暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

'18、 1月2月帰省日記(7);直島3、島の生活 

2018年03月09日 13時02分26秒 | 日常

 

直島はがんばったら一日で徒歩で周れなくもない小さな島だ。 瀬戸内海に数多ある島のうちで学生時代には何度もフェリーから眺めていた、当時は名も知らぬ島だったものがたまたま半世紀も経って今回来ることになったのだから不思議なものだ。 あの時気にもかけず今来るという機縁に成ったのはただこの村が文化的島おこしによって村中にアートが配分されそれで国際的に名が知られ、そんなところに日本語も分からぬ家の者たちが来たいと言ったからだ。 アートに関しては二泊三日では足りなかった。 だから機会があれば隣の豊島を含めてまたここに来たいと思うがその機会が果たして巡って来るかどうか。 それはさて置き、ここが気に入ったのは村のあちこちにアートが点在していることだがそれ以上に魅力があるのは作家たちが民家や公共の建物、寺などを利用してそこをにアートの空間を設置し、人々が村のその空間にはいり様々な場所を巡り非日常であるアートに接すると同時に、訪問者たちがそれぞれの生活空間から離れたこの島の生活空間に入るというその体験が影響し合ってアートを巡るはずのものが新鮮に映りこれが大きな刺激になっていることは確かなようだ。

外国から来てしかも半世紀以上前に自分の村で経験したような村の佇まいの中で宿泊し、徒歩で島の高台、海岸、漁港を巡って歩く経験は忘れられるものではない。 けれど一方それは旅行者のノスタルジーとエキゾチズムを味わいながらの「文化体験」でしかない。 「いいところ」であるから誰しも住みたいという気分にはなるに違いはないのだがそれから「ここに住もう」というところまでの距離は大きいだろうと思う。 日本でも世界各地でもこのような島に生まれ育った者が定着するなり戻って来ることの甚だすくないことは誰しも知っている。 いいところだけでは定着する理由にはならない。 企業・自治体ぐるみで何年もかかって作り上げた文化観光政策の成功例なのだろう。 徐々にとはいえ若者が住み着く、また少ないながらも他所から越してくる若者もいると聞いた。 自分の嘗ての学生でここに1年ほど住んで働いているという娘にもあっていい所だ、高松にも岡山にも1時間でいける、偶にはそんな繁華街にも行くけれど別に行かなくても不自由はしないという声も聞いた。 そのように生活の糧を得るのを確保した者たちには住みやすいのだろうと思う。 

夜暗いところで初めて狸をみたところの近くを翌日歩いていた。 そこに軽トラックに売り物を積んでやってきたパン屋の移動店舗が停まって鐘を鳴らし近所の人々を集めているところに行き当たった。 コンビニがあるのは見ていたがパン屋があるのかどうか知らない。 ひょっとしたら高松や本土からやってきて廻っているのかもしれない。 こんな食い物に目のない娘がメロンパンと苺大福を買って頬張っていた。 年寄りは勿論、年寄りでなくとも近くにこういう店が定期的にやってくるのは歓迎である。 思い出してみると50年代の田舎では村の魚屋や八百屋でさえこういう風にリヤカーや自転車の荷台にものを乗せて売りに来ていた。 こどもの自分は縦に長い帳簿を持って八百屋や魚屋にお使いに行かされたことを覚えている。 現金はもたず一年に盆と暮れの二回精算していた。 今、娘は現金はもたないものの移動パン屋のもつ小筐にカードを入れ、暗証番号を押して支払っていた。 

狸や猪を身近にみる島だった。 そんないい島だったら住めばいいではないか、と言われたらどうするだろうか。 半年や一年だったら住んでもいいと思うし住めると思う。 あと20年あるかないかの余生をすべてここで過ごすとして、、、、。 その時はここにあるアートは日常に紛れて何とも思わなくなるだろう。 1キロほどはなれたところにモネがあってもそれは殆ど意味を持たなくなっているに違いなく毎年季節がよくなり暑く成ると余所者、外国人で溢れるのだ。 そんな中で耐えられるかどうか。 小さな島であるのにかかわらず老人福祉施設や病院、学校が充実しているようにみえるのには驚いた。 それがうまく機能しているのかどうか尋ねる機会もそんなことを話す人にも出会わなかったけれど少なくとも他の何百、何千とある島の村よりは恵まれていると思った。 島民にしてみたら延べ3日ほどしかいなくて何が分かるのだというだろうがそれが実感だ。 

1日に何本もないフェリーに遅れないよう慌ただしく島を離れそこからあまり離れてもいない観音寺に住む友人のところに向かった。 直島はいいところだと思うから猪がのんびりとうろうろしている浜辺の透明な水に母の遺骨を何粒か撒いてその風光明媚を味わってほしいと願った土地である。 それに母はヨーロッパに来る愉しみは美術館巡りだといっていた。