明日に向けて

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明日に向けて(2091)被爆して「夕焼け小焼け」を聴きながら亡くなった「南方特別留学生」、サイド・オマールさんの法要に参加して

2021年09月05日 22時00分00秒 | 明日に向けて(2001~2200)

守田です(20210905 22:00)

2年ぶりに圓光寺へ

9月4日にサイド・オマールさんの法要に参加してきました。京都市の圓光寺にてでした。2019年の同じ日に継ぐ、二度目の参加でした。
コロナ禍でしかも雨の中でしたが30人ほどが参加されました。マレーシア出身で広島の大学で教えていらっしゃるアザムさんも駆けつけられ、境内での仏式の法要の後に、お墓の前でイスラム式の追悼の辞を読んでくださいました。オマールさんに思いを馳せる静かな時間が流れました。





みなさま。サイド・オマールさんのことをご存じでしょうか。お知りにならない方はまずこのビデオをご覧下さい。
オマールさんを訪ねる旅①
https://youtu.be/EtjhV67UjPc

作成はSTORYTELLING FOR TOMORROW
お話しているのは「京都圓光寺オマールの会」代表の早川幸生先生です。
修学院小学校の先生を長い間されて、子どもたちと「オマールさんを訪ねる旅」をされてきた方です。

この日の法要の様子を榊原恵美子さんがライブ発信してくださいました。アーカイブをご紹介します。
https://fb.watch/7PScQcNSrY/
https://fb.watch/7PSUN1XTD0/


今年も法要をご準備下さった山口良子さんと榊原恵美子さん 他にも何人かの方がご尽力くださいました

オマールさんのことをぜひ多くの方に知っていただきたい。そう考えて、次に2年前に初めて法要にうかがったときに書いた記事をご紹介します。


広島で被爆し、祖国に帰る途中の京都で亡くなられたオマールさん・・・

本日(2019年のこと)9月3日、サイド・オマールさん(正確にはサイド・オマール・ビン・モハメッド・アルサゴフさん。マレー語表記は Syed Omar bin Mohamad Alsagoff)の法要に参加してきました。左京区の圓光寺においてでした。
サイド・オマールさんは今のマレーシアから日本留学中に広島で被爆され方です。帰国のために東京に向かう車中で容態が悪化。途中に立ち寄った京都市で京都帝国大学病院に入院。そのまま回復することなく9月3日に亡くなられました。19歳でした。
遺体は南禅寺大日山の共同墓地の墓に葬られましたが、1957年に妹さんが訪れたものの、朽ちていて見つけられませんでした。これを聴きつけた京都洛北平八茶屋のご主人が墓の建立を目指し、圓光寺が土地を提供して実現。以来法要が続けられてきました。


70人が参加された2019年の法要

オマールさんはイギリス領マラヤのジョホールバルに生まれ育ちました。イギリス領マラヤは18世紀から20世紀にマレー半島とシンガポール島近辺をイギリスが支配し植民地化していた地域です。「英領マレー」とも呼ばれていました。
第二次世界大戦がはじまると「南方」に侵攻した日本軍がイギリス軍を追い払い、1942年から45年まで占領、軍による統治を行いました。日本はマレーを「大東亜共栄圏」に組み込むため、マレーのエリートの若者に日本教育を施すことをめざしました。
このため「南方特別留学生」を選抜しましたが、同時に人質のような要素も持つ中で、ジョホール州の王族出身のオマールさんが一期生に選ばれて1943年来日。広島高等師範学校を経て、1945年5月旧制広島文理科大学(現広島大学)に進学しました。


8月6日朝、オマールさんは爆心地から900メートルの留学生寮「興南寮」にて被爆。背中に大やけどを負いましたが、倒壊した建物の下から自力で脱出。その後、留学生仲間と合流し、大学で野宿しながら被災者救援に奔走しました。
一緒に野宿をした人たちによると、オマールさんは自らの怪我も顧みずに、ひたすら被災者を助け続けたそうです。大八車で友人を20キロも離れた親せき宅に送り届け、その後に見舞いにも行っています。少ない食べ物を子どもたちに分けたりしたそうです。
やがて日本が降伏しGHQが進駐する中で8月25日に帰国許可が下り、東京経由でマレーに向かうことに。しかし汽車の中で悪寒を覚えだし、26日京都到着後に病状が悪化。30日に京大病院に入院したものの、もはや手遅れで9月4日に亡くなりました。


夕焼け小焼け・・・を聴きながら

写真のオマールさんをみるととても美しい青年です。涼やかな顔、素敵な顔をされています。オマールさん、イギリス支配下のマレーで育ち、日本占領下に代わって日本に来ることになり、どんなことを思ったでしょうか。
残された方の思い出ではとにかく明るく、礼儀正しく、清潔好きで、いつも真っ白なシャツを着ている王子様だったそうです。同年代でともに野宿をした女性は「あのうっとりするような素敵な笑顔」と回想されています。
連日空襲警報がなり、食料も不足する生活の中、しかし留学生たちはいつも明るく、陽気にそれぞれの国の歌をうたってかえって日本人の若者たちを励ましていたとか。

京大病院では若き浜島義博医師が治療を担当されました。初めての原爆症患者を前にして治療方針が定まらない中、「輸血しかない」と考えて自らの血を抜いてオマールさんに与えました。
すると一度はかなり元気になったそうで、毎朝、大量の輸血を続けたそうです。おそらく最も妥当な対応だったでしょう。日本語が上手だったオマールさんは『荒城の月』などをこよなく愛した青年で、病床でも『夕焼け小焼け』を口ずさんでいたそうです。
しかしオマールさんはそれ以上回復せず、急速に衰弱していきました。

浜島医師がそんな彼にこう聞いたそうです。「日本にさえ来ていなかったらこんな苦しい目にあわなかったのに・・・。オマール君、君は日本人を恨んでないかい?」と。
「先生は毎日僕に血を分けてくださっているでしょ。先生と僕はもう兄弟です。僕の身体の半分はもう日本人です」。オマールさんはそう答えたそうです。
そして「ドクター、夕焼け小焼けを歌ってくれますか」とオマールさん。「ああいいとも」と浜島先生が答えられ、「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」と歌い出す中で、オマールさんは力尽きていったそうです。

オマールさんが亡くなられてから74年目のこの日、法要には約70人もの人が集まりました。京都の平和運動を担っているたくさんの方が参列されていましたが、広島から駆けつけた方もおられました。
圓光寺住職の読経に続いて人々がお墓に献花。僕もその一員として祈りを捧げさせていただきました。そして読経と献花が終わってから、オマールさんがこよなく愛し、今わの際に耳にした『夕焼け小焼け』をみんなで合唱しました。

続く

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