさせます。





























































































































この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ドナウ河のさざ波 | トップ | ある愛の詩  »
最新の画像もっと見る

森田童子」カテゴリの最新記事