自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

農学栄えて農業滅ぶ

2014-10-09 12:24:32 | 自然と人為
明治時代の農学の第一人者である横井時敬の有名な言葉とされている「農学栄えて農業滅ぶ」の出典は不明のようだが、「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」と論じた人柄から出典は問う必要もなかろう。一人歩きした言葉が敬意を持って語り継がれる、その象徴として横井時敬があっていい。

私が生まれた昭和18年(1943年)には農学系大学は、北海道、東京、京都、九州の4帝国大学と、横井時敬が初代学長をして実学を重視した東京農大のみであったそうだ。現在(2014年)は、農学系大学は国公私立あわせて54校に増加したが、農学部や付属農場の名称を維持しているのは12大学(22%)だけとなっている。

私も農学系大学で現役の教師をしていた頃、若い食品系の教授から「大学に農場はいらない。農場現場の教育研究は必要ない」と言われたことがある。そんな考えで教育研究をしているから雪印集団食中毒事件(2000年)"も起きるのだと怒ったが、現場より試験管に研究の価値がある、しかも業績も出しやすいと考える人は益々多くなっているであろう。ちなみに、あまり重要でないと思う論文は英文で書くとつぶやいた教授もいた。英文は多くの人に読まれないし、英文の論文数が多いと評価も高まるのが理由だ。

学者や研究者等の専門家集団が所属する「学会」がある。学会は専門家集団にとって切磋琢磨して研究発表をする場ではある。しかし、研究発表することで専門家としての立場は守られるが、実学が軽視されると農家や農業は見えなくなり、農業を守る場からはますます遠くなってしまう。

本来、農業は生活であった。生活としてみれば生きていく原点としての農の価値や資源がそこに見えてくる。しかし、生きる価値を論じることは研究からは客観的でないとして遠ざけられた。経済学ではこれを生産として扱い家計と生産費を分離させて、生産と消費の関係で農業を評価し、教育もしてきた。「農業のことは農民に聞け」から「農業のことは経済学に聞け」になり、経済学が農業を支配する社会になってしまった。

そして現場を蔑視する教師から現場を軽視する学生が育ち、農業に直接従事する機会や熱意がないから農業関連の公務員や団体・企業に就職する。まさに「農学栄えて農業滅ぶ」は農学系大学によって加速され、今や農学も農業も絶滅危惧種となってしまった。

いやいや農学は科学として進化して、社会に貢献しているのだと言われるかもしれない。しかし農として命への心を失うと、「科学栄えて人類滅ぶ」への道となりはしないか。農学は進化するとしても、農としての原点である自然の営みを見る目を養い、命と心を大切にする学門であって欲しいものだ。それは自然を外から見る視点だけでなく、自然の中に自分を置く感性を養うことでもある。

2014.10.10 追加更新 2017.6.21 タイトル微修正



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