運命・五輪真弓
いつか二人で
歩いたこの路に
ひとりたたずめば
寄りそう肩先が恋しい
※はなればなれで暮らす
日々は運命と
泣かない女でいたいけれど
愛をおぼえた心切なくて
あなたに逢いたい今は春※
まぶたとじれば
あなたに抱かれてる
そう想えるとき
寂しさいつも越えられた
ほこりまみれの古い
アルバムひらく
哀しい女にはなれないわ
ひとりで生きることが出来なけりゃ
あなたを愛せる筈もない
(※くり返し)
歩いたこの路に
ひとりたたずめば
寄りそう肩先が恋しい
※はなればなれで暮らす
日々は運命と
泣かない女でいたいけれど
愛をおぼえた心切なくて
あなたに逢いたい今は春※
まぶたとじれば
あなたに抱かれてる
そう想えるとき
寂しさいつも越えられた
ほこりまみれの古い
アルバムひらく
哀しい女にはなれないわ
ひとりで生きることが出来なけりゃ
あなたを愛せる筈もない
(※くり返し)
「別に用事はないんやけど。ちょっとイライラしてね。それで、電話したんや。まあ、疲れのほうは、大丈夫や。心配せんでええで。わしは、そう簡単に死にはせんよ。わしは、身体が弱かったからな。何度か、もうダメやなと思うようなことに出合ってきたけどね、その都度、不思議に生きぬいとるんや。
だいたいな、戰(いくさ)しとってな、矢玉が飛んでくる。そのなかで矢玉に当たる大将もおれば、同じようにしていながら、矢玉に当たらん大将もいるんや。わしは、矢玉に当たらんほうや。そういう運命というか、運が強いわけやな」
「日本人として生まれたのも、この時代に生まれたのも、わしの意志ではない。たまたま、偶然に生まれてきた。生まれた家も、環境も、いわば運命や。わしが決めたものではないわな。
電気屋の仕事をやるにしても、わしがもし大阪でない別のところにいたらどうであったか。電車を見ることもなかったから、電気の仕事をやろうと、ひらめくこともなかったやろうな。たまたま大阪の街におった。特にとりたてて力のない平凡なわしが、一応仕事だけでも成功したということを思えば、なおさらのことやな。
そういうことを考えてみると、人間は、ほとんどが運命やと、つくづく感じるな。もっとも、わしのこういう考えに反対する人もおるやろうけど、その人は、なかなか力強い人であると。人間には運はない。運命なんかない。すべてその人の力であると。実力であり、努力が人生のすべてを切り拓(ひら)く、と考える人もおるやろう。まあ、そこまででなくとも、努力が大きいと。そう考える人も多いやろうな。
けどな、そう考えるとすれば、人間は、努力すれば必ず成功するということになる。しかし、実際には、決してそういうことではないわね。人生、すべて己の意のままに動かせるということはない。それは、ひとつの運命をそれぞれ担っておるからやな。
成功するためには、努力しなさいという。そして、一生懸命努力したと、あの人と同じように努力したと。けど、あの人は成功したけど、自分は失敗したと。そういう場合もあるな。それは努力が足らんかったとは言い切れんことがある。ひとつの運命として考えんといかんかもしれん。
しかし、それならば、努力せんでいいのか、汗を流さんでいいのかということになるけどな。また、これも間違いや。
わしは運命が100%とは言っておらん。90%やと。実は、残りの10%が人間にとっては大切だということや。いわば、自分に与えられた人生を、自分なりに完成させるか、させないかという、大事な10%なんだということ。ほとんどは運命によって定められているけれど、肝心なところは、ひょっとしたら、人間に任せられているのではないか。
たとえば、船があって、自分が大きい船か、それとも小さい船か、それはそれぞれの人にとっての運命かもしれんが、肝心の舵のところは人間に任せられておると。無事その船が大海を渡り、目指す港に着くことができるかどうか。その10%が、その舵の部分であるということやな。
鷹がスズメになろうとしても、スズメが鷹になろうとしても、それは運命であって、変えることはできんな。けど、鷹は鷹なりに、スズメはスズメなりに一生懸命生きる努力はせんといかん。そこに、それぞれが成功する道も開けてくるんやな。
だから、運命が、運が90%だから、努力せんでいいということにはならんね。そして努力したから必ず成功すると考えてもあかん。しかし、成功するには必ず努力が必要なんやと。
そういうことを、きみ、理解しておれば、自分に与えられた人生を謙虚に受け入れ、かつ力強く歩いて行くことができるよ」。
(松下幸之助の珠玉の言葉より)
だいたいな、戰(いくさ)しとってな、矢玉が飛んでくる。そのなかで矢玉に当たる大将もおれば、同じようにしていながら、矢玉に当たらん大将もいるんや。わしは、矢玉に当たらんほうや。そういう運命というか、運が強いわけやな」
「日本人として生まれたのも、この時代に生まれたのも、わしの意志ではない。たまたま、偶然に生まれてきた。生まれた家も、環境も、いわば運命や。わしが決めたものではないわな。
電気屋の仕事をやるにしても、わしがもし大阪でない別のところにいたらどうであったか。電車を見ることもなかったから、電気の仕事をやろうと、ひらめくこともなかったやろうな。たまたま大阪の街におった。特にとりたてて力のない平凡なわしが、一応仕事だけでも成功したということを思えば、なおさらのことやな。
そういうことを考えてみると、人間は、ほとんどが運命やと、つくづく感じるな。もっとも、わしのこういう考えに反対する人もおるやろうけど、その人は、なかなか力強い人であると。人間には運はない。運命なんかない。すべてその人の力であると。実力であり、努力が人生のすべてを切り拓(ひら)く、と考える人もおるやろう。まあ、そこまででなくとも、努力が大きいと。そう考える人も多いやろうな。
けどな、そう考えるとすれば、人間は、努力すれば必ず成功するということになる。しかし、実際には、決してそういうことではないわね。人生、すべて己の意のままに動かせるということはない。それは、ひとつの運命をそれぞれ担っておるからやな。
成功するためには、努力しなさいという。そして、一生懸命努力したと、あの人と同じように努力したと。けど、あの人は成功したけど、自分は失敗したと。そういう場合もあるな。それは努力が足らんかったとは言い切れんことがある。ひとつの運命として考えんといかんかもしれん。
しかし、それならば、努力せんでいいのか、汗を流さんでいいのかということになるけどな。また、これも間違いや。
わしは運命が100%とは言っておらん。90%やと。実は、残りの10%が人間にとっては大切だということや。いわば、自分に与えられた人生を、自分なりに完成させるか、させないかという、大事な10%なんだということ。ほとんどは運命によって定められているけれど、肝心なところは、ひょっとしたら、人間に任せられているのではないか。
たとえば、船があって、自分が大きい船か、それとも小さい船か、それはそれぞれの人にとっての運命かもしれんが、肝心の舵のところは人間に任せられておると。無事その船が大海を渡り、目指す港に着くことができるかどうか。その10%が、その舵の部分であるということやな。
鷹がスズメになろうとしても、スズメが鷹になろうとしても、それは運命であって、変えることはできんな。けど、鷹は鷹なりに、スズメはスズメなりに一生懸命生きる努力はせんといかん。そこに、それぞれが成功する道も開けてくるんやな。
だから、運命が、運が90%だから、努力せんでいいということにはならんね。そして努力したから必ず成功すると考えてもあかん。しかし、成功するには必ず努力が必要なんやと。
そういうことを、きみ、理解しておれば、自分に与えられた人生を謙虚に受け入れ、かつ力強く歩いて行くことができるよ」。
(松下幸之助の珠玉の言葉より)
なるほど、と思いますが・・・
実践できない人が90%、できる人が10%。
いや、できる人はもっとと少ないかも。(笑)
実践できない人が90%、できる人が10%。
いや、できる人はもっとと少ないかも。(笑)