暇つぶし日記

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'18、 1月2月帰省日記(8);直島から観音寺へフェリーと瀬戸大橋を渡って

2018年03月21日 10時41分32秒 | 日常

 

2018年 1月 28日

霧雨の降る中を12時45分のフェリーで直島から宇野に渡った。 高松から直島までは30分ほどかかったものが直島から宇野までなら20分もかからなかった。 このルートを選んだのは子供たちが直島から見えていた瀬戸大橋を渡りたいと言ったからで、本土の海沿いの430号線を走り瀬戸大橋の途中にある与島で休憩した。 駐車場の特設ステージでは素人に毛の生えたようなパンクのバンドが中学生か高校生の娘たちを前にがなり立てていた。 ちゃんとした音を出しているものの覇気が感じられなかった。 パンクならパンクらしくもっと荒々しくワイルドにやればいいものをと思うけれど野外の昼間では気が入らないのかもしれない。 周りの屋台で娘はダンゴを、息子はたこ焼きを買い、喰いながらそれを眺めていた。 その後、娘は焼餅の入った蕎麦を息子はカレー、家人はきつねうどんを喰った。 自分は何を喰ったか思い出せないけれど思い出せないというのは喰ったものが月並みで思い出せないほどのものだったということだ。 明日は友人の経営する讃岐うどんの店で早朝から作り方を教わりそれを喰うのだから普通ののものを今喰っておけば明日友人の手打ちの美味さにびっくりするにちがいない。 もっとも家人やこどもたちは日本の饂飩を喰うなどと言うのは日頃経験はなく何回もの帰省の折でもあまり饂飩は口にすることもないので明日何というかも楽しみではある。 

バンドの後ろに架橋30周年とあって、へえ、もうそんなになるのかと初めて渡る橋に感慨を覚えた。 自分の意識の中ではこのあたりはまだ渡し船で行き来するところなのだ。 そういえば高校の友人に連れられて7,8年前かにこれから行く同級生の饂飩屋にでかけたときには別の大橋を渡ったのだがそれは明石と淡路島に架かった橋だったのだ。 それもそのとき初めて渡ったきりでその後は泉南からいつも遠くにそれをただ眺めるだけのものでしかない。 北京から山東半島を掠めて韓国を横切り飛行機が伯耆大山上空から徐々に着陸態勢に入り神戸当たりの上空にくるとよく神戸の大橋や瀬戸大橋を眺めることができるのだがそれでも実際に橋を渡る気分には勝るものはない。

四時ごろ観音寺の宿舎に着いた。 もともとは友人の家まで歩いて行けるところにあるかんぽの宿というところを予定してあったのだがこの時期に八十八か所の巡礼が少ないことからか素泊まりは受け入れてはおらず泊まるのなら一泊一人12000円程度からでないと宿泊プランがないので仕方なく友人の店から2kmほどはなれたアメリカのモーテル風のロッジを予約してあったのだ。 一部屋に大きなベッドが二つで4人泊れば一泊一部屋10000円、だけど大きな大人二人にはベッドの幅が狭すぎるから二部屋予約した。 するとちょっと一人には大きすぎるベッドだけれど快適で部屋にもスペースが十分あって使い勝手がいい。 日本で宿を探すのにこんなロッジが各地にあれば便利なのにと思う。 それは今回の我々のように家族4人で車で友人を訪ねて移動する場合のことで、観光地でもなく友人宅から遠くないところにこういう宿があればもっと他の友人宅を訪れることができるのに、と思うのだ。 安価で清潔であればそれでよい。 よっぽど山奥か僻地の観光地の温泉地でないかぎりは我々には食事は不要だ。 それぞれ部屋でシャワーを浴びてさっぱりしてから近くの友人宅にでかけそこで夕食を供された。

その友人家族に会うのはほぼ半年ぶりだろうか。友人夫婦と息子夫婦がイギリスに住む友人夫婦の長女に会いにヨーロッパに来たついでに手術後自宅で療養中の自分を見舞いに寄ってくれたのがこのあいだのことのように思い出される。 その日は不思議なことにベッドからちゃんと起きられて半日彼らを接待できたのだったけれどその後はまた何日もベッドに横になったままだったのだからあれは本当に奇跡的だったと思う。 ゆったりとしたダイニングで牡蠣や肉料理を振る舞われ自分以外は喰わなかったものが初めはおずおずと口にしていたけれどそのうち子供たちも家人も牡蠣の虜になったように貪った。 日本だからこのように喰うのであってオランダに戻ればこんな味は求められないのは分かっているので喰わないだろう。 自分にしても牡蠣を喰うのは日本に居るときだけだ。 

和やかで心地よい晩餐を楽しむことのできた理由の一つは友人の息子も友人の奥さんも英語が話せることだ。 友人の息子のともだちも入れて9人の食卓ではそれぞれ勝手に話があちこちで飛び交い、もともとズボラな自分はそんな中で通訳をする気持ちは毛頭ないから自分は友人とボソボソと話し込むのが当初からの目的であって邪魔されたくないので後は放っておく。 そんなときに若い者どうし、家人と友人の奥さんが自由に各自話せると言うのは楽だ。 もっとも、自分が日本語教師であったのに家族に日本語を教えなかったから悪いのだとあちこちで言われるけれど、それには一理はあるけれど別に家族が日本語ができないことを悔やんではいない。 コミュニケーションなど各自が勝手にやればいいのであってできなければできないでよく、友人家族のように必要に迫られてすればできるものであり、それは別段上手くなくとも通じればそれでいいのだ。 友人にしてもわからないと言いながらも聞いていてなんとか分かっている様子でもあるのだからそれでいい。 とはいうものの友人家族に対して自分の家族が日本語がはなせないことを申し訳なく思うこころはある。

翌日早くから店の準備もあるのでそろそろウトウトしかけた友人に別れを告げてそこを辞した。 こどもたちも明日の早朝から手打ち饂飩つくりの手伝いをするのを今回帰省の楽しみの一つにしている。



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