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明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(958)ポーランドの国際会議に参加中です!

2014年10月24日 01時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141024 01:00)ポーランド現地時間

ポーランドに着いて、国際会議の第一目に参加しました。

22日の朝5時に家を出て、韓国とドイツをトランジットしてポーランドのホテルに着いたのが現地時間の午前2時。日本時間では朝の9時でした。28時間の旅の末のポーランド到着でした。

今日(23日)の午後は少し休みも取り、午後4時にバスにのってホテルから近くの会場まで移動。夕食を食べて6時半から国際会議のオープニングセッションに参加しました。
今回の会議にはたくさんの人々が集っています。ベラルーシ、ウクライナ、トルコ、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、オランダ、日本、その他の国の方もいるかもしれません。
写真はまずは冒頭の挨拶と、この催しを企画してくださったドイツIBBのスタッフたちです。IBBは本当に各国の人々の交流を大事にしてくれて、この出会いの場を作り出してくれいる。今回も英語、ロシア語、ドイツ語への同時通訳が準備されています。

このオープニングセッションで僕も発言しました!IBBが3月に企画したヨーロッパ・アクション・ウィークでのトルコ訪問と、その後のトルコと日本との連帯についての報告です。
3月のトルコ訪問と8月の再訪などを通じながら、非常に強いつながりを築くことに成功したことを誇り高く報告しました!

実は生まれて初めての自分で書いた英語でのプレゼンテーションでした。大きな拍手で迎えられ、あとでたくさんの方から発言が良かったと言ってもらえたので、なんとか成功したのだと思います!ちょっと肩の荷がおりました。
国際交流の強化を自らが担うことの重要性を認識し、40の手習いで英語を再学習してから長い年限を経て、本当にようやくここまで来ました。55歳での初めての体験とはお恥ずかしい限りですが、今後、もっと英語力を磨いて、核の無い時代に向けた国際交流に貢献しようと思います。

僕の発言に続いて、トルコのプナールさん、東京から来たFoE JAPANの吉田明子さんも素晴しいプレゼンを披露してくださいました。
どちらもトルコと日本の連携に関することであり、多くの国々の方に今、両者の間で進んでいることをご紹介できたと思います。

終わってからの交流の場でいろいろな人に話しかけられましたが、嬉しかったのはウクライナの方が寄ってきて「良かったよ」と話して下さったことです。といっても彼が話しているのはウクライナ語(ロシア語に近い)、なんとなく「良かった」は分かるのだけれど、後はぜんぜん分からない。それで食事の時間に知り合ったベラルーシからドイツに移民した女性に通訳を頼みました。でも彼女は英語よりドイツ語が得意なのでそれをドイツ語になおして、ドイツ在住の日本人で会議に参加している桂木忍さんに伝えました。彼女は僕もこの間の活動で大変お世話になっている方ですが、その桂木さんがそれを日本語にして僕に伝えてくれるという二重通訳で会話が進捗ました。彼はチェルノブイリ事故以降に放射線の単位が変えられ、危険性が分かりにくくされたことなどを怒りを込めて語ってくれました。それやこれや、とても楽しい交流のひとときでした!

会議はあと3日続きます。明後日、ワークショップでもう一度、発言します。今日も少し紹介したのですが日本での民衆運動の発展、特に女性たちの頑張りを紹介をより詳しくするつもりです。(今日もこの部分で拍手が起きました!)

核の無い時代に向けた国際連帯の強化のため、この世から放射線による悲劇を少しでも減らすため、さらにフルに頑張ります!!

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明日に向けて(957)社会主義再考2 マルクス・レーニンの提言とロシア革命の現実

2014年10月19日 23時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141019 23:30)

明日に向けて(950)と(955)で、現代社会の矛盾、とくに市場原理主義の矛盾と社会的共通資本について論じました。宇沢先生を偲んでの記事でしたが、さらにそれを発展させて社会主義の捉え返しにチャレンジしていきたいと思います。
この試みは、明日に向けて(658)で取り組みを予告しながら、延び延びになっていたものです。市場原理主義の跋扈には旧ソ連邦や東欧社会主義の崩壊などが大きな背景をなしており、市場原理主義を説得力を持って批判していくために、社会主義の崩壊の捉え返しが必須だと思ったからです。
しかしこのときは、そもそも「社会主義とは何か」をあらかじめ措定しようとして、その概念の多様さの前で足踏みしてしまいました。一口に社会主義といってもかなりの広がりがあるためです。
しかし崩壊した旧ソ連や東欧社会主義諸国、あるいは日本の社会運動をみたときに、社会主義とはほぼマルクス主義と重なりレーニン主義とも多くの接点を持っています。そこで社会主義全般ではなく、マルクス主義、レーニン主義に結実した社会主義を対象とすることが一番必要性にあっていると考え直しました。

そこで、今回はロシア社会主義とは何だったのかということを「社会主義再考・・・2」として論じて行きたいと思います。
前提が分からない方はまず以下の記事を読んでからお進みください。

明日に向けて(658)社会主義再考・・・1 社会主義再考の執筆にあたって
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/aa3bd724ff687fbf9f6cc3bcfb5c5db2

1章ロシア社会主義は何を目指し、どこで挫折したのか
1、マルクス・レーニンの提言とロシア革命の現実
そもそも社会主義の目標はとな何だったのでしょうか。振り返るのに最適な文献はマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』です。同書は「すべてこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である」という書き出しで始まります。
「全社会は敵対する二大陣営に、直接相対立する二大階級にますます分裂しつつある。すなわち、ブルジョアジーとプロレタリアートに」。(マルクス・エンゲルス (1848) 『共産党宣言』国民文庫26頁、27頁)
マルクスは目指すべきは、革命によってプロレタリアートが「支配階級として強制的に旧生産関係を廃止する」ことで「階級対立の存在条件、一般に階級の存在条件を…廃止する」ことだと述べました。
私的所有制を廃止し、共有制を実現することで、人間の争いの根拠である階級関係をなくしていくというのです。そのための前提は、資本主義による生産力の発展によってもたらされるとされました。

レーニンの時代には、世界戦争の時代を迎えた資本主義の矛盾を解決し、真の平和を実現することがつけ加えられました。『帝国主義論』でレーニンは述べます。
「帝国主義とは資本主義の独占段階である」(レーニン(1917)『帝国主義論』国民文庫115頁)
 「独占、寡頭制、自由への志向にかわる支配への志向、ごく少数のもっとも富裕なあるいは強大な民族によるますます多数の弱小民族の搾取」が行われている。(同上、161頁)
その支配の歴史に終止符を打つために、帝国主義同士の戦争を反政府闘争に転化し、各国で革命を起こして、共同で社会主義への移行を実現しようとレーニンは提起したのでした。

さらに『国家と革命』では次のように語られました。
「資本主義がこの発展を信じられないほど阻止していること、また、すでに達成された現代技術を基礎として大幅の前進が可能であることを見るとき、われわれは、資本家の収奪が人類社会の生産力の巨大な発展をかならずもたらすであろうと、確信をもっていう権利がある」。(レーニン(1917)『国家と革命』全集刊行委員会訳、国民文庫122頁)
だが革命は本当に、生産力の発展をもたらしたのでしょうか。またそもそも生産力の発展とは、手放しで賞賛できるものだったのでしょうか。

ロシア革命は世界で初めての社会主義革命でした。経済的に「遅れている」とされた農業国、新生ロシアの政権を担ったボリシェヴィキたち(もともとはロシア社会民主労働と多数派の意味。転じてロシア革命の主流を担った人々をさす)は、当初はヨーロッパで革命が連動して起こると期待していました。
社会主義への移行の条件は、工業の発達したヨーロッパの革命によって得られると、かなり広範に考えられていたからです。しかし1920年代前半に、ドイツで始まった社会主義革命が途中で敗北してしまい、ヨーロッパ社会主義革命の可能性が遠ざかってしまいました。
この事態を前に、革命ロシアの社会主義者たちは、深刻な論争を経ながら、やがて一国で社会主義の実現を目指す道を選択していくことになります。こうして1928年に第一次五ヵ年計画、翌年に農業集団化が始まりました。社会主義計画経済の採用でした。この間、革命の最も重要な指導者であるレーニンが1924年に死去し、ロシア共産党の実権はスターリンに移っていました。

1929年は世界大恐慌の始まりの年に当たっていました。資本主義諸国が恐慌で経済が麻痺状態になり、その後も深刻な痛手からなかなか回復できないことに反して、新生ソ連は計画経済を順調に推し進め、第一次に継ぐ第二次五ヵ年計画を1937年3月に短縮で達成。工業生産を1929年水準から一挙に4倍にまで跳ね上げました。
この事実は人々に社会主義の資本主義に対する優位性を強く印象づけました。このため資本主義諸国でも、野放しだった自由競争への政府による介入が開始され、やがてケインズ政策が生まれていきました。ソ連邦の経済成長五ヵ年計画は資本主義各国に深い影響を与えるほどの「大成功」を印したのでした。
しかし実はこの時、ソ連内部ではとんでもないことが進行していたのでした。農業集団化の過程で、何百万人という農民が捕らえられ、収容所送りとなっていたのです。この恐怖政治は次第に共産党内部にも広がり、1930年代には粛清によって次々と党員が処刑されてしまうまでになりました。
この結果、例えば1934年の中央委員会総員71名、同候補68名のうち、1939年の中央委員会総会まで継続したものは、中央委員16名、同候補は24名にすぎませんでした。消え去った115名のうち、98名が銃殺されてしまったのです。(菊池昌典(1972)『歴史としてのスターリン時代』筑摩書房119頁)

このスターリンの指揮したあまりに暴力的な行いは、1956年のスターリンの死去後にソ連邦の書記長となったフルシチョフによって暴露され、「スターリン主義」と呼ばれて批判されるようになりました。
しかし告発を行ったフルシチョフはこの傾向をスターリンの個人的傾向と断じ、社会主義の中に孕んだ矛盾としては捉えず、何らの主体的反省もしませんでした。そのため「スターリン主義」と呼ばれた傾向は、その根拠を掘り下げぬままに放置され、やがてさまざまな社会主義勢力が繰り返しあらわすようになってしまいました。問題をスターリン一人のせいにするのは間違っていたのです。
後年になってロシアの歴史家ロイ・メドヴェージェフ(1924~)は、この抑圧が行われた要因が1917年の10月革命初期に既に形成されていたという指摘を行いました。(メドヴェージェフ『10月革命』(1979)石井規衛訳、未来社)
革命直後にロシア共産党(ボリシェヴィキ)が、農村から強引な食糧徴発を行ったのですが、そこにスターリン主義の発生にいたるロシア革命の誤りの出発点を求めたのです。

第一次世界大戦末期に革命を起こしたロシアは、当初、各国の干渉を受けて内戦が継続し、経済が混乱していて、貨幣が通用しない状態にありました。このため都市と農村を往復する「かつぎ屋」と呼ばれた商人が物流を担っていました。
ところがロシア共産党の革命家たち=ボリシェヴィキは、もともと私有財産制のもとでの市場経済に批判的であったことから、そのまま貨幣を廃止すれば、社会主義が実現できるのではないかと考え、統制経済に乗り出してかつぎ屋を摘発し、農村に政府の配給物資と交換に、食糧を提供することを申し入れたのでした。
しかし農民たちが混乱の中にある政府の実力を危ぶんで信用せずに拒んだため、かつぎ屋による物流が途絶えていた都市に飢餓が押し寄せてきてしまいまいた。
するとボリシェヴィキの人々は、武装した労働者による「食糧徴発隊」を農村に送り込んで、農民から暴力的に食糧を奪い始めました。当然にも農民の抵抗が巻き起こり、都市の飢餓自身も拡大してしまう悪循環が生み出されました。

そればかりか、ロシア革命の有力な担い手の一つであり、「革命の牽引車」と言われていたクロンシュタット軍港に集う水兵たちの間に農民への同情が生まれました。水兵たちの多くが農村出身だったからでしたが、水平たちの同情はやがて革命政府に対する反乱に発展していきました。
すると政府は革命の有力な担い手だった水兵たちを「帝国主義の手先」とののしり、ロシア政府の労働者を主体とした軍隊である「赤軍」を派遣して、反乱を凄惨に鎮圧してしまいました。(イダ・メット(1938)『クロンシュタット叛乱』蒼野和人、秦洋一訳 鹿砦社)
窮地に立ったボリシェヴィキ政府は、この反乱の最中の1921年3月、共産党大会を開いて「新経済政策(ネップ)」を採用し、農民からの穀物徴発の中止と、かつぎ屋の摘発によって停止していた市場の復活、容認を決定しました。これによって農民反乱は徐々におさまり、都市への農産物の流入も再開されていきました。

歴史家のメドヴェージェフは、政府は当初から、このネップ路線を採用すべきだったと繰り返し述べています。農民から強制挑発などせずに、かつぎ屋も含めて自由な物流を認めるべきだったにもかかわらず、計画経済を強引に進めたのが間違いだったというのです。
確かにうなずける提起なのですが、しかしその後彼の絶賛する「新経済政策(ネップ)」は7年しか継続されませんでした。再び1928年から計画経済が採用されるに至ったのでした。なぜネップが継続できなかったのか、メドヴェージェフの提起では解き明かしきれません。
この点について、日本の哲学者の廣松渉(1933-1994)は、要するにネップはうまくいかなかったのだと述べました。(廣松渉『マルクスと歴史の現実』(1990)平凡社258~260頁)。

そもそも農業国だったロシアには、工業化の前提になる資本の蓄積が欠けていました。その達成を急ぐには、農業から生まれる利益を、工業に配分していく必要があるとボリシェヴィキは考えました。
食糧危機を乗り越えるためだけでなく、社会主義に向かうための工業化を、農村から生み出される富の、国家への集中によって進めようとしたのでした。
しかし穀物徴発は再び農民との紛争を生み出すので、ネップでは「鋏状価格差政策」が取られました。工業製品に比べて、農産物が安くなるような操作が行われたのです。
しかし農民に不利な政策の下に不満がくすぶりだし、1928年に再び穀物提供が拒まれ始めてしまいました。

ここに至って、スターリンのもとにソ連邦政府は五ヵ年計画と農業集団化を提起したのでした。それはネップ以前の強硬な工業化政策への舞い戻りであり、農民との争いの再開を意味しました。
しかもこのとき政府は、以前よりもより徹底した政策を準備してのぞみました。集団化に従わない農民を「富農=人民の敵」と規定し、次々と捕らえて収容所に送ってしまったのでした。従わないものを暴力的に排除してしまうこの政策は、やがて国内に蔓延していきました。
こうした圧制の発現は、農業国ロシアで無理に社会主義計画経済を実行しようとし、工業化の原資を農村から得ようとして、農民と衝突したことによって構造化されたのでした。

後に「スターリン主義」と呼ばれたこのあり方は、もともと革命後にスターリンと鋭く対立して「ボリシェヴィキ左派」と呼ばれたトロツキーやプラオブラジェンスキーらが積極的に主張したものでもあり、けしてスターリンだけの考えではありませんでした。
とくにトロツキーは、「社会主義に向かうための労働は、軍隊的に組織すべきであり、農民を強制していくべきだ」とも主張していました。ロバート・ダニエルスは、この点をとらえて「その経済的思考においては、トロツキーは最初期スターリニストであった」 と指摘しています。(ダニエルス(1959)『ロシア共産党党内闘争史』対馬忠行ら訳、現代思潮社上巻99頁)
説得が性急だったこと以上に、ボリシェヴィキが共有していた農業を犠牲にして工業化し、生産力を一挙に上げようという考え方に、根本的な問題があったのです。

続く

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明日に向けて(955)市場原理主義と社会的共通資本・・・宇沢先生を偲びつつ(2)

2014年10月17日 10時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141017 10:30)

現代社会の矛盾の根本がどこにあるのか。社会的共通資本の考え方は、これをいかに正そうと言うものなのかについて論を進めて行きたいと思います。
現代社会を大混乱させている根拠、とくにさまざまな対立を激化させている大本にあるものは、市場原理主義=新自由主義であると僕は思っています。
市場原理主義とは資本主義社会を崇拝し、すべてものを市場に委ねれば良いとする立場で、アメリカの経済学者ミルトン・フリードマンらによって流布されてきたものです。
1970年代のケインズ経済学の行き詰まりの中で登場してきたもので、1980年代以降、アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、日本の中曽根政権などに採用されました。

市場原理主義は政府の市場への介入をすべて無駄なこと、すべきではないこととして排除しようとします。
なかでもやり玉にあげられてきたのは社会保障制度です。この制度は20世紀に入り巨大な発展を遂げた資本主義社会が、1929年のアメリカウォール街にはじまる世界恐慌を引き起こし、第二次世界大戦にいたる社会的混乱を広げたこと。
またその恐慌なども契機としつつ、社会的な貧富の格差が極度に広がり、さまざまな社会不安をもたらしたことに対する資本主義社会の側からの反省を媒介に進められてきたものでした。
これらをまとめ上げたのが、イギリスのジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)だったため、これらの政策が「ケインズ経済学」の名のもとに一括されてきたのでした。

特徴は政府が市場に介入することにあります。とくに当初、重要視されたのは世界恐慌後の不景気の長期化に対して、政府が積極的に財政支出を行い、有効な需要を作り出していくことでした。
一方で問題とされたのは、好景気になると次第に経済が過熱し、放置しておくと金融バブルが生まれ、やがてはじけて恐慌が起こることでした。
これに対しては政府系銀行の貸し出し金利である公定歩合の操作で市場への資金の出入りを調整するなど、政府が積極的に市場に介入して、バブルにいたらない穏やかな発展を維持することが目指されました。
貧富の格差の拡大に対しては、累進課税制などさまざまな所得調整を行いつつ、医療保険制度や失業対策など、社会保障制度を作り出し、社会的弱者をある程度「救済」することで、社会の不安定化を防ぐことが目指されました。

こうしたケインズ経済学にあっても、一方には政府による有効需要の創出の側面により傾斜し、軍事支出もまた需要の喚起=経済拡大の呼び水だとして積極的に進めていく右派ケインズ主義の立場が生まれ、アメリカをはじめとする各国政府に影響を与えて行きました。
一方で社会の安定化のためには所得調整をさらに推し進めて富める者から貧しい者への資産の移動を促進し、社会保障制度を拡充して社会の安定化を深めるべきだとする左派ケインズ主義の立場がありました。
ケインズ高弟の中で、後者の立場を積極的に進め、資本主義の矛盾を改善しようとした経済学者にイギリスのジョーン・ロビンソン女史がいましたが、宇沢先生もまたこうした立場から社会の真の豊かさの拡大を目指しておられました。
その宇沢先生は当時、アメリカのシカゴ大学に在籍していましたが、そこに居合わせたのが市場原理主義を推し進めた経済学者ミルトン・フリードマンでした。

宇沢先生はこの時のフリードマンの人となりを伝えるエピソードを繰り返し説かれています。その一つを経済ジャーナリストの内橋克人さんがまとめられた『経済学は誰のためにあるのか 市場原理至上主義批判』(岩波書店)の宇沢先生と内橋さんの対談の中から引用します。
「1965年に私はシカゴ大学にいたのですが、お昼は教授たちがみんな一緒に食事をするのです。ある日ミルトン・フリードマンが興奮して遅れて食事の席についてこういう話をしました。
コンチネンタル・イリノイ銀行というのがシカゴにありますが、その日の朝、フリードマンは銀行の窓口に行ってイギリスのポンドの空売りを1万ポンドしたいと申し込んだそうです。
そのとき1ポンド=2ドル80セントだったのですが、それが2ドル40セントに切り下げられることがほぼ確実にわかっていて、事実その二週間後に切り下げられたのですが、そのとき空売りすると、巨大な投機の利益を得ることができるのです。
しかしその銀行のデスクがフリードマンに向かって答えたのは、「ノー、われわれは紳士(ジェントルマン)だからそういうことはやらない」ということだった。
フリードマンはそれを聞いてカンカンになって、帰ってきて、資本主義の世界では儲かるときに儲けるのがジェントルマンなのだと、真っ赤になって大演説をぶったのです。」(『同書』p5、6)

少し説明を加えると、空売りとは手元にないものを売ることです。銀行から1万ポンドを借りて売りに出す。すると1ポンド2.8ドルですから28000ドルが手に入る。ところが二週間後にポンドは切り下げられて1万ポンドは24000ドルになります。
このため24000ドルを借りた1万ポンド分として銀行に返せば、フリードマンの手には4000ドル残ることになります。元手もなしに4000ドルが登場するのです。こうした儲けのあり方を、生産に投じる「投資」と分けて「投機」といいます。
「投機」では実際には社会的富の創造は全くなされていないのに、いわゆる「あぶく銭」が手元に入ることになる。このため「投機」を促進すると社会は「あぶく銭」を目当てに走り出します。これが過剰な期待を生み、バブルを生んで、やがてその崩壊である恐慌を生むのです。
コンチネンタル・イリノイ銀行はシカゴ大学のメインバンクだったそうですが、この頃はこうした「投機」こそが社会を腐敗させ、崩壊させるものだと認識していた。だから「われわれは紳士だからそういうことはやらない」とフリードマンの要求を突っぱねたのです。

ミルトン・フリードマンが求めたのは、こうした大恐慌の教訓から作られたさまざまな社会的規制を撤廃し、好きに「投機」のできる社会の実現でした。コンチネンタル・イリノイ銀行が示した節度、金融を社会的共通資本として扱う「紳士さ」の解体こそが、フリードマンの目指したものでした。
そうであるがゆえにフリードマンの見解は軽蔑され、当初は誰にも見向きもされませんでした。そればかりか、このころシカゴ大学で経済学者たちを指導していたもともとの「シカゴ学派」の指導者であるフランク・ナイト教授がこれを聞いて激怒。フリードマンと彼の盟友のジョージ・スティグラーを破門してしまいました。
ナイト教授はシカゴ大学の経済学者たちを集めて「今後二人は自分のところで博士論文を書いたということを禁止すると言い渡した」(『同書』p7)そうです。ちなみにナイト教授は、アメリカ軍による広島・長崎への原爆投下に対して倫理的責任を感じ、広島の孤児の女の子を養女としたことでも有名な方です。
このため本来、フリードマンは「シカゴ学派」を名乗る権利はないのですが、その後にフリードマンらの信奉者が「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれるようになり、「シカゴ学派」の名は市場原理主義者の代名詞へと歪められてしまいました。

このように孤立していたフリードマンが脚光を浴びるようになったのは、先にも述べたケインズ経済学の行き詰まりのためでしたが、現実にそれを促進したのはアメリカのベトナム戦争へののめり込みと、その末の敗北でした。
実はこの戦争に右派のケインズ経済学者は積極的に関わっていました。戦争もまた積極的な「有効需要の創出」としてとらえられたからでもあります。しかし実際にはアメリカはベトナムでの浪費のもとでの敗北によって疲弊してしまいドル本位制を維持できなくなりました。
こうして1971年に「ニクソン・ショック」が起こり、それまで行われてきたドルと金との交換が停止されました。世界は「変動相場制」に移行し、不安定さを増していきましたが、これに1973年の産油国による「石油戦略」の発動が追い打ちをかけました。いわゆる「オイルショック」です。
資本主義各国はスタグフレーションと言われる経済苦境に陥りました。問われていたのはアメリカの覇権のもと、戦争経済を中心に需要を喚起してきたいびつなあり方の反省でしたが、そうした生産的な方向性は生まれませんでした。

このとき各国指導者が飛びついたのが、それまでは社会を混乱させる考え方として避けられていたフリードマンの主張でした。主張といってもフリードマンが唱えたのは、レッセ・フェール=自由放任への舞い戻りにすぎませんでした。
フリードマンが固執したのは、かつてコンチネンタル・イリノイ銀行が示したような「投機」を戒めるさまざまな社会的規制を撤廃してしまい、資本主義を弱肉強食の争いの場へと戻すことでした。競争こそが経済を発展させるのだと大恐慌の反省など無視して強調されました。
同時にフリードマンは社会保障制度も激しく攻撃しました。弱者を救済するから弱者は働かなくなるというのです。もともとフリードマンは、黒人が貧しいのは黒人が若いころ怠けて技術を習得しなかったからだというようなことを平気で語る差別主義者でもありました。
この考えが採用されたとき、それまで貧富の差を軽減されるために取られていたさまざまな施策が無効化されました。累進課税制も低減され、富める者の税金は安くなり、貧しいものの税金は高くなりました。消費税のように一律に課税される不平等税制がもてはやされるようになりました。

1980年代から今日までの35年近く。およそ世界はこのような市場原理主義を基調に動いてきました。当然ですがそのために投機が流行り、何度もバブルが形成され、はじけて大混乱が起こりました。
アメリカでそれを象徴するのがコンチネンタル・イリノイ銀行のその後でした。かつては「紳士」としての態度を貫いたこの銀行は、徐々に態度を変えて行き、ニクソン・ショックのときに投機に走りました。
このとき狙われたのは東京市場でした。それまで1ドル=360円だったものが劇的な円高になっていったわけですが、非常にミステリアスなことにこのときに東京市場だけが閉鎖することなく二週間開いていて80億ドルと言われる大量のドル売りが行われてしまったのです。
日本経済は大変なダメージを被り、その後の日本の金融が攪乱されてしまいましたが、この時、コンチネンタル・イリノイは最も儲けたと言われています。すっかり節度を失ったこの銀行はその後もさまざまな投機に手を出し、全米で7番目の銀行に膨れ上がったところで1984年にはじけて倒産してしまいました。

コンチネンタル・イリノイの倒産は日本のバブルの発生の前に起こったことですが、日本経済もそのあとを追っていってしまいました。1980年代後半、中曽根政権のもとでどんどんバブルが形成されていき、やがて一気にはじけて長い経済的苦境が始まりました。
バブルの発生はただそれだけが恐ろしいのではなく、コンチネンタル・イリノイの例にもあるように、その過程でさまざまなモラルや節度が壊されていき、金儲け主義がはびこっていくことです。あぶく銭を追うことで、社会からモラルが失われ、節度が摩滅しきったのちに経済崩壊がやってくるのです。
この35年世界が歩んできた貴重的な流れがこれです。近年でもリーマンショックなどが起こりましたが、その前におよそ考えられないようなモラルを欠いた貸付の横行がありました。相手が返せないことなどわかっていながらお金をもたせ、消費させることが横行していたのです。
このようなことが続いたのちに経済が破裂すると、社会の中には不穏当な恨みつらみが蔓延してしまいます。とくに経済競争に負けた人々の中に怨嗟が渦巻いていく。そればかりではありません。若者にまともな職がなく、未来の展望もないような状態が生まれ、その中で一部のもののみの栄華が続いてゆくのです。

私たちが今立っているのはそんな状態の世界ですが、こうした社会を作り出したミルトン・フリードマンやその考え方と終生にわたって論争し、闘われたのが宇沢先生でした。弱肉強食のあり方をやめ、真に豊かな社会の創造へと舵を切り替えていくことを先生は叫ばれ続けました。
宇沢先生には市場原理主義の跋扈に世界を委ねればどんな悲惨なことになるかがはっきりと見えていました。だから先生は社会的共通資本を論じることで、人々の幸せを根底から支える大事なものを身体をはって守られようとされたのです。
とくに晩年、先生が力を注がれたのは社会的共通資本としての医療を守ることでした。宇沢先生は職業に貴賤がないことは前提としつつも、医療、教育、そして農の営みをもっとも重要な社会的共通資本と考えられ、医療者と農民や第一産業に従事されている方たちを最も尊敬されていました。
病から人を守り救うこと。命を尊ぶこと。そして命を育てること。命を育てる源の食べ物を作り出すこと。そこに宇沢先生は最大の価値をおき、その上に社会的共通資本の考え方を組み立てられました。

今日、世界はますます混迷の度合いを深めています。日本にも小泉政権によって中曽根政権以上に露骨な市場原理主義が持ち込まれ、労働者の権利が次々と無化されて、正規雇用が大幅に削減されてしまいました。日本の若者の多くが正職を得ることができず、貧困にあえいで未来を展望できずにいます。
いやそれだけでなく、投機を全面的に容認する市場原理主義の跋扈のもとで、日本経済からも節度が失われ、モラルハザードが相次いできました。産地偽装や手抜きなどが横行し、「ブラック」と呼ばれる企業までが多数、登場するようになりました。
社会の中から正義感が摩滅し、あぶく銭を求めて奔走する守銭奴が増え、社会の連帯感が失われてぎすぎすしています。こうした中で差別が横行し、ヘイトクライムまでが起きるようになってさえいます。すべては弱肉強食の市場原理主義がもたらしているものです。
私たちはこの流れを断ち切らなくてはいけない。そのために私たちにとって有力な拠り所となるのが社会的共通資本の考え方です。ぜひ多くの方に学んで欲しいです。

僕自身、宇沢先生に教えていただいたたくさんのことを守り、育み、発展させ、この考え方を深化させていきたいと思います。
そのことで宇沢先生への恩に少しでも報いたいです。また宇沢先生が示された人々への愛に少しでも近づき、世の中をよくするため、明るくするために尽力を続けたいと思います。
弱肉強食の世から、あたたかき、優しき世への転換。額に汗して誠実に働く人々がもっとも報われるとともに、今の世を覆うさもしい心情が下火になる、もっともっと愉快な社会の創造をこそ、先生と共に目指していきます。
宇沢先生のすべての問い、実践、残された課題を微力ながら懸命に背負ってこれからも走り続けます。宇沢先生、ありがとうございました。本当に、本当に、ありがとうございました。

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明日に向けて(954)要注意!福島原発1号機のカバー解体が22日から始まります!

2014年10月16日 21時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141016 21:30)

要注意情報です。福島第一原発1号機の建屋カバーの解体作業が10月22日から始まります!
このカバーは放射能の継続的な飛散がある1号機に設けられたもので、放射性物質の浮遊、拡散防止のために作られたものでした。
しかし1号機の燃料プールから燃料棒を下すために邪魔になり、解体されようとしています。22日にからカバーの屋根に穴を開け、放射性物質の飛散防止剤をまく作業が始まります。安全確認の上、3月から本格的な解体作業が始められるとされています。

ところが昨年8月19日に3号機の脇の大型がれきをクレーンで鉄橋した際、4兆ベクレルもの放射性物質が舞いあがり、飛散してしまいました。避難区域を越え、少なくとも50キロ圏まで拡散したのではと推測されています。
東電は当初、この重大な事実を隠していました。ところが農水省穀物課が稲穂の汚染から気がつき、再三、東電への問い合わせを行い、再発防止を求める中で事実が明らかになりはじめましたが、農水省もまたこれを公にはしませんでした。
公になったのは今年の7月のことです。7月16日には朝日新聞が一面トップでこの重大事態について報じました。このことを記した僕の7月19日の記事を示しておきます。

明日に向けて(896)昨夏、がれき撤去で福島原発から膨大な放射性粉じんが飛んでいた!-20140719
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/18ec6ca3381185dae0d4e5b316d8c520

ここでも明らかにしましたが、3号機付近から大量の放射性物質が飛び散ったのは8月19日のこと。安倍首相が大嘘つきで東京オリンピック開催を獲得する直前でした。
このため東電は政府との裏取引のためにこの飛散を隠してしまった可能性があります。実際にこの事実が露見していたら、とてもではないですが東京オリンピックの招致は実現しなかったでしょう。
肝心なのは、このときの東電と政府の取引がどうであれ、またしても東電は秘密にしていた放射性物質の大量飛散に対して何らの責任も問われなかったということです。本来、責任者の刑事訴追が必要であるにも関わらずです。

そしてこうして誰にも知らずに平気で放射性物質の拡散をしてしまった東電が、今月22日から1号機のカバーの撤去に着手しようとしているのです。あまりに危険です。
これを報じるニュースなどを見ていると、もともと東電はこの作業に昨年度中に取り掛かり、解体を終えるつもりであったことが分かります。
ところが本年初頭より、農水省穀物課の追及が始まり、原子力規制庁も介入してきたため、カバー解体が延期されたのだということです。つまりもともとは今言う安全対策などなしに、こっそりと外そうとしていたのです。

これら一連のことから容易に見て取れるのは、相変わらずの東電の不誠実性、犯罪性です。この会社が自ら素直に放射性物質の漏洩を認め、謝罪したり、賠償したりしたことはほとんどありません。
それどころか、あるゴルフ場の汚染に対する訴えに対して、発電所管内から出た汚染物は、すでに東電の手を離れており、主のないもの=無主物だから、東電には責任はないなどというとんでもない意居直りを行ってきました。
今回も放射性物質の大量飛散の時点でぱっくりと口を閉ざし、事態を明らかにしなかったばかりか、そのまま1号機のカバー解体へと流れ込もうとしていたのです。

倫理観を著しく欠如し、適切な懲罰がくだらないことでますます開き直りを深めている東電が、いったいどこまで本当に放射性物質の拡散を抑える努力をするでしょうか。まったく信用できないししてはなりません。
その意味で22日の作業着手においても、さらには昨年3月からの本格的なカバー解体についても大きな危険が伴い、かつ事故時に東電が情報を隠してしまうことがおおありだということを見据えておかなくてはなりません。
そのため東電の作業に対する市民的ウォッチを強めることこそが問われています。それぞれで測定器をフル稼働させ、危険を察知したらすぐに情報拡散していただきたいです。

同時にあらためて感じるのは、やはり福島原発のそばに住んでいることそのものがリスキーだということです。もちろん今ある汚染そのものが、人体に深刻なダメージを与えつつあるからですが、さらにその上に新たな被曝を被る可能性があります。
僕としてはやはり可能な方は今からでも避難していただきたいです。せめても子どもたちをより安全な場所に移して欲しい。これ以上、東電を信頼などしていては絶対にいけません。
このことを強く意識しながら、22日のカバー解体への着手。その後の「安全確認」なるもの。そして来年3月からの本格作業をきちっと見据えて行きましょう。

なお重要情報ですので、記録にも残すため、TBS Newsi の報道をご紹介し、文面も貼り付けておきます。

*****

1号機の建屋カバー解体、22日着手
TBS Newsi 2014年10月16日(木) 4時54分(最終更新)
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2324299.html

福島第一原発の事故で爆発した1号機を覆っている建屋カバーについて、東京電力は、今月22日から解体作業に着手することを決めました。
1号機の建屋カバーは放射性物質が飛び散るのを防ぐために事故後に設置されたもので、使用済み核燃料をプールから取り出すため、昨年度中に解体される予定でした。しかし、3号機のがれき撤去作業で放射性物質が飛び散ったことで、1号機のカバー解体についても懸念の声が上がり、計画が遅れていました。
その後、東京電力は地元の自治体に対し、連絡体制を強化するなどの対策を説明し、了解を得たということです。
今月22日からカバーの屋根に穴を開けて、放射性物質の飛散防止剤をまく作業に取り掛かり、安全を確認したうえで、来年3月から本格的にカバーの解体を始めるとしています。

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明日に向けて(953)御嶽山噴火と正常性バイアス(1)

2014年10月16日 15時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141016 15:00)

台風19号到来の中、岡山県にて連続講演を行ってきました。
12日は吉備中央町で講演。20人ほどが集まってくださいましたが、町議会議長さん他、数人の地元の方以外はすべて関東からの避難者でした。密度の濃い講演会と交流会ができました。
13日は瀬戸内市長船福岡住宅自治会で災害対策についての話。初めに南三陸町で津波に被災された渡辺由紀子さんが体験談を語ってくださいました。渡辺さん自身は4人のお子さんもお連れ合いも無事でしたが、介護していた義理のおばあさまを亡くされています。

この会合はほとんどが地元の方たちがあつまり、ちょうど台風が近づいてくる中での開催となりましたが、渡辺さんの話から伝わる三陸海岸の方たちが受けた悲しみに、会場全体が涙を流しながら聞き入りました。
渡辺さんのお話は同時に、僕が災害対策の重要な点として話したいことを実際にリアルに体験してきた方のものでもあり、その点でも参加者の方々にとってとても有意義でした。
これらを踏まえて、災害対策としてすべての災害に共通する「正常性バイアス」のこと、この心理的ロックをはずさなければ避難行動に移れないことを伝え、さらにこの考えの適用として水害・土砂災害対策、原子力災害対策のお話をしました。

とても印象的だったのは「防災意識が低い」と聞いていたこの地区の方たちがたくさん集まってくださり、たくさんの方が熱心にメモなどをとってくださったことでした。
「防災意識が低い」と言われるのは、これまで岡山県では地震や津波などの災害が少なく、どの原発からも比較的遠くにあるなど、暮らしの安全度が高いためでもあります。
しかし歴史を振り返れば、地震も津波も起こっており、南海トラフ地震における政府のシミュレーションでも、3時間後には5メートルの津波が押し寄せる可能性ありとされています。およそ日本ではどこでも災害対策は必要なのです。原発からも福井判決の根拠となった被害のおよぶとされる250キロの円をえがけばたくさんのものが入ってくる。

その点で、渡辺さんのお話で、集まってくださったみなさんの災害への関心が開き、その中で僕の話への構えができたのではないかと思います。とてもいいコンビで発言できたと思います。
ちなみに会場は福岡住宅の中の「ふれあいプラザ」で、みなさんのご自宅から近所でもあり、まだ台風が遠くにある午前中の開催だったので危険のない形で集まっていただくことができました。
集中した素晴らしい会を実現できたと思います。その後、台風は夕方から夜半にかけて岡山に最接近しましたが、岡山には大きな被害をもたらすことなく抜けていきました。

明けて14日は台風一過の青空の中のもと、瀬戸内市民会館で災害対策についてお話しました。今度は関東からの避難者の方たち、避難者をサポートしている地元の方たちが多く集まってくださいました。
避難者の方たちは岡山が災害が少なく、原発からも比較的遠いからこそ岡山を選択されていますが、さすがに防災意識は高い。津波の可能性などもきちんと把握している方が多く、岡山県民の健全な危機意識の向上をのぞんでいました。これに地元の方たちが大いに触発されていました。
また交流会では避難者の方たちから、関東にいるときにさまざまな身体症状が出てきたこと、そのため避難したわけですが、岡山に来て快復に向かっていることなどのリアリティをうかがうことができました。あらためて避難の効果と重要性を参加者一同で確認することができました。

これまで繰り返し語ってきたように、「正常性バイアス」は、普段、命の危機に瀕することのない安全な現代生活の中にいる私たちが、危機への心構えが未形成であるがゆえに、とっさの時に危機の到来を認知することができず、「これは危機ではない。正常だ」と現実にバイアス(偏見)をかけてしまう人間心理のことです。
例えば火災報知機がなったとする。火事が起こっているので命がけで脱出しなければならないわけですが、とっさに誰かが「誤報じゃないの?」といったりすると、そう思う方が心理的に楽なので、そちらになびいてしまうのです。それでその言葉にあわせて「そうだよ。前にも誤報があってさあ」などと同調したりしてしまう。ここには「同調性バイアス」も働いています。
このバイアスが避難行動を遅らせる。あるいは不可能にする。そのために避難を可能にするにはあらかじめこの「正常性バイアス」を破っておく必要があり、そのために有効なのが避難訓練なのです。訓練がなされているといざというときの心の拠り所があるので、現実を受け入れられるからです。

ちなみに今、日本には全体として放射能に対する「正常性バイアス」が色濃くかかっています。現実には福島原発事故まで重要な放射線の管理目標とされていたさまざまな数値が桁違いで破られてしまう汚染が生じていながら「健康に害はない」などという無根拠な言説が流布している。
あるいはどうみたって福島原発そのものが崩壊しており、巨大な余震の発生の場合など、東日本壊滅にいたるような被害が出る可能性がいまだに存在しているのに、直視することなく2020年に東京オリンピックまで開催しようとしている。
そこにある危機を認めたくない心理が蔓延しており、その音頭を政府と電力会社が先頭でとっています。ここに現代の私たちの危機が存在している。だから私たちはこの心理的ロックを解除するために、危機を危機として認知し、避難訓練を行うことが必要なのです。

僕の講演はその一環としてあります。災害を対象にしたものではなくてもです。明確にそのような位置づけを持って臨んでいます。放射能に対して働いている「正常性バイアス」の心理的ロックを解除することが目指すところです。
これまで各地で何回もお話してきて、実は活動的に動いている人ばかりではなく、多くの人々、一見、普通に生活している人々が、迫りくる危機に対してかなり明確な危機感を持ち始めていることを僕は感じています。
だから「正常性バイアス」の中にある心情対して、攻撃的な批判を避け、さまざまな災害の例から丁寧に説明していけば、わりと容易にロックを外すことができると感じています。そのためにもぜひもっとあちこちで講演したいし、同時にこの内容を書籍化してもいくつもりです。みなさんのご協力をお願いしたいと思います。


さて今回は災害対策の観点から、とくに正常性バイアスの観点から御嶽山の噴火について考えてみたいと思います。
今回の御嶽山噴火は9月27日に起こりました。現在までのところ56人の方が亡くなられたことが確認されていますが、まだ不明情報があります。捜索が続けられていますが、降り積もった火山灰の上に二回の台風で降雨がもたらされ、さらに山々には一足早く冬が訪れており、捜索が困難になってきているようです。
犠牲になられた方のご冥福をお祈りするとともに、不明の方が発見されることを願ってやみません。同時に私たちの社会が失った尊い命を弔うためにも、教訓に学び、次の災害への備えとしたいと思います。

こうした点で噴火に遭遇したらどうするべきなのかを考え見ましょう。この場合、噴火の規模によっても、その時にどこにいるかによっても違いはありますが、とにかく第一に考えるべきことは命の危機が迫っていると認識すべきだということです。
絶対にやってはいけないことは悠長に写真やビデオを撮っていること。そんなことはせずにとにかく早く逃げること、少しでもより安全な場に移ることが重要です。
まさに「正常性バイアス」に囚われず、命の危機が迫っているという認識を持って行動すること。どうすればより命を守れるかを考えて行動することが大事です。

今回の教訓から言えることは、何をおいてもまずは数百キロものスピードで飛来する噴石から身を守ることが必要です。溶岩などが流れてきていないことが前提になりますが、ひとまず大きな岩の陰に隠れたり、尾根上なら噴火とは反対側の斜面を下って、身を小さくするなどして噴石の直撃から身を守ることも必要です。山小屋があったら駆け込み、壁から離れて持ち物で身体を守ります。
特に頭を守る必要があるので、まずは周りにあるものを頭に乗せた方が良いです。今回は数センチのものが頭を貫通し、即死された方もおられます。確実な方法はないですが、ともあれまずは頭部を守り、続いて身体を隠せる場に退避するという具合に、噴石によるダメージをできる限り少なくすることです。
現実に頭にザックを載せたところ、噴石があたり、中に入っていたコッヘルが潰れたものの頭部の損傷を免れた方がおられます。より大きな噴石なら助からなかったでしょうが、命を守る可能性を大きく広げたために助かったのです。

ここで重要なのは群馬大学の片田敏孝さんが提唱されている避難の3原則を守ることです。一つはハザードマップなどを過信しないこと。二つはどのような状況にあっても最善を尽くすこと。三つ目は率先避難者たることです。
ハザードマップは災害ごとに作られた危険地帯を記したマップのことですが、それらはすべてこれまでの災害からの推測で作られいます。作ることに意義はありますがあくまでも推測なので過信すると危険だという意味です。いつでも想定外がありうるからです。
最善を尽くすとはどのような状況でも命を守り抜こうとすること。運に頼らざるを得ないぎりぎりまで人事を尽くすことです。率先避難者とは「逃げろ!」と叫んで率先して避難を行う人のこと。とっさの時に周りの人の「正常性バイアス」のロックを解いてあげられることにつながりうるので、率先避難が大事なのです。

噴石に続いて恐ろしいのは噴煙です。一気に濃厚な噴煙にやられると息ができなくなります。吸い込むのはとても危険です。そのためタオルなどで口元を覆う必要があります。
また噴煙はマグマが冷えて細かく砕けたものであり、ガラスの粒のような性格を持っています。そのため目に入ると傷をつけるし、コンタクトレンズをしているとすぐに網膜剥離などを起こす可能性があります。
吸い込まないようにするとともに、ガラスの粒のようなものだと認識して、身体の被害やものの被害に対処します。目に入った場合は、極力こすることをせず、水洗いをするか涙を流して流し出すように努力します。

ちなみに噴煙は麓にも降ってくることがあるし、大噴火では相当に広範な地域にも降ります。江戸時代の富士山大噴火では江戸の町が噴煙に覆われました。
このためただちに命の危機がないところでも、噴煙の被害に巻き込まれる可能性があります。このときもコンタクトレンズはただちに外し、可能な限り屋内にたてこもるとともに、不可欠な外出の時は、ゴーグルを着用すると良いです。
その点で放射能対策や黄砂PM2.5対策のためにも、ご家庭に人数分だけのゴーグルを常備しておいた方が良いと思います。その際、ゴーグルは曇ると使用が困難になるので、曇り止め対策がしてあるものをそろえておくことをお勧めします。

今回は水蒸気爆発だけでもこれだけの被害が出てしまいましたが、恐ろしいのは火砕流や溶岩流が飛び出してきた時です。火砕流の場合、冷えたマグマと高温化したガスが主成分で多くの場合数百度あります。溶岩はマグマがそのまま流れ出たものです。
とにかく巻き込まれたらとても生きていることはできませんし、火災流の場合、発生したら100キロを超えるスピードで麓に駆け降りるので、噴火口から遠いところにいても直ちに退避行動をとるべきです。
なおこれらの点について、「富士山噴火ネット」というサイトをご紹介しておきます。ぜひ御嶽山の教訓が冷えてしまわない前に一読されてください。

富士山噴火ネット http://富士山噴火.net/

さて続いて検証していきたいのは、火山噴火に備える社会的体制ですが、端的に言ってものすごく弱かったこと、弱いままにおかれていることを指摘せざるをえません。
これは私たちの社会が原発問題だけでなく、現にあるさまざまな危機に対して目を背けて暴走していることを表しています。これまでのすべての政権がそうした弱点を抱えてきましたが、自分に不利なことを認知することを極端に嫌う安倍政権は、構造的な弱点を最悪のものに広げつつあります。
その意味で私たちの国の政府は、放射能に対してだけでなく、火山災害に対しても、水害や土砂災害に対しても、実は正常性バイアスの中にあり、かつ強めつつあるのです。この点を大転換することこそが私たちの最優先課題です。

続く

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明日に向けて(952)奥出雲の放牧牛を分け合って食べる!

2014年10月15日 21時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141015 21:30)

このところ、放射線被曝から身を守る講演の中で、僕は繰り返し食べ物の話をしています。
マクドナルドハンバーガーやヤマザキのパンなど、添加物が非常に多く、砂糖分も過多なものを避けることなどを提案しています。
これらの話をし出したのは、福島や東北、関東の子どもたちを対象にした保養キャンプでの子どもたちへの講演の際のことでした。

放射線被曝から身を守るためには、放射能を身体に入れないことが最も大切です。そのためには汚染地から可能な限り離れた方が良い。
しかし子どもたちは基本的には自力で移転することができません。
では子どもたちはどうやって身体を守れば良いのか。

一つにはできるだけ放射能を身体に入れない方法を身に付けること。僕はインフルエンザ対策や花粉症対策を真似することを教えています。
端的にはマスクをし、うがい、手洗いなどをこまめに行っていくこと。家に入るとき、身体をはたくことなどなどです。
同時に、身体の免疫力を最大にあげて放射能に立ち向かっていくこと。そのために良く寝ること、良く噛んで食べること、そして良いものを食べることが凄く良いと強調しています。

とくに子どもたちに食べ物を見分ける目を養って欲しいと考えて、「自然状態に近い形で、きちんと作られたものが良い」という話をしています。
そのときの例として最近、頻繁に使っているのが、理想的な放牧で育てられた牛の写真です。タイトルにあげた奥出雲の放牧牛のことです。
僕が使っているのは実際に僕が会ってきた牛たちの写真。これを牛舎にいる牛の写真と比較すると、驚くほど違いがあるのです!!

このことを最初に知ったのは牧場主の成瀬さんに教えられてのこと。京都市左京区の自然食レストラン、キッチン・ハリーナでのことでした。
実はこの場で昨年から、フードポリシー=食政策の研究家、平賀緑さんを囲んだ学習会を月1回(正確には同じ学習会を午前中と夜間と1回ずつ)行っています。
緑さんは食べ物の作られ方を、歴史的論理的に徹底的に追いかけている京都大学大学院在住の研究者で、油を主要なテーマにしながら食べ物産業がいかに変遷してきたのか、その結果、どんな食べ物が社会に流布しているかを調べ、警鐘を鳴らしています。

この学習会に、奥出雲で理想的な放牧を行い、そこで絞った美味しい牛乳をハリーナに届けてくれている成瀬さんが参加されるようになりました。
僕らはハリーナを通じて、成瀬さんの牛乳を共同購入している立場でもあり、その美味しさをいただいているものでもありますが、牧畜の現場を知り尽くしている成瀬さんの超レアな話のリアリティが面白く、緑さんのレクチャーとともにいつも聞き入ってきました。
あるとき、その成瀬さんが「放牧されている牛は頭がいいです。牛舎の牛とぜんぜん違います」というので「どうやって分かるのですか?」と聞いたら「そりゃ、後姿が違いますもん」と笑いながら言う。「一目見れば分かります」とも。

それでもうどうしても成瀬さんの牧場に行きたくなってしまった!善は急げで急きょ、ハリーナで参加者を集い、ワンボックスカーに分乗して奥出雲に向かいました。昨年12月のことでした。
中国自動車道を一路、西に走り、途中で北に折れて成瀬さんの牧場に到着。さっそく牛たちにご対面しました。
そうしたら遠くからみるだけで確かに風格が違うのが分かる。近寄って見ると毛並みがとても美しい。足がしっかりがっしりしている。そして何よりも、なんとも言えない落ち着き払った雰囲気がある。

牛たちはすぐには近寄ってきません。「あいつら僕がいるんで必ずそのうち寄ってきます。でもすぐに近づくと馬鹿にされると思って、様子をうかがっているんです」と成瀬さん。
確かに悠々と草を食みつづけながら、時々僕らをちらちらとみている。
そのうち近寄ってきたのはその群れの「格下」の牛でした。そののちにその場のボス牛がのっそりと近寄ってきました。

圧巻でした。本当に「一目見れば分かる」世界でした。とにかく存在感が凄い。うーんと唸り声をあげさせらてしまう。
そこに成瀬さんが他の牛舎から買い入れたばかりの牛を連れてきました。確かに顔つきがまったく違う。それよりも態度が違うのです。それを見ていて、「ああそうか」とがてんするものがあった。
牛舎にいる牛は人間に全面的に依存して生きています。ただ給餌されるのを待っている。だから人間を見るとおどおどしながら何かをしてくれるのではないかと思って近づいてくるのです。

ところが放牧されている牛たちは自分の判断で野山を駆け巡り、美味しい草を選んで食べている。常に頭を使い続けているのです。
牛舎の牛はふだん考える機会を奪われているから、野に放たれても最初は草を食べることすらできないのだそうです。先輩の牛たちに教えられて草を食べることができるようになる。そうして少しずつ能動性を取り戻していくのです。
放牧されている牛は自分の意志で生きている。さまざまな判断を繰り返しているのです。だから頭がよくなって当然なのです。「なるほど!」と非常によく分かる気がしました。

堂々と尊厳に満ちて生きている牛たちの姿は、いろいろなことを私たちに教えてくれます。牛舎が自然の中にはまったくない人工物であり、牛舎の牛たちのあり方は自然からかけ離れたものであると言う当たり前のことがすごくリアルに迫ってきます。
その意味で成瀬さんの牧場は、ただその場にいくだけで、自然とは何か、食べ物とは何か、牛と人間との関係とは何かを考えさせてくれる素敵な場でした。ぜひまたみんなで行きたいと思っています。
そうしたら成瀬さん。「あいつらは凄く頭が良いのでみなさんのことをすっかり覚えていてすでに格付けしています。今度いったら牛がみなさんをどうみなしたかが分かります!」なんて言う。どきどきしながら再会することになりそうです。


さて、今回はそんな成瀬さんの牧場で育った雄牛を一頭をキッチン・ハリーナで共同購入したので、その肉のおすそ分けを行っています。
尊厳を持って生きていた牛、実際に牧場であってきた牛、でも搾乳のためには雄の牛は必要ありません。種付けが終わったら、というより2歳を過ぎて自我が強くなって、人間に張り合いだすようになったら置いておけないのだそうです。
そこで奥出雲牧場の牛乳を美味しくいただいている私たちが、食べさせていただくことにしました。

残酷と言えば残酷な話で、だから一切、肉類を食べないというベジタリアンの方の考えも理解できるというか、そういう方に「野蛮だ」と言われたら僕には返す言葉がないです。
しかし肉になった動物が、どう育てられ、肉にされ、食卓にのぼったのかを一切考えることのない普通の都市生活から比べれば、少なくとも理想的な放牧を見届けてのこうした食べ方の方が、牛の命に感謝しつつ、大切に食べることができるように思います。
そしてやはりそのことが健康とつよくつながっているように思えます。

それやこれや、ぜひ成瀬さんの牧場の牛たちを賞味していただきたいと思い、販売情報を載せることにしました。
詳しい情報はキッチンハリーナにお尋ねください。
以下、平賀緑さんによる、肉販売のお知らせ分を転載します!末尾に成瀬さんのFACEBOOKページもお知らせしておきます。牧場の牛たちの写真も見れます!

*****

みなさん、こんにちは。平賀緑です。
めったに入手できない貴重な元気牛肉が京都市内で提供される絶好のチャンスなのでお知らせします。

奥出雲で生まれ、奥出雲の牧場で24時間365日完全放牧され、その人生(牛生?)に配合飼料を食べたことも抗生物質などの薬剤を受けたこともない、元気印の牛さん(雄2歳)をキッチン・ハリーナに集う人たちで一頭買いしました。
その牛肉がほどよく熟成されて、今が食べ時です! 冷凍保存も可能ですが、できれば冷凍する前の今、本当に元気な牛の肉とはどういうものか、体験していただくことお勧めしたいと思います。

育ちによって肉の味が天と地ほどに違うことを私が初めて体験したのは香港時代でした。ランタオ島というひなびた島の道ばたで若鶏を拾い(!)、卵を産ませようと持ち帰って育てていたら、ある朝元気に「コケコッコー!」と。
雄では卵を産まないので、キースが首を切って二人で羽をむしって丸焼きにして食べました。その鶏肉の味の濃いかったこと! その後、自分で卵から育てた鶏や鴨やガチョウを食べてきた後には、スーパーの鶏肉はなかなか買えずにいます。

食べものによって身体が変わるとは人間の世界で考えたら当たり前のこと。家畜だって同じです。食べるもの、その食べ方、生活の仕方で肉の味も質も変わります。
今回の牛くんは、生まれたときには自分の母牛のお乳を飲み、その後は牧場に生えている牧草を自分で囓り反芻してじっくりお肉にしてくれたもの。成瀬さん自身が京都まで持参くださったお肉を、キッチン・ハリーナの友子さんが大切に熟成してくれました。
この際、奮発して分厚いステーキもお勧めですが、すじ肉をホロホロになるまで煮込むのも最高です! ペラペラ薄切り肉を基本とする日本式すき焼きなどには向かないかもですが、臭みのない、牛肉本来の味をぜひ堪能してみてください。

普段はお肉を、ましてや牛肉を食べない人も多いかもしれませんが、牛乳をいただくためには、子牛を産ませなくてはいけない。子牛が生まれたら半分は牛乳を絞り出さない雄なので、酪農を続けるためには雄牛をお肉でいただくことが循環を回すために必要になります。
工業的畜産ではそんな不要な雄をゴミのように捨ててしまうけれども、成瀬さんの牛乳をいただく私たちはそうではなくて、牧場から生まれるお肉もありがたくいただきたいと思います。

そろそろ熟成できたので残りは冷凍する予定ですが、その前に本物の味を味わうためには今週あたりが食べごろだそうです! また、ハリーナさんでは、この牛くんのお肉を使ったステーキやボルシチなど牛肉料理も食べられます。
ぜひこの機会に、動物工場とは違う、元気印のお肉の味を体験してみてください!

お肉購入のご連絡先はこちら
キッチン・ハリーナ
メール:kitchen-halina@cpost.plala.or.jp
電話:075-724-3568
京都市左京区田中大久保町28-6 冨田ビル

【アクセス】
<電車> 京福電鉄叡山線「元田中」下車、北へ徒歩5分
<バス> JR京都駅から「北大路バスターミナル行き206番」で「田中大久保町」下車徒歩2分
サイト
http://kitchen-halina.net/
Facebook
https://www.facebook.com/Kitchinharina

牛くんが生まれ育った「奥出雲牧場」はこちら。
https://www.facebook.com/okuizumo

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明日に向けて(950)現代社会の矛盾と社会的共通資本・・・宇沢先生を偲びつつ(1)

2014年10月10日 23時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141010 23:30)

すでにお伝えしたように9月18日に宇沢弘文先生がお亡くなりになられてしまいました。今でもとても悲しく淋しいです。
宇沢先生は生涯にわたって、本当に豊かな社会はどうすれば作り出すことができるのかを考察され続けました。そのアイデアをまとめたのが「社会的共通資本」という考え方です。
僕自身、この社会的共通資本の考え方を推し進め、深めていく中にこそ、現代世界の混沌とした矛盾を解消し、未来を切り開く可能性があると思っています。
宇沢先生の最晩年に教えを受けた弟子の一人として、僕なりに宇沢先生のアイデアをいかに継承し発展させるべきか論じてみたいと思います。

またこれを契機に前から懸案としていた「社会主義の再検討」にチャレンジしていきたいと思います。
実はこの課題について僕は同志社大学社会的共通資本研究センターの客員フェローだった時に論文を書いたことがあります。その時、宇沢先生は丁寧に読んで下さり高く評価してくださいました。
そこでその論文を下敷きに「明日に向けて」でも連載を行っていこうと思ったのですが、前提として、社会主義を厳密に措定しようとして、定義があまりに広すぎて十分にまとめきれずにその時は頓挫してしまいました。
宇沢先生がお亡くなりになった中で、僕なりに先生に学んだことを温め、発展させて行くために、この課題をきちんとクリアしておくことが重要だと思い直しました。

そのためまずは社会的共通資本とは何か、社会的共通資本を守り、育んでいくためには何が必要なのか。僕なりの考えをここで示しつつ、その延長として「社会主義の再検討」に踏み込んでいきたいと思います。
なお前にこの課題に入ろうとしたときに書いた記事を紹介しておきます。

明日に向けて(658)社会主義再考・・・1 社会主義再考の執筆にあたって-2013年4月15日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/aa3bd724ff687fbf9f6cc3bcfb5c5db2

さて、社会的共通資本とは何かから検討していきたいと思います。定義をしっかりと行うために宇沢先生の著書から引用します。
「社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能とするような社会的装置です。
社会的共通資本は社会全体にとって大切な共通の財産であって、社会的な基準にしたがって慎重に、大事に管理、運営されるものです。
社会的共通資本の管理、運営は市場的基準、あるいは官僚的基準によって決められるべきものではなく、あくまでも、一人一人の市民の人間的尊厳を守り、魂の自立を保ち、市民的自由が最大限に確保できるような社会を形成するという視点にたっておこなわれるものです。」(『日本の教育を考える』岩波新書p155)

社会的共通資本は私たちの存在の大前提である大自然を含みます。また社会を成り立たしめるために必要なインフラストラクチャーなどもそうです。これらを市場競争や、官僚の恣意的な運営に任せず、社会的に共同で管理していこうと言うのです。
宇沢先生の発想のユニークな点は、こうしたわたしたちの存在を規定する共有財産に、さまざまな社会制度を組み入れたことです。とくに宇沢先生が重視したのは教育と医療と金融です。
医療が市場任せになったら命も問題がお金で売買されるようになってしまいます。命がお金儲けの道具になってしまう。一方で官僚の恣意性に任せていても、民衆の意志が尊重されず平等で平等な医療が実現されない。だから社会的共通資本として共同管理していこうというのです。
教育も同じです。けしてお金儲けの場にしてはならないし、他方で国家によって都合のよい国民、市民をつくるための道具にさせてもいけない。

金融にも同じことが言えます。例えばもともと銀行は個々人の資産では成し遂げることのできない社会的に必要な巨大事業を可能とするために、資金を集め、運用する必要性ができてくる中で生まれてきたものでした。それが社会的インフラストラクチャーの整備を可能にしてきした。
ところがそこに市場原理が入り込んだら、社会的資金の管理と運営がお金儲けの対象にされてしまいます。この結果、投機などが流行ることになり、バブルが作られてはじけるなど、経済の乱れが生まれ、人々の生活が根底から崩されてしまいます。だからこそ金融制度もまた社会的共通資本としてしっかりと管理されなければならないのです。
社会的共通資本の共同管理は、地方分権のもとで、それぞれの現場に深く関わっている市民や専門家の共同のもとに行われます。もちろんできるだけ開かれた民主的なあり方の採用は大前提です。
それぞれの管理者の構成や管理の仕方は、当該の社会的共通資本のあり方によって大きく異なってきますが、いずれにせよ市場原理に任せないこと、官僚など一部のものの恣意的な差配を許さないことが重要です。

こうした宇沢先生の考え方をよりリアルに捉えるためには、この発想がどこから生まれてきたのかを押さえることが大事だと思います。宇沢先生が社会的共通資本のアイデアを生み出された最も大きなきっかけは水俣病患者さんとの出会いでした。
というのは宇沢先生は若い時にアメリカに渡り、アメリカで経済学者となってスタンフォード大学やシカゴ大学などで教鞭をとっていました。しかしアメリカがベトナム戦争に突き進む中で、アメリカに加担するのは嫌だと感じ、ベトナム反戦運動が吹き荒れる激動の時代に日本に戻ってきて東京大学の教授になられました。
アメリカにいたとき、宇沢先生は日本を経済指標でしか見ておらず、高度経済成長の最中にあったので豊かさが拡大しつつあるように見え、喜んでおられたそうです。
しかし帰国してみると「成長」の裏腹に、各地に公害問題が作られていることが見えてきた。宇沢先生は人生観が変わるほどのショックを受けられたと言います。それで水俣をはじめ公害現場をまわられ始めました。阿賀野川、四日市、西淀川、大分、志布志、むつ・小川原、伊達、川崎、千葉などを先生は歩かれました。

水俣を訪れられたとき、宇沢先生を案内してくださったのは、熊本大学の助教授であった原田正純先生でした。胎児性水俣病患者を発見し、名著『水俣病』を執筆されるなど、患者さんたちの苦しみに、医師として最も深く寄り添って生き抜かれた方でした。
その原田さんに誘われて、宇沢先生は水俣病患者さんの家を一軒、一軒訪ねられました。自らの足で歩いて回って、水俣病の実情と対面されたのです。
原田先生がその時のことを後に僕にこう教えてくださいました。「宇沢先生は患者さんと話している僕の後ろに立ってね、何も言わずにただ目を真っ赤にされていたよ。東大の偉い先生なのになんて優しい方なんだって思ったよ」。
ただし宇沢先生は水俣病患者さんに同情されていたのではありませんでした。「ああ、これはわれわれ経済学者の作り出した罪だ」と自らを痛烈に責められていたのです。

宇沢先生は水俣病発生の責任が近代経済学にあると考えられました。もっとも問題だったのは、宇沢先生のかつての盟友でもあった経済学者サミュエルソンの唱えた自由財という発想でした。
自由財とは「誰の所有物でもないので誰もが好き勝手に使っていいもの」と規定され、近代経済学に取り入れられた考え方です。この考え方のもとに海は使いたい放題、汚したい放題の対象にされてしまったのでした。いや過去形ではありません。今も同じことが続いています。
これに対して宇沢先生は海を守る理論を作らなければならないと考えられました。いやより正確には太古より人々が大事なものとして共同管理し、今の私たちに伝えてきてくれた大事なものを守り、はぐくむ発想を、経済学の解体・再創造として作り出さなくてはならないと考えたのです。こうして到達されたのが社会的共通資本のアイデアでした。
そのため宇沢先生は「社会的共通資本を学ぶものにとって水俣は聖地なのだ」と繰り返し語られていました。水俣を訪ねたときに宇沢先生が感じられたたくさんの話を、何度も情感たっぷりに伝えて下さいました。

そんな宇沢先生の横顔を垣間見れる一つのエピソードをご紹介したいと思います。確か2006年ぐらいのことだったと思いますが、あるとき熊本日日新聞が、水俣病をめぐる専門家の誌上討論会を企画しました。
宇沢先生はこの座談会に呼ばれました。僕も宇沢先生にお誘いいただき、一緒についていって座談会を傍聴させていただきました。
座談会に呼ばれたのはほかに原田正純先生や弁護士さん、熊本県の職員さんなどでした。参加者の全部の構成は覚えていないのですが、それぞれに立派な肩書のついた方々でした。
冒頭にその面々を見回した宇沢先生、主催者の熊本日日新聞の編集長にこう言われた。「君ね、今日は専門家の座談会なんじゃないの。それならどうしてここに漁民の方がいないの。君ね、海を一番知っているのはなんと言っても魚を獲っている人たちだよ。その人たちがいなくてなんで専門家の集まりなの」

やや憤然としながら編集長に質問している宇沢先生の横顔が瞼に浮かびます。宇沢先生が社会的共通資本をどのようなものとしてイメージされていたのかをつかみとっていただけたらと思います。
ちなみにあの時、宇沢先生と僕は熊本空港のロビーで待ち合わせたのでした。宇沢先生は昔から使われていたエンジのザックを背負ってひょうひょうとしてあらわれ「実は羽田空港でやられちゃってね。いやあ、空港は厳しくなったね」と頭をかかれた。
なんのことかと思ったら、どうもペットボトルの中に小分けしてもたれていた焼酎が手荷物検査で発見され、不審がられて没収されてしまったようなのです。
お酒が大好きだった先生。いつどこでも飲めるように、一見、水を入れているように見えるボトルの中にいつもお酒を忍ばせておられた。それを嬉しそうにきゅっと飲まれていました・・・。

話をもとに戻しましょう。このように社会的共通資本の考え方は、水俣病を発生させてしまった日本のあり方とそれへの近代経済学の関与への痛烈な反省から生まれたものでした。
このため宇沢先生は、近代経済学の批判にも踏み込まれていきました。初めに批判を公にされたのは1971年1月4日に日本経済新聞に寄稿した「近代経済学の混迷」と題した一文であったそうです。宇沢先生の近代経済学批判はその後、『自動車の社会的費用』『近代経済学の再検討』(岩波新書)などにまとめられていきました。
宇沢先生のこの時期に行われた一連の提言は、1970年代の半ばにアメリカをはじめ、西側の大国が陥っていった近代経済学の影響下での発展の行き詰まりを捉え返し、「経済成長」の中身を問い直す画期的な内容に満ちたものでした。
いわゆる財政投資で経済をまわしていくケインズ主義のスペンディングポリシーが行き詰まり、何らかの転換が問われたあの時期に宇沢先生のアイデアが採用されていれば、世界は真の豊かさに向けた歩みを開始することができたでしょう。

しかし実際には世界は、社会的共通資本を守り、育み、発展させていく方向性とはまったく反対に走り出しました。その際、指導的な原理となったのはシカゴ大学のミルトン・フリードマンが提唱した市場原理主義=新自由主義でした。
フリードマンはこの時期の世界的な経済成長の行き詰まりの原因をすべて市場に政府が介入することにもとめ、自由放任の、粗野な競争に任される資本主義への転換を唱えました。
彼の理論は1929年の世界恐慌以前の資本主義へ帰れと言うもので、それまで誰もまともに相手にすることがなかったものでしたが、ケインズ主義的スペンディングポリシーの行き詰まりの中でだんだんにもてはやされるようになり、やがてアメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、日本の中曽根政権が登場して国家政策に採用されることとなりました。
フリードマンは各国の福祉政策を自由競争を阻害するものとして激しく攻撃していました。人々をむき出しの競争に追い込んでこそ経済が発展すると主張したのです。実はこのフリードマンこそ、シカゴ大学での宇沢先生の主要な論敵であり、そればかりか宇沢先生の日本への帰還の直接のきっかけをつくった人物でもありました。

続く

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明日に向けて(949)集団的自衛権が行使されるとどういうことがおこるのか?(2)

2014年10月08日 01時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141008 01:30)

前回の続きを書きます。

核心問題は集団的自衛権の行使が目指すのは、このようにして世界で最もたくさんの無差別殺戮=戦争犯罪を繰り返し、アメリカが世界中で売りまくっている戦闘に自衛隊が参加することだということです。
このことで日本は重大なものを失います。イスラム圏の人々、とくにアラブの人々の日本への信義です。これは何重にも重ねられてきたものです。
第一に世界の多くの人々は、今のアメリカの無差別空襲に象徴される戦争犯罪が、アメリカによる広島・長崎への原爆投下から続く一連のものであることを知っています。例えばアフガニスタンは中央集権制が極めて薄い、谷ごとに区切られた部族社会ですが、その谷のどこにいっても広島・長崎を知らない人はいない。
日本はそれほどにひどいアメリカの攻撃を受けた。しかし戦後、見事なまでに復興を遂げて経済大国になった。しかも軍事大国にはならず、世界に暴力で自分の意図を押し通そうとすることがない。その姿勢が日本への信頼を作り出してきたのです。

とくにイスラム圏には日本は軍国主義の時代も含めて一度も攻め込んだことはありません。それどころか第二次世界大戦後に独立したイランが、初めてイギリスの手から油田を奪取して国有化し、イギリスによって海上封鎖されたときに、出光のタンカーがイギリスの意向を無視して買い付けに入ったことなどでさらに信頼を重ねてきたのでした。
総じてその後も日本は、生命線である石油を安定的に確保するためにも、官民がそろってアラブのどの国とも仲良くする外交を貫いてきました。その中にはイスラエルともパレスチナとも信義を作り出してきたことも含まれています。実際、日本はイスラエルがめちゃめちゃにしたパレスチナの復興にも何度も支援を行ってきたのです。
ただし日本はアジアに対してはそうではありませんでした。自らが徹底した空襲を受け、無差別殺戮を受けたのに、そのアメリカ軍に基地を提供し、朝鮮戦争やベトナム戦争でのアメリカの出撃を支えぬき、そればかりか軍事特需で大儲けして高度経済成長を達成したのでした。
そのためにアフガニスタンに医療援助を繰り返してきたペシャワール会の中村哲医師は、イスラム圏の人々の日本への深い信頼を「美しい誤解」と語っています。でも「瓢箪から駒」で、本物の信義に代えていこうではないかとも。

にもかかわらずアフガニスタン戦争、イラク戦争に日本が加担し、とくに米軍占領下のイラクに自衛隊を送りこんだことで、こうしたイスラム圏の人々の日本への信頼感は今、急速に失われつつあります。
かのオサマビン・ラディンは、すでにイラク戦争後の2004年に、アメリカへの戦争協力への代償として攻撃を受ける対象国として日本の名を挙げています。またこのころから日本人が誘拐されたり、殺害されることも少しずつ増えてきました。
さらに自衛隊が「アメリカとの集団的自衛権の行使」の名の下に、この理不尽なイスラム圏の人々への無差別殺戮に加わっていったらどうなるでしょうか。
日本への攻撃が「警告」「威嚇」のレベルを越えて、実行に移される可能性も高くあります。その場合、私たちが持つべき視点はイスラムの人々の側の視点です。たくさんの同胞が無残に殺されているのです。それに日本が味方しようとしているのです。

私たちが私たちの国を守り、住民を守ろうとするときに、何よりも考えるべきことは、こんなとんでもない戦争に絶対に手を突っ込んではいけないということです。
日本を守るどころか、まったく逆でたちまち在外日本人の安全性が失われてしまうし、私たちの国の内部でも自爆攻撃などが行われるようになるかもしれません。
その場合、私たちが知るべきことは、私たちの国はアメリカに比べて自爆攻撃に対しても格段に弱いということです。なぜか。戦後の多くの期間を軍事に頼らず、信義によって自らを守ろうとしてきたので、攻撃には脆い「和」の世界が私たちの社会には支配的だからです。
私たちの国は「おもてなし」だとか、人と仲よくなることにはまだまだ上手な力があり、だからこそ海外からの観光客に喜ばれたりしてきていますが、他者の憎しみにさらされる中で自らを軍事的に防衛していく訓練など社会的に積んでいません。

その上、狭い国土に密集してさまざまなものを建ててきてしまったので、事故が拡大しやすい。スイスのある調査機関は世界で最も災害に対して弱く危険な都市の第一位に東京・横浜圏をあげ、名古屋、大阪・神戸圏もワーストテンに入っていますが、このことは日本の都市がさまざまな弱点を持っていることを強く物語っています。
端的に言って利根川や淀川の連続堤防を狙われたら大変な災害が人為的に作られてしまいます。いやそもそも福島原発は瀕死の状態で、どんなダメージにも脆い状態にあります。さらに海岸線の僻地に無数の原発が建っている。いや石油コンビナートだとか、攻撃に弱い建物がひしめているのです。
さらに言えば、この国の民は概して他者に対する信頼度が高い。夜中でも若い女性が歩いていられるし、電車の中でうたた寝していても荷物をとられる心配もそれほどない。それやこれや私たちの社会が穏やかさを保っているそのあり方が、攻撃への不利さを形作ってしまうのです。
自爆攻撃のような形態の軍事戦闘に強い国を作るためには、社会の中にもっと強い猜疑心を作らなくてはなりません。そうして個人ももっと武装していく必要が生じます。

しかしそれでどうなるのか。もっとも強い国アメリカを見てみましょう。自爆攻撃に合わなくとも、社会の中で銃の乱射事件が絶え間なく起こっています。単純に銃が出回っているせいでもあります。銃で個人個人が身を守る発想が、社会に絶望した個人がその攻撃性を社会にむけうる可能性を作り出してしまっている。
さらにこれを加速しているのが、アメリカ社会の中に人殺しの占める割合が非常に高いということです。軍隊に入って各地で無差別殺戮に参加してしまっている人々がいるからです。そのことが命を尊ぶ心を磨滅させ、暴力礼賛のあり方を加速してしまう。
このためアメリカはOECD参加国の中で、町を歩いていて殺される可能性の一番高い国です。反対に最も少ないのは日本です。そのことに日本の軍隊が、まだ一度も、戦闘で人を殺したことがないこと。自衛官の中に殺人者がほとんどいないことが大きく寄与しています。
その意味で軍隊が戦闘に参加し、人殺しをして帰ってくることは、社会が内側に暴力性を孕んでいくこと、殺人肯定論を孕んでいくこととセットであることも私たちは見据えておかなくてはなりません。


ただしここで注意すべきなのは、当たり前のことですがイスラムの人々の間にも非常に多様な視点があるということであり、命や正義を尊ぶ姿勢は、けして世界中のどこの地域、どの宗教の人々とも変わらないほどあついということです。
そこで参考になるのは、上述の中村哲さんが語られたことです。中村さんはアフガン社会についてこう言いました。「アフガニスタンの田舎はどこも保守的なイスラム教が強いですが、しかし概して極端な思考は持ちません。極端な思考はむしろ西洋の洗礼を受けた都会から出てくるように思えます」。
これは重要なポイントです。オサマビン・ラディンらが、アメリカの支援を受けたアフガニスタンの軍事キャンプの中で武闘派として成長して行ったように、イスラム教というよりも、アメリカが戦後に体現してきた軍事思想こそが彼を育ててきたのです。
今、「イスラム国」はその残虐さばかりがハイライトされていますが、一方でFACEBOOKなどを通じて、各種の言語を操り、世界中から若者を戦乱の地に呼び寄せる洗練された力も示しています。アメリカを中心に生まれてきたテクノロジーを利用しているのです。そうした彼らがアメリカ軍の戦法を取り入れないはずがない。

アメリカが示してきたことは何でしょうか。力こそが正義だということです。力があればどんな不正義も正義と言い換えられる。自らの意志を押し通すことができる。そして実際に押し通し続けています。
恐ろしいことに、人間は自らが批判し嫌うものに、知らず知らず似通っていく性質を持っています。とくに軍事の世界では相手にやられたことをコピーし、やり返していくことが繰り返されてきました。そのため新たな攻撃方法を発案するとやがて同じことをやり返される羽目に陥ってしまう。
軍事の研究の古典である『戦争論』を遺したクラウゼヴィッツも、プロイセンの軍人として、自ら相対したナポレオン軍の圧倒的強さに心酔し、分析し、『戦争論』を編み上げたのでした。最大の敵だったナポレオンの戦法を継承し、体系化していったのです。
実際、「イスラム国」は自らの残虐性を非難されるとこう答えると言います。「アメリカの方が何百倍も残虐ではないか」と。実はそうやってアメリカの残虐な在り方をコピーする中で、アル・カイーダをしのぐといわれる残虐性を身に付けてしまっているのです。アメリカを批判しているようでアメリカに思想的に取り込まれているのです。

なのでこうした人々のあり方とイスラム教を峻別することが大事だと思います。古来からどの宗教に属する人々の中にも極端な人々がいました。しかしほとんどすべての場合に共通するのは、大多数の人々は、一時期はともあれ、そんな極端な発想に走り続けることはなく、穏やかなところに落ち着いてきたということです。
こうした点を無視し、「イスラム国」などをイスラム教そのものが生み出したと捉えるのはまったく正しくありません。むしろアメリカの軍事万能主義こそが、さらに言えば常にその後ろでほくそえんできた死の商人たちこそが、こうした武装グループを作り出しているのだということです。
私たちはその意味で、こうしたアメリカに象徴される軍事がすべて、強ければいい、巨大な武器で相手を徹底的に殲滅せよ・・・というようなあり方からの決別をめざすべきです。
そのためには日本の平和、安全を守ることをこえて、ぜひすべての戦争をやめ、極端な考えをいましめ、徹底した対話の中で問題解決を図っていく発想をこそ、私たちはめざし、発信していくべきだし、そのためにこそ今こそ憲法9条の本義に立ち戻り、不戦の誓いを打ち立てて行く必要があると思います。

以上、まだ少し内容を変えるかもしれませんが、基本的にこうした点を9日にお話ししようと思います。
お近くの方、ぜひご参加下さい!

*****

9日の企画案内を貼り付けておきます。

「安倍サンやめて!」懇談会 第2弾
「集団的自衛権は戦争への道」

日時  2014年10月9日(木) 午前10時~12時
場所  サン・ビレッジ近江八幡 ミーティングルームA・B
近江八幡駅南口出口から徒歩約9分 (男女共同参画センター北隣りです) 
お話  守田敏也さん(フリーライター)
参加費500円

今、日本は大国の中で唯一、第二次世界大戦後、軍隊が他国民を殺したことのない国として、アフガニスタンや中東、アラブでも良いイメージを持たれています。
しかし、集団的自衛権が行使されると、日本とは関係なくても自衛隊が海外で戦争し、人殺しをさせられるようになります。
自衛隊が参戦すると、日本の良いイメージが壊れるだけでなく、戦争の当事者として報復の対象にもなり、安全保障に逆行してしまいます。
自衛隊が戦争をしないように、人殺しをさせられないように、一緒に平和について考えましょう!

主催:平和をまもるために戦争許さない会
世話人代表:鈴木悛亮  世話人:真野生道、福井勝、峯本敦子、高谷順子
連絡先 070-6505-9741(高谷順子)

 

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明日に向けて(948)集団的自衛権が行使されるとどういうことがおこるのか?(1)

2014年10月07日 23時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141007 23:30)

明後日10月9日に近江八幡市で集団的自衛権についてお話します。そのために何をどうお話するのか、まとめておきたいと思います。長いので2回に分けます。
その際、主催者とのお話の中で集団的自衛権への反対をいかに訴えるのか、いろいろと考えさせらえることがありました。
端的に言って、今、集団的自衛権に反対している方の中には、個別的自衛権は良いけれども、集団的自衛権はおかしいと考えている方もおられます。
典型的には元自衛官の泥さんという方で、彼はヘイトクライムにも身体を張って立ち向かっており、多くの人の共感を集めてもいます。僕もヘイトクライムに立ち向かう泥さんを尊敬しています。

でも僕は一方であくまでも自衛隊そのものが憲法違反なのだから解体すべきだ、解体して災害救助隊に改編すべきだと思っています。そのことをここでも何回か書いてきています。
しかしそれをいきなり主張した場合、個別的自衛権にはそれほど反対ではないけれども集団的自衛権には反対という人を味方につけられないのではないかという声がありました。あるいはせめて集団的自衛権に反対する人を増やしたいので、そこをハイライトして欲しいとも。
確かに「うーん」とうなるところがあります。反対の声はできるだけ大きい方がいいし、そのためにはできるだけたくさんの方と合意できる訴え方をする必要があります。
また僕にそういう問いを投げかけてくれた方は、もともと戦争反対の意識を持っていなかった人にも一生懸命に訴えて日本を戦争の危機から守ろうと懸命に奮闘している方であり、だからその問いは強く胸に響いてくるものがあります。


そこでまず集団的自衛権を行使するとどうなるかをあらためて押さえておきたいと思います。そもそもなぜ日本が集団的自衛権を行使する必要があるのか。本年5月15日、安倍首相は記者会見で次のように説明しました。
「海外で突然発生した紛争から逃げようとする日本人を救助・輸送しているアメリカ船が、日本近海で攻撃を受けた場合でも自衛隊が武力行使えできない。これでは日本人を守れない。だから集団的自衛権が必要だ」と。
しかしそんなこと、実際にあるのか。民主党の辻元清美議員が6月11日に、米国は邦人輸送を想定しておらず、過去に邦人輸送の規定盛り込みを拒否していたことを国会で明らかにしましたが、政府もすんなりこの事実を認めました。
ところが安倍首相は集団的自衛権の行使の閣議決定後の記者会見で、5月に使ったフリップとまったく同じようにしてアメリカ側も日本政府も認めた「そんなことはありえない」という事実を無視し、同じ説明を繰り返した上に「批判を恐れずに行動に移した」と言い放ちました。
 
これは集団的自衛権に限ったことではなく、安倍首相の「答弁」での常套手段です。そもそもまともに答弁する気がない。初めに大きな嘘を言い、何度批判されても、同じ嘘を繰り返しつき続ける。
このように「大きな嘘を何度も繰り返せば人は信じるようになる」と語ったのはナチスドイツの高官たちです。宣伝相のゲッペルスなどが有名ですが、安倍首相はこれと同じことを平気で行う。それを安倍政権の広報新聞と揶揄されている産経新聞などが平気で書き続けています。
およそこのことだけでも安倍首相の説明がほんとうにひどい出鱈目であり、聴き手への誠意をまったく欠いた不誠実極まりないものであることは明らかですから、ここではこれ以上、首相発言の分析には踏み込みません。
いかに注釈をつけようとも、集団的自衛権とは日本の同盟国が攻撃された場合に、自らへの攻撃と捉えて反撃する「権利」のことで、他人が売られた喧嘩を自ら買うことに他ならないのです。そのためアメリカが行っている戦争に巻き込まれる・・・というより積極的にアメリカの戦争に日本が関与することになります。


この際、一番、重要なのはこの間、アメリカが繰り返してきた戦争はどのようなものかということです。第二次世界大戦における日本攻撃、沖縄戦や広島・長崎への原爆投下、主要都市への空襲は、すべて圧倒的多数の非戦闘員を殺害する無差別殺戮であり、戦争犯罪でした。ドイツに繰り返された大規模空襲も同じです。
これと同じことをアメリカは朝鮮戦争における北朝鮮への空襲で行い、ベトナム戦争における北爆でも行いました。さらに2000年代に入り、アフガニスタン、イラクなどでもこうした無差別殺戮が繰り返されてきました。一度も反省していないのです。
アメリカが行った戦争は他にもたくさんありますが、大事なことはこうした無差別殺戮でたくさんの同胞を殺害されたことに対して、日本政府はただの一度も批判することすらできないで来たということです。まさに自虐的です!それどころか同じようなベトナム空襲のための基地をアメリカに貸し続けた。
これに対して世界の多くの国々がアメリカによる度重なる無差別殺戮に対して批判の声を上げてきました。また民衆レベルでは日本人も含めて世界中で本当にたくさんの人々がアメリカの戦争を批判してきました。最近ではイラク戦争開始の前に世界中で1000万人以上が同じ日にデモを行い、アメリカのイラク侵略を止めようとしました。

しかしアメリカは止まりませんでした。アフガニスタンへの侵攻は、当時のタリバン政権が「オサマビン・ラディン」をかくまっているからという名目だけで行われました。タリバン政権は「彼が犯人だと言う証拠を見せて欲しい」と言っていただけだったにもかかわらず。
イラクに対しては「大量破壊兵器」を隠し持っているという名目で侵略戦争が行われました。しかしイラクはそんなものまったく持っていなかった。にもかかわらず全土を蹂躙してしまいました。その後も戦争目的がまったくの虚構だったことにも反省の一言も語っていません。
さらに重要なのは、もともとアメリカが打倒対象としたオサマビン・ラディンも、イラクのフセイン元大統領も、もともとはアメリカが育て、軍事力を持たせた人物であったということです。
オサマビン・ラディンや「アラブ義勇兵」が大きくなって言ったのは、旧ソ連に対するアフガニスタンでの軍事戦闘の中でのこと、イラクが軍事大国化したのは、イラン革命後のイランとイラクの間の戦争の中でのことでした。

とくに1990年代初頭にソ連邦が崩壊し、米ソ連戦構造が崩れるや、アメリカは軍事力の矛先を中東に向け始めました。そしてフセイン政権を挑発して湾岸戦争に持ち込み、膨大な軍事力でイラク軍への全面攻撃を行いました。
このことがイスラム圏の多くの人々の心を痛く傷つけました。イラクのクウェートへの侵攻という事態に対して、アラブ各国の側に巻き起こった自主解決の機運もまったく無視したからでした。この頃から対ソ戦闘の中で成長した「アラブ義勇兵」などを中心に、アメリカへの攻撃が高まり、2001年に911事件が起こりました。
その後、アメリカはアフガニスタン、イラクへと雪崩討つような攻撃を行ってきたわけですが、その際にも膨大な数の民間人の犠牲を伴いました。イスラムの側からはムスリムの同胞、しかも大量の非戦闘員、お年寄りや女性、子どもたちが殺され続けてきたのです。
さらに国連決議を無視して違法なパレスチナの占領を続けるイスラエルをアメリカが全面的に擁護し、イスラエルによるパレスチナへの度重なる戦争犯罪も容認し続けてきたことがますますイスラム圏の人々の怒りを書き立ててきました。

こうした中でイラクは戦乱の泥沼になってしまいました。アメリカはアフガニスタンでもイラクでも繰り返される抵抗に疲弊し、国内で反戦機運が高まることで、占領軍の撤退を開始し、自らが後押しする政権による統治に期待をかけました。
ところがこれが全然、うまくいかずに中東はどんどん不安定さを増してきました。しかもこうした中でイスラエルはガザを違法・不当に包囲し、戦争犯罪である空襲や軍事侵攻を繰り返してきました。
今日、こうした中でシリアとイラクをまたがる地帯に「イスラム国」なる武装集団が出現し、瞬く間に支配地域を拡大しています。しかも世界各国の若者にイスラム国への参加を訴え、多国籍の一大軍事グループに成長しつつあります。
アメリカはたまらずに空襲を開始しましたが、効果は限定的であると言われており、むしろたくさんの国から義勇兵が集う中で、これらの人々が自国に立ち戻った後で、軍事攻撃に出るのではないかと言う恐れすらが生まれています。

続く

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明日に向けて(947)台風18号接近中。最大限の注意を。危険を感じたら早目の避難を!

2014年10月05日 09時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141005 09:00)

大型の台風18号が接近しています。今回もかなりの暴風雨を伴うようです。再び土砂災害の発生の可能性があります。最大限の注意を払い、危険を感じたら早目の避難を行ってください。
気象庁発表の直近の台風情報を掲載しておきます。


 平成26年 台風第18号に関する情報 第50号 (位置)
 平成26年10月 5日07時45分 気象庁予報部発表
 http://www.jma.go.jp/jp/typh/D20141004224107739.html

 大型で非常に強い台風第18号は、5日7時には奄美大島の東約180キロの北緯28度35分、東経131度20分にあって、1時間におよそ15キロの速さで北へ進んでいます。
 中心の気圧は945ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は45メートル、最大瞬間風速は60メートルで中心の北側220キロ以内と南側190キロ以内では風速25メートル以上の暴風となっています。
 また、中心の北側600キロ以内と南側440キロ以内では風速15メートル以上の強い風が吹いています。

 この台風は5日8時には、奄美大島の東約180キロの北緯28度50分、東経131度20分にあって、1時間におよそ15キロの速さで北へ進んでいるものと推定されます。(引用はここまで)


台風18号は本日5日は比較的ゆっくりと進んで15時に種子島南東約100キロに達し、その後、スピードを急速にあげて6日3時には潮岬南東約70キロに、その後、温帯低気圧に変わり、7日3時には日本の東に抜けて行くと予想されています。
http://typhoon.yahoo.co.jp/weather/jp/typhoon/

台風接近への備えについては本年7月の8号接近の時に書いた以下の記事を参照してください。 

 明日に向けて(887)台風8号接近中!最大の警戒心をもって対応を!-20140708
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/66f450fea4f4dacffa48f2b73a4e11a8

また新たに気象庁が台風12号接近時に発表した「推奨される対応 台風に備える」を貼り付けておきます。参考にされてください。


 推奨される対応 台風に備える
 全般台風情報 気象庁 台風12号接近時に発表
 http://www.google.org/publicalerts/alert?aid=21148aab5b9c769d&hl=ja&gl=JP&source=web

 屋根瓦やトタンを補強する
 風で屋根瓦が飛べば、けがでは済まされない事故になることもあり得ます。また、雨漏りの心配がないか、外壁のひび割れはないかなども確認しておきましょう。
 さらに、テレビのアンテナや倒れる可能性のある塀、自転車や鉢植えのように飛ばされる恐れのあるものは、ロープで固定したり屋内にしまったりといった対策をとりましょう。

 事前に排水設備の点検・掃除をしておく
 排水溝のつまりが原因で、道路や庭などに雨水が溜まると、地下室・駐車場などが被害を受けます。
 ベランダの排水溝や雨どいが、落ち葉やゴミなどで詰まっていると、2階以上への浸水や天井裏への浸水などが発生することがあります。雨水の排水設備関係の点検・掃除を心がけましょう。

 懐中電灯や食料などを用意する
 断水や停電となる可能性があります。懐中電灯や情報を収集するためのラジオ、買い物に行けないことも考えて数日分の飲料水や食料を用意しておくといいでしょう。

 家財道具を高い場所へ移す
 水に濡れると高価な家財道具も台なしです。浸水被害に遭うと困るものは上階など高い場所へ移しましょう。できれば浸水被害に対応する損害保険(火災保険の特約等)にも加入しておくとよいで しょう。

 低地の居住者は土のうなどを用意する
 低地や川沿いの住居には、浸水をせき止めたり浸水の時間を遅らせたりすることができる土のうの活用も有効です。
 土のうがないときは、ゴミ袋に水を入れて水のうをつくり、コンクリートブロックで固定するとか、水の入ったペットボトルをダンボールに詰め、簡易の堤防にするといった代替方法もあります。

 地下にいる場合は注意する
 地下鉄や地下街、地下駐車場などは浸水の恐れがあるので注意しましょう。 エレベータを使わない地下にある電気室や機械室などが浸水するとエレベータが停止する可能性があるため、エレベータの使用は控えましょう。

 通過中は外へ出ない
 台風の際は、建物内で通り過ぎるのを待つのが基本です。通過しているときは、外へ出ないようにし、河川や用水路の見回りは危険ですのでやめましょう。また、屋根の補修は台風が近づく前に済ませておきましょう。

 がけ崩れに注意する
 勾配が30度以上、高さが5m以上の急傾斜地は、一般的にがけ崩れの危険性が高いとされています。「急傾斜地崩壊危険箇所」と呼ばれ、自治体のホームページなどで確認できます。
 がけにひびが入ったり、小石が落ちてきたり水が噴き出したりしたら、がけ崩れの危険が高まっています。丈夫な建物の上階に避難しましょう。

 浸水の被害を想定する
 高潮、増水の恐れがある地区では気象情報や行政からの情報に特に注意を払い、すぐ避難できるように準備しておきましょう。
 避難準備情報が出された場合は、速やかに要援護者の避難を行政から避難準備情報が出たら行動能力の低い人々を優先に、自動車等を使って速やかに安全なところに移送しましょう。高齢者や障害者、乳幼児らを抱えた家族等が対象です。
 高台などの避難所 、親類縁者の家、福祉施設等を利用してください。

 行政から避難勧告が出た場合は、複数で行動する
 行政から避難勧告が出たら戸締まりをして、近所の人に声をかけ、一緒に徒歩で避難しましょう。運動靴やトレッキングシューズなら、冠水した道路も比較的歩きやすいでしょう。(引用はここまで)


さて、これらを押さえた上で、さらにこの夏から秋にかけての災害を振り返っておきたいと思います。
まず注目すべきは7月上旬の台風8号接近時に、長野県南木曽町で、台風そのものはまだかなり遠くにあるのに、発生した前線に雨雲が流れ込んで豪雨が発生し、読書地区の梨子沢に土石流が起こって1名が亡くなったことです。以下に詳細な分析があります。


 2014年7月台風8号による南木曽土石流災害
 (独)防災科学技術研究所 観測・予測研究領域 水・土砂防災研究ユニット 20140724
 http://mizu.bosai.go.jp/wiki/wiki.cgi?page=2014%C7%AF7%B7%EE%C2%E6%C9%F78%B9%E6%A4%CB%A4%E8%A4%EB%C6%EE%CC%DA%C1%BE%C5%DA%C0%D0%CE%AE%BA%D2%B3%B2


特徴的なことは、わずか2時間の豪雨で土石流が発生していることです。原因をさぐるとこの地域が花崗岩質で覆われていて、もともと地盤が弱かったことがあげられます。そのため過去にも災害が起こっています。
ここからすぐにも導き出せる結論は、同様の花崗岩質の斜面ではわずかな時間の豪雨で土石流が発生しうるということです。
斜面に近いところにお住いのある方は、そのあたり一体の地質が何であるかを把握し、かつまた過去に災害が発生していないかどうかを調べて下さい。これらに該当する場合は、ぜひ台風の間だけでも万が一の避難を行うことをお勧めします。

この際、注意を促したいのは地域の行政が出しているハザードマップの使い方です。地盤が弱いところ、土砂災害の発生しやすいところの把握には便利ですが、あくまでも人間の側の想定ですので、外れることもあります。
そのためハザードマップの危険地帯に記載されてないからと安心するのは危険です。危険地域外にお住まいが記載されていても、花崗岩質で過去に災害が発生している地域は念のための避難を考えた方が良いです。

この夏はもっとたくさんの方が犠牲になった激烈な土砂災害も発生しました。8月20日に発生した広島土砂災害です。
20日未明から早朝にかけて広島市内で急速に雨雲が発達。被害の発生した地区の一つの安佐(あさ)北区の降水量は、午前4時までの3時間に史上最多の217・5ミリとなり、平年の8月1カ月分を上回る雨量となりました。(広島地方気象台)被害は3時頃にはすでに発生しだしています。
この大災害の発生を受けて、同様の危険性が全国にあることを訴えた朝日新聞の記事をご紹介します。現場の空撮動画も見れます。


 土砂災害、全国で発生の危険 もろい地質と豪雨が引き金
 朝日新聞 2014年8月21日02時33分 佐藤建仁、野中良祐 合田禄、朴琴順
 http://www.asahi.com/articles/ASG8N5HK4G8NPLBJ009.html


広島土砂災害の場合も、南木曽町と同じく花崗岩が風化して砂のような地質となった「まさ土」の地域で激甚な被害が発生しました。降り始めからわずか数時間で土石流が発生したことも似ています。
これらに対して朝日新聞の記事の中で京都大防災研究所の釜井俊孝教授(応用地質学)が次のように語ったことが記されています。
「高度成長期以前には今回のような災害は少なく、都市化がもたらしたと言える。土地の性質をよく理解した上で住まいを決めることが重要だろう」。

端的に言って、かつては家が建っていないところが開発されて居住地になってしまっているということです。つまり過去を遡れば危険地帯であって、人が住んでいないところにたくさん家が建ってしまった。
だからこそ過去を調べていけば、実は似たような災害が発生していた記録が出てくるのです。現代の都市化がモラルを欠いて進められてきた現実がここに横たわっています。
大きくは私たちの社会の建設のあり方の歪みを変えていかなくてはなりませんが、さしあたっては危険地帯での対処が優先です。というよりも危険地帯の把握と、その地域・地点での念のための早目の避難の励行で凌いでいくことが必要です。

記事の中には以下のようにも書かれています。


 豪雨に弱い、もろい地質は、広島市に限った話ではない。「まさ土」は神戸市や岡山県などにも多い。雨の条件さえそろえば繰り返し崩壊するという。
 「花崗岩のほかに、火山に関連する地質ももろい。引き続き各所で警戒する必要がある」と下川悦郎・鹿児島大特任教授(砂防工学)は警鐘を鳴らす。火山由来の「シラス」や「ボラ」などと呼ばれる地質も災害が発生しやすい。
 これらを含む「特殊土壌地帯」は全国で約5万8千平方キロで、国土の約15・3%を占める。鹿児島、宮崎、高知、愛媛、島根の各県の全域のほか、静岡や兵庫、広島などの各県の一部に広がっている。(引用はここまで)


なおこの「特殊土壌地帯」を示す農林水産省のページも示しておきます。

 特殊土壌地帯対策
 http://www.maff.go.jp/j/nousin/tiiki/tokudo/

やっかいだなと思うのはこの中に長野県南木曾町は入っていないことです。ということはここに示された地域以外にも危険なところはたくさんあるはずだということです。
やはりそれぞれの地域で地質を確認するとともに、過去の災害について確認したください。

以上、この夏にあった土砂災害のうち、特徴的な二つの事例を紹介しました。それぞれの地域での安全確保にお役立ていただければ幸いです。
広島土砂災害に続いた御嶽山の噴火については別途論じます。
ともあれ今は台風18号に最大限の注意でもって向かい合い、それぞれの安全をお守りください。

 

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