今年の8月末まで同じ課で仕事をしていたIさんと、毎朝京都駅で出会います。
Iさんが乗ってきた京都止まりの電車が折り返しとなり、折り返した電車に私が乗るからです。 人が大勢いるし、Iさんは人波の一部となって流れてくるし、私はこれから乗り込もうとする列のひとりとしてなだれこんでいく流れにいるし、一瞬だけすれ違いざまに会釈と言うか、声をださずに「おはようございます」と唱える感じです。
いま、Iさんの席(私の向かい)には派遣社員のHさんが座っています。 春にも手伝いにきてくれていた人で、先週の月曜からまた1月末までお世話になっています。
Hさんがきて1週間。 もうIさんがどんなふうに座っていたのか、何度か席替えをしたけれど、その前はどういう配置だったのか、はっきりと思い出せません。人の記憶というもののあやふやさ、毎日同じことの連続のように思えるのに、知らないうちにどんどん記憶はうしろのほうへ追いやられて、薄まっていっているようです。
きょうは、仕事の帰りにライフへ寄ってお菓子を買い、大垣書店へ寄ってプレミアム商品券を購入したのですが、同じフロアの小籠包のお店がなくなっていました。
みきこさんファミリーといっしょに行ったこともあったし、この3月で転勤になったNさんの送別会でIさんと3人で行ったこともありました。
一瞬、え、場所違ったかな、と思って、フロアマップを確かめたら、やはりもう別のお店になっていたのでした。
ああ、こんなふうに「なくなっていた」ことを知らされるんだなと思いました。
毎日そこを通るわけではないから、そして、閉店のお知らせが届くわけでもないので、いつからなくなっていたのかわかりません。
最後に行った日の記憶が、ずっと保存されたまま、そのままあたりまえのようにあることを疑わずに暮らしていて、不意打ちのように、「ええ、もうなくなっていましたよ」と、いうことを知らされる。「なくなりました」ではなくて、「なくなっていました」。
せっかく待望の(?)プレミアム商品券が手にはいったのに、なんだか泣いた赤おにみたいな気持ちになって帰ってきました。