暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

手を見る

2018年03月08日 22時58分02秒 | 想うこと

 

自分の体の部分をじっくり見るという習慣はない。 鏡はみない。 定年してからは着た切り雀だ。 何かの時以外はいつも同じ服を着て出かけるときも着替えはしない。 日本に帰省した時も家で普段着ているそのままで出かけた。 だからどこにいるときも平生の気分でいられたし甚だ都合が良かった。 日本に帰省したときと家にいるときと違うのは日本では毎日風呂に入るけれどオランダではシャワーさえ三日に一度ほどで、それは一週間に二度ジムにいって汗をかくからシャワーを浴びるのでそれがなければ十日でも二週間でもそのままでいたりする。 こういうのをズボラというのだろうが自分の気性にあっている。 けれど下着やシャツの交換はちゃんとする。 それぐらいのことはするしまだ耄碌はしていない、はずだ。

この何年か、二年ほどだろうが、時々手をみるようになった。 別段肌の手当の為でもなんでもなく、ただ見る。 それはまるで他人の手のようにみえるようになったからだ。 そこにあるのは老人の手だ。 沁みというか老人斑というかそんなものが何時頃からか出来始め血管が浮き出てやたらと皺がよる。 人の手をじっくりみたことはないが張りのある若い人の手と年寄りのものの違いぐらいは分かるからこれはどうみても若い者の手ではない。 自分も嘗ては若かったのだからどんなだったか思い出そうとしても思い出せない。 はっきり自覚して見たことがないからだ。 そう思ってみたことがあったとしても忘れている。 どちらにしても同じことだ。 他人の手のようだ。 

手がこのようなものだから体の他の部分も同じようなのに違いない。 先月日本で友人家族に会ってそこで友人と二人の写真を撮り、それを眺めていたら家人が、ほんとに何処にでもいるお爺さん二人だわね、と言ったので驚いた。 自分にはそうは見えなかった。 そこにいるのは馬鹿笑いしている自分と同級生の姿だったのだが二人とも18歳当時そのままで、お互い変わらんなあ、と言い合っているのだった。 顔をみていると少しも変わっていないのに手はこんなに他人のものになるというのはどういうことだろうか。