暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

凍る冬のアイスクリーム

2018年03月23日 02時26分37秒 | 喰う

 

どういう訳かまた寒くなった。 運河に氷はもう戻っては来ないけれど日中最高気温が5℃となるとこれはまた冬である。 それに風の中に春の温かみを感じ始めている時にこれではウンザリしてしまう。 だからせめてそんな寒い空気の中にでも光が射していればなんとか気分が保てそうで、何とか気を持ち直してもう使わないでも過ごせると思っていた手袋を嵌めなおして自転車で町にでる。

中途半端な腹具合で手術前ならこういう時にジャンクフードの店に入ってフレンチフライにビールだったものが今はとてもそういうことはできない。 第一フレンチフライなど喰いきれず途中で放ってしまうしまだビールの5%アルコールがきつすぎるのだ。 だから今こどもの飲むようなレモネードに2%ほどアルコールを混ぜた炭酸飲料を徐々に試して慣れるようにしているのだがそんなものでもすぐに酔っぱらってしまう。

運河のそばに自転車を停めて市場の魚屋で鯖をおろしてもらいホウレンソウを買って自転車のところにもどってくると子供だましのようなアイスクリームの化け物が立っていた。 アイスクリーム・パーラーの看板なのだがそこの売り物のほうがよっぽどこれより上品で美味く、このダサいものはなんとかならないのかと思っていたらアイスクリームが喰いたくなった。 こういう甘いものは今まで夏に一回か二回口にするだけで誘われたら口にすることはあっても自分からは買うことはなかったのだが手術後味覚の調子が変わったのか喰いたくなる。 現に2月に運河が凍っていた時も100mほどむこうのアイスクリームとチョコレートボンボンの店で買い食いして手袋のままコーンを掴んでマイナス外気の下で喰っている。 そんな2月に田舎を歩いていて夏には賑わう自家製品を売る酪農農家まで歩いて来てそこのアイスクリームを食べたいと思ったけれどそこで、3月から始めますという張り紙をみていたくガッカリしたこともこのあいだのことだった。

この何年もアイスクリームはバニラだけしか喰わなかった。 何種類もあるイタリアアイスの列を眺めていてリモンチェロを求めた。 分かっていながら 売り子に、アルコールは何パーセントと聞いたらヘラっと笑っただけだった。 シシリアに引っ越した義兄は自分の家の庭から摘んでいたレモンでリモンチェロを作ってそれをいつも冷蔵庫でチリチリに冷やしていた。 あれを思い出したから初めてそのアイスクリームを試したのだけれど後悔した。 アイスクリームが悪かったのではなくてリモンチェロが恋しかったのだ。 バニラにしなかったのを後悔した。


市会議員選挙で投票した

2018年03月22日 09時41分31秒 | 日常

 

 

2018年 3月 21日 (水)

今日市会議員選挙があって午後近くの小学校に特設された投票所にでかけて一票を投じてきた。 この国に住んで38年、北の町グロニンゲンからハーグに越したのは1986年、そしてハーグからライデンに越してきて27年、もう何回投票してきたのだろうか。 市会議員選挙は4年に一度でこの町では特別に大きな問題があって市会が解散すると言うようなこともなかったから6回はそんな機会があったはずだ。 町の中には様々なところに投票所があって投票券と身分を証明できる例えば運転免許証があればどこでも都合のいいところで投票できるけれど自分はいつも一番近い小学校にでかけて投票している。 場所は同じであるけれど初めは古びた校舎だったものが7,8年ほど前に改築されて今はモダンな造りになっている。 今の新築なったこの校舎に入るのは2回目だ。 自分の子供たちが通った小学校はここから200mほど先にあってそこから100mほど行くと週2回通うジムがある。 そんな近所であるから歩いて行けるけれど天気がいいから自転車に乗って町の中心に行くことも頭に置いて出かけた。 仕事をしている時は仕事前に投票していたのだから朝の8時半ごろだっただろうか。 小学校であるから子供を送ってきてそのあと投票する父兄が多かった。 だから定年した今、人の後ろでたとえ2分でも待つのを厭いそれを避けてゆったりした午後を選び子供たちを迎えに来た父兄が去ったと思しき3時半を過ぎて投票所に入ると会場はあまりにもガランとしていて気が抜けた。 

体育館の端にテーブルがあって3人の男が座っていた。 真ん中の男が投票券と運転免許証を受け取りリストの中から自分の名前を確認して印を入れ投票用紙を渡してくれる。 それを簡単な囲いをしてある隅に持って行きそこにある赤鉛筆で一つだけ候補者か政党のところに印を入れ男たちのところに戻ってきてそばにある各家庭のゴミ出しに使うコンテナーを改造した投票箱にいれる、というだけのことだ。 写真を撮ってもいいか尋ね、もう忙しい山は過ぎたんだろうと話を振ると、ああ、朝の8時ごろからちょっとの間だけだったね、こどもたちの父兄が子供を送って来るついでに投票して行ったから、という。 あれ、でも3時ごろから迎えに来る父兄の山もあったんじゃないか、と振ると、何言ってるの、今日は水曜だよ、どこの学校も昼からはやすみだろ、というのでそのことを思い出した。 小学校の事などもうとっくの昔のこととして忘れている。 一人が、あんたまだそんな年頃の孫ないだろう、そのうち水曜の午後は子守になるぞ、と言われた。

うちの通りの年寄りには元役人であったりこういうボランティアをしている老人が二人いた。 それがいつもここに坐っていたのだがその一人が3年ほど前に物故、去年もうひとりも脳溢血であっけなく亡くなった。 だから今回からは見知らぬ「新人」ばかりだった。 何枚か写真を撮ってそこを離れるとき、もし興味があれば開票の時くればいい、委員が皆で票を読む時は市民開放だからまわりで「監視」するのが原則でコーヒーや酒を飲みながらおれたちが素面で数えている時ワイワイいいながら見るのも面白いよ、という。  夜はテレビを観ながらオランダ各地の様子を見るのを楽しみにしているので中途半端に返事をしてそこを出た。

 このあいだこの選挙のための討論会が子供たちが通った中高一貫校で催されそれに出かけて次のように書いた。

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65950893.html

 

 

                  議席数  2018 (2014)

1 D66党  (リベラル)                               9  (12)            
2  SP   (オランダ社会党)                         3  (5)
3    VVD  (オランダ保守党)                             6  (5)
4    PvdA  (オランダ労働党)                            4  (5)
5    GROENLINKS (オランダ緑の党)                   8  (4)
6    CDA  (キリスト教民主党)                       3  (4)
7    PvdD      (動物愛護党)                                 3  (1)
8  CU  (キリスト教同盟)                         1  (1)
9    鍵の党 (ライデン市の紋章の鍵に由来する)    2  (0)
 
選挙前上に揚げたように各政党の議席数の多い順に1から9までリストにされていたものがその勢力図が変わった。 リベラルのD66が3つ議席を減らしたものの第一党を保っている。 それに一つ差をつけられて迫ったのが GROENLINKS (左翼緑の党)でありテレビの選挙特番で述べられていたように住民の中で高学歴の割合が多い都市に現れる現象だと言いオランダの中ででそれが最も顕著なのがユトレヒトであると言われている。  このライデンはオランダで一番古い大学がある町だからそれも分からなくもないがお坊ちゃんお嬢ちゃんとインテリといわれる人種に人気のある左翼緑がこれだけこの町で伸びるとは少々驚きだった。 学生は4,5年経てはこの町からでてどこかに行くのだからその人口は10分の一ほどでしかなく後は普通の町で自分には学生は客、あとは普通の村という感想をもっていたのだけれどここにきて左翼緑の党首によるイメージ全国キャンペーンが政治にあまり興味のない学生を投票所に運んだのだろう。 北のグロニンゲンでは学生を投票所に運ぶ意図から投票所をカフェーやバーに設け夜12時まで投票できるようにしたという。 自分の見た討論会ではこの20年ほど遠くから眺めていたアル中のカフェー・オーナーがこの党の代表として登場したのに驚いた。 彼は何も具体的なことを言えず更に自分が町にどのようにコミットしているかというその例さえ挙げられず、それはこの何年かのPvdA代表たちと同じだったからその結果としてPvdAのように後退するだろうと予想していたものがこれだからこれはまったく党全国キャンペーンのイメージ以外の何物でもない。 いずれにせよこれから4年は上位3党で市政運営のイニシアチブをとっていくのだろうから極右党の入る余地のない市政となって穏やかな民主主義が運営されるものと期待される。
 
全国レベルで今回の選挙で顕著になったのは既成政党の票が軒並み後退する一方、各市町村独自の地域党の躍進である。 これには市民の既成政党への失望感、政治不信とまでは行かなくとも不満の表れが地元党への傾斜となったと解説されていた。 つまり中央政党の統制に縛られないそれぞれの市町村独自の政策を掲げる党に期待を持っているということであり、その各地方政党の性格はどちらかというと右寄りのものが多いと見られている。 つまり地元優先ということになれば自然と保守的な政策が掲げらる。 今回ハーグ市などでは極右政党PVVから飛び出して自分の名を冠した党を旗揚げしたものが第一党となるということまで起こっていて世界都市であるハーグの今後の動向が興味の的となっている。
 
尚、自分は日本で国立大学の法学部を卒業して一定程度の政治的興味をもち、市民としての権利と義務の感覚は持っているつもりだ。 そして偶々オランダに住むことになり人に迷惑をかけず義務をまもっていることからオランダ国籍をもたずとも地方選挙のレベルで選挙権をもつ。 このことにより外国人として自分の住む町の政治に微力としても関わるシステムの中にある。 日本で外国人に対する参政権のことが議論されたものを仄聞したことがある。 その議論の多くが民主主義の議論というよりアジアの政治状況に端を発するナショナリズムが匂うものだったように記憶する。 従って否定的なものが多かったように思う。 もし自分が日本に住む外国人であり一定程度の期間日本に住み、その義務を果たしているとしたら国政とまでは行かなくとも地方選挙投票権を主張するだろう。 そのことにより日本の民主主義に貢献できると思うからだ。 そのことを今民主主義とは何かで揺れている日本に長く住むアジア系非日本人に訊いてみたい気がする。 

 


'18、 1月2月帰省日記(8);直島から観音寺へフェリーと瀬戸大橋を渡って

2018年03月21日 10時41分32秒 | 日常

 

2018年 1月 28日

霧雨の降る中を12時45分のフェリーで直島から宇野に渡った。 高松から直島までは30分ほどかかったものが直島から宇野までなら20分もかからなかった。 このルートを選んだのは子供たちが直島から見えていた瀬戸大橋を渡りたいと言ったからで、本土の海沿いの430号線を走り瀬戸大橋の途中にある与島で休憩した。 駐車場の特設ステージでは素人に毛の生えたようなパンクのバンドが中学生か高校生の娘たちを前にがなり立てていた。 ちゃんとした音を出しているものの覇気が感じられなかった。 パンクならパンクらしくもっと荒々しくワイルドにやればいいものをと思うけれど野外の昼間では気が入らないのかもしれない。 周りの屋台で娘はダンゴを、息子はたこ焼きを買い、喰いながらそれを眺めていた。 その後、娘は焼餅の入った蕎麦を息子はカレー、家人はきつねうどんを喰った。 自分は何を喰ったか思い出せないけれど思い出せないというのは喰ったものが月並みで思い出せないほどのものだったということだ。 明日は友人の経営する讃岐うどんの店で早朝から作り方を教わりそれを喰うのだから普通ののものを今喰っておけば明日友人の手打ちの美味さにびっくりするにちがいない。 もっとも家人やこどもたちは日本の饂飩を喰うなどと言うのは日頃経験はなく何回もの帰省の折でもあまり饂飩は口にすることもないので明日何というかも楽しみではある。 

バンドの後ろに架橋30周年とあって、へえ、もうそんなになるのかと初めて渡る橋に感慨を覚えた。 自分の意識の中ではこのあたりはまだ渡し船で行き来するところなのだ。 そういえば高校の友人に連れられて7,8年前かにこれから行く同級生の饂飩屋にでかけたときには別の大橋を渡ったのだがそれは明石と淡路島に架かった橋だったのだ。 それもそのとき初めて渡ったきりでその後は泉南からいつも遠くにそれをただ眺めるだけのものでしかない。 北京から山東半島を掠めて韓国を横切り飛行機が伯耆大山上空から徐々に着陸態勢に入り神戸当たりの上空にくるとよく神戸の大橋や瀬戸大橋を眺めることができるのだがそれでも実際に橋を渡る気分には勝るものはない。

四時ごろ観音寺の宿舎に着いた。 もともとは友人の家まで歩いて行けるところにあるかんぽの宿というところを予定してあったのだがこの時期に八十八か所の巡礼が少ないことからか素泊まりは受け入れてはおらず泊まるのなら一泊一人12000円程度からでないと宿泊プランがないので仕方なく友人の店から2kmほどはなれたアメリカのモーテル風のロッジを予約してあったのだ。 一部屋に大きなベッドが二つで4人泊れば一泊一部屋10000円、だけど大きな大人二人にはベッドの幅が狭すぎるから二部屋予約した。 するとちょっと一人には大きすぎるベッドだけれど快適で部屋にもスペースが十分あって使い勝手がいい。 日本で宿を探すのにこんなロッジが各地にあれば便利なのにと思う。 それは今回の我々のように家族4人で車で友人を訪ねて移動する場合のことで、観光地でもなく友人宅から遠くないところにこういう宿があればもっと他の友人宅を訪れることができるのに、と思うのだ。 安価で清潔であればそれでよい。 よっぽど山奥か僻地の観光地の温泉地でないかぎりは我々には食事は不要だ。 それぞれ部屋でシャワーを浴びてさっぱりしてから近くの友人宅にでかけそこで夕食を供された。

その友人家族に会うのはほぼ半年ぶりだろうか。友人夫婦と息子夫婦がイギリスに住む友人夫婦の長女に会いにヨーロッパに来たついでに手術後自宅で療養中の自分を見舞いに寄ってくれたのがこのあいだのことのように思い出される。 その日は不思議なことにベッドからちゃんと起きられて半日彼らを接待できたのだったけれどその後はまた何日もベッドに横になったままだったのだからあれは本当に奇跡的だったと思う。 ゆったりとしたダイニングで牡蠣や肉料理を振る舞われ自分以外は喰わなかったものが初めはおずおずと口にしていたけれどそのうち子供たちも家人も牡蠣の虜になったように貪った。 日本だからこのように喰うのであってオランダに戻ればこんな味は求められないのは分かっているので喰わないだろう。 自分にしても牡蠣を喰うのは日本に居るときだけだ。 

和やかで心地よい晩餐を楽しむことのできた理由の一つは友人の息子も友人の奥さんも英語が話せることだ。 友人の息子のともだちも入れて9人の食卓ではそれぞれ勝手に話があちこちで飛び交い、もともとズボラな自分はそんな中で通訳をする気持ちは毛頭ないから自分は友人とボソボソと話し込むのが当初からの目的であって邪魔されたくないので後は放っておく。 そんなときに若い者どうし、家人と友人の奥さんが自由に各自話せると言うのは楽だ。 もっとも、自分が日本語教師であったのに家族に日本語を教えなかったから悪いのだとあちこちで言われるけれど、それには一理はあるけれど別に家族が日本語ができないことを悔やんではいない。 コミュニケーションなど各自が勝手にやればいいのであってできなければできないでよく、友人家族のように必要に迫られてすればできるものであり、それは別段上手くなくとも通じればそれでいいのだ。 友人にしてもわからないと言いながらも聞いていてなんとか分かっている様子でもあるのだからそれでいい。 とはいうものの友人家族に対して自分の家族が日本語がはなせないことを申し訳なく思うこころはある。

翌日早くから店の準備もあるのでそろそろウトウトしかけた友人に別れを告げてそこを辞した。 こどもたちも明日の早朝から手打ち饂飩つくりの手伝いをするのを今回帰省の楽しみの一つにしている。


ライフルでは問題ないのに

2018年03月18日 08時04分47秒 | バンバン

 

ほぼ一年休んでいた道楽の射撃に戻ってきた。 毎週金曜日の夜クラブに出かけて22口径のライフルで20m離れた紙の的を狙って先ず5発は練習、その後5発づつ2回に分けて計10発の合計を競う。 クラブ内競技会だ。 これは3年前から義務となったもので銃砲・火薬所持許可の年間18日射場で実技を行う事とある義務と相まって許可証所持者の能力を高める意図がある。 高めるというよりお座成りに射場にでてただ一回だけ引き金を引くだけでクラブのバーに戻ってきて義務を果たすということを防ぐのが元となっているのだ。 だから競技会のシリーズに参加しない者たちにクラブ内競技会に参加させ各個人元々の動機を刺激するという目的を持っている。 誰もが新しいスポーツを始めた時には積極的ではあるけれど何年もそれを行っているうちに、ことに個人スポーツでは慢性化してただクラブに仲間の顔を見に来るだけというものが増えるのは一方では仕方のないことではある。 このスポーツを続けたいと思うと、ことに銃器を所持している場合、翌年の許可証認可の条件としての年間18回の射撃認定スタンプが要となるわけだ。 だから自分もこの25年以上この義務を果たすために日曜日の25mと50mの競技会に参加、最低10回は様々な射撃クラブに出向き、金曜にはその練習のために自分のクラブで22口径を撃つ。 そうするとほぼ自動的に年間20回は射場にでて義務を果たせるということになる。 このようにしてこの25年以上はほぼ20前後のスタンプを集めてきた。

去年は胃癌の手術があってその後の体力が戻らなかったこと、自分で車が運転できなかったことから手術前に集めてあったスタンプの数が6つほどで所定の数には届かず今年の初めに警察に病院の書類を見せて納得させ今年分の許可を得たのだったが実際に射撃を始めたのが先月だった。 去年の10月以降50回ほどジムに通い体力造りをしているけれど射場に出て何年も続けているルーティ―ンに戻ると構えた銃器が重いと感じられる。 ことに競技会では30分で13発撃つのにその手筈は自動的に流れ、25分ほどで撃ち終わるけれど25mのピストルでは2.5kgほどあるものを片手で上げ下げする動きのなかで普通なら10発目ぐらいから重く感じ始めるものが5発目ぐらいからそれを感じるようになっている。 それには年齢ということもあるのだろうけれどこの重さを感じる変化はピストルの方に顕著であって肩と腕で支えるライフル・長銃の場合には以前とあまり変わるところがない。

この日曜日にハーグのクラブに出かけて50mの長銃競技会に出た。 天気はいいものの寒さが戻って外気2℃だった。 射場には屋根はついているものの野外であるから寒さがそのまま襲ってきて30分それに耐えながら撃った。 体はなんとか防寒対策を施していたものの指先だけは如何ともしがたく競技会の半ばあたりから指先の感覚がなくなっていた。 それでも13発全部が紙の的に着弾してなんとか60ポイントを越え、1年間のブランクのあとではこんなものだろうと思った。

先週の日曜日別のクラブで25mのフリントロック式ピストルの競技会に出た。 結果は2ポイントだった。 着弾したのが2発、それぞれ1ポイントづつ、どこを探しても他の弾痕はみつからなかった。 これは自分の腕の問題ではなくピストルに問題があるに違いなく、改めてクラブで同僚にも相談して何とかしなければならない。 これを買った15年か20年前には普通に80ポイント以上を出していたのだからこの5年ほどの結果には悩まされる。

金曜のトレーニングで22口径を撃つたびに思うことがある。 冬季オリンピックの競技でスキーと射撃を組み合わせたものがある。 コースをぐるぐる滑ってきて射場に来て後ろに背負った22口径のライフルを構え15mか20m離れた5つの的を狙って撃つ。 直径2cmほどの的を外せば罰としてコースを一周余分に廻らなければならない、というものだ。 自分は20m離れた的を狙って運動もせずそれまでに激しい動きもなく静かに狙うのだけれど10発撃って一つその10ポイントに入るか入らないかであって競技選手の自分を整えるその訓練のプロセスを想うと大したものだと感心する。 心臓の鼓動を鎮静化し呼吸の運動で上下する銃身の動きを的に合わせて一瞬息を止め発射することを訓練の中でほぼ自動化、機械化する。 訓練すると発射した弾が見え、引き金を引いた瞬間に当たったか外れたかが分かる。 その「当たった」感じを持続させるために訓練するのだが練習をしない自分にはそんな感じはまぐれでしか訪れない。

 


地方選挙の討論会に出かけた

2018年03月15日 15時33分39秒 | 日常

 

四年ごとの地方選挙の季節が戻ってきた。 3月21日の市会議員選挙の投票日に向けて各政党が町の政治に関わる政策討論会を町内会が主催してして子供たちが通っていた近所の中高一貫校で7時半から始めたのは4年前と同じ成り行きだった。 4年前には下のように記している。

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/63928990.html

 

政治・法律・文化の様々な分野において日蘭の違いは多岐にわたり、なおかつそれが日本語に翻訳されると例えば政党名などにしても訳された名前が同じでもその性格が違うことから時には誤解を招くおそれのある中でオランダの選挙制度について在蘭年数は少ないものの親ユーゴスラビアと思われる日本人フリー・ジャーナリストが去年の国政選挙を中心に手短に説明したサイトがあったので下に牽く。 時間と辛抱があればネットで例えばウキペディアやオランダ大使館のサイトなどを手繰って参照すると興味深いことが浮かび上がって来るかもしれない。

https://kotaro-journal.com/introduction-of-dutch-election

さて、地方政治は中央政治と間接的に関係しているものの町の政治である市議会選挙はそこに住む外国人にも一定条件つきで選挙権があり、そんな自分はこの20年ほど機会がある毎に自分の権利を行使するのに投票には参加しているのだが地元の政治であるからその主な論点は主に地区の問題をどのように解決するかということになるのは当然のこととして、それを巡って中央政党の主張が重なり、このような討論の場で具体的に選挙権者が候補者自身とその背景にある所属政党を厳しく値踏みし微細な個人の一票を投じることになる。 そして先週予め各家庭に政党・候補者のリストが送られていた。 これを例えば次に揚げる前回4年前のものと比べると興味深い変化が見られるだろう。 前回11政党だったものが今回9党になりその順位が少々入れ替わっているのは去年の国政選挙、日本の衆議院に相当するオランダ第二院選挙の結果がもたらしたものであって、それはPvdA(オランダ労働党)の著しい後退が原因である。 尚、国政選挙では極右政党である自由党(PVV)が第二党となったが第一党のオランダ保守党(VVD)がPVVとの連立を拒否したことから現在のオランダ内閣は VVD,CDA,D66、CU の連立政権となっている。

 

2014年 ライデン市市会議員候補者選挙リスト         (当選者数)

1  D66党  (リベラル)            50    (12) 
2  PvdA  (オランダ労働党)          39    (  5)
3  VVD  (オランダ保守党)           28    (  5)   
4  SP   (オランダ社会党)         32    (  5)
5  CDA  (キリスト教民主党)         50    ( 4)
6  GROENLINKS (オランダ緑の党)       39    ( 4)
7  ライデン市解放党              26    ( 0)
8  住みよいライデン党             15    ( 2)
9  CU (キリスト教同盟)          25    ( 1)
10 動物愛護党                  13    ( 1)
11 PVV  (自由党)              1    ( 0)
12 現代党                     7    ( 0)
13 鍵の党 (ライデン市の紋章の鍵に由来する) 13    (0)   


計 338人                                                                        (39)       投票率 56.8%


2018年 ライデン市市会議員選挙候補者リスト

1 D66党  (リベラル)                              50            

2  SP   (オランダ社会党)                        29

3    VVD  (オランダ保守党)                            28

4    PvdA  (オランダ労働党)                           27

5    GROENLINKS (オランダ緑の党)                  48

6    CDA  (キリスト教民主党)                      45

7    PvdD      (動物愛護党)                                10

8  CU  (キリスト教同盟)                        29

9    鍵の党 (ライデン市の紋章の鍵に由来する)   18


計  284人

 

近年日本を含む欧米各国の政治に右傾化が言われる中、オランダもその例にもれないものの、流石に極右政党PVVが国政で第二党になってからはもし第一党のVVDと連立政権を打ち立てたならば国内が混乱することがは目に見えていることから結局長い組閣期間の結果「通常の」右寄り政府となったことには一定の理解と安心がもたらされたもののオランダを含むフランス、オーストリアの極右政党の動きは漸次世界ニュースの材料になっている。 幸いなことに前回選挙の折にはPVVは一人の候補者を立て当選しなかったことから今回は党自体がこの町では選挙に参加しなかった。 その理由はいくつか考えられるがその一つがこれら極右政党がどこでも主張する、外国人排除はこの町ではアピールしないということだ。 モロッコ、トルコ、カリビアン系の移民が多い都市は極右政党の温床ではあるけれどライデンはもともと移民、避難民を市が積極的に受け入れてきた市であることと住宅のゲットー化が小さく表面だって問題化していないことが考えられる。 人口11万人ほどの中都市で貧困層の割合が小さく中産階級の割合が多いということも政治が先鋭化しない、ということの理由であるのだろう。 そのことの証にこの町の第一党は保守党ではなくリベラルのD66であることが挙げられるだろう。 絶えず様々なモニターで小規模な国勢調査をおこない選挙民の動向をさぐった結果の被選挙人名簿がここに見られる。 だから国政では第二党であるPVVがこの町の選挙には参加しないということになって、逆に言うとこの「いびつさ」が国政の「あやうさ」を象徴していることにもなる。 まともな「常識」のある市民なら耳を貸さないような政党の主張が国政で第二党となるような現状がある種現在の世界の政治状況を象徴しているようだ。 現にありえないとだれもが思っていたことがアメリカの大統領選挙で起こっていて誰が猫の首に鈴をつけるのかとみられている間にもう1年が過ぎているではないか。 ここでも潜在的には同じようなことが起こっているのだ。

毎日メディアで海外・国内の政治ニュースやその解説が見られる中、地元の政治についてははっきり認識する機会は地元のラジオ・テレビ局、市政報告を含む地元のフリーペーパーぐらいでしかないからこのような機会は自分の周りに何が起こっているのか、これからどうなるのかというようなことを知る得難いものとなる。 

今回の論点は自分の住む地区の微細な計画についてである。 自分がよく散歩する近くの公園がある。 そこには回遊庭園と金網で囲まれた地区が管理する幼児遊園地がありそれに続いて子供たちが所属していたフィールド・ホッケークラブのクラブハウスにフィールド6面、およびテニスクラブとそのクラブハウスにコートが6面あって、その向いが小学校、幼稚園、医療センター、自分の通うジムとなっている。 10年ほど前に小学校・幼稚園の改増・新築が済み敷地に出来た小さな区画にアパート一棟、20軒ほどを立てる案が出ていたものが様々な理由から地元、父兄からの反対で公聴会、アンケートが行われその結果廃案になったのが去年のことだ。 そして今この公園のテニスクラブ、ホッケークラブを郊外に移転する計画が立ちあがっているのだという。 そして残った土地をどうするか、というのがこの日の論点になっていた。 第一になぜ移転させなければならないのかという理由が提示されない。 賛成派・反対派が各自その理由を述べて賛成派は跡地の「再開発」案を提示する。 動物党、緑の党などは環境破壊反対、自然化推進の立場からグリーンゾーンを増やすこととして「再開発」には反対である。 SPやPvdAなどは反対しないが住宅開発には反対しそこに老人医療の為のセンターや介護老人施設を建てる案を提示する。

推進派の論点の基本にあるのはこの町の住宅不足であり、次の10年間で12000戸が必要とされ住宅地の拡充、地区の再開発の必要性からスポーツ施設跡地に目が向いたという経緯があってこの点から反対派に将来に向けての住宅用地をどこに求めるのかを迫る。 環境保護、自然破壊反対というだけでは差し迫る住宅不足は解決されないというわけである。 どの町にも見られる問題でありジレンマとなるのだがそれを個別に検討し折衷案を探るのが国政でも地方政治でも同じだ。 例えばこの地区では60歳以上の住民が45%以上を占め、どのように彼らの住環境を整えるか、ということも重要な争点になる。 現在の住環境を維持、住み慣れた住宅に住むのが理想なのだが高齢によって動きが制限され車椅子入のるバリアフリー空間や階上に昇る簡易エレベーターの設置など個人の負担を軽減すべく補助金の確保を訴えるSPに対して仮令その補助金を確保してもその家が若い次の持ち主などに変わった場合投資した補助金が有効に機能しないとして医療介護つき住宅の建設を主張するVVDなどがあり、我々に将来の住み方を考えさせられる議論が続く。 

ライデン市は大学を抱えており学生数の増加により学生の部屋確保が慢性的な問題であり、自分が勤め始めた1986年には9月の新学期が始まって初めの3か月は1200人以上がテントから通学したという経緯もあったけれど今はそれほどの問題はなくとも市内では絶えず学生の住宅難が言われておりその外郭にある比較的静かな我々が住む地区にも徐々に普通の住宅が学生宿になる傾向があるという。 現にこの通りの20軒ほどでも2軒が学生宿となり普通3階建てに子供二人の4人住まい、夫婦だけの二人、若しくは一人で住む空間に学生6,7人が共同で住むという現象が起こっている。 それは大学に近い町の中心部では普通のことではあるけれど閑静な住宅地にはないことで、それにより騒音、ゴミ、放置自転車などの若者特有の問題が言われ、問題解決のために住民が家主に接触をとろうとしても間に管理人などの仲介が何人もいて埒が明かない場合が多いという経験もあり、大学側が̪市当局に住宅の確保を願っても必ずしも住民の理解を得られないというのが今までの経験から言われている。 市は住宅地ではこのような学生宿の割合を上限5%と設定していることからすると我々の通りは10%であるから既に違反ということになる。 住民の反対の理由には学生宿が多い通りの家屋の値段が下がるという事情もからんでいるようだ。 家の内外を整えて見栄えを良くし通りの環境が良ければその家だけではなくその地区の価値も上がるという不動産一般に言われることもあり学生宿というのはスラム化と同等にみられるということだ。 この部分では市の思惑とそれぞれの家に住む持ち主の思惑の差が大きく、一方では上限5%の規制にしても実質規制不可能の声もあり、住民はこの傾向を、大都市で起こっている移民の住む地区が拡大し、ある部分ではスラム化が進み治安の乱れが見られることの兆候だと考えるのもあながち大げさではないとみる。

今回の討論会は前回に比べて大きく盛り上がることがなかったがそれにはこの地区の住民には当面差し迫った大きな問題がなかったことが挙げられるかもしれないがそれにしてもその議論の中で各政党の主張とそれを代表する候補者の態度が選挙結果に出るのは確かだ。 自分の感触では前回のようにD66がこの町の第一党になるように思う。 この地区のことをよく承知しており説得力のある話し方をしたのはSPの地区議長だった。 前回、前々回での消極的で中央の主張だけを繰り返すPvdAが今回では再開発推進の論を展開したのには驚いた。 これはハーグ市の議会でこの何年もPvdAの嘗ての全学連の議長が建設部門の長として活動していたことに倣ったのかと訝った。 普通ならもっとも活気があっていいはずの緑の党の代表が驚いたことに嘗て自分の職場の前にあったカフェーのオーナーでいつも酒気をおびて赤い顔をみせている男だったことだ。 政治に関心がある様な素振りはみせなかったしこの町に住んでいるにもかかわらず具体的な策も語らず中途半端な抽象的な話に終始したのには退屈した。 中小企業の事業主をバックとするVVDの議員は前回と同じくドライで現実的な主張を通し一定の理解は集めるものの社会弱者への配慮を欠く態度にはこのまちでは圧倒多数の票をあつめることは無理であるのは今迄の選挙結果が示している通りだ。

150人から200人ほどを集めた討論会が終わり雨の中を家に戻った。 家人も自分もまだ投票日にはだれに、どの党にいれるか決めかねている。  

 

 

 

 


Joris Roelofs Trio in Qbus, Leiden

2018年03月13日 14時40分52秒 | ジャズ

 

Joris Roelofs Trio

Sat. 10 March, 2018  at Qbus in Leiden, The Netherlands

 

Joris Roelofs (cl.  bcl.)

Reinier Baas  (g.)

Onno Goveart (ds.)

 

1  Thrils No.1    (R.Baas)

2  Evidence   (T. Monk)

3  Duet  (g.  ds.)

4  The Man I Love    (George Gershwin)

5    (Guillaume de Machaut)

        Pause

6  Giant Everywhere  (J. Roelofs)

7  Ask Me Now (T. Monk)

8  Je ne qui pas  (G. Mashaut)

9  Rondo  (J.Roelofs)  experimental impro

10  How Insensitive   (Antonio Carlos Jobim)

11  Juju  (Wayne Shorter)

         Encore

  Skylark (Hoagy Carmichael)

 

ちゃんとしたジャズライブに来るのは久しぶりだ。 といってもこの間、町のジャズカフェで岡部源蔵君のライブに偶然行き当たったことはあるけれど手帳に予定を記して出かけるのはもうそろそろ1年になるだろうか。 その時は手術前の化学療法の副作用が消えておらず家族に付き添われてのアムステルダム BIMHUIS だったけれどそのときも岡部君で、彼の当ライブハウス初出演に立ち合えたことは自分の体調以上に嬉しかった。 そういえばここに書く同じサックス奏者で今年34歳になる Joris Roelofs を初めて観たのもこの BIMHUIS だったけれどあれは今からもう13,14年前になるのだろうか。 彼はまだアムステルダムの音楽院の学生で才能があるものだから自分が当時よく聴きに行っていたビッグバンド The Orchestra Of The Consertgebouw の客員サックスでアルトやクラリネットを吹いていたのがかれの演奏を聴いた最初だった。 才能あるメンバーの中でメリハリのきいた端正なプレーでソロのときには様々なフレーズが次々と飛び出し、もっと聴いてみたいと思っていたときに偶々終わってから外に出ると繋いであった自転車の鍵を外している Joris がいて、君のCDがあったら聴かせてほしい、と話しかけたのが最初だったがシャイな若者からは、いえ、まだないんで、、、という返事だったのが今ではもうリーダーアルバムが4枚、グループで共演しているのが4枚、ドイツ、オーストリア、オランダの代表的なビッグバンドでソロが聴かれるのが6枚というのが2006年からの経緯だ。 何年か前にはノースシージャズフェスティバルの客員作曲家として依頼の曲もものしている。 ドイツに住んでいるリー・コニッツとホールの隅で二人で話していたのをよく見かけたけれどそれは音楽院から続く個人授業でもあり旧世代から新世代への引継ぎを延々としている風にも見えたのだったがそれがすでに花咲きこの歳でもう徐々に円熟の芽も見え始めているのが感じられるこの日のライブだった。

この数年はアルトはあまり手にしておらずこの日のようにバス・クラリネット、クラリネットを専ら演奏している。 多分日本でも手に入る  Chamber Tones Trio の2010年録音のものでクラリネットに並んでアルトを吹いているのと2011年のリーダーアルバム、ビムハウス・ライブでバス・クラリネットとともに聴けるのがアルトの「休止期」前の最後のものだろう。 8歳のときにクラリネットを始めて12歳のころチャーリー・パーカーばかり聴いていたのだからアルトはお手の物だしジャズの楽器の花形でもあって訓練と勉学はそれに注いであり、それで登場したのだけれど或る時からはクラリネットに戻り、ことに今はバス・クラリネットを主に吹く。 流石にコントロールとフレーズは今更ながら素晴らしくこの間、フリージャズの猛者たちと研鑽を重ねアルトの形跡を消している。 だからモンクやショーターのものではこの楽器の特性が遺憾なく伸び伸びと発揮され、バスクラリネットと聞くエリック・ドルフィーが即座に思い浮かぶ我々には如何にドルフィーと同じか違うかを探し、そんな風にも聴くのを禁じ得ないのだがドルフィーの香りは残しつつも、それはドルフィーなのか楽器の特性ゆえの指運となるのかに思いをめぐらしているうちにドルフィーの60年代をはるかに飛び抜けて現代のフリー・インプロヴィゼーションに遊ぶのが認められるという具合だ。

フリー・インプロヴィゼーションで互いに刺激しあい感興を分けあうこのトリオで、ギターの Reinier Baas は基本は硬質の音ながらパンクの香りをどこかに湛えて驚くほど達者なコード変化でフリーからブルース、果てはアフリカの民族音楽的なものまで展開するのであって、そこに呼応する Onno Goveart はスティックやブラシは置いて素手で対応するという場面もありリズムはアフリカの「プリミティブ」でありながら現代空間が広がるという不思議なことも起きるのだ。 特にバスクラリネットの演奏中に於けるギターのサポートは特筆すべきでありこのギターが今注目される理由もその野生味とスマートさを含んだ現代を走るギターをみるからだろうと思う。

モンクやショーターのものもスタンダードというのだろうがそれにも増して歌心が横溢する 4,10、アンコール で聴かれるクラリネットは素晴らしいものだった。 その素晴らしさはこれらスタンダードに聴かれる遊び心と実験的インプロである 3,9 や 自作、Baas作の 1,2,6、9に加えて14世紀のバロック以前の作に材を採る 5、10 などの間に配置された当日のプログラムの多様さの中から醸し出されるものが先に書いた34歳で既に円熟の発芽をみたという印象に繋がったのだろうと思う。

演奏が終わり年季のはいった40人ほどのジャズ・オタクたちが去った後ステージを降りてこちらの顔を認めるとやってきて長く顔を見なかったことをいうので、演奏予定のすくないことを訊ねたら選んでいるのだと言った。 内向的な性格から計画を立て曲想を練って勉強し、発表までの準備期間がいるようで生活のほうは音楽院教師としてなんとかやっていけるから音楽の質を念頭一番に置いていると言うのだが、これは岡部君と同じだ。 そこで、それに挑発されてアルトでパーカーをやらないのかい、と言った。 ドルフィーはなんとかクリヤーしているのだから世界中でどこでも皆がやってきたパーカーをやらないことはない、まだ君には決着がついていないのだからそろそろ自分のパーカーをやらないと、と振った。 皆パーカーを辿ってきて時代はパーカーはもう教材とスタンダードでしかない、とかなり手垢のついたものになっているのだがフリーの連中がこの日彼らがやったようにモンクを愛し、演じつづけるようにフリーを通過してパーカーを演じるハードルはとても高いものだと思う。 フリーとバードの組み合わせをけしかけたわけだ。 時代に逆行するかのように響くがこの男にはそうではないと思うのはフランス哲学よりドイツ哲学に惹かれて時間があれば読むといっていたその選択からもいつかはアルトで彼独自のパーカー解釈を試みるだろうと感じたからでもある。 それは難しいはなしだというもののアルトで斬新なパーカーを聴けることを楽しみにしていると念を押して次回のライブかCDを待つことにする。

 

2006年 Joris Roelofs 4 at BIM Huis in Amsterdam のメモ

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/40741115.html

 

2008年 Joris Roelofs Quartet のメモ

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/56338820.html

 


これで何分咲きぐらいだろうか

2018年03月12日 15時42分41秒 | 日常

 

ゆっくりゆっくりと無数にある蕾が開き始めている。 蕾は去年からついていてそれが硬いまま一月の末に日本に出かける前に、二月の中頃に戻ってくればうちの椿の季節は済んでしまっているかもしれない、と日記には書いていた。 実際、四国や京都などでは椿をあちこちで見たのだし多くは咲き終わっていたからそう思ったまでで、けれどオランダに戻ってきてみればほぼそのままだったのには驚くとともに、ああ間に合ったという安堵もあったものの、けれどその後の開花速度の遅さにこれは普通なのかどうか疑問に思うこともあってネットでみれば別段これで問題ないという事も分かって、へえそんなものかとも思った。 国も違い沢山ある椿のなかでも種類がちがえばその性質も違うのだからこれはそんな種類のものなのだ、それにその発育の遅さにも思うところも無くはない。 

大阪の田舎を歩いていた時に椿の群生しているところがあり、そこにいた府の自然公園管理人に訊いたことから思い起こすと自分が子供のころ丘の上でよじ登って対岸の神戸を眺めていたあの椿の大木は百年を遙かに超すものだったようで、それを子供の自分が知っていればもう少しその椿に対して尊敬の念を持って登っていたものをと考えたものの子供のことだから仮令そうと知っていてもそれがどうだと鼻にかけなかったかもしれず、多分田舎の子どもには数百年がどうだとやり過ごす蓋然性の方が大きいとも思い、自分の頭の中にはその子どもの時の記憶と相まって、椿というものは大木でなければならない、そういうものだ、と思い込んでいたふしがある。 そんなことだから眼の前の我が家の椿も盆栽に毛の生えたものぐらいにしか感じないし、こうでなければならないとどこかで思いこんでいた樹がここにないというもどかしさも幾分か感じもする。

木の小ささは一面にまんべんなくついている蕾の多さで相殺するとしてこれから徐々に咲き始めるにしてものんびりしたものだ。 ことしの椿の初物、といって妻が咲いたものを摘んでダイニングの一輪挿しの硝子の器に生けたのは2月の15日だったからそれからすると花盛りのピークは四月の終わりごろになるのかもしれない。 カメラを構えながらアングルを探っている時に、はて、今の開花状況というのは何分咲きだろうかと思った。 多分二分から三分だろうと理由も数えることもせず大雑把にそう勝手に結論付けてシャッターを押した。 

 


漏れている

2018年03月11日 15時39分41秒 | 日常

 

朝家人に起こされた。 あなた大変、漏れてる、私の枕元の壁にシミができてる、あれはセントラルヒーティングのパイプが漏れてるに違いない、診てくれる、と宣うのだ。 面倒なことだ。 上階のセントラルヒーティングのパイプなら自分の元屋根裏部屋の床辺りに巡らしてある。 今はガラクタ部屋になって足の踏み場もないくらいの部屋のしかもパイプが伸びているのは部屋の一番奥まったっ床上、隅でありそこに行き着くまでが至難の業だ。 先ず山ほどあるガラクタをどこかに持って行って合計10mほどの部屋の二辺は診なければならず、その行程を考えるとウンザリする。 あれをこうしてここに持って行って、と考えると一日仕事になるのは必至である。 家人はセントラルヒーティングのパイプだと思い込んでいるがもし壁やどこかの罅から雨水が沁み込んでいたら、、、そうなるともっと面倒だ。 壁や屋根の罅・穴からの漏れはすぐ下に漏れるとは限らない。 壁の罅では何メートルも離れたところから迷路のように巡り巡って漏れが発見されるところまで移動しシミとなって現れる、という場合もある。 

家人はそう言い残すと年寄りばかりのウオーキングクラブの定例ウオーキングに雨の中を出かけた。 自分は今朝はもう1年ほど参加していなかった射撃大会に出かけるべく昨晩久しぶりに火薬をプラスチックの筒に詰める作業をして準備しており、屋根裏部屋のガラクタをかたずける時間もなく、銃器の入ったカバンを下げて表に出てふと漏れたあたりの屋根を眺めてみると屋根の瓦が一枚外れて穴がぽっかり空いているが見える。 しめた、これだ、と喜んだ。 あそこから雨水が下に漏れて家人の部屋の壁に伝い、、、、、ということだったのだ。 昨日から降っていた雨は止んでいていまのところ漏れる恐れはなく戻ってきてからのことにしようと20kmほど離れた射撃クラブの会場に急いだ。 ガラクタをかたずけることはない。 これでこころの憂さが幾分か晴れたような気がした。

帰宅すると2週間の休暇から戻った隣人がバス程大きなキャンピングカーを洗っていた。 自分の家には梯子はあるけれど3階に届くような長い梯子はない。 この10軒ほどある通りにもそんな長い梯子をもっているのは一軒か二軒で何かあったときにはそこに借りに行く。 その旨をいうと気楽に隣人男二人は3つ続いた梯子をもってきて組み立て、一人がするすると上に登って5分ぐらいで外れた瓦をもとに戻してくれた。 外れてずれ落ちたのだから引っかかる部分が壊れたのかと思ったが何ともなかったそうだ。 自分はそんな作業をただ観ているだけだった。 持つべきものは善き隣人である。 彼らがバカンスに出かけるときには我々が猫の世話をするのだから持ちつ持たれつといってもいいだろう。 これで一件落着なのだが、考えてみると屋根瓦がずれ落ちる程の嵐があったことも思いつかず、いつこんなことが起こったのか不思議な気がする。 先月日本に帰省していた折に大風が吹いたのだろうか。 それにしてもそれからあと雨が降ったこともあるだろうしこのことは何とも解せない。 

 


'18、 1月2月帰省日記(7);直島3、島の生活 

2018年03月09日 13時02分26秒 | 日常

 

直島はがんばったら一日で徒歩で周れなくもない小さな島だ。 瀬戸内海に数多ある島のうちで学生時代には何度もフェリーから眺めていた、当時は名も知らぬ島だったものがたまたま半世紀も経って今回来ることになったのだから不思議なものだ。 あの時気にもかけず今来るという機縁に成ったのはただこの村が文化的島おこしによって村中にアートが配分されそれで国際的に名が知られ、そんなところに日本語も分からぬ家の者たちが来たいと言ったからだ。 アートに関しては二泊三日では足りなかった。 だから機会があれば隣の豊島を含めてまたここに来たいと思うがその機会が果たして巡って来るかどうか。 それはさて置き、ここが気に入ったのは村のあちこちにアートが点在していることだがそれ以上に魅力があるのは作家たちが民家や公共の建物、寺などを利用してそこをにアートの空間を設置し、人々が村のその空間にはいり様々な場所を巡り非日常であるアートに接すると同時に、訪問者たちがそれぞれの生活空間から離れたこの島の生活空間に入るというその体験が影響し合ってアートを巡るはずのものが新鮮に映りこれが大きな刺激になっていることは確かなようだ。

外国から来てしかも半世紀以上前に自分の村で経験したような村の佇まいの中で宿泊し、徒歩で島の高台、海岸、漁港を巡って歩く経験は忘れられるものではない。 けれど一方それは旅行者のノスタルジーとエキゾチズムを味わいながらの「文化体験」でしかない。 「いいところ」であるから誰しも住みたいという気分にはなるに違いはないのだがそれから「ここに住もう」というところまでの距離は大きいだろうと思う。 日本でも世界各地でもこのような島に生まれ育った者が定着するなり戻って来ることの甚だすくないことは誰しも知っている。 いいところだけでは定着する理由にはならない。 企業・自治体ぐるみで何年もかかって作り上げた文化観光政策の成功例なのだろう。 徐々にとはいえ若者が住み着く、また少ないながらも他所から越してくる若者もいると聞いた。 自分の嘗ての学生でここに1年ほど住んで働いているという娘にもあっていい所だ、高松にも岡山にも1時間でいける、偶にはそんな繁華街にも行くけれど別に行かなくても不自由はしないという声も聞いた。 そのように生活の糧を得るのを確保した者たちには住みやすいのだろうと思う。 

夜暗いところで初めて狸をみたところの近くを翌日歩いていた。 そこに軽トラックに売り物を積んでやってきたパン屋の移動店舗が停まって鐘を鳴らし近所の人々を集めているところに行き当たった。 コンビニがあるのは見ていたがパン屋があるのかどうか知らない。 ひょっとしたら高松や本土からやってきて廻っているのかもしれない。 こんな食い物に目のない娘がメロンパンと苺大福を買って頬張っていた。 年寄りは勿論、年寄りでなくとも近くにこういう店が定期的にやってくるのは歓迎である。 思い出してみると50年代の田舎では村の魚屋や八百屋でさえこういう風にリヤカーや自転車の荷台にものを乗せて売りに来ていた。 こどもの自分は縦に長い帳簿を持って八百屋や魚屋にお使いに行かされたことを覚えている。 現金はもたず一年に盆と暮れの二回精算していた。 今、娘は現金はもたないものの移動パン屋のもつ小筐にカードを入れ、暗証番号を押して支払っていた。 

狸や猪を身近にみる島だった。 そんないい島だったら住めばいいではないか、と言われたらどうするだろうか。 半年や一年だったら住んでもいいと思うし住めると思う。 あと20年あるかないかの余生をすべてここで過ごすとして、、、、。 その時はここにあるアートは日常に紛れて何とも思わなくなるだろう。 1キロほどはなれたところにモネがあってもそれは殆ど意味を持たなくなっているに違いなく毎年季節がよくなり暑く成ると余所者、外国人で溢れるのだ。 そんな中で耐えられるかどうか。 小さな島であるのにかかわらず老人福祉施設や病院、学校が充実しているようにみえるのには驚いた。 それがうまく機能しているのかどうか尋ねる機会もそんなことを話す人にも出会わなかったけれど少なくとも他の何百、何千とある島の村よりは恵まれていると思った。 島民にしてみたら延べ3日ほどしかいなくて何が分かるのだというだろうがそれが実感だ。 

1日に何本もないフェリーに遅れないよう慌ただしく島を離れそこからあまり離れてもいない観音寺に住む友人のところに向かった。 直島はいいところだと思うから猪がのんびりとうろうろしている浜辺の透明な水に母の遺骨を何粒か撒いてその風光明媚を味わってほしいと願った土地である。 それに母はヨーロッパに来る愉しみは美術館巡りだといっていた。