じいの徒然日記

内野聖陽さんにfall in loveしたじいのおバカな毎日を綴った日記

内野さんメモ

7/5 5:20~ TBS「THETIME,」
   10:25~ TBS「ひるおび」
   13:55~ TBS「ゴゴスマ~GOGO!Smile!~」
   15:50~ TBS「Nスタ」
   18:30~ TBS「『二宮孝太郎』✕『それSnow Manにやらせて下さい』合体SP」
7/6 9:30~ TBS「王様のブランチ」午前の部
7/7 13:30 TBS「今夜初回!日劇「ブラックペアン2」&明後日初回火ドラ「西園寺さん」開幕超直前SP」
   19:00 TBS 「バナナマンのせっかくグルメ」
   21:00 TBS「ブラックペアン」放送開始
10月 芭蕉通夜舟 東京公演
    映画「八犬伝」公開
    芭蕉通夜舟 地方公演(群馬)
11月 芭蕉通夜舟 地方公演(宮城・岩手・兵庫・愛知・大阪)
    映画「アングリースクワッド」公開

カラムとセフィーの物語

2010-10-11 23:53:04 | 観劇記
今日は秋晴れ……を通り越して暑かったですぅ~~昨日は電気カーペットを出す&夏冬入れ替える、、、頑張ったのに切ないぞ~ でも、コレっていつものパターン 夏⇔冬の準備をする度に起きてる空模様な気がします

そんなわけで収めたはずの半袖を引っ張り出してきて外出 文学座アトリエ60周年公演の第2弾!「カラムとセフィーの物語」を観に行ってきました。今回もトロイアに引き続き最前列~~それでなくても濃厚な空間と芝居に溢れていて、息苦しくなるほどの熱気と頭を占拠する中身の詰まった作品なのに~~近すぎてノックアウト気味 やっぱり観終わった後はズッシリげっそり~~エネルギーを吸い取られ使い果たしたって感じの疲労感。ま、これが心地いいんですけどね

~あらすじ~

肌の色の黒いクロス人が支配し、肌の色の白いノート人が支配される地域。クロスとノートの間にはあらゆることで差別が生じていた。ここに1つの愛が生まれた。クロスの少女セフィーとノートの少年カラムの間に・・・。大きな障壁をこの愛は乗り越えられるだろうか。(文学座HPより)

『カラムとセフィーの物語』の原題はNoughts and Crosses ○と×を五目のように3つ続くように並べ合うゲームのこと。このゲーム、相手にミスがなく両者が真正面から真剣に向き合う場合には、勝負がつかない。(チラシより)

2時間45分(休憩10分含む)の全2幕。「トロイアの女たち」と同様に左右2つのブロックに分かれていて、真ん中に舞台があるというパターン。さすがに2時間超えになるとパイプ椅子の観劇はきつかったかも~~ 正直最後ら辺はお尻が痛くて また、今回は特に大掛かりなセットがあるわけではなく、最初は床のあちこちにバラが植えられていて(カラムとセフィーが子供の頃に一緒に遊んでいた庭…らしい)それが取り除かれた後は全体は黒色で縁のみ白く塗られた椅子と机を移動させたり組み合わせたりしてセットとして使われていました。

クロス人とノート人、肌の色の違いを表すために、頬骨辺りにクロス人→黒、ノート人→白のペイントが施されていたので分かりやすかったです 実際に外国で上演される時は本当の黒人&白人のキャストを持ってくればいいんだろうけど日本ではなかなか難しいし……ま、他にも仮面を被せてみるとか?白塗りにしてみるとか??いろ~んな手法があると思うけど←超素人発想でゴメンナサイ ただ、、、クロス人の女子高生には突っ込まずにはいられない部分が 一昔前のやまんば女子高生状態なのよね~~しかも演じている方々はリアル女子高生な年齢ではないわけで……以下省略 ま、そういう意味のリアリティは問題ではないので大丈夫だったんですけどね~~そうそう、あと……カラムの父親がデパート爆破テロの罪で縛り首になる場面。執行直前に恩赦になる……ってコレ、どこぞやで触れた流れじゃないですか ここにツボったじいは、、、はい、縛り首決定~~

この作品で一番最初に目が行くのは、黒人が白人を支配するという設定でしょうか。ありがちな……というか現実には逆パターンが一般的なので そこが皮肉めいているようであり人間の本質を表しているようでもあり……でもね~~この設定はあくまで入り口であって物語の中心ではないと思いました。そういう「一般的な」「分かりやすい」「典型的な」ものだけを描いていないと感じたので。それと、ストーリー的にはシェイクスピアのロミオとジュリエット……確かにそういう部分はある。敵対し合う人種同士の間で生まれた純愛 でもね~~じいが思うにはそんなに単純で涙を流せる物語ではない。ロミオとジュリエットがシェイクスピアの四大悲劇に入らない理由に繋がっているのでは?とふと考えたわけで……考えようによっては悲劇ではないんですよね~~ロミジュリって。文学研究的な専門知識はないのでじいの勝手な意見だけど、、、ロミジュリは確かに結ばれることが許されない環境が生んだ悲劇ではあるけど二人は愛に生きればよかった分幸せだったと、まぁ乱暴に言えばそういう部分があると思うんだけど、本当の悲劇って割り切れない思いであったり、どうしようもない人間の性や切なさであったり誰も裁けない罪であったり、そういう「やるせない哀しさ」だったりすると思うのよね~~そういう意味では、この「カラムとセフィーの物語」はロミジュリに足りない悲劇の本質をプラスαした、四大悲劇の仲間入り要素を詰め込んだ濃密な物語になっていたのではないかと思いました

ノート人クロス人……差別する側とされる側。よくある構造なのは差別する方は悪で差別される方が善。でも、この作品を見ていると必ずしもそういうものじゃないのでは?と思いました。一番分かりやすいところでは要所要所に出てくるニュースキャスター ←階段の上から出てきたりポール下りしてきたことも!(いきなり目の前に下りてきたのでビックリ)メディアと実際は違うという部分は違うという部分も含めて(何だか妙に実感してしまう今日この頃)……支配層であるハドレー家(セフィーの家族の方ね)も被支配層であるマクレガー家(カラムの家族)も実のところ違いはなくて良いと悪いが共存しているし、人種差別を反対するセフィーの中にも無意識の差別意識?あるいは相違の意識といった方がいいのかな??そういう部分はあるし……というか差別意識云々というよりも人間が持つ他者への意識と言った方がいいのかもしれないけど そして、同じようなことはカラムにも言えるのよね~~恵まれない境遇やすれ違い云々じゃない、別の意味でこれまた人間が持つ他者への意識がある。はたまた同じようなことはこの作品の登場人物全てに言えることだと思うのよね~~セフィーがカラムを庇うために敢えて、でも思わず出てしまったノート人を示す蔑視用語←覚えてないの~~ セフィーを守るために言ってしまった/やってしまったことが逆にセフィーや彼女の属する人種に対する憎悪に繋がったこと、セフィーが仲良くしようと手を差し伸べたノート人・シャニアが後でセフィーは偽善だと罵ったこと、カラムの母やセフィーの母が表したクロス人やノート人に対する愛憎の気持ちなどなど……いろ~~んなところに含まれていた交錯する心、生き方。2幕の、セフィーの母親がカラムの父親の裁判で有能な弁護士を雇うための費用を出したことやかつては友人同士であったことを告白する場面、カラムとその兄、仲間たちが起こしたセフィー誘拐事件の後に警察に追われるカラムがセフィーとハドレー屋敷内で再会する場面……特に後者の方!カラムは結局逮捕されるんだけど、その時にセフィーに投げかけた「君はこうなることを知っていたのか?」という言葉。何か妙にすっごく引っかかったのよね~~それまでのすれ違い同様にただの誤解なのか、実は本当なのか、思いっきり藪の中状態だったりするんだけど……意識or無意識に関わらず、人間ってこういうことってしていると思うのよね~~他者に対する差別や区別も然り。善悪の区別はできないし、普段は敢えて見ないように、考えないようにしていることに触れられた気がして妙に乾いた風が心に吹いたような、、、そんな気がしました。

ラスト、、、床に書かれたROSE CALLIE(だったと思う……うろ覚えでゴメンナサイ)という文字。結局カラムは処刑され、カラムとの間にできた女の子をセフィーは産んで育てていく決心をしながら歩いていくところで終わる。この場面で流れていた音楽 鉄琴の音に重なるように流れていた不協和音が耳につくというか、何かあるのでは?と思わせるようなラストに彩りを添えていたような気が そこら辺は観る者の心に委ねられたような感じでしたが でもね~~この床に書かれた名前にスポットライトが当たって最後まで強調されている照明の演出、とっても良かったですぅ~~

中身の詰まった作品を軽やかなテンポで流れていく舞台でしたが、う~~ん、もう少しメリハリがあってもいいのかな~と思うところもなきにしもあらず。でも悪くはない流れだったから……良くもあり悪くもありという感じでしょうか。役者陣、、、ちょいと目に付いたのがカラムの兄・ジュード。悪キャラが引き立つような喋り方はいいんだけど、一本調子の熱さで深みがなかったのが残念だったかな~~ でも、全体的にはやっぱりさすが!と思わせる皆さん。中でもカラムの母・メギーとカラムの目にはいきなりやられましたね~~主人であるセフィーの母・ジャスミンを見る目 諦めと憎しみと優しさが入り混じった光を感じていきなり目が離せなくなっちゃった~~カラムの目にもドド~ン と。無垢な目の光の中に交錯する陰影が被さっていく……その佇まいや空気感を含めて素晴らしかったです
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イリアス 兵庫大千秋楽

2010-10-11 00:59:13 | 観劇記
超超超~~遅すぎっ 今更ながら~な感いっぱいですが、10月3日ソワレ、イリアス大千秋楽の観劇記です。

そもそも大楽がソワレってどうよ な不可思議な日程 正真正銘のラストでマチソワ公演もビックリという感じで マチネは観ていないので分かりませんが、全体的な勢いという意味では前日の公演の方が良かったかな~という印象はありました。でも、東京楽と同様に不必要な熱気というか、楽独特のテンション な感じはなくて平常心な流れで思う存分イリアスの魅力が溢れていたので良かったと思いますね~~ってか、むしろ特別な感慨深さで観ていたのはじいの方だったかも 「今日で最後!」という思いがあったし、9月2日の初日から観てきたイリアスの世界、登場人物の思いや生き方を総括する気持ちというか、結局自分はどんな風に受け止めて思いのやり取りをしてきたかという“まとめ”を勝手にしながら観ていたんですよね~~なので、冒頭のカサンドラの語り&歌からウルウル やっぱり戦い=真に生きることだと思うから……そんな風にしか生きられない人間が切なくて愛おしくて

ところで、、、いきなりですが告白いたしまする 最後の最後でじいの浮気発覚 あろうことか~~ヘクトルに してしまいました。終演後に暴露したら友人たちは呆れていましたが(笑) なぜかこの日は妙にかっこよく見えてしまったんですよね~~外見云々ではなくて ←特にメイクは要らなそう……素でトロイア人いけそうだけど 1幕のアンドロマケとのやり取りを見ていて「いいな~」と思っちゃったのよね~~もちろん今の結婚観等々の価値観が違うから単純に羨ましいとかカッコイイとかいうわけではないんだけど、守るべきものがある男の強さが素敵だな~って コレ、そんな風な安心して愛せる部分がない男を愛する我が習性に疲れたせい?なんちゃって ま、すぐに一時の気の迷いだったことに気づきましたが(笑)アキレウスが出てきた瞬間に内面から湧き上がる心、言葉や外見ではない受け止め方、全然別次元なんだもん……と、冗談はともかくとして、そんなヘクトルに関しても甘くて優しいかっこよさだけがあるわけではないんですよね~~アンドロマケに背を向けて戦う欲求を口にするところやギリシア軍に攻め込む姿は、単に大切なものを守るために戦うのではなくヘクトル自身の戦う欲望、命のやり取りをしたいというある意味汚いけど美しすぎるほど正直な気持ちに溢れているように感じました。だからこそ、、、パトロクロスを殺すシーンは憎らしかったし、アンドロマケが「私の夫はこれほどまでの仕打ちを受けるようなことをしたのでしょうか?」と問うセリフを聞いて同情も哀れみも感じなかったし。

でも、やっぱりトロイアを、大切な者たちを守るために戦って散った英雄なんですよね~~ヘクトルは。結局は父王プリアモスが亡骸を迎えに来て、家族に囲まれて、盛大な葬儀で冥府に送られる。確かに、、、死ぬ運命をも覚悟してアキレウスの前に現れ、自分の全てを語りアキレウスを説得し、息子の遺体を抱きしめて号泣するプリアモスに観る者の心が寄り添うのは当たり前だと思うんです。でも、じいはこの場面を観る毎に感じたのはアキレウスの孤独 彼は自分の命が短い運命であることを知っていて、命の輝きも儚さも実感していて、それでもなお戦いたい=真に生きたいという悲しいまでに美しい人間の性を持っている。今回は特にパトロクロスの亡霊との語らいシーンがめちゃめちゃ良かったんです。友……ってか恋人…か パトロクロスを失った悲しみがこれでもか!というほど伝わってきて、じいは今までにないほど号泣しちゃって 大切な人を失った心の揺れ、、、単に悲しいだけじゃないんです。思い出を語る楽しさ、盛大な葬儀をすることで喪失感を埋め自分を納得させること、それでも癒されない傷、どうしようもないやるせなさ、、、いろ~~んな思いが交錯する……これ、パトロクロスが「僕はもう死んだんだよ」と言い、それに対してアキレウスが「あぁ、残念だ」という。この“応答”が全てを語っているとじいは思うのです。そして、、、この亡霊シーンこそが、大切な人を亡くした本当の悲しさを表しているのではないかと。人が死ぬって、その瞬間よりも時間の経過と共に真に迫って本当に実感し悲しみを知るものだから。しかもそれが本来なら死ぬ必要はなかった「戦い」によって命を落とすということになるといっそう……でも、それと同時に戦いを止められない、生きることは戦うことである人間の存在を思うと……ますます切ないな~ で、、、そんなシーンを見せられた後にプリアモスの言葉に耳を傾け息子を抱きしめる姿を背後に感じるアキレウスの姿を見てしまったら……他の人間よりも運命の真実を知るアキレウス、ギリシアに帰れない彼の体を抱きしめ、死した後も思ってくれる人はいるのだろうかと思ったんですよね~~アキレウスの背負っているものは多分、周りの人間たちには分からないし、それを責めるべきではないんだけど、神と人間の合いの子だからこそ?他の人より何倍も濃厚に生きているからこそ見えてくる、いや、見えてしまうものを背負った存在……その孤独さが突き刺さりましたね~~上手側に立って背後で号泣するプリアモスを感じて涙する姿が悲しいまでにかっこよくて、でもとてつもなく切なかった~~

でね~~同じ孤独をカサンドラにも感じたんです。いや~~今更ながら(苦笑)最近 している聖子ちゃんの演技に脱帽 未来が見えるカサンドラゆえの孤独……泣けない辛さ。2幕でプリアモスがアキレウスの元に行くと言った時にアンドロマケが引き止めるシーン。最後に彼女は「私は不幸を告げる鳥にはなりません。どうかヘクトルの遺体を引き取りに行ってください。それが叶わぬなら私の分まで涙を流してきてください」と言うんだけど、その時に柱に寄りかかっていたカサンドラがアンドロマケとプリアモスの方をチラッと見て悲しそうな顔をする。。。アンドロマケのように素直に、正直に自分の思いをぶつけられたら……でもカサンドラは自分のエゴな思いでは生きられない運命……というか真実が見えてしまうゆえにそうはできないわけで、それはある意味「英雄」的な選ばれし存在として輝かしいのかもしれないけど、それが逆に悲しくて……泣けない辛さ、感情を爆発できないってホント辛いですから。

カテコは確か5回……か もうね~~じい、既に1回目から泣けて泣けて あぁ~~無事に全部が終わったんだ、本当に本当にお疲れ様でした、、、エトセトラ いろ~~んな気持ちが溢れてきました。イリアスの創作に関わった全ての皆さんに大拍手 はもちろんなんだけど、ゴメンナサイ やっぱりじいの心が全力で向かうのは内野さん。やりきったという脱力感を含みつつ達成感に満ち溢れた笑顔がひたすらに愛おしかった 最後は内野バイバイや短剣を高く大きくかざす仕草が微笑ましいやら安堵の気持ちやらでいっぱいになりましたね~~そうそう、5回目の時は木場さん~~やっちゃいました 一人袖に引っ込んだまま出てこなくて、内野さんが両手で「ここに一人いるはずなんだけどね」みたいな仕草をされてたら、しばらくして木場さんが走って来られて 何やら一番上の羽織物を着なおしながらの登場……もしかして既にお帰りモードだった…か

始まる前はちゃんとイリアスについていけるだろうか、思いのやり取りができるだろうかと不安がいっぱいだったけど、終わってみれば嵌りまくり~~まだまだ取りこぼしているところがいっぱいあるから観続けたい作品になりました。BBとは違った意味で引きずりそう~~って、大楽の後の数日間はカサンドラの歌が頭を占拠してたんだけど まさに演劇の醍醐味を味わうには溜まらない、面白すぎる演目!内面のやり取りというよりは突き放したところで内面と闘う作品だったような……そして、そんな作品だったからこそ突如やって来た巨大台風に立ち向かい、揺るぎない内野愛を確信できたのではないか……そんな風に思うのです
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