とても若いころ、20歳過ぎのときに体調を崩して半年くらい自宅にいたことがありました。
その半年間のことは記憶もとびとびで、どれだけ家族に負担や心配をかけていたのかはわからないのですが、母や妹に病院へ付き添ってもらい、頭の(?)リハビリみたいなところに通いだしたころのこと。
水彩画の時間がありました。先生は黄色いフチの眼鏡をかけていて、たえず微笑んでいて、みんなにやさしく声をかけてくれる人でした。
机に置かれた白い画用紙に、なにを描いていいのかわからなかったので、私はパレットに藍色と深緑色(この2色はあまり使われていなかったのかたくさんあったと思います)の絵具をだして、それからバケツの水を筆にたっぷり含ませて絵具を溶いて、ちいさい円を描きました。
それまでも水彩でカードやイラストを描いたりしていたので、色の組み合わせは覚えていたのでしょう。私の好きな深い透明感のあるブルーグリーンの円ができました。
ぼんやりしたまま、もうひとつ、もうひとつ、と円を同じ色でたくさん描いていきました。
みんなの机のあいだを巡回していた先生が、
「ああ、きれいですね。水玉ですか」と私の絵を見て言いました。
私は水玉のつもりもなく、先生の問いかけには答えることができずに黙っていました。
「もっとたくさん描いて」と先生は笑顔で言って、つぎの机に移動していきました。
画用紙に描いた私の円は、先生の一言で水玉になりました。 ほんとだな、きれいだな、と思って画用紙いっぱいに水玉を描きました。
きれいですね って人に言われなければきづかないこと。 そんなつもりなくても、そういわれるときれいに見えてくること。なにもできない自分がきれいなものが描けるということ。
そういうことがあって、いまも育てている花が咲いたら、「きれいに咲いたねぇ」と声をかけてしまうのかもしれません。
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