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いつでも君のこと好きだったよ

落合けい子歌集『赫き花』批評会

2015-11-11 00:28:23 | 日記

 今朝、外へでたら野葡萄がきれいな色になっていたので、あわてて写真を撮ったのですが、あんまりうまく撮れませんでした。

 

 でも一応記念にUPします。 もっときれいなんだけど。

 

 さて、きのう書けなかった、このあいだの日曜日の落合けい子歌集『赫き花』批評会。

 

 私も少しだけお手伝いをしたのですが、出欠の葉書も出さず、広く宣伝もしないで、口コミだけで70人以上の人の参加があったことに、さすがだなぁと思いました。

しかも、塔の人は半分くらいで、普段からの落合さんのおつきあいの広さと、第4歌集にして初めての批評会だったので、ぜひともと遠方からの参加者も多かったののだと思います。

 

 家を出るときは雨が降っていたのですが、姫路に近づくにつれて雨はやんで、うっすらと日が差してきました。「私は晴れ女だから」と言っておられた落合さんのパワーでしょうか。

 

 姫路歌会の方と少し早めにいって会場のセッティング、受付をして、13時スタート。 パネリストは香川ヒサさん、栗木京子さん、大森静佳さん、松村正直さん(司会兼任)。前日の男一色から一転して、華やか。 私は全体の進行役をしたのですが、大森さん、香川さん、栗木さん、松村さんの順番に最初の10分から15分、話してもらうことに当日の落合さんとの打ち合わせで決めました。

 

 大森さんならものおじすることなくトップバッターでも大丈夫と思っていました。 やはり、落ち着いて、著者に媚びないいい内容で、「わたし」について「嫌味のない、ぬけぬけと肯定している」こと、助詞に負担をかけず、名詞・動詞を巧く使ってふわっとさせる、など、落合さんの歌の魅力が読み解かれていきました。

 

 ・この世とはわたしに会ひに来しところ薄きカップの肌にふれつつ

 

 たまたま、わたしという容れ物に入ってこの世にいるだけ、といった生の捉え方が、自分を含めた自然、存在するもの全体に広がっていて、その区別のなさが特徴的だということも言われ、なるほどな、と思いました。

 

 香川さんは落合さんの第一歌集からの変化について各歌集の歌を引きながら提示され、ずっと変わらないもの、少しずつ詠み方に変化のあるものが明らかになりました。9歳のときに亡くなったお母さんの歌はかなり詠い方が変わってきていて、この第四歌集では彼岸との境界もなく、いつでも呼び出したり、行き来ができる感じになっている、ということが指摘されました。

 

 ・九度三分上がり下がりす熱の夜に夫のゐなくて母を呼び出す

 ・月の夜の岸辺に立ちて母さんと引き合ふ夜ふけ花粉のふぶく

 

 それから、

 

 ・楽しげにぶらさがりゐる山葡萄しごけば落つるずりずり落つる

 ・ぶつわつさ、ぶつわつつさと揺れ動く藪のなかには何かゐるらし

 

 などの歌をひいて、「言葉を重ねて有無を言わせないリフレイン」について言われ、落合さんの中にある強さを思いました。

 

 栗木さんは「否定の言葉の使い方の巧さ」「無垢な好奇心」についての言及が印象的でした。

 

  ・左側二番目の脚から蟻は歩くと聞けど確かめられず

  ・水瓶を持つしなやかな掌は前から見えず横にまはりぬ

  ・ちくわ持ち夜を出でくれば裏の子の泣いてゐるなり猫にはあらず

 

 落合さんの愛らしさ、まっすぐなところがよく出ているなぁと思いました。

 

 松村さんは写実的な歌から幻想的な歌、ユーモアのある歌、茂吉ふうの歌など、「修辞のレパートリーの多さ」について言われました。 それは歌の巧さなのだけれど、「できないことがない」ことの弱さみたいなものについて指摘されました。 難しいものですね。

 

 後半は1時間ほどの会場発言のあと、落合さんの心の行き届いた謝辞があり、懇親会も手作りな雰囲気で、20時まで遠くから来ている人、泊まる人たちと最後は大きな輪になって、「歌が巧くなるためには」なんていう話を笑いながら話して、楽しかったです。

 

 

 

コメント
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