暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

手を見る

2018年03月08日 22時58分02秒 | 想うこと

 

自分の体の部分をじっくり見るという習慣はない。 鏡はみない。 定年してからは着た切り雀だ。 何かの時以外はいつも同じ服を着て出かけるときも着替えはしない。 日本に帰省した時も家で普段着ているそのままで出かけた。 だからどこにいるときも平生の気分でいられたし甚だ都合が良かった。 日本に帰省したときと家にいるときと違うのは日本では毎日風呂に入るけれどオランダではシャワーさえ三日に一度ほどで、それは一週間に二度ジムにいって汗をかくからシャワーを浴びるのでそれがなければ十日でも二週間でもそのままでいたりする。 こういうのをズボラというのだろうが自分の気性にあっている。 けれど下着やシャツの交換はちゃんとする。 それぐらいのことはするしまだ耄碌はしていない、はずだ。

この何年か、二年ほどだろうが、時々手をみるようになった。 別段肌の手当の為でもなんでもなく、ただ見る。 それはまるで他人の手のようにみえるようになったからだ。 そこにあるのは老人の手だ。 沁みというか老人斑というかそんなものが何時頃からか出来始め血管が浮き出てやたらと皺がよる。 人の手をじっくりみたことはないが張りのある若い人の手と年寄りのものの違いぐらいは分かるからこれはどうみても若い者の手ではない。 自分も嘗ては若かったのだからどんなだったか思い出そうとしても思い出せない。 はっきり自覚して見たことがないからだ。 そう思ってみたことがあったとしても忘れている。 どちらにしても同じことだ。 他人の手のようだ。 

手がこのようなものだから体の他の部分も同じようなのに違いない。 先月日本で友人家族に会ってそこで友人と二人の写真を撮り、それを眺めていたら家人が、ほんとに何処にでもいるお爺さん二人だわね、と言ったので驚いた。 自分にはそうは見えなかった。 そこにいるのは馬鹿笑いしている自分と同級生の姿だったのだが二人とも18歳当時そのままで、お互い変わらんなあ、と言い合っているのだった。 顔をみていると少しも変わっていないのに手はこんなに他人のものになるというのはどういうことだろうか。


今年初めて海に行った

2018年03月07日 20時35分27秒 | 日常

 

2018年 3月 6日 (火)

今年初めて海に行った。 この何日かこの時期にしては異常なほど気温が低く濠にも氷が厚く張って人々がそこで久々に遊べたほどだったのが昨日今日と急激に温度が上がり春が来たようだ。 それで、というわけでもないけれど港の魚屋に行こうと夫婦して勝手知ったるライデンの外港、 Katwijk(カットヴァイク)に出かけたのだった。 この20年ほど何かの折には買いに出かけていた魚屋が事業を拡張した結果、質・味ともに満足できないものになっていてそのことをいうと、その町に住むジムのトレーナーの一人であるマーイケが、自分は魚は好きではないけれど母があの魚屋がいい、といっている魚屋を彼女から教えて貰っていたのだった。 あんた漁村のカットヴァイクに住んでいて魚が嫌いだと、そんなこと知れると村八分になるぞ、と冗談をいったほどだけれど、昔からプロテスタントの宗教色が強いところでもあるから今でこそ冗談で済ませられるけれどものによってはそんなことが日常に起こっていたところでもある。

天気もいいことから久しぶりに海を観たいとも思っていたのでぶらぶらとでかけ新装なった砂丘下の長大な地下駐車場に車を置いてそこから聞いていあった通りに行ったのだった。 ほんの小さな魚屋は地元の売れ筋のものしかおいてなく、それに欲しいと思っていた燻製の鯖も生の鯖もなく仕方がないのでそこで白身魚のフライを揚げてもらい昼食代わりにしたのだった。 家人は酢漬けの鰊を喰った。 その後近くの行きつけの店に行ったけれどそこでも生の鯖がなく不思議に思った。 鯖は普通にある魚で、ないわけがないのだけれど単価が低いから数を仕入れていないのだろうと想像した。 大阪に帰省した折も鯖寿司を喰いたいと思い昼間の鮨屋を幾つも訊いて回りどこでもないと言われ5,6軒訊ねたあと鮨のチェーン店でやっとありつけたことがあって、例えば鯖の棒寿司やバッテラ、キズシといったものは原価が安いのに作るのに手間がかかるからメニューにいれなかったり今日はない、と言われたりする。 帰省するたびに出かけていた心斎橋大丸前の本福寿司で棒寿司一本の半分、四貫を冷や一合で喰うのを楽しみにしていたのだが二年ほど前に江戸時代から続いていた店をたたんでしまったのが返す返すも残念だ。 美味いからそれに2500円払うのは高くもないのだがそこには客は年寄りだけしかやってこなく、また働いているのも年寄りだけだった。 

そういうことがここでも起こっている。 鯖の燻製である。 燻製といっても高温で燻すのと低温で燻す方法がある。 手早く高温で燻す、つまり殆ど蒸した状態のものを燻製と言って売るのが今では殆どだ。 低温で長く燻すのにはそれだけコストがかかる。 元々鯖は原価が安い魚である。 だから長く燻すより高温で手早く蒸してしまう。 そうすると肉質に雲泥の差がでる。 低温で燻したものは肉が半透明で硬く締まってそれをオーブンにかけると半生の美味さがでるのだが蒸したものは身がやわらかくパサパサで味気がない。 あちこちの魚屋で訊いているけれどこの何年かで美味いものが消えて殆どが蒸したものを燻製といって売っている。 味を知っている年寄りが消えて文句をいうものもなくなりそれでコストを考える製造者の都合がこうなったのだ。 もともと原価の高い物ならばこういうことにならなかったのだろうと思われる。 そこに自分が大阪で経験したことと重なる部分があるように思う。 鯖好きとしては残念なことだ。 オランダは海洋国で昔から魚が主要な食糧だったものがこの30、40年ほどで急激に魚離れが起こりその結果の一つがこれである。 水産資源の枯渇により魚の値段が上がりそれなら肉にと雪崩をうって魚離れが進み若者には美味い鯖の燻製を知る者がいなくなった。 

砂丘を越えて砂浜に降り水辺まで来て振り向くと長期滞在用のバンガローが高いところに建てられていた。 毎年この時期に建てられ海水浴客が去る秋の終わりに解体されてその後、冬の間は砂丘だけが残されてあたりは静かになる。 とても春とは言えない空だったけれど空気の中には暖かいものがあって2日ほど前にはこの場所に来ても寒くて立ってはいられなかったはずがさすがにもう三月も一週間が経とうかという時期である、暫く空と海を風に吹かれながら眺めていた。 教会の塔のある風景は重苦しく見えても気温はもう春のものだ。

海に来るのは今年初めてだなあ、と家人に言うと先月瀬戸内海の島の浜辺でお義母さんの散骨をしたじゃないの、と言われ、なるほどその通りだと思ったものの、あれは別世界のことだったとどこかで思っている自分がいるからこんなことを言うのだろう。 ここが自分の住む土地であそこはもう異国になっているのだし日差しはもう春の盛りのようだったのだから現実離れがしたものと頭に刷り込まれているのだ。 そしてこれが今年初めての海だと思い直したのだった。


三か月の命だった

2018年03月07日 14時14分46秒 | 日常

 

今日オランダ国立癌研AVLに行ってきた。 先週3か月に一度行う3度目のCTスキャンをした結果を担当医師に尋ねに行ったのだ。 結果は良好で癌が認められなかった、いまのことろ癌が戻ってきているとか蔓延っている兆候がない、ということだった。 初めて医師のモニターでスキャンの画像を観た。 肩あたりから輪切りにしたような連続白黒画像で、ここが肺、心臓、切らずに残った胃の上部、肝臓、腸、腰骨、前立腺、小さいながらペニスが見えます、といった具合だった。 肉屋で豚の片身を切り取っていくのを見たのがこの間だったのでその画像がそれに似ているのを感じながら同じようなものだとおもった。 ちゃんと色がついているような画像ができれば同じようなものが見えただろう。 

画像をみながら、あなたがここに来た時にあの状態から何の手もうたなければ余命は3か月だっただろう、と言われて当時のことを思い出した。 まさにドサクサのど真ん中にいて当時は何とも思っていなかったものの今考えてみると藁をも掴むおもいだったと思う。 つまりどのように診断されても不思議ではないような状態で生きると死ぬの瀬戸際を辿っていたのだ。 たまたま腹腔の癌細胞が臓器に侵入していなかった、それも手術で開腹して初めて分かったことで、もし癌がたとえば肝臓に少しでも侵入していたとしたらこの若い医師がいうとおり3か月だったのだ。 つまりもしそうだったなら今の自分は存在していない、ということになっていた。 それを想ってゾッとした。

けれど当初からの通り現在も自分のカテゴリーは癌を抱えた治療であり、これまで3回癌が認められなかったとはいえ完治したとはならず完治ということばは到底自分には与えられないうことを心しておかなければならない。 手術後2年はがん再発の危険ゾーンであると聞いているのでこのゾーンからでるのにまだ1年以上かかる。 3か月後のCTスキャン日を予約して帰宅した。 次回以後は3か月ごとから半年ごとのスキャンに変わる。 東芝製のCTスキャンの解像力の話になって放射線科の専門医が血眼になって癌だと認められる最小単位が直径5mmだというのだ。 大分前に他の医師から1mmだと聞いていたのと違うというと、まだそこまでいっていない、5mmまで大きくなると癌細胞が数百万個、コロニーの初期状態だとわかるというのだ。 それに毎回行う血液検査の結果と組み合わせて診断することであるから腹腔液中に癌細胞が発育してもスキャンでは認めがたくとも血液検査には出るだろうから当分はこれが最良の策であると説明されて納得するしかなかった。 三か月の命だった、と聞いてゾッとしたのだが、考えてみるとこれまで3か月ごとのスキャンでも結果を聞くたびに命が伸びたと考えるだけで、自分の命が安泰だったのが3か月間であったことでしかなく自分は時限爆弾を抱えて生きているという想いはますます強くなりこそすれ消えることはない。 こういうことが続くとそのうち発見されたと宣告が下った時にはやっと来たか、と倒錯した安堵の気分になるかもしれず、その後はまた抗癌剤治療、再手術、、、、というドタバタが繰り返されるというシナリオは頭の中に入っているしそのことも医師とは確認してある。


芳川泰久 著  「蛇淵まで」 を読む

2018年03月06日 11時09分58秒 | 読む

 

芳川泰久 著  「蛇淵まで」

文學界 2018年 2月号  P82 - P131

 

雑誌巻末の執筆者紹介のところには早稲田大学文学学術院教授、51年生まれ。「吾輩のそれから」とあって、本作の中から著者に近似と思われる泰則という大学教師である主人公は漱石にからんで英文学が専攻だろうかと想像できるのは文中、高校時代の思い出でラブレターに I Need You と書いてその不埒さを教師からこっぴどく叱られたというエピソードを示していることから想像したことであって、フィクションと作者を結びつける幼稚なことはしないつもりでいても下衆な勘繰りも名前だけはこの何年も文学雑誌でみていたし記事も作品も眼にしていた筈なのに一向にその印象がないそのことがこんな下衆の勘繰りを後押しているのかもしれない。

帰省の折自分が奉職していた大学の図書館に「文學界」がないことからこの自分が愛好している雑誌を地元の小さな書店で手に取って、もう継続して読まなくなったのはこの7,8年のことになる、と思い返したのだった。 1980年代の中頃から30年近く「すばる」と「文藝」を加えて三誌を取り寄せ、読んだあとは日本学科の図書館に寄付していた。 図書館には「新潮」と「群像」が入っていたし芥川賞受賞作は中央公論の横に並んでいた文藝春秋で読んでいた。 だから本作の作者名もそんな中で記憶に残ったのだが作品の印象がないというのはどういうことなのだろうか。 若い時に創作で文芸賞をとりその後鳴かず飛ばずで教師になるという作家を多く見て来たしそんな教職と並行して創作活動をして成果をあげている作家も何人かはいるし鳴かず飛ばずでいるという作家・教師も大勢いる。 純文学は売れないのだし喰えないのだから子供に知識を切り売りして口に糊してそのうち公務員のようになる。 

第一、純文学などという言葉にしても死語であり文芸雑誌に活気があるかどうかということも文芸三誌を取り寄せることを止めた理由の直接間接的なものかもしれない。 毎月家に届けられていたものを梱包して郵便局まで歩き船便で送ってくれていた母が介護施設に入ったからというだけが理由ではなかったように思う。 自分が年を取り書かれているものに魅力を感じなくなったりそんな雑誌の風景が霞んで遠のくように感じたからでもあるのだろう。 いくら面白いと思って始めた道楽でもいつかは辞める時が来る。 それは自分の方の理由が大きいけれどそれを後押しするのはそういう道楽の現場の様子にも依るのだ。 同じようなことが自分の道楽の一つであるジャズでもいえる。 4年ほどジャズの現場を離れたら分からなくなるし自分の鼻が利かなくなっているのを感じる。 それも自分の肉体的条件である鼻が鈍感になるということと現場の匂いが変わってしまっているということもあるのだ。 それを今回感じた具体例としてこういうことがある。

2018年2月号の「文學界」をざっと見渡して特に印象に残るものがなかったのだ。 自分の鼻が鈍っているのだろうか。 新春創作特集として保坂和志、三木卓、藤野千夜、南木佳士、椎名誠、芳川泰久の創作がならんでいるが殆どが「老人もの」である。 高齢者に材をとるもの、高齢者が書くものの特集かと思った。 純文学は死んでその化石が再生産されているのかとも思う。 それならまだこの間読んだ「新潮」での橋本治の連載「九十八歳になった私」の方がどれくらいパンチがあって文芸を蹴散らし文学しているかそのバカバカしく見える文体に溢れている。 その違いが橋本が「文學界」に出ない理由であるのかもしれず「文学界」が文芸エンターテーメントの牙城として生き残っている理由であるのかもしれない。 けれどこういうものを誰が読むのだろう。 こういうもの、というのは2月号のことであり、また本作のことでもあるのだが、こういうことを長々だらだらと現に書いている自分が、そろそろ70に手が届くという自分が読んだではないか。 この文はそのことに尽きる。

今、1月から2月にかけて日本に帰省したときのことを忘れないために日記として書いている。 母が亡くなりその整理に帰り、納骨、分骨、散骨をしたことを中心に書いているのだがその時の記憶が自分より一つ年若い作者の本作品と重なる部分が多いのを読み進めるうちに認め、それがこの文を書く動機になっている。 大阪の四天王寺に納骨をした記憶がまだ新しく残っている自分に本作の泰則がそのあたりの寺に納骨に行く場面があり納骨、墓のこと、戒名のこともストーリーの曲折にからめて面白く読んだ。 母親にとっては康則は世間の分かっていない大学につとめる息子でしかないように描かれているが若い読者には退屈に続くだろう叙述の終わりに父親の出身地である四国の山奥にでかける話が続き、先月散骨の為に四国に出かけて山襞を掠めたこととも重なり、また大昔、石鎚山に登ったり山奥の村に出かけたこともあるのを思い起こし最後近くまで表題の「蛇淵まで」というのがでてこなかったものが一挙に話が「お話」に収斂され年寄りインテリの母恋ものがたりとして治まる体裁になっているのだ。 自分がもし今回の帰省旅行もなしに、また20歳は若く壮年のはしくれにぶら下がっているのなら洟にもかけない物語であり、何の外連味もない文芸としてどうということもないのだが同じような経験をもつ同年配の話としてはよくあることだとして「あるあるネタ」の一つとして記憶に残るものになるのだろうと思う。 その時にはこれが作者の体験をもとにしているのか創作であるのかそんなことはどうでもいいこととして、お噺のもとである、あったかなかったか知らねども、あったことにして聞かねばならねえという態度をとらねばなるめえ。


春が来る兆しが

2018年03月05日 13時42分40秒 | 日常

 

この二日で気温が10℃ほど上がった。 外に出ると顔に当たる空気に柔らかさが混じってきているのをはっきりと感じる。 近所の水路には冬の最期の薄氷が残っているけれど月も弥生にはいったのだからもう2日ほどで氷もきれいに消え失せ3日ほど前に皆が興じていたの氷上の遊びも出来なくなるのは当然のことになる。 第一、今の時期に氷の上で遊べたと言うのが異常だったのだ。 

昨日町に出た。 数日前には子供たちがスケートをしていた運河にはだれも居らずただ鴎や野鴨がうろうろ氷の上を歩いているのが見えるだけだった。 この急激な気温上昇は早くから予測されており、氷が急激に溶けることが繰り返し警告されていたから今子供たちが見えないというのがその効果なのだろう。

それでも田舎でははしゃぐ若者がまだいたのか夜のニュースではモーターバイクで氷の上を走って遊んでいたバカが陥没して消防救助隊が出る一幕もあったと報じられていた。 オートバイで氷の上を走っている光景を見たのはもう随分と前になる。 そんなことは自分の町ではもう15年ぐらい前になるだろうか。 それでもはしゃいでいたのは比較的軽いバイクに乗ったまだ子供を卒業していないような若者たちばかりだったように思う。 大の大人は重量級のオートバイに乗るがそんな男たちはいくら氷が厚いといってもそんな子供じみたことはせず軽いバイクに乗るこどもたちに任せてそんな光景をオランダのジンかスコッチを舐めながら眺めているものだ。

ジムの仲間で歯医者のアーサーは長距離スケートをやり一年中トレーニングをしている。 湖の氷上スケートマラソンに毎年オーストリアやフィンランド、スウェーデンなどに出かけているのだがそれは近年オランダにはちゃんとした氷が張らないからだ。 今年にしても自然の氷の発育が悪く野外のスケート・マラソンも開催されずただ1回か2回申し訳程度に野外の人工リンクで大会が行われたぐらいだ。 北欧やスイス、オーストリアの湖で氷が20cmほどになるようなところでは重量級バイクの大会もあるそうだ。 

いずれにせよ昨日氷の上をぺたぺたと歩いていた鳥たちももうそんなことができなくなる。 春がそこまで来ているのだ。 来てもらわなければ困る。 


'18、 1月2月帰省日記(6);直島 2、 美術

2018年03月04日 11時48分41秒 | 日常

 

 

2018年 1月 27日 (土) 晴れ

今日一日徒歩でこの島を廻り、幾つかの美術館や野外の美術品、インスタレーションを見る計画を宿舎のトーストとコーヒーの簡単な朝食をとりつつ考えながらさて、と人通りのない村のメインストリートに出て青空の下を歩き始める。

大体この港にフェリーが入るときには向かいの防波堤の先に草間彌生作の赤いカボチャがデンと坐っているのに迎えられ、これが美術の島のシンボルにもなっている。 島の反対側のベネッセホテル・美術館への登り口の浜の桟橋にも黄色のカボチャが構えている。 ロッテルダムのクンストハルという現代美術館にも草間のインスタレーションがあって原色の水玉模様がウリの草間の作品であるとすぐわかるのだがフェリー乗り場のある反対側の漁港にも別の作家のものではあるが巨大なクリーム色の合成樹脂の泡のかたまりで自転車置き場にしたものがあったりしてごく普通の漁港ががシャキッとするのだから美術品の力はたいしたものだと思う。 大自然の中で非現実的なものが目の前に在るという滑稽さを経験する上でも人がここ来てみる価値はあると思う。 なお草間彌生の黄色いカボチャだが後日京都祇園の歌舞練場前をあるいているとそこに草間の作品展を開いているとポスターが出ていた。 ポスターのデザインと実物とどちらが先かと考えたが普通は紙面が先でそれを具体化したものがインスタレーションとなるのだろうが当然実物化したものが契機になってそれを紙に描くということもあり得て、実物と先に書いたが美術にとって二次元も三次元も作品にはかわりなく実物もヘチマもないのだ、 あ、カボチャだった。 

李禹煥(リ・ウーファン)美術館までぶらぶらと景色を見ながら山道を登って行ったのだが途中地中美術館の入口を通過してそのままどんどん山道をあるく。 中国人・韓国人の観光客が貸自転車で我々を抜いて上がって行ったのだが電気自転車だからできることで勾配のきついところでは押して登っていくのも向うに見えた。 峠をこえて道が少し下がっているところがこの美術館へ行く道の入口でそこにテントを張って野生の猫と一緒にここを通る人をチェックしているオジサンがいた。 ベネッセホテルの宿泊客は車でも通過させるけれどその他の車を規制するために一日中いるのだという。 徒歩や自転車は文句なく通れるので我々はそこをだらだら歩いて美術館の方へ降りて行った。 大体この島の美術館は写真撮影が規制されているのでカメラはずっと脇に挿したままだった。 その情報については各美術館にしてもこの島の情報にしてもネットには充分散見されるからここに記す必要はないと思うが島全体が美術館仕立てであるというところが新鮮である。 天気が良ければ徒歩で巡るのが一番だと思う。

李禹煥美術館を出てそのまま浜辺に出た。 美しい透明な水にゴミのおちていない無垢な浜である。 背中のバックパックから母の骨を数粒とりだしてその静かな透明な水に撒いた。 そして松林の方に歩いていくと5mほど向うに猪が鼻を地面に突っ込んで食い物があるのか掻き回していた。 周りにはだれもおらずここは彼の領分なのか急ぐことも荒ぶることもなくあっけないものだった。 去年の五月に子供たちと泉佐野の山の方にある大きなダムを半世紀以上ぶりに訪れた時に車の前に突然猪が飛び出しその狭い山道は低い方はネットで覆われていたので猪は逃げることも出来ず可哀想なことに500mほど我々の前を走ってそのうち穴を見つけてそこから消えたことを思い出したが猪を見たのはそれ以来のことだった。

ベネッセハウスはホテルと美術館が同居している。 入口はホテルのロビーにもなっていてそこで突然顔見知りに会った。 小柄なオランダ娘で大学では自分の学生だった。 自分が定年してからもう3年経つのだから卒業後日本に来て幾つか仕事をしたあとこの1年ほどはここのホテルの研修生として働いているのだそうだ。 内気だが真面目で成績のいい娘だったと記憶している。 ホテルのフロント業務ができて不思議ではない。 学生の時からアクセントのないちゃんとした日本語が話せたのだから日本での経験と彼女の知識をもってすればもっと難しい仕事もできるはずでいずれこの仕事をばねに伸びていくにちがいない。 今のところこの島の生活も楽しく仕事も面白いといっていたので安堵した。 

この島の美術品の入れ物・建物はコンクリートの打ちっぱなしがトレードマークの安藤忠雄の作品だ。 この島を選んだのは自分ではなくほかの家族が選んだのであってその理由の一つが安藤忠雄の作品にはこの何年もでいくつか観ているからでもある。 初めてだったのはチロルで夏休みを過ごしたときにドイツの嘗てはロケット発射場だったところに建てられた野外美術館のホンブロイッヒ・ランゲン美術館だった。 もう12年も前になる。 子供たちは高校生、中学生だったから広大な嘗てのナチスドイツの基地にいくつもの建築物とその中に収められた美術品を見る経験は後々まで残ったに違いなく、その一つとして安藤の作品を観ていたのだ。 それとも子供たちがもうすこし小さかった時に大阪海遊館そばのサントリー美術館に連れて行った時にその建物を観ているはずだがその記憶はない、と言った。 ベネッセホテル・美術館の中心部、螺旋形に昇降する通路はニューヨーク・グゲンハイム美術館のものに似ていて安藤の通路によくある線形のものとは少し趣を異にしているように思った。 デイヴィッド・ホックニーのものを幾つか観てサム・フランシスのものを一つ観たのが印象的だった。 

山を下りて黄色いカボチャのある浜まで降りた。 浜にある海水浴場のよしず張りの店のようなところで自分と息子は美味くもないカレーを喰った。 家人の喰ったハヤシライスは酷い味だったがそんなものを喰ったことがない家人はそんなものかと初めは口にしていたが半分ぐらいでやめた。 娘は餅と緑茶で昼食にしていてそれが一番賢明な選択だと言うのが一同の意見だった。 ただ、そこにかかっていたジャズが気になって店の人に訊いてみた。 アルトサックスに聞き覚えがあってその名前が分かるかどうか確かめたかったからだ。 こちらからその名前と曲名をいうと、その通りだと言った。 メモリースティックにはいっているものらしく前の店の持ち主から音響装置ごと引き継いだものだといった。 アンプはマッキントッシュではなかったもののまともなJBLのモニタースピーカーで食い物の味が音の質に釣り合うのなら文句はないのだがそのことは言わなかった。 今回色々なところで1950年代のバップ・ジャズが掛かっているのに気になった。 もっとその場にあった音楽の種類があるだろうものの何故バップジャズなんかかけるのだろうか。 それがかっこいい、なりいい雰囲気をつくる、なり、また流行りなのだから、というのならそれは誤っている。 ラーメン屋でこれがかかっているところを知っている。 それはそこのマスターが好きだからだ。 鮨屋のBGMでこれがかかっていることもあった。 場違いもいいところだ。 今回こんな風に音楽が環境汚染になっている現場に随分立ち会った。 自分はジャズが好きだからこういうのだ。

不満足な昼食のあと地中美術館に向かうべく急な坂道を登った。 勾配が16度もあると警告がでていた。 幾ら電気自転車でもこれは登れない。 この島に安直な西国33か所かの地蔵が道端にあった。 それが設置されてまだ日が浅いのか点々と続く新しい石像が有難味が薄いように思えた裏を見ると寄進の名前と住所はこの島のものだった。 地中美術館につては、というより直島の美術館のことはこの島に来ても知らなかったからここで突然モネを三枚観られたのは僥倖だった。 靴を脱いで履物を与えられ一度に20人しか入れないように制限されている空間は我々の時は4,5人だけで日暮れ近くの自然光の下では普通見られないようなモネの色彩が現れ幻想的でさえあった。 図録や作品集の複製のほうが色彩が立ってはっきり見られるのだろうが自分にはこれが印象に強く一生残るだろうし自分のモネ経験に少しは厚みができたような気になった。 いずれパリのルーブルでモネの部屋を訪れたいと思うのだがゴッホ美術館と同様常に混んでいるだろうから特にルーブルを訪れるという事はしないだろうと思う。 けれど今日のモネ経験は自分には貴重なものだと思う。 閉館前にここを出た。 けれど閉館後またここに来ることになっている。

300mほど山道を歩いて人々が閉館後に特別にあつまる切符売り場に来た。 宵から夜の地中美術館巡りのツアーというのがあるらしく家人たちはそれを予約してあったようだ。 時間が来て40人ほどの参加者がぞろぞろと夕闇が迫る道をまた美術館に戻る。 美術館は全ての電灯が消され、ただうっすらと自然光が入る中をそろそろと引導されて四角い箱につぼまったサイコロ空間に入れられた。 天井には四角にぽっかり穴が開いており雲の動きが見える。 与えられた毛布を膝にかけ、少し傾斜した白い壁にそったベンチにすわりに寄り掛かれば背が当たる部分に暖房が入っているのが感じられる。  これはジェームス・タレルという作家の視覚を体験させるプロジェクトらしい。 頭上にみえる四角い空を薄暮から夜に移行するその様子を体験するのがこのイヴェントの目的であると説明された。 四角い空の穴につながる四つの白い壁には5分ごとぐらいに淡い色が投影されて眺めている空の印象も投影された色彩に干渉されてか様々に変わる。 微かな残光があるのか四角い穴の一方が微かに明るいのだからそちらが西なのだろう。 今日のように天気が良ければ空の移り変わる様子が楽しめるけれど雨の場合はどうするのだろうか。 自然任せだから天井のガラス窓に落ちる雨粒をでも眺めていろとでもいうのだろうか。 サイコロの一辺にそれぞれ10人ほどが坐った参加者が黙ってそらを眺めているのをみるのは何だか滑稽にみえる。 自分は耳にアイポッドのプラグを差し込みフェデリコ・モンポウのクラシック・ピアノ曲を流してやり過ごした。 茜色から灰色に、それが暗くなり一番星がみえ、それが一片の雲に隠れ飛行機ではなく人工衛星がゆっくり動いていくのも見え、そのうち月が出てきた。 なるほど面白いものだ。 壁の色が変化するにつれて眼が知覚する空も違った色彩にみえるから不思議だ。 そういうふうに2時間近くそこにいたような気がする。 時間が来たのか係員に導かれてほぼ真っ暗な館内から外に出て解散した。 参加者の殆どがベネッセホテルの宿泊客だった。 山の夜道をとぼとぼと降りて港まで帰るのは我々だけだった。 月夜だから海を見下ろす山道を下るのは気持ちが良かった。 あるところから道路わきに電灯が立っているところに来て、そうなると一気に辺りが暗くなった。 さっきの体験ではないが光が闇を強調しはじめたのだ。 光のないときは闇はむやみやたらとでしゃばらなかったのに街灯が一挙に辺りを暗くした。 人家がある辺りに来て水路を隔てた畑の中に動く影が二つ三つ見えた。 目を凝らしてみるとそれは狸だった。 生まれて初めて自然の狸をみた。 こちらが向うを眺めていると一匹のボスというか雄の狸が興味深そうにこちらを眺めている。 10分ほどそんな具合ににらめっこをして眺めていたがこちらが退屈してそこを離れた。 光がないからこうして互いに観察することも出来たのだが街灯があれば狸も出てこなかったにちがいない。

地中美術館を出て暗い山道を30分ほど下り村のメインストリートにある海産物・寿司を中心にした料理屋に入った。 若者が我々が落ち着いた小さな座敷にきて自分にではなく家人、子供たちに英語で話しかけ何を注文するか聞いた。 英語で書かれたメニューをもっていた。 息子は刺身定食、家人は寿司の盛り合わせ、娘は鯨のフライを注文した。 自分はこんな店で無粋にも牛のステーキを注文した。 一日中歩いた時には肉が喰いたくなるのは何度も経験している。 何年か前にフランスのプロヴァンスをリュックを背負って何日も歩いた時にはほぼ毎日ステーキを喰っていた。 そんな性癖がでたのだろう。 無粋にステーキを注文したのはメニューにあってそれに反応したからでもしなければ何を注文していただろうか。 多分そうなると牡蠣フライ定食だったのではないかと思う。

店を出るとき英語が上手な店の若者にそのことをいうと店主である父親に習わされたのだと言った。 島には外国から観光客がたくさん来てそれに対応するためらしい。 この島にはまだ二日しか滞在していないけれどはっきりとほかの島にはない特別な雰囲気が感じられる。 幾つもある美術館がどしりと居座って島の観光に大きな影響を与えているという事だ。 そして若い人にそれに対応する体制が徐々にできているということだろう。 忙しい夏場に来ず今の時期で良かったと思う。 夏場やいい季節には美術館に入りきれなくて待ち時間が長くなり何も見ずにもどってくる人たちまで出る始末だと聞いた。 それにしてもここでも中国人と韓国人の多いのに圧倒される。

 

氷の上に人を見るのは久しぶりだ

2018年03月03日 00時58分27秒 | 日常

 

2018年 3月 2日 (金)

明日は3月3日、桃の節句、ひな祭りの日だ。 けれどここオランダではこの時期にしては異常な低温で濠が凍り、人が氷の上で遊ぶのがみられるようなことになっている。 毎年氷は張ることは張るのだがこのところそれは薄氷でしかなく、人が乗ってスケートをしたりだいの大人がひっくり返っても氷が割れないほどというのは本当に久しぶりだ。 2012年というからもう8年も前にこの場所でたくさんの人が遊んでいるのを写真と共に記したのだがそれは2月の5日のことであり今日のようにそれから1か月もずれて3月に入ってからというのは滅多にないのだからこれが如何に時期外れの寒さなのかが分かるというものだ。

東の冷たい身を切る様な風が吹いているのだがこれをロシア熊の舌だというのだそうだ。 プーチンの娘が隣町に住んでいて何年か前に会いに来たという噂もあるのだから熊が来ても不思議ではない。 中国にしてもロシアにしても政権を持っている者がそれを延長するのに憲法まで替えるようなことをしている。 その結果を想像するとますます寒く感じるのだがそれに輪をかけて昨日、プーチンがロシア版スター・ウォーズ計画を発表して、それは世界のどこにも負けない超高速ロケットシステムを構築したという選挙キャンペーンの一環であったようだがそれもロシア熊の寒い脅しなのだろうし同時にそれは幾分かアメリカのおバカ大統領に対するツッパリでもあるのだろうが何か時代が逆戻りしたようで、時代遅れで子供っぽく感じるのだがその寒さには厳しいものがある。

天気予報では土曜は氷の上で楽しむことは問題がないようだが日曜になると気温が日中5℃以上になり氷が解けるので危険だから気を付けるようにと言っていた。 こちらは氷の近くにも歩を進めることもせず遠くからそんな久しぶりの風景を眺めているだけだ。


'18、 1月2月帰省日記(5);直島 1

2018年03月02日 09時08分46秒 | 日常

 

2018年 1月 26日 (金)

泉佐野の宿舎を7時に出て和歌山までレンタカーを走らせ、8時35分のフェリーに乗って徳島に着いたのが10時半だった。 徳島駅前の観光案内所で行き先を決めるべく第一希望の祖谷渓は雪のために危ないからと断念し、それでは美術の島、香川県の直島に、ということになった。 これまでこれらの候補地は自分の希望外で決められていた。 家族でどこかに行く、何かをする、というときのパターンだ。 それでは自分の希望は、というとそれはない。 精々母の希望の通り瀬戸内海に散骨をし、その延長として四国八十八か所の寺を幾つか巡ってそこにも散骨を、というのが朧げな希望だった。

寒いことと子供たちの勝手な行動に些細なことから腹を立て駅前のデパートのレストランで気まずい昼食を摂ってから直島に向かう途中で八十八か所第一番の霊山寺に着いた時には酒も飲まなかったのに機嫌は直っていた。 参詣し散骨もし、ちらちら降る雪の中を北上すれば高速が香川県に入って瀬戸内海が見えるあたりになると陽が照っていた。 今晩どこに泊まるかも決めていなかった。 高松から今日中に直島に渡れるフェリーが二本あって3時半ごろの便に間に合えばたとえ島で宿舎がみつからなくとも高松に引き返すことができるけれどそれに間に合わなくて最終便になれば島に渡ったものの宿舎が見つからなかったら野宿ということにもなりかねない。 高松には3時前に着いた。 早速乗船手続きをして出発30分前にぎりぎりに間に合ったと胸をなでおろし言われたレーンに並ぶとそんな時間だったのにもかかわらず自分たちの前には車もなく自分たちの後には小さなバンがいるだけでそのバンは郵便配達のバンで運転者の女性が一人坐っているだけだった。 結局時間が来て船に入ると車は自分たちのものとそのバンの2台だけだった。 えらく寂しいフェリーだなと思いながらそういえば朝の和歌山からのフェリーにしても船内に5つも車のレーンがあるのに真ん中の二つ、それもきっちりと二つでもなかったことを思い出した。 階段を上がってキャビンに入るとかなりの人がいた。 この人たちは飛行機に乗り込むように上の乗降口から入っていた「徒歩」で乗る人たちなのだ。 いかにもローカルな風情で買い物で一杯にしたカートを引いている人が多く、弁当や寿司を広げて食べていた。 そんな美味そうなものはフェリーのターミナルには売っていなかったように思ったが高松の市内で買ってもちこんだものと見做し羨ましさを紛らわした。 帰宅する高校生の姿も多くみられた。 1時間の船旅だが天気がいろいろに変化した。

30分ほど経って瀬戸内海の中ほどに来たので見晴らしのいい海に向かって母の骨を二粒三粒撒いた。 そのうち雪雲が舞い降りてきてあたりは暫く静かに吹雪いた。

この景色は見慣れたものだと思った。 大阪から愛媛大学に行って松山で5年過ごした。 大きな休みの度に帰省し松山から大阪に戻るときには夜別府からきて神戸・大阪に向かうフェリーに乗って寝て移動したが大阪から松山に向かう時には初めは山陽線の急行で岡山まで、新幹線が広島までできた時は新幹線で岡山まできてそこから在来線で宇野まで30分ほど乗り、宇高連絡船で高松まで、高松から急行で松山まで3時間ほどの旅だったと記憶している。 そして宇野に来て連絡船に乗り込むと弁当を買って喰い、腹ごなしにデッキに出て景色を見ているとそのうち高松に着くというのが普通にもなっていた。 その景色がここにあった。 高松から宇野に向かう航路を辿った回数はその逆に比べて圧倒的に少ないけれどそれでも海の上に三角おむすびをたてたような島影は忘れられるものではない。 そしてこの航路を辿った時には必ず直島を掠めていたのだったがそのときには煙突が立っている島ぐらいとしか記憶せず、まわりに数多ある島の名前を調べようという気持ちにもなっていなかった。 けれど或る角度から島に立っている煙突を見た時には確かに見覚えのある島だと実感し、そういえば何回か船内案内で直島と聞いたような気にもなっていた。

モダンな港のターミナルに着いて近くの駐車場に車を置いて歩くことにした。 煙草屋の店先に坐っているような格好のお婆さんに事情をいうと料金の300円は明日の昼頃まで有効だからいつ出し入れしてもいいと言った。 そこには機械も柵も何もなかった。 港がある地区は昔からの漁師町か全てがこじんまりとしていて道路にしても車が一台しか通れないようなところがそこのメインストリートだった。 地図をたよりにカフェーや飲食店の位置を覚えておいて初めに眼についた民宿を訪ねたら空き室があって営業しているということだった。 その民宿のオーナーの女性は滑らかなアメリカ訛りの英語を話したので自分もそれに乗せて英語で話したから二世か三世かもかもしれないが日本人だと思われなかったようだ。 今回の旅では自分が宿選びもしないしチェックインもしなかったし、ここでは家人のオランダのパスポートを見せただけで自分のは求められなかったからだ。 日本で日本語が分からない家族と歩き回っていて家族が英語で訊ねて英語で返事が返ってきた場合自分はそこに立ち入らない方がいい。 どうしてもその日本人が英語に詰まってコミュニケーションに支障が出てくる場合には仕方なく自分が出て行って日本語を話すのだがそうするとその後その日本人は自分に向かって日本語だけでしか対応しない、初めに話しかけた家族には見向きもしなくなるということになる。 英語を話すことを放棄するのだ。 それとも英語をよどみなく話す日本人がいるので自分の英語を躊躇しての結果か、それならそいつに通訳させればいいと思うのか、ここを幸いと英語をやめてしまう。 そうなると家族は急に架け橋をはずされたような気分になりムカつく。 これが普通日本で起こるパターンだ。 自分がいない場合でも家族はそれぞれどこでもそれなりのコミュニケーションが取れて支障がないというのをもう何年も経験している。 だから自分はできるだけこういう場合に前にでないで後ろでうろうろしているのが一番いいのだ。 けれどこの民宿の女性は流暢で自分が日本のパスポートを持っているのがわかってからでも日本語と英語を適宜上手に操って自分が通訳をしなくともよかったのだからこんな島で空港職員でも出来ないような丁寧な対応をされた家族はよろこんだ。 多分この人はハワイやグアム、もしくはカリフォルニアに住んでいたことがあるのではないかと推測した。

宿は車を止めてあったところから歩いて5分ぐらいだった。 荷物を運びこむのに息子が車を民宿の駐車場に入れて裏口から荷物を運び2室に落ち着いた。 この家には個室は別として入り口も裏口にも鍵はかかっていない。 翌日港にある草間彌生の赤いカボチャのモニュメントを眺めている時に島の人と話をしていてこの20年でこの島は美術館中心の観光地になって島人は初めて家に鍵をかけるようになった、と言ったけれどそれは外に人間に対する島人の警戒心からすることであって実際そんな犯罪行為があったのかどうかは知らないと言った。 ただ夏には大量の観光客がくるので何年かまえに酔っぱらったバカなグループが神社の境内で焚火をしてそれが吹きあがり松の木に燃え移りそうになって初めて消防団が出動した、ということも聞いた。 過疎の村だが若い人が少しとはいえ外から来て住み着くのが救いだとも言った。 その人はまた宇高連絡船の最期の日に目の前を連絡船が通るのを買ったばかりのヴィデオカメラにテープを入れて撮ったことも話してくれた。 その日は連絡船に長年の感謝の横断幕が掲げられわざわざ直島寄りの航路を通ったのだと言った。 1988年4月9日のことだった。 30年前のことだ。 弁当箱のように大きいヴィデオ・カセットテープだった。 家にもまだそのプレーヤーはあるけれど大量にあったテープは去年全部処分してしまった。 殆どが映画を録画したものだった。

夕食は近くにあった海のものを出すオジサン、オバサンのレストランだった。 オジサンは漁師もやっているといいうことで家族は新鮮な刺身のもりあわせで、娘はマナガツオを美味い美味いといって喰ったが自分は何を喰ったか思い出せない。 ただそれぞれの味噌汁に亀の手が入っていて初めてそれを味わった。 貝の味がすることは確かだった。 自分以外は直島ビールというのを飲んでいた。 飲んではいけない自分はもうそんな光景をみても羨ましいとは思わなくなっていた。 飲みたければ誰が反対しても飲む。 今、目の前に帰りのKLMオランダ航空の機内食で頼んだ白ワインの飲みさしのプラスチック壜がある。 250mlほどのほんの小さなものだが半分ほど残っている。 機内でその半分を食餌と共にく飲み、ひどく酔っぱらって気分が悪くなる手前まで行ったのを覚えている。 何気なくそのまま持ってきてコンピューターのモニターの横にある。 別に美味くもなんともない南アフリカ産の安物だけれど気分が向いたらその結果をも考慮してでも飲むかもしれない。 

食事の後近くの大竹伸朗プロデュ―スの銭湯に行った。 10人入れば一杯になるような銭湯だったが面白かった。 寒い夜には温まり自分と息子の他には日本人の若者二人と欧米人の若者がいるだけだったが日本人の二人はじきに出て行った。 長湯がすきな我々は自然と欧米人の若者と話すことになったのだがその若者はドイツの大学を中途半端にしていてアジア方面の期間も決めない旅行にでて行先でアルバイトをしては移動しオーストラリアから流れてきて静岡の竹を栽培する農家で1か月ほど働き辞めてドイツに帰る前にここに来たのだと言った。 日本語ができるわけでもないけれど何とか工夫して問題がないという欧米にいるタイプだ。 あちこちで見るけれどこのタイプが日本人にはない。 ことに近年自分がヨーロッパで見る限りこの30年でますます少なくなってきているように感じ寂しい気分がする。 若い時にリュックを担いてあちこち見て回るのは一生の記念になるし得るところも多い。 ことに予定もなしにあちこち歩くというのは貴重な経験だ。 自分が若い時には周りにそのようにして世界中あちこちに出かけたものもいるし、自分の高校の同級生でそのようにして世界旅行の挙句南米から北上してアメリカに落ち着いたものまでいる。 自分はそんなヒッピー然とした旅行はあこがれてはいたけれどしたことはない。 精々仕事の休暇で3週間ほどの旅行がそのようなものとしてあるけれど内容は似て非なるものだ。 そんな若者が明日は発つというので風呂の中で別れを言ってその青年は出たけれど我々は二人最後までいた。 体を拭いて温まった体で入口に来ると女たちも出てきたところだった。 向うには彼女らの他にはだれもいなかったと言った。 喉が渇いたのでそれぞれラムネ、コーヒー牛乳、フルーツ牛乳を飲んだ。 彼らはそんなものを飲んだことがなかったのに何か懐かしい味がする、と言った。

ブラブラと5分ほどあるいて宿に戻ってくると先ほど別れたはずのドイツ人の半端学生がいた。 もう一人の宿泊客は彼だったのだった。 明日はこの島を歩いて回るのでもう一泊ここに泊まることにしてその旨、連絡簿に記入して暖かい体を布団に潜りこませればそのまま深い眠りに入ることができた。 朝、泉佐野を出たのが嘘のように感じた。