暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

オランダを歩いて縦断するのに10年かかった

2012年10月22日 00時04分40秒 | 日常
土日の二日でグロニンゲンの北の端を40km弱歩いてきた。 これでこの10年ほどでぼちぼち歩いてきた南北460kmほどの「ピーターの小途」と呼ばれるルートを済ませたことになる。 家族4人と息子のガールフレンドを加え5人で電車で3時間半ほどかけてグロニンゲンまで出掛け、駅から歩き始め、市内を通り抜け土曜の青空市では2ヶ月ほど前に日記に書いた茸屋を横目に20km弱歩いてGarnwerd という村で一泊した。 ここは8月の終わりごろには毎年開かれるグロニンゲンジャズフェスティバルの会場になる村で何度も来ているから様子は分かる。 たまたま「ピーターの小途」がここを通っているからここを宿泊地にしただけなのだが泊まったところは昔は跳ね橋を上げ下げしていた管理人が住んでいた橋の袂にある一軒家で今はカフェーの持ち物になっていて希望者には泊まれるようになっている。 このカフェーの料理はなかなかいいのでここに泊まることにした。 それについては下のように書いた。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/62893435.html

泊まった家は階下にキッチンと居間、階上には寝室が3つあるので我々には丁度よかった。 風車と跳ね橋、この家の描かれた絵が居間にかかっていたのでカメラに収めた。 そこには一番右にこの家、その隣に農家の干草を貯蔵して置く納屋が共に赤い屋根瓦の三角屋根として描かれていて、今は納屋はパーティー会場として使われるように改造してあってこの夏には気に入りの若いサキソフォン奏者のデュオがここで30人ほどの客の前で演奏したのだが、これが録音されてオランダ国営音楽局からライブ放送されたところでもある。 左の風車には思い出がある。 今はドイツに住んでいるロシア人のフリージャズ・ピアニスト、シモン・ナヴァトフという巨漢の男ともう何年も前に二人ここで夜空を見上げ、奇妙にオレンジ色に大きく光る火星を眺めたものだ。 そのとき、ジュリアード音楽院の当時の教育が如何にゆがんだものか、如何に個人の才能の芽を摘むものであるかを滔々と語りこちらを辟易させその火星の様子と共に忘れられない思い出となっている。 この場所はそんなジャズに絡む思い出がいくつもあるところであり、これからも新たな思い出が作られる場所でもあってこのウォーキングの全行程でも自分には偶々ではあるけれどよく知った特別な場所となっている。 そのほかの場所は殆んど初めて通る場所だったのだ。

今回は天気予報では上天気となるはずのものが、強い雨はふらなかったものの曇り空が続き、時々空から細かい雨が降るような鬱陶しいものだった。 見晴らす限り広大な田舎を歩くときには雨は殆んど降らなかったから遠くは見渡せるものの空は重く垂れ下がり、灰色のバリエーションが豊かで雲が早く流れて行く様子には飽きなかった。 二日目、10時を廻って歩き始め、3時前にはオランダ本土の北の端の村、 Pieterburen に着いた。 これでこの10年ほど少しづつ歩いてきた全行程が済んだことになる。 日曜日には一時間に1本、毎時06分に来るはずのマイクロバスが来ず、10分以上待ってやっと来た。 客は我々だけで女性の運転手は大慌てで我々を乗せて、10kmほど離れた我々が途中通ってきた村の電車の駅まで連れて行くからそこからだったグロニンゲンの駅にいくにはバス連絡より早く着くはずだと田舎道をどんどん飛ばした。 その駅に着くと運転手は料金を取らず我々を駅舎に急がせた。 そこに電車がすぐに来て30分ほどで今回の出発点であるグロニンゲン駅に着いた。 町で夕食を済ませてからまた駅に戻り6時45分発のハーグ行きの電車に乗ると40分ほど行ったところで車内放送が流れ電車の具合が良くないので次の駅で別の列車に乗り換えるアナウンスがあった。オランダ国鉄全体が乱れているようで日曜の夜にも関わらず乗り換えの駅は他の線の乗客と合わさって大混乱だった。 急いで言われた列車に乗り込むと座れないものが沢山いて日頃電車を利用しない自分にはこのようなものはもう10年以上ぶりの経験だった。 一等車両に入って立っていたのだが日頃はほとんど客がいないところなのだがこの日は満席で通路に立っている人が殆んどで車内は混雑していた。 次のユトレヒトになると降りるものもかなりいて我々もやっと座る事が出来た。 結局30分ほど遅れてうちにたどり着いたときには11時前になっていた。 

バカンス ’12; (19)ヒュッテのベッド

2012年10月19日 19時00分52秒 | 日常

今回チロルの山で2週間ほどキャンプ生活をしていた間の最後の4日間はリュックを背負って2500mほどのところにある二つのヒュッテと一つの山小屋風ホテルを巡り歩いて泊まったのだけれど、水道もまともな電気もない岩山のヒュッテでは個室でも雑魚寝部屋も大して変わらないもので、わざわざ個室を取るほどのこともなく雑魚寝のスペースに寝床をとることにした。 その部屋は自分たちのほかには部屋のだいぶむこうにペアの男女二人がいただけでほとんど自分たちのスペースのようなものだった。

泊まったのは8月の10日ごろだったけれど山の上は寒く、午後5時には快晴で風もなかったもののもう5-7℃まで下がっていて山小屋に着いたときにはほっとしたのだが、雇われ主人である青年にこの部屋に案内されたときの寒さはなかった。換気のためとはいえ窓を開け放っていて入り口でコートを脱ぎ、汗の残るシャツでこの場所に来たときには震えがくるようで慌ててリュックを枕元においてその中からセーターを取り出すほどだった。 窓を閉めても暖房がないから暖かくはならない。

だからここに居るのは寝るときだけにして、あとは暖かい下の食堂で過ごしたのだが暗くなってここまで上がってきたらまた寒気がする。 どの山小屋でも朝は早いから別段急ぐこともない我々はいつも一番遅く朝食のテーブルに着くぐらいでそのときには他のパーティーはとっくにそれぞれの目的地を目指して出発したあとだった。

Duet;  Busch   van Kemenade

2012年10月19日 12時31分42秒 | ジャズ


8月の終わりにジャズフェスティバルのために250kmほど車を飛ばしてでかけ、久しぶりに故郷に戻ったような気になっていたもののその後、チロルのバカンスのことを書いているうちに記憶が薄れて最近はジャズのコンサートに出掛けることもめっきり減ってきていることもありほとんどジャズのことを日記にしなくなっていたのだがひょんなことからまた書く気になった。 

町の古レコード、CD,DVD屋のニイチャンと話しているときに Paul van Kemenade が ピアノの Stevko Busch とデュオを来週末ここから20mも離れていないところで演るそうだけどどんなのかな、と言いながら店に貼るポスターを見せてくれたので眺めたらグロニンゲンのジャズフェスの時と同じフォーメーションでまた聴きたいと思ったのだけれど、それを前もって知っていたら週末に家族でそのフェスがあったグロニンゲンの田舎道を2日で30kmほど歩き、会場だった村のカフェーに泊まる予定、日程を変えていたのに、と悔やんだのだが、思い返してみればそのとき Van Kemenade と話したときには自分の住んでいる町に来ることは来年までない、と聞いていたからでもあって、この時期に変だな、と思ったのだけど、話の脈絡から言うと、今回のものとは違って新しいトリオでツアーをする話でのことだったからそのことに気付き納得したのだった。 夏にこのデュオを聞いたのは今週末歩いて一泊する村でのことであり、今週の土曜の夜にはジャズがらみで250km離れたところで自分は今は来年まで何もない静かな村で夏のことを思い出しこのデュオは自分の町で同様の演目を奏でているということを思うと妙な気がした。

そのとき立ち話しの中で多分来年まであんたの町まで来ない、といったのはこれから冬に向かってのツアーの計画を話していたからで、それは

高瀬アキ (p)
Paul van Kemenade (as)
Han Benink (ds)

のトリオでオランダで何回か年末頃にコンサートをして新年からインドネシアやアジアの国、エジプトを廻るというプランだった。 レコーディングはもう済んでいるとのことだったけれど、かれらのこと、時間の経過で演目も変容していくことは明らかだ。

2012年8月25日(土)、午後から夜にかけて陪席した4つのコンサートのうちの一つが下記のものだ。

Paul van Kemenade (alt sax)
Stevko Busch (Piano)

そのときの内容をメモしたものがあったのだが家の中で半年ほど暮らした息子の部屋から屋根裏部屋の自分の部屋に引っ越した際に多くのものが何処にあるのか分からなくなってメモ帳もその一つとなっている。 けれど、そのときこのデュオはかれらのデュオCDの演目を幾つか奏していたからそれをかけてそのときの雰囲気を思い返した。

CONTEMPLATION
On Songs, Russian Chants, Miniatures

DNL2010

上記アルバムには16曲が収められ、そのうち7曲づつが二人の作、2曲がAbdulla Ibrahim/Dollar Brand作となっている。 コンサートではこの中から比較的叙情的なロシア風の For Russia や With Love を演奏したけれどタイトル曲が5つのバリエーションとなっている中の幾つかは高瀬アキとのトリオでも演奏されても齟齬なく調和するような自然な感じがして長年様々なジャンルを縦横に逍遥する Van Kemenade の興味の幅を示すようでもある。 コンサートでも演奏された、この時期的に沿うブラックベリーを題材にした曲が高品質、高音質でYouTubeに次のようにあった。 

YouTube映像;Bramen Plukken In The Busch( 葎の中でブラックベリー摘み) comp. by v.Kemenade

http://www.youtube.com/watch?v=zap-gZtMRIg

秋は深まってきたのだが、これからまだ深くなるのだろうか

2012年10月18日 02時03分05秒 | 日常


近所の緑地の隅に枯葉を集めるための金網のケージが設けられ、これからいよいよ落ち葉の季節となってきたのだが、それにつれて気温が下がり、今は日中気温が14℃、夜間の気温が9℃とほぼ平均的らしいのだが、秋の変わりやすい天気で、そこには晴れ間が殆んどなく鬱陶しい。 

そんなときに家庭医から案内状が届き、それはインフルエンザの予防接種にくるようにとの督促状だった。 還暦を越した者には毎年いまごろこれが届き、自分にはこれで3回目だ。 それまでも過去には職場でそういうことも行われていたのだがいつの間にかそれもなくなって、各自家庭医のところに出掛けて接種するようにとなっていたのだがそれもやめていて、だからこれは還暦を越してからの新たな今の季節の恒例の行事となっている。 60以上のものにはこの予防接種は無料で行われる、とのことだが、それでは今まで不定期的に行っていたものに幾ばくかの料金を払っていたのかというとその記憶もない。 自分は国家公務員であるからそれには国が費用を負担していたのだと思う。 だからそれをしなくなったということは国はそれをやめて各自個人負担ということになっていたのだろうが還暦前に家庭医に出掛けて予防注射をした記憶がほとんどない、というのはわざわざ出掛けて打ってもらうこともない、ということだったかもしれない。 打ってもらっていたとしてもそれは健康保険の適用内のことだったのだろう。

それはともかく、還暦過ぎの者に案内状をだしてわざわざ注射にくるよう督促するというのは老人医療には費用がかさみ予防接種でそれを最小に防ぐという意図があるからで、こちらとしてはこれが効果があると確信したわけではない。 おぼろげな記憶ではこれをしても風邪をひいたことがある。 それでもしなかったのに比べるとまだ酷さがしなかったときのことに比べるとまだましだ、といわれるかもしれないけれど何れにせよそんなことがあってからそんなものなら行かなくてもいいと思ったからだったのだろう。 それでもそのときからもう10年は経っているので今は老人となった自分の健康リスクを考えてここは言われた通りに夕方5時から6時の間に家庭医の診療所に出掛けたのだった。 

開いた入り口をそのまま診療室まで入って名前を言ってリストにチェックをいれ、使い捨ての注射器に入ったワクチンを打たれ入ってから3分もかからず出てきたのだが机の上の小さなバスケットには50本以上のそんな注射器が見えたのだがこの日だけのキャンペーンで朝と夕方の一時間づつをこれに充てていたはずだから午前の部が済んでまだこれだけあるということか。もう大分前に医者に何人ぐらい顧客を抱えているのか聞いた事があり、そのときは2千人だったか3千人だったかおぼろげながらそんな数だったように思う。 その中で還暦以上の数がどれだけあるのか知らないけれど10%ととして200-300人だが10%ということはないだろうから数百人、ということになるだろう。 その証拠に入ったときには誰も見なかったのに出るときには年寄り二人と行き会った。

けれど何か計算があわない。 一人一分として一時間に60人、朝夕の合計2時間で120人、30秒に一人として240人だ。 督促状を出しても全てが来るとは限らない、ということなのだろうか、などとこんなどうでもいいことを頭の中に思い浮かべた。

自転車に乗って帰宅するときに公園を横切って走っていると落ち葉が目立った。 これから春までこんな天気の時の憂鬱をどう扱うのかが試される。 今は憂鬱の第一波だからこうなのでこの落ち込み具合かけれどそのうち慣れるのかもしれない。 しかし、これは夏はもうとっくに終わったということを決定的に思い知らされる時期である。

1936(昭和11年)頃のこと

2012年10月14日 03時41分11秒 | 思い出すことども
老母といじめのことを電話で話していた。 いつの時代も世界中どこでも世代を問わず人が他人を苛めるということはあるゆえ今日本でそれがあっても何の不思議はないのだけれど、昨今のスケールで報道されるとそれは普段の人間世界の現象というよりはもう今の社会現象であり、また、社会病理として認知されえるものだろう。 だから「苛める」、という動詞が「苛め」、という動詞の連用形から名詞へと変化するにつれて内容が過激なものとして語られるようだ。 そしてそれが苛められるものを死へと追い詰めるものとなり、そこで昔はそこまではいかなかったものを、という年寄りの感慨が聞こえることにもなるのだ。

現代の苛めの殺伐とした様々な側面はさておくとしても、アルツハイマーが徐々に進行している80の半ばもとうに越している老人の頭の中に浮かび上がってきたほぼ80年前の「苛め」の光景は牧歌的なものだった。 小学校に入った頃の話だ、と老母は突然始めた。 1936年(昭和11年)ごろのことだ。 兄や姉はもう小学校の上級生であり登下校は彼らとは一緒に行かず村の同級生達と3,4人で行くのだという。 この小学校は自分も通ったこともあり、今もその場所にあるある。家から村の真ん中を通る道をまっすぐ両側に田んぼを見ながら海側に500mほど行くと両側に鬱蒼と大木が並木になった神社がありそれを抜けると小学校だ。 ここは自分も通ったところで1950年代にはバスが通っているものの田園風景はその30年前とは変わらなかった。 そこを毎日行きかえりする。 だから村の連中とも付かず離れず各自勝手に同方向に歩くのだが女の子は女の子同士で何人かのグループになり、時には面白がって他の女子を苛め、理由もなく通せんぼをして田んぼの畦道に追い立てて遠回りをさせるようなこともするのだが、それで泣きべそをかきながら追い立てられる子どももでるのだがそれでも村の中で遊ぶときにはその子ども達と一緒に走り回ったりそれぞれのうちで遊んだりするのだから苛めといってもまだ牧歌的なものだろう。 それぞれの農家には鍵もなく誰彼と訪れては話していく。 そんなところは他のうちの献立まで分かるような村社会だ。

そういう意味では当時の苛めもそのときは泣いたり泣かされたりすることはあるものの一時のもので、当然性格の違いの嫌悪はあるものの精神的、肉体的に深く傷つけるものでないからそのようなものとされていたのだし、もし、その枠を外れると大人の世界から制裁があることをどこかで承知していたのだろう。 極端な例としてはある一家が村八分的なことに遭うということもあるのだろうが子供たちの世界ではそれを斟酌しない、ということもありえて、社会の様々な関係性がこのように多重に交差しているる中では適度にバランスをとるような機能をしているのだろう。 

今はそのような子ども達の多層的な遊び社会が地域で構成されるかというところが問題系の或る部分を占めていてそれが希薄であれば子供たちが多くの時間を一緒に過ごす空間とは学校のみとなる。 そういうところで起こる現代の「虐め」に対応する「家庭」と「学校の」弱さが、特に「学校」を糾弾しているように見えるメディアの態度にはメディアの腰を引いた態度が透けてみえている。 中学では教師の仕事は授業であってたとえ生活指導というものがあってもそんなものは若い教師達にはできるはずがなく教師が虐めの兆候を見落としたとして、実際逃げ腰の教師を糾弾する方も筋違いである。 社会でこれから経験する様々な苛めに対応できる子どもにするのが親の務めではないのか。 こどもの兆候を見て取れない親には欠落がある。 こう書くと犠牲者に更に鞭打つように響くかもしれないが社会の荒波に立ち向かえるように導くのが親の勤めである。 結果的に殺すことになった虐めたほうの生徒とその親はその責任を問われて当然だ。 もし自分の子供が苦しみを告げられずに自死することとなったとしたら自分を責めるのは当然のことながら、加害者である相手の子ども、親に対する覚悟はある。

今からほぼ80年前の苛めが通せんぼであり、村のこどもの世界を語る老母に聞かされた大昔の初めて聞いた話は新鮮に響くと同時に、小学校に入った当時は足が弱く登校は難なく出掛けたものの一日の終わりには歩けなく、当時村の八百屋、雑貨屋をしていた父親が授業の終わりには毎日帯を持って学校に来てそれで背負われ他の子ども達と一緒に下校した、ということも聞かされて驚いた。 そういうエピソードは今まで聞いた事がなかったからだ。 それから暫くして健康になりそれからは普通の子ども、娘時代を過ごし、その後の話は朧気ながら大体承知している。 

潜水服は蝶の夢を見る (2007);観た映画、Oct.  '12

2012年10月13日 01時33分50秒 | 見る
邦題;  潜水服は蝶の夢を見る (2007)

原題;  LE SCAPHANDRE ET LE PAPILLON
英題;  THE DIVING BELL AND THE BUTTERFLY

112分

製作国  フランス/アメリカ

監督:  ジュリアン・シュナーベル
製作:  キャスリーン・ケネディ 、 ジョン・キリク
製作総指揮: ジム・レムリー、 ピエール・グルンステイン
原作:  ジャン=ドミニク・ボビー   『潜水服は蝶の夢を見る』(講談社刊)
脚本:  ロナルド・ハーウッド
撮影:  ヤヌス・カミンスキー
音楽:  ポール・カンテロン

出演:
マチュー・アマルリック     ジャン=ドミニク・ボビー
エマニュエル・セニエ      セリーヌ・デスムーラン
マリ=ジョゼ・クローズ     アンリエット・デュラン
アンヌ・コンシニ        クロード
パトリック・シェネ        ルパージュ医師
ニエル・アレストリュプ      ルッサン
オラツ・ロペス・ヘルメンディア   マリー・ロペス
ジャン=ピエール・カッセル    リュシアン神父/店主
イザック・ド・バンコレ       ローラン
エマ・ドゥ・コーヌ        ウジェニー
マリナ・ハンズ         ジョゼフィーヌ
マックス・フォン・シドー      パピノ

42歳という働き盛りに突然の病に倒れ、身体の自由を奪われてしまったELLEの元編集長ジャン=ドミニク・ボビーが、全身の中で唯一動く左目の瞬きだけで綴った奇跡の自伝ベストセラーを映画化した感動ドラマ。監督は「夜になるまえに」のジュリアン・シュナーベル。主演は「キングス&クイーン」「ミュンヘン」のマチュー・アマルリック。

雑誌ELLEの名編集長として人生を謳歌していたジャン=ドミニク・ボビーは、42歳の時、ドライブ中に突然脳梗塞で倒れてしまう。その後、病室で目覚めた彼は、身体全体の自由を奪われた“ロックト・イン・シンドローム(閉じ込め症候群)”となっていた。それはまるで重い潜水服を着せられたような状態だった。意識は鮮明なのにそのことを伝える術がなかった。絶望にうちひしがれるジャン=ドミニクだったが、やがて言語療法士アンリエットや理学療法士マリーらの協力で、左目の瞬きでコミュニケーションをとる方法を会得する。また一方で、今まで仕事にかこつけて顧みなかった家族の大切さを改めて思い知るのだった。そしてある日、彼は自伝を書こうと決意、編集者クロードの代筆でこれまでの帰らぬ日々や思い出をしたためていく。

以上が映画データベースの記述である。

深夜映画としてオランダ国営テレビにかかったものを観た。 なんとも映像が美しい映画で通常のカメラワークの域を遥かに超えている。 それは監督の画家としての出自にも由るのだろうし話の内容にも拠っているのだろうがかなりの場面の映像はストーリーを除いても美術館の暗い大きな空間でプロジェクターから投影される作品としても視力に耐ええるものである。 そのイメージは観る者の後々までストーリー性を除いても残るものであり「感動のドラマ」と評されるその標語を安っぽいものとみなし豊かな色とイメージの映像の中で我々の視覚の悦びに浸らしめる力を持つ。 だからストーリーが「感動」や「ドラマ」に向かうときにはその映像が通常の映画言語に戻り少々月並みに見える事ともなりその差がこの映像作家の資質を明確にするだろう。 確かに原作を読めばそのドラマや感動は直裁に読者に伝わり、いちいちアルファベットを辿るそのプロセスには気の遠くなるような作業が思いやられるのだがしかし一旦それが済むと出版に至ると主人公は世界的な雑誌の編集に携わっていた人間であるからその出版プロセスのノウハウは自家薬籠中の物であるからそのハンディキャップを克服して、、、というところでは月並みな「感動ドラマ」はあるのには違いないもののここでは月並みではない監督は月並みな「感動ドラマ」を承知しながら興味はそこには向いていないように見えるのだ。 それは映像をみれば理解できることでそこではストーリーを「ダシ」にして映像に向いた監督の姿が見えるに違いない。 それが映像表現ということである。


興味深いのはまっとうなフランス映画にみえることだ。 原作の舞台がフランスであり登場人物たちは皆フランス人であることは当然ながらトーンが優れたフランス映画となっていて、制作、監督などはアメリカ人であるもののフランス芸術映画に見える理由の多くは監督の画家という出自に拠っているからだろうと推測する。 データベースの記述を辿ってみるとデビュー作は自分の友人であった作家の伝記「バスキア BASQUIAT (1996)」とある。 当時ベルギーの国営テレビで放映されたものを観たのだがそのときアンディー・ウォーホールを演じたデヴィッド・ボウイのことを覚えているしその少々痛ましい話のことも思い出すのだが主人公との距離が近すぎるのか本作ほど感興を催す作ではなかったようだ。 

主演のマチュー・アマルリックは素晴らしいのだが途中の若いときの写真が出たときにロマン・ポランスキーかと見まがうほどで、しかし、本人をどこで観たのかなかなか思い出せなくてただ印象に残った演技ではアップに映った苦悩の表情だったのだが、ボンド映画の悪役と、スティーヴン・スピルバーグの「ミュンヘン(2005)」では情報屋として主役を遥かに凌ぐ存在感を示していたように思う。 それに本作で主人公の父親としてマックス・フォン・シドーが出たのは嬉しい驚きだった。 



腹が渋く

2012年10月12日 09時45分53秒 | 健康
もともと胃腸は強い方で下痢などは一年にいちどあるかないか、というところなのだがこの3日ほど腹がしぶいて一日に何回かトイレに通う。 ひどい下痢というところまでは行かないのだがちょっとした腹痛があり、下腹に圧力感がおしよせる。 原因が幾つか考えられるのだがどれも確かではない。

水曜の夕食に生鮭をこまかく刻んでオムレツにした。 この夜は家人の父親が亡くなって3ヶ月、その葬儀社が通夜をした教会でこの1年に亡くなった人たちの近親者を呼んでミサをするというので子ども達もいっしょに食卓を囲んでからそこに向かった。 ミサが住んでお通夜をした会場では参加者に飲み物が配られ酒の摘みが出てその中にも鮭の燻製の薄切りでソフトチーズを包んだものが振舞われた。

1週間ほど前にテレビのニュースでノルウェー産と表示された鮭のパッケージからサルモネラ菌が発見されてオランダ中のスーパーから大手の食品会社のこれらの商品が回収されているというのを聞いていたけれど慌てて買い物を済ませたスーパーで鮭のパックを買い物籠に入れたときにはそんなことは思いもしなかった。

一晩で口にしたこの2週類の鮭は両方とも同じく家人や二人のこどもの口にも入っていて、ミサが終わりつつがなく会場からもどり、それから6時間ほどしてから腹の調子がおかしくなったときには、即座に、あ、あれだ、と気付き、翌朝には他の者達に腹に異常がないか訊ねたのだが、それは自分だけだったと分かって訝った。 そんなニュースのあとだからいくらなんでも怪しいものは全て撤収しているはすだ。 それにニュースの中ではいつからいつまでの日付がはいっているもの、とまで言われていたのだからそんなあと問題のあるものを棚にならべるわけもない。 だからこれは鮭のせいではないようだ。 娘は自分に似て胃腸が丈夫だが家人と息子はかなりデリケートにできているからこういうことがあれば一番に兆候がでて自分の耳に入らないわけはないのだからこれは鮭のせいではないということになる。 そうなると、、、、、、、どうも分からない。




10月3日の祭りはあまり天気がよくなかった

2012年10月08日 18時23分48秒 | 日常

2012年 10月 3日 (水)町の休日

今年もこの町の伝統的な祭りがやってきた。 これについては今までいろいろ書いてきた。

2010年
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/61173617.html

2008年
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/55966305.html

今年も申し込みの日に行けなくて市民には無料で配られるこの町の特別品である生の鰊と丸いパンを逃した。 だから早朝7時に旧公式計量所の前で30分ほどこのために並ぶのは免れている。 

それで、家人に起こされ午後2時に目覚め、下に降りると外は細かい雨が降っている。 前日魚屋で買った生の鰊をワサビ醤油で喰いショットグラスのジンを飲んでからポンチョを被り外に出て家人と一緒に行列を見に行った。 例年は家の近所から1時に行列がでる。 この行列には過去2回参加している。 一回目は25年以上前だっただろうか。 知り合いの誘いがあって日蘭関係がらみのグループの行列で民俗学博物館から借りてきた大名行列の侍の格好で歩いた。 キンキラ衣装に漆塗りの紋付帽子というのだろうか、参勤交代の時に被っているもの、に錆びた本物の刀を挿して2時間半ほど町をパレードしてあちこちでサムライだと注目を浴びた。 ところどころでは観衆からビールやジンを振舞われた。 やたら衣装と刀の重かったことを覚えている。  この日の祭りの行列には4kmほどの沿道には数万人の見物人が押し寄せるから人の垣根の中を歩くのは一種異常なことで、こういう事はなかなか経験できるものではない。 二度目は2000年で、日蘭関係400周年の行列グループで日本のどこかから借りてきた神輿に付き添って行進した時だ。

出発点であってここに戻ってきて解散地点になる場所に来ると当然誰もいなくて、参加者の乗ってきた大型バスやトレーラーなどがあるだけで、警備の若者に最後のグループが出たのは何時ごろだったと訊いても要領が得なかったから取敢えず仕事の行き帰りに通る堀端のコースを行列とは逆に行けばそのうち先頭がやってくるだろうとの算段だったのだが沿道も雨のせいなのか例年より見物客が少なく、やっと養老院のところまで来るとお年寄り達が介護の人に付き添われ沿道のテントの中に沢山並んで座っていた。 テントに入りきれないお年寄り達は明るい青のポンチョに包まれて車椅子に座っているのだがここまで来ると雨は止んでいた。

今年のテーマは「オランダの栄光」で当然この祭りの元ともなった16世紀にスペインの圧制を跳ね除けた話が最初に来るのだが、この町ならではの山車が沢山出ていつも通り和やかなものだった。 大抵先頭は馬に乗った警官に続いてオランダ女王の馬車を模したものに乗った市長がくるのだが馬車は止まっていて市長は見えない。振り返るとさっきの老人達が座っているテントの前で正装して山高帽を被った市長は老人達と一緒に古い歌を歌っていた。

シシリア風スパゲッティー

2012年10月07日 05時41分52秒 | 喰う
土曜の夕食には子ども達が来て一週間に一度の家族揃っての夕食だけど今週は別段特別なものを作る気持ちもなく、考えるのも面倒だからスパゲッティーにしようと決めた。 けれど、いつものようなナポリタンじゃ能もなく、それじゃ先週作ったクスクスのバリエーションで行こうと決めて土曜の買い物に出掛けた。 

スーパーで挽肉500gと牛乳を買ってそのまま青空マーケットに来ればもう4時でそろそろ客も退きかけて早いところは店仕舞いをしている風だったけれどすばやく茸屋でポルトベロという大きくて分厚い茸を4つ、インゲンマメにニンジンとサラダ菜を詰め合わせを買ってデザートに苺を一パック買い物籠に入れ、家にはトマトの缶詰があるけれど今日はフレッシュに行こうとポマドレ・トマトを500g頼んだ。 イタリア風味のドライハーブは家にあるので要らないけれどフレッシュなものとしてオレガノのプラスチックの鉢に植わったもの最後の一つを手に取り金を払って隣のチーズ専門の屋台でシシリアのペコリーノチーズの固まりを買い自転車で家に戻った。

挽肉にミートボール用のミックスハーブ、それに刻んだ玉葱パセリのみじん切りを加え手で混ぜ、捏ねて片手に入るぐらいのボールを22個作った。 オリーブオイルで刻んだインゲンとニンジンを炒めそれに刻んだ玉葱4個分を加え玉葱が透明感を出してきたところで刻んだトマトとトマトピューレを入れてドライハーブ、庭から取ってきたセージにローズマリー、刻んだ大蒜と1本200円もしない安物の赤ワインを加えて1時間ほど弱火で煮込んだ。 全てが準備できたところでサワークリームとレモンの皮をおろしてそれで出来上がりになる。

大鍋を沸騰させ塩を放り込みサラダオイルを少し垂らして500gの卵炒りスパゲッティーを8分茹でる。 湯を棄ててからくっつかないようにバターをパスタに落として混ぜる。 サラダ菜と黄色のパプリカに赤い玉葱を薄く削いで散りばめ、その上からオリーブオイルとバルサミコ酢を垂らしてサラダのドレッシングにした。

デザートは苺にポップクリームと刻んだミントの葉っぱだった。

マーケットで慌てていてオレガノと思ったものがミントだった。 葉の形が似ているのでオレガノだと思って掴んだのだけれど鉢植えのミントとは気がつかなかった。 普通マーケッとに幾つかあるモロッコ人の屋台ではミントはそのまま熱湯に浸してミント茶に出来るように大きな葉と茎を束ねて切ったものを別に売っているからてっきり掴んだ鉢に並んでいたディルやパセリ、タイムと同じように思っていた。 

皆が食卓につくと息子が、これマリアンオバサンのシシリア風スパゲッティーじゃないか、と言った。 そういわれてみればそんな風でもある。 シシリア人と結婚している義姉は20年余り住んだシシリアの田舎で色々と料理を習いそれを何かのときに皆に振舞うのだがスパゲッティは簡単なトマトソースにミートボールというものだ。 盛り上げたスパゲッティーにペコリーノ・チーズをおろして降りかけ喰った。 シシリアではこれは少量であってそれはあくまで前菜であり、その後に肉などが続く。 それにティラミスと続くのが普通なのだが、今日は思いもしなかったけれどちょっとシシリア風になっていたのだった。

バカンス ’12; (18)洗濯物

2012年10月05日 06時12分09秒 | 日常

3週間のバカンスで初めの数日はベルギーからドイツを移動しつつ、残りの2週間以上はチロルのキャンプ場に落ち着いてずっとテント生活だった。 村のスーパーには2,3日に一度は行っては日常の買い物をしたのだが、時には車で、大抵の場合は山歩きをした帰りにそこで買った物をそれぞれのリュックに分けて背負ってテントに戻り、煮炊きをし、食事の後は時には広場に張ってあるオランダ山歩きの会の大きなテントに行ってそのグループに合流し多ければ30人ほどでコーヒーやティーを飲みながら情報を交換したりお喋りをしたりした後、それぞれのテントに戻り眠るという生活だった。 キャンプ場内の自分のテントから50mほど離れたところには清潔なトイレやシャワー設備のある棟に続いて、冷蔵庫、冷凍庫に並んでに食器、鍋などを温水で洗える洗い場があり、そのそばには長いテーブルが置かれキャンプ場の誰彼が時にはゲームやトランプで時を過ごしたりノートパソコンでメールを確認したりもできる場所もある。 2週間ほどの間に3,4回はメールを開けたりオランダ、日本、世界のニュースを眺めたりした。 その壁を隔てた部屋には洗濯機と乾燥機が備えられそれが空いていれば各自洗濯ができる。 

夏にあちこちの山を歩くのだからたっぷり汗をかくし下着、靴下、シャツなどの洗濯物が沢山出てそれが四人分だから量もかなりにもなって普段在宅中以上のものになる。 だから大きなゴミをだすようなポリ袋に汚れ物を放り込んでおいてある程度まで溜まったら適度に種分けして洗濯する、といっても自分がするわけではない。 食事のことは別に何でもないけれど洗濯物はいつまでたっても色物と下着、化繊と綿、ウールなどの種分けなどができないから家人に任す。 乾燥機があればそこで乾かすのだが時には使えないときがあって、だからそれを干すのはテントを外から支えるロープと同じものをテントの中に張ってそこに並べることになる。 足にマメができて数日山歩きが出来なくて昼間皆が外に出掛けてキャンプ場が空になったときにすることは日陰のデッキチェアーかベッドに横になってビールを飲みながら読書か音楽を聞いたり洗い場のテーブルでインターネットを覗くぐらいでそうなるとそのときには言われたとおり洗濯物を洗濯機から取り出してテントに持ち帰り天気がいい昼だから干せば夜までには充分乾くので日頃しないこともする。 そこで四方八方に斜めに張られている細いロープに洗濯ばさみでぶら下げていると3つほど向こうの、キャンピングーカーで来ていて外にテントを張って生活をしている5人家族のオバサンが、そんなことちゃんと洗濯ものを干すものがあるから貸してあげるよ、といって持ってきてくれたものが車輪つきの折りたたみ式の物干しだ。 

借りておいて言うのはなんだけれど、あれば便利だけどわざわざバカンスの野外生活に持ってくるものだろうか、と思う。 こういうところでは必要最小限で生活するのが面白いのであって日常の延長をここでもやる、というのは、、、、、という気持ちなのだ。 それに日常の延長といってもそうするためのキャンプ用品店で売っているものなのだ。 そういう大型キャンプ用品店は見ていて面白くあり色々と物を買うのだがこういうものを買わないといけないの、となるとちょっと気が引ける。 キャンピングカーならスペースが充分あり家と同じ生活をするのにサテライトのチューナーをつけてテレビを見ている年寄りがいるのだからこういうものがあっても不思議ではないのだが自分にテレビはいらない、あれば離れられないからだ、とはいってもインターネットをやるのだから同じようなものだけれど。

3週間でこのキャンプ場の洗濯機を使ったのは3回ほどだった。 バカンスが済んで帰宅し車から荷物を降ろしたときには大きな袋一杯の洗濯物があり、家の中の空気を入れ替えるのに窓を開けて空気を入れ替えるのと同時に家の洗濯機に第一陣がもう放り込まれていてごろごろと廻り始めていた。