自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

対談を終えて ―― 日本の夜明けへの共創の始まりに

2015-04-08 21:26:39 | 牛豚と鬼

 2010年宮崎口蹄疫から1年を迎えようとしていた春に、口蹄疫の殺処分最小化対策の具体化を検討するために、山内一也先生にお願いして「口蹄疫との共生」を考える対談の準備をし、ブログへの公開を始めたのは2012年6月24日でした。半年間の連載を続けることにご協力いただきました山内先生には心よりお礼申し上げます。

 2010年秋に、このブログ「牛豚と鬼」を開設した動機として、宮崎口蹄疫の渦中、農家のお母さんがつぶやかれた「戦争のようじゃ」という一言が私の思いと重なり、心深く突き刺さったことがあります。口蹄疫の防疫措置に、戦争にもつながり得る暴力装置である国の権限が、憲法で規制された正当な理由と論理を失い、個人を縛る危険性を持つことを実感しました。
 そして、このブログの連載を準備していた頃、山田正彦前農林水産大臣の「口蹄疫レクイエム 遠い夜明け」が出版されました。大臣をしても口蹄疫の真実は闇の中のようです。口蹄疫の防疫対策については一部の専門家に権限を与えるのではなく、日頃から現場と行政と研究がつながり、最善の防疫対策を共創し、それを畜産関係者だけでなく、地域住民や消費者が理解しておくことが重要だという思いはますます強くなりました。それは口蹄疫の防疫措置の夜明けだけではなく、閉塞状況にある日本の夜明けの共創にもつながるように思います。そこで、口蹄疫の夜明けを日本の夜明けに重ねて、この連載の終わりの挨拶とさせていただきます。

 口蹄疫は殺処分によって被害が拡大します。ことに飼養規模が拡大した今日にあっては、大量殺処分の待機中に感染は拡大してしまいます。ワクチン製造やウイルス感染を早期に確認できる遺伝子検査等の技術革新が進んでいるにも係わらず、19世紀末(1892年)に英国で始まった殺処分による防疫対策に国の専門家はこだわり、新しい防疫指針を採用しようとしていません。それは手塚治虫作「陽だまりの樹」で旧習と権益を守る漢方医の御典医達が蘭方医(西洋医学)を否定して、種痘所(天然痘ワクチン接種)開設を妨害する姿と重なって見えます。
 当然のことながら漢方医学と西洋医学は対立するものではなく、今日においても身体を全体として治療しようとする漢方医学と、身体の部分の治療に向かう西洋医学の連携と協同が求められています。また、生物学は遺伝子レベルまで細分化が進みましたが、iPS細胞の発見により再生医療、すなわち分析から作ることへと研究の使命を拡げています。さらに、手塚治虫の「鉄腕アトム」と宮崎駿の「風の谷のナウシカ」が原子力利用の二面性を表現しているように、科学技術は文明の発展への憧れを生みますが、その一方で自然の中に生きる人間や動物の命の尊さの原点を忘れさせるという二面性もあります。優秀な証券マンから画家に転じたゴーギャンが「ヨーロッパ(文明)こそ野蛮に学べ」の心境に到達したように、どちらが進歩しているかという問題でもありません。

 科学技術を利用して動物の命を救おうとしない日本の口蹄疫防疫対策は論外ですが、ここで問題にしたいのは「人は道具をつくり、組織をつくり、制度をつくりして、つくりつつつくられる」という一般的な傾向です。ことに組織のために仕事をしている人々は、自分たちのしてきたことを正当化し、成功事例にこだわり失敗に学ぼうとせず、自分たちの権限や権益を守ろうとすることによって、真実に真摯に向かえなくなることです。
 今日でも、「日の出、日の入り」と太陽が地球の周りを回り、時間と空間は一定不変と感じるのが自然のように、光速は一定不変で重力により時空が曲がることを日常感覚では理解できないのが普通です。しかし、この物理法則は、特定の産業や行政組織が巨大になり重くなると社会を支配する引力も大きくなり、真実もゆがめられるという社会現象に例えることができます。「科学の全体は日常的な思考の精錬(アインシュタイン)」ですが、我々は歪められた事実認識の日常に生き、これを疑うことにエネルギーを注ぐことはあまりありません。ところが日常に埋没していると、経済や外交を含む政策立案は国益のためと称して、国の政治・官僚・業界・学会・マスメディアの支配層における利益を守ることが前提とされ、社会の課題解決に真摯に向かうことはなく、地球は一つという真実を歪めて近隣諸国を対立させつつ個人を従わせ、個人の尊厳が無視される戦争へと向かいます。したがって、自国にとっても他国にとっても個人の尊厳を守るには、「命を守る」ことを最優先とした「戦争放棄の憲法」は希望であり、守り続けねばなりません。
 国や組織のために個人を従わせようとする風潮、誤りを認めようとしない行政の「無謬性」、自己の認識に事実を従わせる「認知的整合性」が組織や国を閉塞状態に追い込む状況は、今日あらゆる領域に存在し、「陽だまりの樹」のように組織の人々が組織を食うシロアリとなっていることさえ気づかなくなっていることこそが問題ではないでしょうか?

 規模拡大によるコスト削減競争や資源、市場、そして安い労働力を求めてグローバルな経済活動で経済成長を目指す道は、いずれの産業においても限界に達していると思います。組織が海外や地域から利益を奪うのではなく、海外や地域と利益を共有することが持続的な経済活動となり、組織のために個人を拘束することではなく、個人の能力をグローバルに、そしてローカルに発揮する場を提供することが組織の仕事になると思います。そして、理不尽な目的のために競争することではなく、個人の多様な能力で人と環境・資源を多様につなぎ、豊かな社会を共創していくことこそが未来への道ではないでしょうか。

 獣医学の仕事は家畜の健康と命を守ることです。畜産には草資源の豊かな里山を放牧で守り、地域の資源と人をつなぐ重要な使命があります。畜産経営の採算を独立して考えれば規模拡大によるコストダウンしかないように見えますが、家畜を人と地域をつなぐ資源の一部と考えれば、地域の人々の共創で里山資源を家畜に管理させる道が見えてきます。
 口蹄疫を理由に人を家畜から遠ざけないでください。家畜を生かすために科学的事実に真摯に向き合い、地域経済や環境も視野に入れた新しい獣医学と畜産学の共創の場を現場に築いていただきたいと思います。

 組織は個人が能力を発揮できる場をつくることによって支えられ、個人の尊厳は他者を尊重することによって支えられます。どの分野においても先端で仕事をするということは、組織や因習に束縛されず、あらゆる視点から想像力で事実を論理や感覚でつないで専門とする領域を大きく、または深くすることではないでしょうか。
 セザンヌは、「画家というものは物の一面だけを見るのではなく、あらゆる視点から対象をとらえる使命を背負っている。」と述べています。見るということは倒立した網膜の像を見るのではなく、五感、場合によっては六感を動員して脳で見るのであり、あらゆる視点からとらえた感覚を絵画や音楽や言葉に実現するのが芸術的仕事とすれば、あらゆる視点からとらえた事実を言語や数学でつないで論理的な物語をつくるのが科学的な仕事だと思います。あらゆる視点には自分だけでなく他者の視点も含み、それを論理的につないでいくのが組織の仕事であり、他者との共存の道にもつながるでしょう。仕事とは論理であり、すべての命を守ることです。想像力には個性と日常の経験が大きく作用し、一般には仕事が組織で評価される範囲を超えないように自主規制が働きがちになるので、その組織の束縛から解放することがマネジメントの原点であり、個人も組織も仕事を大きく展開させることになるのではないでしょうか。

 山内先生の想像力はウイルス学の研究を現場として既存の分析的研究を深められる一方で、既存の研究領域を超えた新しい視点からウイルス学の領域を人間や地球生命との関係まで拡大されました。まさに物理学が素粒子から宇宙までつながったように、生物学をウイルスから地球生命までつなぐ壮大な仕事だと思います。僭越ながら私は現場の問題解決のために、既存の分析的研究に逆行して専門領域を超えた現場からの多様な視点で事実を論理的につなぐシステム論的なアプローチで仕事をしてきました。そして専門領域を超えたところで、「口蹄疫との共生」の具体化について先生と対話できたことを幸せに思っています。想像力は立ち位置により違いますから対話を通じて補い合う必要はありますが、事実を論理的につなぐことで対話が成立し、理解を共有できたと思います。山内先生、ご丁寧に質問にお答えいただきありがとうございました。

初稿 2012.12.15 2015.4.7 更新


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