暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

ぼちぼち椿が開きだす

2018年02月14日 22時13分07秒 | 日常

 

日本に出かける前に庭の椿の茂みのことを書いた。 一か月前のことだ。 そのとき今年は開花した花が広がっていく時期を見逃すことになると書いていたがそんなことはなかった。 間に合った。 うちの椿は蕾がやっと開きかけたところだ。 日本ではあちこちで椿を見たがもう既に終わっているところもあったし最中のところも多く、蕾ばかりのところはなかったように思う。 そういうことではこちらは寒いのだと思う。 勿論それは関西、四国のことで雪国ではこのようなところもあるのだろうがうちのはこれから徐々に開きだす。 人の背丈ほどの茂みだが無数に蕾がついていてそれが一斉に開きだすのが楽しみだ。


'18、 1月2月帰省日記(1);納骨、分骨、散骨

2018年02月14日 00時52分32秒 | 日常

 

今回の3週間日本帰省の目的は7月末に亡くなった母親の遺骨を四天王寺に納骨し、分骨した残りをオランダ側の家族と然るべく儀式を執り行うためにオランダに持ち帰ることだった。 それに遺産の処理・手続きのこともあった。 だから本来は自分一人でことは足りるのだが納骨の為と称して子供二人に家人が付き添い計4人の旅となった。 子供たちはそれぞれ仕事があるので2週間、子供が帰ったあと夫婦で1週間と言う滞在内容で遺産の手続き上、書類のことでどれほど時間がかかるかはっきりしなかったので初めの一週間で納骨と書類の手続きを済ませ、手続きが長引く場合のことも考えて最後の一週間をそのために開けて置いた。 実際にはスムースにことが運びゆったりと家族四人で四国旅行もでき、それに加えてこの四国旅行では当初予期しなかったことも行うこととなりそれぞれに忘れ得ぬ旅となった。

自分が家人と一緒になりオランダに住み子供もできたころ、母は先祖の眠る村の墓地に自分の墓の為の土地を確保してあったものを弟に譲った。 息子は異国に住み着き自分の死後墓の面倒をみるものも居らず誰にも頼れないことから、墓はあっても仕方がない、と見切った結果である。 もう30年も前のことだ。 帰省するたびに母を含めて家族で村の墓地を訪れてはその経緯のことを話し、昔のことも語り、子供たちには小さい頃からこの墓地は親しいものとなっている。 我々は自分の祖父母、伯父の墓に参拝していたのでそこは出戻りの母には入るところではない。 だからもう50年以上も前に自分と息子、将来それにその(日本人の)連れ合い、子供たち、こどものうち長男夫婦とそのこどもたち、その子孫たち、、、のためを想定して自分の親の墓のそばに土地を確保してあったのだ。 息子は日本語を解せぬ金髪碧眼の女と一緒になりその子供たちも日本語を話さなく、日本にうちもなく、だから自分は日本人であっても銀行口座も開けず、携帯電話さえ買えない始末である。 

では母としては墓が無くては死後どこに納まるのか、それについてはそのときから何回か話してきた。 

村にはこの地方でもある程度位のある浄土宗の寺がありうちはその檀家だった。 戦前、戦中、戦後と母はこの寺の住職夫婦と懇意であり、娘の時にはモダンな住職の奥さんからよく誘われて麻雀を教わり楽しんでいた。 戦中には村から東大の工学部に行き特殊鋼を勉強していた学生も加わり、その青年からもうすぐ日本は負けますよと灯火管制の下でマージャンをやりながら聞かされ、この人、非国民だ、と思ったとも語り、1953年に祖母が亡くなったその葬儀の折り住職が読経のときに3つ児の自分は住職の後ろからその見事な禿頭を撫ぜ廻し困らせたという本人も覚えていない逸話も聴かされていた。 時は移り自分が小学校5年のときに住職の死後寺に住んでいた奥さんも亡くなりその象牙の麻雀パイが遺品として母の手に渡るとそれでマージャンを習った。 6年の時担任の若い教師が学校で宿直になるとそれをもって泊まりに行き教師の指導の下、遊びもした。 だから大学生になって麻雀に入り浸るということはなかった。 時間が勿体なくジャズと写真にその分の時間を割り振ったようなものだ。 

寺の話だった。 住職はえらい人だったようだ。 戦前からアメリカに派遣され布教に励んでおり奥さんはモダンですきなことをやるのだが自分は堅物で夜ごと3人集めて遠くでジャラジャラと音を立てるようなことをしていても咎める風はなかった。 できた人だと皆から尊敬されていたのだが息子を本山の知恩院に早くから勤めさせ子供は京都に住みその子供には自分と同じ年頃の孫もいた。 奥さんの没後しばらくたってその息子が妻と孫二人を連れて越してきたのだが新住職はそこそこの評判だったがその奥さんの評判が良くなかった。 人当たりが悪い、寺の采配ができない、村人と交わらないなど、やがて孫の内自分と同い年の男の子が中学になって自分のクラスに入ってきた。 村のことであり近所でもあるから遊んでやってくれとどこかから頼まれ1度か2度会ったがぶっきらぼうで何を考えているのか分からないようなやつだった。 結局そいつは近所ではあるけれどそのままになりそいつは誰とも交わらず友人もいないままで時は過ぎ、住職も亡くなり自分と同級生のそれが住職になったのが問題の始まりだった。 月周りで檀家を巡るのが主な仕事である。 経はへたで短い。 読経中に腰が据わらず始終動く。 檀家を周っても話はしない。 しても何を話しているのかわからない。 口の悪い年寄りは、水の中で屁をこいているような話し方をすると言って笑ったがそのうち嫁を貰って落ち着くだろうと見ていたものがいつまで経っても一人でいる。 夜には寺で一人カラオケをマイクを握りがなりたてる。 葬儀や法事があっても采配が悪く今迄の諸々のことから寺の檀家総代たちが何人かで本山に他に替えてくれと陳情に行ったが断られた。 それが今からほぼ25年ほど前になるだろうか。 村の者はあの一家が死ぬまで耐えるしかない、と腹をくくりそのうち母親が死に、坊主の姉が死に、当人も死んだのが今から6,7年まえのことだ。 ところが新しく来る坊主がなかなか決まらず末寺の坊主が交代でその間をやりくりしていたのだが新しく来る坊主の為の庫裡や寺のやり替え、普請が必要だと村も寄付を募って走り回ったと聞く。 この何年かで寺の前を通るたびに壁が壊され機械が入り新・増築・普請の様子が窺えた。 去年の5月にそこを通った折りに新住職が赴任していれば挨拶をして頼みたいことがあったがまだ赴任しておらず結局会えず仕舞いに終わった。

母は娘の時代から寺に出入りしていたから寺の内部には知悉しており初めは寺の境内の墓場の隅にある納骨堂に納めてくれという希望を持っていたが寺の母子を嫌い、あれらがいる限りは寺には行きたくないと言っていたけれど彼女自身の認知症が進み物事の判断がまともにできなくなった頃にはそんな寺の連中もこの世を去っており、新住職が赴任すれば思ったとおりになるのにと自分はこの何年か寺の様子を窺っていたのだった。 また、村の連中、親戚は納骨には天王寺の一心寺に赴いていたので大阪に出かけた折何回か散歩で四天王寺や一心寺を訪れてもいて自分はどちらかというと四天王寺の方に親和性を感じていた。 

母が亡くなった折り村の寺の都合がつかず結局叔父の婿が亡くなった時に頼んだ浄土真宗の僧が采配して母には親しみの湧かないだろうと思われる戒名が付いていた。 そして叔父の婿が納骨されたのは四天王寺だったのでそこに納骨すればいいと叔父から示唆を受けてもいた。 だから自分の意図にも合い家族皆その日のためだけに持ってきた服を着て家族4人だけで四天王寺に出かけた。 母の葬儀の日には叔父は心臓の為入院しており叔母が喪主となって全てを塩梅してくれた。 その叔母も足首の骨を折り松葉杖をつき不自由でもあり伯父叔母は納骨には参加しなかった。 納骨の手続きをするのには市の火葬証明書が要る。 分骨したものをオランダに運ぶのに念のためにコピーをとっておいて正本としておいたがそれを使う必要がなかった。 納骨の施主として自分のオランダの住所をアルファベットで言っても70を越したと思しき寺の職員は聴き取れず書けなかった。 何回もやり直しをして挙句の果てが自分でスペルを綴りそれを改めて眺めながら記入していく始末だったがそのとき隣で納骨に来て同じように手続きをしている40半ばと思しき男女はその父か母の享年を言うことも出来ず火葬証明書をみれば分かるものをと思ったけれど自分の親のそれも最近のことでも分からないというのはどういうことなのだろうかと不思議に思ったのだったが自分の方でもまどろっこしい手続きに注意をしなければならずそのうちその夫婦もそこを離れて行った。 納骨は恙なく済み、母には親しみの湧かないであろう他宗派の戒名はやめて俗名で納まった。

後日母の従弟の家を家族4人で訪れた。 母とは仲が良く母はその従弟を真の弟とも思い、従弟は母を真の姉とも思い何かにつけては互いに連絡をしあっていたのだが葬儀の折には喪主である叔父夫婦は家族葬として母の兄弟姉妹の家族にだけしか連絡しなかった。 母の伯(叔)父、伯(叔)母とそのこどもつまり母の従兄弟(姉妹)達までいれると数が多くなりすぎ、また代が替わっているのでその子供たちが来ても要領を得ず当然の処置だったのだが、これに驚きもし、冷たいと多少の怒りをもって数日後に叔父叔母の家に仮安置されていた位牌の前にきて悔やみとともに香典を置いて行ったというのでそれを渡された。 中を開けると兄弟申し合せた金額に倍するものが収められており叔父からその家を訪れるように示唆されていた。 

母の従弟は自分の母方の祖母の妹に子供が出来なかったから養子としてもらわれてきた子供で、大きくなってから母の従妹と夫婦になったという関係であり地元の大きな百姓で農協の理事をもしており20年ほど前に総檜造りの昔風の農家を建てており15年ほど前に我々も家族で訪れたこともありこの「叔父」は子供たちの成長ぶりを喜んでくれ話に花が咲いた。 その中で去年の三月か四月にこの「叔父」が母の施設を訪れた折、お前だけに頼みたいことがあると母から聞かされたことを語った。 自分は墓もないし今の状態では村の寺に行く気がしない。 一心寺でもいいけれど出来れば大阪湾か瀬戸内海に散骨してほしいと頼まれたと言うのだ。 初めて聞いたこのことに驚いた。 叔父叔母にしてもこのことは聞いていない。 本当に親しいものに頼んだことがそのままこちらに伝わらないままになっていたものがここにきて母の意思が伝わったのだった。 四国の観音寺でうどん屋をやっている友人のところに行き、美術館のある直島から足を延ばして学生時代を過ごした松山にもいく予定でもあったから彼方此方で散骨できるのが幸いだった。