今更、ですが、先週で終わってしまった「仏像~一木にこめられた祈り~」特別展。
先日、初めてそのHP を見て、やっぱり少しばかり書き留めておきたいなぁ、と思いました。
百四十余軀の仏像のうち、国宝・重文が45体。それが一挙に見れたんですもの。
最後の週でしたから、覚悟はしていましたがやはり入場制限をしていました。
でもお昼過ぎでしたので、すでに見終わって出てくる人々も多く、15分待ちほどで
中に入れました。パッと見渡しただけで来場者の平均年齢の高い事がわかります。
館内は暗く、スポットライトを浴びた、ガラスケース入りの小ぶりな十一面観音菩薩立像が
ずら~り、最初に入った「第一章 檀像の世界」の会場に並んでいました。
どの彫刻も ぐるりと人が取り巻き、一軀を見るのになんと時間のかかったことか。
絵画と違い、彫刻は前、横、後ろから、と、あらゆる角度から見るので、混雑の中、
向きを変える度に何十回も人とぶつかりました。
こんな具合に 知らない人たちと接触しながら見る展覧会は初めて。
仏像を見ていると、その仏像よりも、見つめている人、人、人、彼らの目、目、目 に
視線が奪われてしまい、こんな顔をして皆、見つめているんだ、とその真剣なまなざしが、
仏様よりも目の奥に焼き付いてしまったものです。
見つめている顔は、どの顔も美しかった!
今回の特別展で最も注目されたのが、「第二章 一木彫の世紀」の会場に置かれた
寺外初公開、滋賀 向源寺の国宝十一面観音菩薩立像でした。
パンフレットでも、
「その姿の美しさから白州正子、井上靖、土門拳、水上勉ら多くの人々の心を
魅了してきた像として知られています。」
と謳ってあり、見る前から楽しみでした。その柔和な表情といい、腰のひねり
といい、纏った衣文の柔らかさといい、これが一木に彫られた造形物なんだ、と思うと
感嘆の溜息が出てしまいます。
衣文とは仏像が付ける衣に表現されるひだやしわのことで、衣文の彫刻にその時代の
特色が表れているといいます。
web上より拝借
第三章 鉈彫(表面にノミ目を留める一木彫)で見た京都・西往寺の宝誌和尚立像も、
えっ、えっ、え~っ、と見とれてしまいました。宝誌和尚は、自分の顔の皮を剥ぐと、
中から十一面観音の顔が現れたという伝説的な僧侶で、材は特別な霊木を使用
とのこと。右行き、左行き、その眩惑的な表情を飽きもせずに眺めていました。
web上より拝借
最後の「第四章 円空と木喰」は、江戸時代の彫刻家、 円空と木喰(モクジキ)の、
約100軀に及ぶ小さめの作品の数々。今までと全く趣きが違い、木の温もりを感じる
作品群です。その形は伝統にとらわれずとても庶民的で、二人が全国を回って大量に
制作し、庶民の生活の中で親しまれたことが窺われます。円空の岐阜・高賀神社の
「善財童子立像」は、表情が可愛くてそばに置いておきたいような像でした。
実際、この展覧会の様々な仏像の前で、深い祈りを捧げている何人もの人の姿を
目にしました。 何を思いながら、どんな気持ちで祈っていたのでしょうか。
仏像展 国宝重要文化財 溢るる中 かくも美しきは 祈りの人々
素晴らしい一木彫が会場に所狭しとばかりに展示された、見応え充分過ぎるほどの、
実に重たい仏像展でした。余りにもその重さが両肩、というか全身を襲ったので、
ブログに書けないやぁ~と思っていました。ぐったり、疲れたんですもの。
でも冒頭で書いたように、web上で改めて出展作品群を目の当たりにし、ホンのひと言
日記として残そうかと思い直した次第です。
リンク先が、展覧会後に消滅しちゃうかもしれないので、その前に、まだご覧になって
いない方々で興味ある方に、是非、見てもらいたいです。
butsuzoubutsuzoubutsuzoubutsuzoubutsuzoubutsuzou
一木彫の造形は、木の表面から内側に彫り進むことによって決定
されるために、一度削ったら修正は不可能です。結果的に、細部の
破綻が全体に及ぶ危険性があり、制作者は常に細部から全体へ、
全体から細部へと目を配りながら仕事を進めていく必要があります。
つまり、制作者と素材である木には常に緊張関係にあり、そこには、
一刀、一刀精神をこめて彫り進む真剣勝負の世界が展開していたに
違いありません。一木彫の中に、時代を超えて現代の人々の心を
揺さぶる名品が多いのは、こうしたことに起因しているといえるのでは
ないでしょうか。 (web上「一木とは」より抜粋)
butsuzoubutsuzoubutsuzoubutsuzoubutsuzoubutsuzou
平成館をあとにして、改修工事を終えた表慶館が公開されていたので寄りました。
明治時代の建築物は作りが丁寧で、落ち着きます。
中身はがらんどうでしたが、これからこの建物に見合うイベントに期待しますね。
上野駅に行く前に東京文化会館に入り、重い身体を休ませ、お茶してきました。
その日は「マリンスキー・バレエ」の公演日。
急にバレェが見たい気持ちに駆られ、パンフレットをかき集めてしまいました。
あぁ、バレェを見に、誰か私を連れてってぇ~!
軽やかに、
アン・ドゥ・トロワ ♪
ひとこと
仏像の大きい写真はリンク先でご覧になれます。
このブログが大層重くなってきて居りますので、後日、二枚の写真を縮小する予定にしておりますのでご了承くださいな。
私たち軽薄オバサンズが会期中に上野公園内を闊歩したのですが、「仏像・・・特別展」の看板を横目で見ながら通り過ぎたのですが、約一名が「これ見たい」と言ったのに、声高のおしゃべりにかき消され、そのまま動物園に足を踏み入れてしまったのでした。
┐('~`;)┌
『後悔先に立たず』
一木造りもすばらしいし、なんと言っても、お寺では、正面からしか見ることが出来ない仏像を、背中側からも見ることが出来てよかったです。
お顔の優しさ、穏やかさ、高貴さに心落ち着く思いがしました。
もう一度行きたいと思いました。
画像縮小前に訪問出来てラッキー
表慶館の工事終わったのですね。
大好きな建物です。
思わずお祈りしたくなるんでしょうね
「善財童子立像」ほんとに可愛い!
一木を彫り込んで、見るだけで人の心を動かせる仏像を作ることができるのですね。
真の祈りが通じる思いがします。
古の日本人のすばらしいセンスと技術に感謝です
The オバサンズは、常にそんなもんですよ。
私もその一員でしたらアリャリャァ~とばかりに
動物園のなかに吸収されていたでしょうね。
それは、それで楽しいことではありませんか!
みんな生き仏ですもんね。
大好きな動物園に、私も行きたくなっちゃったわ。
ネイビーさん
「大エルミタージュ展」の後に行かれたんでしたよね。
私だったら絶対にダウンしてましたよ。だって、この二つとも、大展覧会ですもの。
でも、ネイビーさんもちゃんと、〈体力が必要〉と明記されてましたが、その通りでした。
一人、と二人、で行く違いですかぁ?(そう思わせて下さ~い。)
とてもいい企画で、入場料がお高くても納得行く仏像展でしたね。
カメリアさん
待っていて下さっただなんて、光栄です。
一時は、自分が多忙な上、仏像に対する文章が思うように書けず
やめようと思いました。
でも、天の声を聞いたのです。「書けよ~母
(カカァ)~NEVER GIVE UP かぁネヴァ~」という、
訳のわからぬ声を。 (馬鹿らしくてご免なさい。)
ねっ、表慶館、いいですよね。保存されて嬉しいです。
poppyさん
仏様に手を合わせている方々を見て、つい、昔のことですが、
ブラジルで路線バスに乗っている時、教会の前を通り過ぎる度に乗客の誰かが必ず手で十字を切る姿と重なりました。
聖なるものの前で祈りたいと思う気持ちは宗教を問わず、ですね。
日本は特に、もう残されているのは祈りじゃぁないでしょうか。
かぐやひめさん
彫刻だけでも素晴らしいのに、それが一木からなるのだ、と
考えると、気が遠くなりそうです。
私も以前、木彫の初歩を学びましたが、あぁ~ッ、という間にしちゃいけない所を切り落としたりし、結果として、欲しくないものばかり出来上がってしまい、やめました。勿論、今回の国宝級の作品と比べるなんてとんでもない話しですけど。
魂のこもった作品を沢山見れて幸運でした。
ありがとうございます。
私だって展覧会が無かったら、又はあっても行かなかったら、
こんな数の初対面の仏像に出逢うなんてこと、なかったです。
若い時でしたら更に、古都を訪れても、仏像を目的には
行動しませんでしたね。年を重ねるのもまんざらではないなぁ、と感じています。
科学的な事はわかりませんが、木の性質を知り尽くしたからこそ成し得られるのでしょうね。
エクステリアのテラス材もそれに見合う木材を使用しているのに、よく問題が生じるようです。
私が以前木彫で作った状差しでさえ、釘をさす前に
反ってしまい、そのまんまほったらかしです。(済みません、変な物と比べちゃって!)
それを考えると、一木彫の仏像は私の想像を絶します。
“昔”イコール「遅れていた」ではなく、無名な「天才」がひしめいていたんじゃないかしら。
いまの、「カリスマ○○」がチンケに思えますね~。