昭和30年代に、出版された金田正一著による本や、彼の言葉からは、私の記憶に間違いが無ければ、沢村賞に関する記述や発言は無かったと思います。しかし約50年位前の事なので、もし違っていればご容赦下さい。前回も推測しましたが、金田正一から見れば、いくら伝説の速球投手とは言え、実績的には遥かに落ちる投手の賞を素直に喜べる気持ちはなかったと思います。その一つの例として、以前にも書きましたが1963年、防御率、無失点勝利で僅かに後塵を拝しただけで、他の部門では圧倒的に引き離していながら、読売ジャイアンツの伊藤芳明投手が沢村賞に選考された事に対して、彼の反論は聞かれませんでした。あの賞に対して貪欲な彼ですが、実力だけで取れる賞とは違い、選考での賞に対しての疑問もあったのでしょうが、自分こそ日本一の投手と自負している彼には、他人の名前の賞等、興味の対象にはなく、将来は自分の名前の賞が出来る筈だと信じていたのかも知れません。それ程自信の塊でもありましたが、それを裏付ける力をも当時は見せていました。
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1 コメント
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- Unknown (仙台スタジアムをすっぽかした奴)
- 2009-07-29 21:53:54
- 金田正一がどう思っていたかわかりませんが、この間江川と西本のテレビで江川が話していましたが、彼は沢村賞に偉くこだわっていました。例の巨人入団の事件が選考記者の恨みを勝って西本が沢村賞を取ったわけで、江川曰く、沢村賞の選考基準には人間性が加味されるなら最初からそう明記せいと憤慨していましたね!彼結局沢村賞だけは取れずに引退した訳ですね!金田が沢村賞を取るのに時間がかかったのには何かその辺の事情があって、それでも周りが認めずにはおけない状況になったので選ばれたのでは無いでしょうか。そのあたりの事を本人がコメントするにも出来ない雰囲気があったのでは無いでしょうか?
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