自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

戦乱の時代~関白となった豊臣秀吉と最期の将軍足利義昭

2018-07-25 22:16:53 | 自然と人為

 幕末の話をしたいと思い秀吉まで調べることになった。このブログは私の考えを紹介するというより、参考になった録画や資料を私の考えを整理するために書き残している。考え抜いて最期に書くことを予定している農業に関する希望のブログが、お世話になった農業への私からの遺言となれば、仕事をさせていただいた感謝にもなろう。

 1582年、「朝廷は安土城の信長に使者を送って征夷大将軍・関白・太政大臣のうちから希望する官職に任じる用意があることを伝えた(三職推任問題)。だが、信長は前右大臣の身分のまま本能寺の変で明智光秀に討たれた。」

 豊臣秀吉は、「1584年、従三位権大納言に叙任され公卿となった。この際、将軍任官を勧められたがこれを断り、1585年、朝廷で紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、近衛前久の猶子となって関白宣下を受けた。1586年、豊臣の姓を賜り太政大臣に就任して豊臣政権を確立させ、1587年に落成した聚楽第に、1588年後陽成天皇を迎え華々しく饗応し、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせた。また、同年には毛利輝元が上洛し、完全に臣従した。さらに、刀狩令や海賊停止令を発布、全国的に施行した。」

 秀吉57歳の時(1593年)に秀頼が生まれる。「1595年に秀吉は秀次の関白職を奪い、ついで自刃させた。1596年、秀頼上洛して豊臣朝臣藤吉郎秀頼と称す。秀吉は、それまで個人的な独裁体制の色彩が強かった豊臣政権に、御掟・御掟追加などの基本法や五大老・五奉行などの職制を導入して秀頼を補佐する体制を整えた。1598年秀吉が死去すると、秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命により大坂城に移った。」

 なお、室町幕府の最後の将軍・足利義昭は「美濃国の織田信長に擁されて上洛し、1568年第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げるが、1576年、京都から追われ毛利輝元の勢力下・備後国の鞆に移った。1582年、信長と嫡子の織田信忠は本能寺の変で明智光秀(光秀の家臣団には旧室町幕府幕臣が多くいた)に討たれると、同年、義昭は鞆城から居所を山陽道に近い津之郷(現福山市津之郷町)へと移す。信長の死を好機に、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めた(羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行なっていた。)1583年には、毛利輝元・柴田勝家・徳川家康から上洛の支持を得ている。」

 1585年、「足利義昭は(毛利と敵対していた大友を島津に牽制させるため)島津義久を九州の「太守」に任じて帰洛時の援助と大友攻めを命じ、義久はこれに応じている。一方、秀吉は島津氏の使者鎌田政近(1586年)に対し、島津氏が占領した領地の殆どを大友氏に返還する国分案を提示した。しかし、島津氏がこれを拒否、大友攻撃を再開して九州統一戦を進めたため、秀吉は大友氏の手引きによる九州攻めに踏み切った。1586年末より水面下で足利義昭は豊臣秀長の意向をうけて和平工作をすすめており、義久も義昭の使者に会って講和受諾の意思はそのなかで表明していたと言う。」(九州平定)。

 1587年、「秀吉は九州平定に向かう途中に義昭の住む備後国沼隈郡津之郷の御所付近を訪れ義昭と対面した。同年、足利義昭は再び一色昭秀を送って島津義久に重ねて和睦を勧めている。島津氏が秀吉の軍門に下った後、義昭は京都に帰還する。その後、1588年に秀吉に従って参内し、将軍職を辞した。
 植民地化の時代、スペインによる大陸からの日本への攻撃を防止するため出兵した文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣している。晩年は秀吉の良き話相手であった。」

 義昭は1597年、慶長の役の年に60歳で没した。翌年に秀吉が61歳で死去すると、五大老や五奉行が秀頼を補佐する体制が合意され、朝鮮からの撤兵も決定された。

 秀吉は「将軍」として力を失った義昭と親しくはしたが、家柄で尊敬される「関白」の道を選んだ。大名としての家柄と実力のある家康は「将軍」の道を選び、武士の時代を完成させた。それは15代慶喜まで、平和な武士道の世界を築くことになる。


初稿 2018.7.25