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明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(969)ポーランド愛国運動とユダヤ人(ポーランドを訪れて-4)

2014年11月11日 01時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141111 01:30)

「ユダヤ人とは何か」に関する考察に踏まえつつ、ポーランドの歴史をユダヤ人との関連をおさえながらさらに見て行きたいと思います。
この国が中世において、ヨーロッパの中でもっともユダヤ人に寛大な政策をとった国であることをすでにおさえてきました。またそのこともあってユダヤ人の金融力がこの国に流れ込み、このことを富ませてことにも触れました。
ユダヤ人に商人やその前提をなす手工業者が多く、金融業に携わる者が多かった理由も、実は伝統的なヨーロッパのキリスト教支配の中で、常にユダヤ人が差別されていたことに起因するのであることにも触れました。
商品は共同体と共同体の狭間で発生したのであり、そのため商品取引は、歴史的に共同体の外側の成員とみなされたものが担う場合が多かったからです。

さらに中世のキリスト教は「利子」をとることを禁じていました。イスラム教では現代でもそうですが、利子は神の支配する時間を使って金を儲けることだから道徳的に許されないものとされてきたのです。
しかし実際には商品のやりとりの中で、貨幣経済が発展する中で利子は自然に発生してきます。中世社会はそれを道徳的退廃としつつも、商品取引の必要性からユダヤ人には金融業を営むことを認めたのです。
中世のポーランド社会でユダヤ人が保護されたのは、道義的に高い意義があると思いますが、しかしそのポーランドとてまったくの同権が保障されたわけではありませんでした。
ユダヤ人には土地取得の権利はなく、大多数は貧しいままにおかれながら、一部の者たちが商人に特化して金融業にも長けていきました。その経済力に目を付けたポーランド貴族はこれらのユダヤ商人と結びつきつつ、己の力の増大を図ったのも現実でした。

こうした中で15世紀から18世紀にかけてのポーランドはどんどん支配地を広げて行き、現在のベラルーシやウクライナ、バルト三国などを占める広大な領地を持っていくようになりました。
これら新たな領土にユダヤ人たちも浸透していったため、東欧からロシアにいたる地域にヨーロッパユダヤ人の多くが住み着いていくことになりました。
ただしこの時代のポーランドの中でもたびたびユダヤ人への迫害が起こっています。もっとも大きなものは30年戦争の後の1648年におこったウクライナにおけるコサックの反ポーランド暴動の中でのユダヤ人の殺害です。
コサックはもともとはトルコ系の人々ですが、ともあれこのときも数万、ないし数十万のユダヤ人が虐殺されています。こうしたユダヤ人虐殺をロシア語でポグロムといいます。

この時、ユダヤ人の多くは、自らを庇護してくれたポーランド国家を守るために、コサックと闘っています。
またこれ以降、ポーランドは周辺のロシア、オーストリア、プロシア、トルコという強国に挟まれつつ、度重なる戦乱によって力を失っていくのですが、それらの戦いの中でも多くのユダヤ人がポーランド社会防衛のために闘っています。
このころのポーランドは国王を貴族が選挙で選ぶ立憲君主制の萌芽を持っており、象徴として国家政策の重要なものは代議員の全員一致で決める制度を採用していましたが、次第にこの制度が乱用され、重要なことが何も決められなくなり、国家の停滞が加速されていきます。
こうして18世紀末にロシア、オーストリア、プロシアの侵入を避けられなくなり、同国は1795年にこれら三国に分割されてしまうのです。

このときポーランドではタデウシ・コシュチューシコのクラクフ蜂起が起こります。彼はポーランドの最後の国王の甥、ユゼフ・ポニャトフスキともに全ポーランド人に祖国防衛を訴えたのですが、このときベルク・ヨセレーヴィチ率いるユダヤ騎士団が呼びかけに応じて参戦しています。
ちなみにコシュチューシコはリトアニアの出身ですが、ワルシャワの士官学校を卒業後、ドイツ、イタリア、フランスで軍事教練を受けたのち、アメリカの独立戦争に義勇兵として参戦。ジョージ・ワシントンの副官として大活躍しています。その間、トーマス・ジェファーソンの自由主義思想に強く影響されたと言われています。
コシュチューシコとポニャトフスキとともに軍事的天才でもあり、ロシア軍をさんざん翻弄しますが、国王が十分な戦況の好転をまたずに和平を急いだこともあり、最終的にはポーランドの分割を防ぐことができませんでした。
二人は亡命しますが、ポニャトフスキはその後、ナポレオンにヨーロッパの解放を託し、ポーランド軍団を率いてナポレオン戦争を支え続けます。しかし1813年ライプツィヒの戦いで破れたナポレオン軍の殿軍をにない戦死しています。
(なおこれらの過程を描いた漫画に『天の涯まで ポーランド秘史』池田理代子著があります。池田さんはフランス革命を描いた『ベルサイユの薔薇』で一世を風靡された方ですが、同時代のポーランドを襲った悲劇についてもさすがのタッチで描かれています。)


このようにしてポーランドは、ロシア、オーストリア、プロシアに分割されてしまい、今のベラルーシやウクライナ地域がロシアの領土となるのですが、そのことでロシアは自国に多くのユダヤ人を抱え込むことになりました。
それまでロシアはロシア正教をもとにユダヤ人を排斥し、入国を認めていなかったのですが、ポーランドの一部を割譲することにより、領土の中のユダヤ人の存在を認めざるを得なくなったのでした。
女王、エカテリーナ2世はユダヤ人の存在を容認しつつもロシアの他の地域に移ることを認めない政策を採りました。そのためポーランドからもぎとった現在のバルト三国からベラルーシ、ウクライナにいたる広大な地域にユダヤ人は留め置かれることになりました。
広大なゲットーの創出とも言えるこの政策は1917年のロシア革命まで続いていきます。このためロシア領ポーランドと並んでこれらの地域に、ヨーロッパユダヤ人の中の最も大きな人口が住まうようになりました。

これ以降の時期の特徴は人口が急激に増えていったことです。ヨーロッパ全体におよんだ生活環境の改善、衛生意識の向上のもとに実現されたことでしたが、ユダヤ人は商業や金融業、手工業者などが多かったために、より医療の受けやすい都市部に多く存在していたため、ヨーロッパの平均以上に大きく人口を増やしていきました。
一方でポーランドでも、分割された地域でも帝政ロシアの圧政に対抗するさまざまな人々の抵抗運動が起こっていきますが、ここにも多くのユダヤ人がポーランド人、ロシア人とともに参加していきました。ポーランド史ではこれらの時期は、「ポーランド・ユダヤ友好期」と言われます。
こうした友好の象徴として1861年のワルシャワの行動がありました。2月27日の示威行動で5名が殺害されると、カトリック、プロテスタントに並んでユダヤ教の聖職者であるラビもともに追悼に参加しました。さらにこの時、ユダヤ人学生が殺害された神父が掲げていた十字架を手に持ったままロシアの公安警察に射殺され、ますます人々の「友好」を深めることに結果しました。
人々はさらに帝政ロシアへの抵抗を激化。1863年に1月蜂起に立ちあがりますが、これらの過程でユダヤ人の中にはポーランド人に同化していく人々も増えて行きました。これらの人々はユダヤ人としてよりも愛国的なポーランド人としてこの時の抵抗運動に参加していったのです。

このときポーランド国民政府がユダヤ人に宛てた檄文を紹介しておきます。
 「神の力によってわれわれが国をモスクワの隷従から解放し、われわれを縛っていたくびきを投げ棄てるなら、われわれはあなた方と共同で平和に生活し、わが大地の豊かな恵みに共にあずかるであろう。
  あなた方とあなた方の子供たちは何らの制限も例外もない完全な市民権を享受するであろう。何故なら国民政府は市民の信仰や出自を問うことなく、ただどこの生まれか、ポーランド人かだけに関心をもつがゆえに。」(『ポーランドのユダヤ人』p78)
こうした檄文を受け、多くのユダヤ人が、ロシアによるポーランドの隷属を打ち破るべく、献身的に闘ったのでした。

ところがこうした「ポーランド・ユダヤ友好期」は、1881年に酷く断たれてしまいます。この年、帝政ロシアを倒し、農民を解放しようとして活動してきたナロードニキ=「人民の意志」派がサンクトペテルブルクでロシア皇帝アレクサンドル2世に爆弾を投げつけて殺害しました。
実行したのはポーランド人でしたが、このグループの中にユダヤ人女性革命家が含まれていたことから、「皇帝を殺したユダヤ人を許すな」という声が、オデッサなど現在のウクライナ南部であがり、ポグロムが発生。1884年までに主にウクライナ南部で多くのユダヤ人が殺害されていきました。それは17世紀にコサックによって引き起こされたポグロムの悪夢を思い出させるものでした。
ポグロムはワルシャワでもおこり、殺害された数はウクライナ南部に比べて小さかったものの、同時に、ポーランド人に同化した「ユダヤ人の罪」を叫ぶヒステリックな声が高まっていきました。このことでそれまでのユダヤ人内部のポーランド人への同化傾向に歯止めがかかっていきます。ポーランド人は同化しようとしてもユダヤ人を受け入れない。同化は夢だと多くの人々が思い出したのでした。
こうしてユダヤ人の解放運動は大きく二つの方向に分かれ始めます。一つは同化ではなく社会そのものを根底から変革しなければならないと感じ、おりから勃興してきた社会主義勢力に合流し、社会主義革命に展望を託すもの。他方は、ヨーロッパでの人権獲得を諦め、パレスチナの地にユダヤ人の理想国家を作ろうとするシオニズムにです。同時に多くのユダヤ人がヨーロッパを捨て、新大陸であるアメリカに向かっていきました。

続く

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明日に向けて(968)「ユダヤ人とは何か」に関する若干の考察(ポーランドを訪れて-3)

2014年11月10日 23時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141110 23:30)

ポーランド訪問で学んだことの続きを書きたいと思いますが、これまで観てきたように、ポーランドの現代史にはユダヤ人問題が大きく横たわっています。その一つの頂点がアウシュビッツ絶滅収容所であり、この重大な歴史をしっかりと見据えるためにも、ユダヤ人のことを常に考えながらポーランド史をおさえていかねばと思っています。

そのためにもここで「ユダヤ人とは何か」について若干ですが触れておきたいと思います。というのはユダヤ人とは、ロシア人、ポーランド人などと呼称できるような国家的な枠組みによって規定されるものではないからです。歴史上も今も、ユダヤ系ロシア人もいれば、ユダヤ系ポーランド人もいます。
人種を指すのでもありません。ナチス・ドイツはユダヤ人を「人種」として強引に定義し、祖父母にユダヤ教信者のいるものは本人が何を信仰していようとすべてユダヤ人だと規定した上で、ユダヤ人への徹底迫害と殺戮を行っていきましたが、実際のユダヤ人はたくさんの人種にまたがっています。
民族と定義できるのかというとそれも難しい。そもそも「民族」自身、近代になって強まった定義の難しい言葉ですが、ユダヤ人はヨーロッパを中心に世界の各国に存在しており、それぞれの地域の民族性の中に溶け込んでいる場合も多くあります。
ではユダヤ教を信じる人々と定義できるのかというと、歴史的にユダヤ信仰を捨て去って違う思想の中に生きた人々もたくさんいます。マスクス主義の創始者、カール・マルクスもその一人です。

歴史を紐解いてみると、ナチス・ドイツが「祖父母にユダヤ教信者のいるものはユダヤ人だ」と定義したように、自らのアイデンティティとしてではなく外側から「ユダヤ人」と決めつけられた上で迫害を受けた人々もたくさんいました。
ナチスからの隠れ家で日記を残したアンネ・フランクもその一人と聞いています。ちなみにユダヤ系ポーランド人、ないしポーランド・ユダヤ人はナチスにポーランドが占領される前は約300万人おり、そのうち290万人から295万人が殺されてしまいました。
しかしこの中にも、自らを強くユダヤ人と考えている人々もいれば、そうではなかった人々もたくさんいたのが実状だと思われます。
ではユダヤ人とは何なのか。薄学な僕にその定義をするのは手に余りますが、それでも旧約聖書の時代から説き起こされる歴史上のルーツを共有している人々であると言えるのだと思われます。

ここで今回の考察にあたって大きく依拠している『ポーランドのユダヤ人』(みすず書房2006年)という本をご紹介したいと思います。中世から近世、さらにナチス占領下のポーランドのユダヤ人を分析した書物です。
編著者はフェリクス・ティフ。ユダヤ人としてナチス占領下で作られたワルシャワ・ゲットーを脱出して生き延び、戦後はポーランド統一労働者党の党史研究所の教授となりますが、反ユダヤ運動で職を追われました。社会主義崩壊後のポーランドで1996年以降、ワルシャワのユダヤ史研究所所長を務めておられた方ですが、たった今、どうされているかは確認できませんでした。
この書の第一章に「ユダヤ人とは誰なのか」という章が据えられています。書いているのはヨランダ・ジィンドゥル。ここでつぎのような一文がみられます。
 「現在のユダヤ人は民族的、文化的に統合されておらず、言語も同一ではなく、宗教との関係はさまざまであっても、かれらは特殊で、痛ましい、永く続いた歴史によってつながれています」(『同書』p8)

ではここに書かれた共有されている歴史的ルーツとは何なのか。続けてこうした提起がみられます。
 「その歴史の始源は旧約聖書によって知られています。そこにはユダヤ人の自己意識の基礎的な要素が示されています。すなわち族長アブラハムに始まるかれらの出自、イスラエルの地、つまり聖書の約束の地との絶えることのないこどわり、それに信仰あるユダヤ人とキリスト教徒とのきずなである唯一のヤーヴェへの信仰です。」
 「ユダヤ人の運命の独自性は、迫害のない自由な土地を求めて続けられた永い放浪、つまり他民族の間にちりぢりに営まれたディアスポラの生活、それに加えてユダヤ人以外の環境との関係に由来します」(『同書』p8,9)
ディアスポラとはちりぢりになって分散して生活している状態のこと。近代におけるイスラエル建国まで長い間、国をもたなかったユダヤ人のあり方をさす言葉でもあります。

本書では、これらユダヤ人の自己意識の拠り所だったのは長い間、ユダヤ教であった指摘されています。しかし先にも述べたように18世紀ぐらいからそのあり方が変容していきます。フランス革命の人権宣言に顕著な平等の思想の高揚の中で、ユダヤ人の中にもさまざまな思想が生まれ、歩む方向性が変わってきたからです。
この中で台頭してきたのは、ユダヤ人であることにこだわらず、現に暮らしている諸民族の中に同化していく方が良いのだと言う考えや、カール・マルクスのように無神論者になることによってユダヤ教と決別していくものなどでした。反対にあくまでもユダヤ人としてのアイデンティティにこだわっていく人々ももちろんいました。
しかしこうした多様性ゆえに、とくにこれらの時代以降はユダヤ教をもってユダヤ人であるとすることはできず、その存在のあり方はそれぞれの人々が歩んだ方向の違いよって大いに多様化していきます。つまり近代に近づけば近づくだけ、ユダヤ人のアイデンティティは多様化してきたと言えると思います。
僕にもとてもではないですが、こうした紹介以上に定義をすることができません。まだ学んでいる最中でもあるからでしょうが、今はどのように規定しても、何かが欠けてしまうように思えます。

にもかかわらず、こうした多様な展開や異質性をまったく無視して「ユダヤ人とは何か」が外側から規定されてきたのが、近代において繰り返されてきたことに留意すべきだと思います。
その上で強調したいのは、ナチス・ドイツによる蛮行以前にもユダヤ人への迫害は何度も繰り返されてきたということです。その際、常に行われたのはありもしない「ユダヤ人の罪」をヒステリックに叫ぶことでした。
「ユダヤ人の罪」のでっち上げは、たいてい社会が不安定になり、人々の心が穏やかさを失っているときに持ち出されました。本来、為政者に向けられるべき怒りがひどく歪められて「ユダヤ人」に向かったこともたくさんあり、それを意図的に為政者が狙った場合もありました。
今、僕がこのことを書くのは、こうした「ユダヤ人の罪」のでっち上げのもとでのユダヤ人殺戮に「大日本帝国」もナチス・ドイツとの同盟によって加担した事実を忘れてはならないからです。

同時に今日、世界の中で、いや日本社会の中でも、ネットなどで繰り返し「ユダヤの陰謀説」が飛び交っています。その意味で「ユダヤ人の罪」のでっち上げによる迫害は今も続いている問題であると捉える必要があります。
その際もユダヤ人の間に多様な違いがあり、まったく正反対の立場に立つ人々すらたくさんいるのに、何か強烈な同質性があるかのごとき「ユダヤ人」像が繰り返し語られてきたことに注意が向けられる必要があります。
特に今、ユダヤ人が設立した国家であるイスラエルが、パレスチナへの蛮行と殺戮を繰り返していますが、それはイスラエル国家の指導者たち、およびそれに追随している人々の罪であって、「ユダヤ人の罪」では断じてありません。
現実に世界各地のユダヤ人が「ガザでの殺戮を止めよ」と声をあげてデモンストレーションをしています。この中にはイスラエルという国家が「ユダヤ人の代表かのように振る舞うことを止めて欲しい」と訴えている人々もいます。

こうしたことを踏まえた上で、しかし歴史的に「誰々はユダヤ人」だからという名目だけで、暴力が振るわれ、殺戮が繰り返されてきたことをおさえ、人類の中からこんなにひどい殺戮が二度と起こらないための努力を重ねていく必要があります。
このことはユダヤ人の問題だけでなく、他の多くの事例にも共通することです。例えば日本では今、「在特会」などがヘイトクライムを繰り返し、朝鮮人、韓国人、中国人などを対象としたまったくもって許すことのできない犯罪的言辞を投げ続けています。
本当に日本で特権を謳歌しているアメリカ軍の存在などにはまったく触れずにです。要するに本当の強い悪(日本人を大量に殺害したことを一度も反省していないアメリカ)には立ち向かえず、矛盾を自分の「下」にいると主観的に思っている人々にぶつけようとしている。
そこにはヨーロッパで繰り返されてきたユダヤ人への迫害構造と同じものがあります。

そんな「在特会」はユダヤ人大量虐殺の旗であるハーケンクロイツをも掲げてデモをしています。しかもその在特会と、現在の安倍政権はさまざまな形でつながってさえいます。
ヘイトクライム集団と内閣の閣僚が結びつくと言うとんでもない状態が私たちの国の中にあり、私たちは人類が近代につかんできたすべての人間の平等をうたった人権思想に基づいて、こうしたヘイトクライムと対決し続ける必要があります。
ただしこうした状態はけして日本だけでなく、世界の多くの国々でも起こっていることも見据えておく必要があります。僕はその抜本的要因は新自由主義のもとで貧富の差が激烈に拡大し、社会の矛盾が高まり、人々の穏やかさが奪われ続けていることに根拠があると思っています。
だからこそ私たちはこうしたあらゆる傾向と立ち向かい続ける必要性があります。そしてそのために、600万人のユダヤ人の虐殺というとんでもないことが、つい70年前に大規模になされたのは何故なのかと言う問いを、私たち自身の問いとしなければと思うのです。

ちなみに今回の旅では、オシフィエンチムという都市にあるアウシュヴィッツ博物館を訪れることができました。「アウシュビッツ」とはポーランド語の都市名を嫌ったドイツ人たちが勝手につけたドイツ風の名前です。
ここで長年、ガイドを務めている日本人の中谷剛さんの説明を受けることができたのですが、とてもとても素晴らしかった!何より中谷さんは、僕が今ここに書いたような、現代でも繰り返されているいわれなき差別や抑圧を踏まえつつ、今、アウシュビッツで学ぶべきことを語って下さいました。
その中谷さんの著書『アウシュビッツ博物館案内』の中で、中谷さんは「ユダヤ人」をナチス・ドイツが「人種」として特定したことを批判するために「ユダヤ人」という言葉は使わずに「ユダヤ民」という言葉で説明を行っています。
中谷さんは同様に、ナチスがユダヤ人とともに絶滅の対象とした「ジプシー」と言われた人々に対しても、この言葉に蔑称が含まれていることから「ロマ・シンティ」と呼称しています。

実はこの点で僕もここで「ユダヤ民」と書くべきなのか悩みましたが、歴史上のさまざまな文献で「ユダヤ人」という言葉が使われていること、かつ「ユダヤ民」という用法がおそらく「ユダヤ人」という使い方より妥当だとは思うのですが、一般化してはいないことをかんがみて、とりあえず「ユダヤ人」と書くことにしました。
ただしこの点を論ぜずに「ユダヤ人」と書くわけにはいかないと考えて、この一文を付け加えることにしましたが、この点を書くのはずいぶん、苦労しました。
さまざまな配慮をしたつもりですが、まだまだ間違ったものがあり、とりわけ当事者の方々への配慮が行き届いてない面もあるかも知れません。その場合はどうかご指摘していただければと思います。
それらを踏まえて、ここでは「ユダヤ人とは何か」ということだけでなく、近代では立場も思想も異なる人々をも「ユダヤ人」というひとくくりにした上での迫害と殺戮が行われてきたことに注意を喚起したいと思うのです。

自分自身のことを考え見ても、在特会の主張を日本人総体の主張と誤解されて、「そんな差別を平気でする日本人」などと海外の人たちから言われることはまっぴらごめんです。その点では反対に僕の主張をもって「日本人の意見」と思われることを嫌がる方もおられるでしょう。
そこがキモなのです。在特会などが呼号する「中国人」「韓国人」などには、そうした現実の人々の多様なあり方を無視し、何か自分が腹立たしく思えっていることがら(それ自身、根拠があいまいですが)が、およそすべての「○○人」のものとされてしまっています。
しかし実際に歴史上、繰り返しあったことは、あらゆる「○○人」の中に、素晴らしい人もいれば、人間として許すことのできない犯罪を行った人々もいるのだという事実です。
だから私たちは、そうした具体性を無視した「○○人」というくくり方に抗っていかなければならないし、批判的観点をたくましくするためにもナチス・ドイツが「ユダヤ人」というひとくくりで600万人もの多様な人々を殺害したことを見据えなければならないのです。

こうした歴史を学んでいて見えてくるのは、ナチスの歴史的犯行に対して非常に多くの国々の人々が加担したり、無視を決め込むことで消極的に賛同した事実です。
先にも述べたように日本はナチス・ドイツと組むことによって、その犯罪に加担しました。しかしドイツと闘った連合国のアメリカやイギリスとて、何度も諜報員がアウシュビッツなどの実態を報告したにもかかわらず、その阻止に積極的に動かなかった事実も今日、曝露されています。
だからこそ、イスラエルに集っていった人々に、この世界では自分たち以外、誰もユダヤ人を守ってなどくれないのだという強い意識を作り出したともいえるのであって、そうしたことも私たちはつかまなければいけないと思います。
それらを含めて、私たちの眼前で繰り返されている朝鮮、韓国、中国の人々へのヘイトクライム、あるいは「ユダヤの罪」という新たなでっち上げを絶対にやめさせる決意を込めながら、今、ポーランドとユダヤ人の歴史について学んでいかねばと思うのです。

続く

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明日に向けて(967)福島1号機 燃料棒取り出しは極めて困難!

2014年11月07日 15時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141107 15:00)

 

ポーランドに行っている間に、福島原発をめぐる重要な情報が幾つか出されていましたので解析したいと思います。

 

そのうちの一つは福島原発1号機の使用済み燃料取り出し行程が、2年間遅らされたことです。

東京新聞はこの事態を「燃料棒取り出し遅れ 東電追認 実体なき「廃炉工程」鮮明」という記事で報道しています。なかなか的確な見出しです。

確かにここに現れているのは、廃炉工程表に実体がないことです。

しかしさらに突っ込んでいくと、ここには僕が繰り返し述べてきた私たちの危機そのものが横たわっていることが見えてきます。何よりもこの過酷な事実を見据えておくべきです。

 

より具体的にみていくと、東電は10月30日、早ければ2017年度前半にも始めるといっていた1号機のプールにある燃料棒の撤去を2019年年度に始めることに、また炉内で解け落ちた核燃料の撤去も、20年度から始めるとしていたものを25年度からに延期しました。

とくに溶け落ちたデブリについてはこのようなコメントが紹介されています。

 

  東電の廃炉担当者は「デブリ(溶融した核燃料)の状況がよく分からない中、デブリの取り出し設備を設置するのは困難。手戻り(作業のやり直し)につながる。

  それぞれ専用の設備を造ると、当面は遅れるが、着実に作業を進められる」と強調した。

 

東電はここでデブリの状況がよく分からないと述べています。それでなぜ「専用の設備を造ると、着実に作業を進められる」のか。なんの説得力のある説明もなされていません。

これに対して東京新聞は以下のような指摘を行っています。

 

  国と東電が公表している工程表は、あたかも時期が来れば作業が進むような印象を与えるが、実際に根拠がある部分は少ない。検討中のものがほとんどだ。

 

最もなのですが、私たちが見据えておかなければならないのは、燃料プールの危険な状態の除去が思うように進まずに、困難に突き当たっているという事実でそのものの持つ意味です。

それを無視して「廃炉工程」と名付けていることもそもそもおかしい。今、行っているのは福島原発事故の収束作業です。事故はまだ終わっていないのです。

 

そもそもこの問題、僕は1号機を覆っているカバーの撤去による放射性物質の飛散の点からも着目してきました。ご存知のように1号機はすっぽりと大きなカバーで覆われています。他の炉と比べても放射性物質の継続的な飛散が多かったからこの処置が施されてきました。

そのカバーを燃料棒取り出しのために撤去するという。燃料棒取り出しは一刻も早く行ってほしい作業であり、そのためにカバーの取り外しはやむを得ないことですが、しかし東電がそれに伴う放射性物質の飛散に対してきちんと責任ある対応をするとはとても思えない。

 

なぜなら東電は昨年夏に行った3号機周辺のがれきの撤去過程で、鉄板の下敷きになっていたかなりの量の放射性物質を飛散させてしまいながら、またまた事態を隠蔽していたからです。

農水省穀物課の調査の中で露見したのですが、しかし今度も東電は誰一人罰せられていない。そんな東電を信用することなどできないばかりか、絶対に信用すべきではないこと、厳重な監視が必要であることは明らかです。

 

このカバー解体の作業の一部が22日に始まりました。屋根のパネル一枚をあけ、中に飛散防止剤を散布しながら様子を探ったのだと思われます。その結果として明らかにされたのが、廃炉工程の大幅延期という事態です。要するに開けてみたら想像以上に状態がひどく、思ったように作業ができないことが明らかになったというわけです。

ただしスケジュール延長の決定がパネルをはずして一週間でなされていることをみるとき、事態はあらかじめ予想されていたのだと思われます。

 

これまでも東電はこんなことばかり繰り返しています。あたかも事態が把握されているかのうような顔をしておいて、実際には調査がなされるとそれまで説明してきた事態とはまったく違う状態が出てきて、認識が大幅に、しかも酷い方向に修正されるということをです。

その上、今回は廃炉工程そのものの5年の繰り延べを打ち出しました。にもかかわらず全体としての30年から40年は変わらないとしていますが、それもまったく根拠がないし、つじつまも合わない。

 

ここにあらわれているのは燃料棒取り出しの2年の延期も、デブリ取り出しの5年延期もまったくあてにならないことです。東京新聞が言うように、廃炉工程そのものが、実態の把握なしに当て推量で語られていること、実体など伴っていないことも明らかで、廃炉作業はもっと長くかかってしまう可能性が十分にあるし、先にも述べたようにそもそも事故の真の収束がいつになるのかさえ分からない。

 

 

私たちが何度も確認しておかなければならないことは、今、作業の責任者となっている人々の大半は生きていない未来がすでにしてタイムスケジュール化されており、その繰り延べが今回、表明されたということです。

廃炉の財政的、技術的、社会的負担を、今、小さなあどけない子どもたち、いやこれから生まれてくる子どもたちに押し付けることがすでにして表明されているわけです。

 

僕は、かりに事故をおこさずとも、放射性物質の管理のための天文学的な経費がかかってしまうこと、それが隠されたままに続けられてきた原子力政策を、未来世代への暴力と言ってきましたが、私たちの眼前でこの暴力の一端がまさに繰り広げられています。私たちは世代間倫理という観点に立ってこの事態に立ち向かい続けなければなりません。

 

さらにより恐ろしいことでありながら、東京新聞の記事も書かれていないことは、燃料棒が取り出し困難であるということは、私たちの目の前に今ある厳然たる危機が、なかなか去らないことを意味しているのだと言うことです。

使用済み燃料の一番の恐ろしさは、とにもかくにも冷やし続けなければならないものだということ。冷却ができなくなったら、崩壊熱でやがて溶け出し、どうともならない状態になってしまうものだということです。このことは何度確認してもしたりないことはありません。

 

これまで原子力推進側は、原子炉の核燃料は五重の壁で守られているのだと言ってきました。燃料棒を固めたペレット、燃料棒を包む被覆管、圧力容器、格納容器、原子炉建屋です。

ところがこれは原子炉の中のことで、使用済み核燃料はこのシールドの外に出されてしまっているのです。正確にはペレットと被覆管という脆弱なシールドしかない。

五重の壁など、容易に壊れることが、福島原発事故が突きつけた現実ですが、同時に燃料プールという施設が大変、脆く、危険な状態にあることも明らかになったのでした。

そのプールから燃料が降ろせない。

一番、恐ろしいのはここに東日本大震災の大きな余震が襲うことです。いや関東大震災とて繰り返し予想されているわけで、それが福島まで波及効果を持つことも十二分に予想されます。

 

だからこそ核燃料をプールから降ろすことは安全確保のための絶対条件であり、そのために一番取り組みやすかった4号機からの燃料降ろしが急がれてきたのでした。

唯一の朗報としてあることは、この11月5日に4号機については使用済み燃料棒降ろしが完了したと報告されたことです。その分だけ危険性は減ったのであり、とても喜ばしい事態です。

しかしこれに続けて1号機のみならず、2号機、3号機からも核燃料を降ろし、より安全な状態に移す必要があるのですが、それがなかなか思うようにできないのが福島原発の現状なのです。

必死の作業が繰り返され来たことは間違いないでしょうが、しかしこれらの炉は未だに高い放射線に遮られていて、プラントの状態自身がきちんと把握ができていません。

 

しかもこれらの炉は度重なる余震によって揺すぶられてきたし、台風の風雨などの影響も受けてきて、ダメージが累積しています。

地下水も深刻で、まったくコントロールできていない。そのため地盤そのものが危険な状態になっている可能性も高い。

それらから必ずしも大きな地震でなくても、原子炉建屋の倒壊が起こってしまうかもしれません。

 

そうならばどうするべきか。一つには危機を危機としてもっときちんと内外に表明し、さまざまな資源の集中をはかることが必要です。

もちろん2020年の東京オリンピックなどやっている場合ではない。そもそもそれまでに1号機のプールの燃料だって下ろすことすらできないのです。こんな状態をまったく無視しての川内原発の再稼働など、まったくの論外です。

福島原発の作業が放射線被曝作業であることからいっても、これからものすごい長い時間をかけた人海戦術をとらなければならないし、可能な限り一人一人の被曝量を減らすために、頻繁な交代だって必要です。

それらからもあらゆる事業に優先した取り組みが必要です。この国はさらにリニア新幹線による大トンネルの創出というとんでもないことにも着工しようとしていますが、そんな余裕などどこにあるというのでしょうか。

福島原発には非常事態宣言がなされたままなのであり、このことの意味を私たちの社会はしっかりと把握しなおさなければなりません。オリンピックなどは最低でも非常事態宣言が解除されてから考えるべきだし、その上にリニア新幹線建設を重ねるなどというあまりの愚かさが徹底批判されなければなりません。

 

ところがこの一番肝心な点が、原発問題に対して最も誠実に、精力的に報じてきた東京新聞でさえ、きちんと指摘できていません。

なぜか。私たちの社会を、巨大な「正常性バイアス」が覆っているからです。最悪の事態の想定を、多くの人々が無意識的に避けてしまっている。

僕にはそれは脱原発派の方たちのなかにすらある傾向ではないかと思えます。私たちの前には東日本壊滅の恐れだってまだ厳然として存在しているのに、それを見据えられない。

もちろんそんなもの見据えない方が楽なのです。しかし、安易な安楽の選択は、地獄への道の回避の可能性を閉じさせてしまいます。

再度、私たちが立っているのは非常事態の中であること。事実、そのための法律が適用されたままであること、基本的人権の一部が停止される非常立法のもとに私たちの国がいまだおかれていること。このことをこそ明確にし、全てを廃炉の推進、可能な限りの安全性の確保に費やすべきことが必要です。

 

そのためには第二に、関東、東北を中心とした広域の原子力災害対策と避難訓練こそが実施される必要があります。そのことをぜひ脱原発運動を担っている人々が積極的に主張し、地元行政に働きかけて欲しい。正常性バイアスから覚醒して、このことを最優先して欲しいです。

僕は現在の放射能汚染の状況や、事故の再度の拡大の恐れ、また昨年夏にあったような、最悪の危機にいたらずとも繰り返し大量の放射性物資の飛散が起こっている現状を考えるならば、原発により近い方々から避難移転をした方が良いと思っているし、その呼びかけを続けようと思っていますが、なかなかそこまではできない方がたくさんおられるわけですから、なおさら災害対策に真剣に取り組んで欲しいのです。

 

福島原発の危機的状況に対しては現場の方たちが一番リアルに感じているはずです。ここに光を当てみんなで現場の作業を支えるためにも、危機ときちんと向かい合い、非常事態に構えていく社会的体制をつくることが大事です。この記事を読んだ方は、すぐにもそうした行動を始めて欲しいです。すぐに行政を動かせないならまずは自分で避難計画を作る。また市民レベルでの災害対策の学習会を増やして欲しいです。僕自身、呼んでいただけるならどこへでも飛んでいきます。

 

1号機の燃料プールの問題に戻るなら、そもそもこのプールに入っている使用済み燃料は、総量の4分の1の70本もが破損しています。このことが明らかになったのは昨年の11月です。というか、そんな重大事実をも東電はこれまで長い間隠し続けてきたのです。それをしれっと明らかにしたのがやっと1年前です。

ようするに折れ曲がったりしている訳ですが、これだってきちんと抜けるのかどうか、やってみないと分からない。そんな作業を高い線量の中でやらなくてはならない。

端的に言って、失敗はありうるという前提に立つべきです。失敗の可能性を隠蔽したままの作業の強行こそが一番危ない。危機への備えをおおっぴらにすることができなくなるからです。

基本的なことを秘密にし続けていれば、作業員の集中力だった絶対に落ちます。そんなことは原子力に関する何の知識がなくても分かることです。

 

以上、私たちは4号機の使用済み燃料はすべておりたけれども、いまだメルトダウンした3つの炉のプールの中の核燃料という恐ろしい物質を抱えたままなのです。いつ倒壊してもおかしくないのです。福島原発は完全に壊れていて、その状態の把握すらいまだにできていないからです。

そしてその上にさらに三つの炉の中に溶け落ちて高い線量を発している核燃料のデブリがあるのです。私たちが立ち向かうべきなのはこの過酷な現実です。

 

未来のために、いや、今ある私たちの幸せを守るために、この事態と向き合い続けていきましょう。

ただちに原子力災害対策に着手してください。万が一を想定した避難計画を社会の各レベルで作り出してください。

民衆の下からのエネルギーをもってしかこの国が救えないこと、私たち自身の力でしか私たちも未来も救えないことを自覚しましょう。

今、必要なのは私たち一人一人の腹をすえた行動です。

 

以下、東京新聞の記事を貼付けておきます。

 

*****

 

核燃料取り出し遅れ 東電追認 実体なき「廃炉工程」鮮明

東京新聞2014年10月31日 朝刊

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014103102000132.html

 

 東京電力福島第一原発の廃炉をめぐり、東電は30日、早ければ2017年度前半にも始める予定だった1号機プールからの使用済み核燃料取り出しを、2年遅れの19年度に見直すことを明らかにした。原子炉内に溶け落ちた核燃料の取り出しも、早ければ20年度前半に始めるとしていたが、5年遅れの25年度開始に見直す。

 計画を前倒しにすることはあったが、遅らせるケースは初めて。

 原因の一つは、原子炉建屋を覆うカバーの解体作業が当初の計画より半年以上遅れているため。当初は既存のカバーを改造して使用済み核燃料を取り出す計画だったのを、カバーを撤去し、専用の骨組みを建屋上部に新設するよう変更したことも大きい。さらに、溶けた核燃料の取り出しに向けては、使用済み核燃料の取り出し用に造った骨組みを撤去し、別の専用の骨組みを設置し直すためという。

 東電の廃炉担当者は「デブリ(溶融した核燃料)の状況がよく分からない中、デブリの取り出し設備を設置するのは困難。手戻り(作業のやり直し)につながる。それぞれ専用の設備を造ると、当面は遅れるが、着実に作業を進められる」と強調した。

 三十~四十年間で廃炉を実現する方針は変わらないという。

 

◆日程偏重で現場しわ寄せ

 東京電力が、初めて時期の遅れを認める形で福島第一原発の廃炉工程を見直す。これまで工程表通りに作業を急げ急げの号令ばかりで、現場は違法な長時間労働をはじめ苦しめられてきた。「廃炉まで三十~四十年」の宣言にこだわらず、現実に合わせた見直しは当然といえる。

 実際のところ、廃炉への具体的な道筋は見えていない。炉がどう壊れ、溶けた核燃料はどんな状況なのかも分かっていない。

 特に溶けた核燃料の取り出しには、格納容器ごと水没させ、強烈な放射線を遮ることが不可欠だが、注水した冷却水は漏れ続けている。容器の補修のためロボットを使った調査が続けられているが、漏れ場所は特定できていない。取り出しの工法も決まっていない。

 国と東電が公表している工程表は、あたかも時期が来れば作業が進むような印象を与えるが、実際に根拠がある部分は少ない。検討中のものがほとんどだ。

 それにもかかわらず、現場には工程表通りにやることを最優先するよう指示が飛ぶ。福島第一の作業員の一人は「現場には、一日も工程から遅れるなと強いプレッシャーがかけられている。福島第一は初めての作業が多く、悪天候で遅れることも多い。工程を守れと言われても、現場が苦しくなるだけ」と訴えた。

 そんな現場の苦労にもかかわらず、三十日の国と東電の工程表をめぐる会合では、せっかく現実に合わせた見直しをしたのに、前倒しをするよう国側から注文がついた。(原発取材班)

 
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明日に向けて(965)『大学生活の迷い方-女子寮ドタバタ日記』を読んで(下)

2014年11月05日 00時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141105 00:30)

『大学生活の迷い方』を読んでの続きをお送りします。

先に僕は本書には恩師、宇沢先生が説かれた教育の理想がちりばめていると書きましたが、ここで宇沢先生の教育論をご紹介したいと思います。岩波新書の名著、『日本の教育を考える』の中で宇沢先生は次のように述べられています。
 「教育とは何か。一口でいってしまえば、一人一人の子どもがもっている多様な先天的、後天的資質をできるだけ生かし、その能力をできるだけ伸ばし、発展させ、実り多い幸福な人生をおくることができる一人の人間として成長を助けるのが教育だと言ってよいでしょう。」(同書p10)

そうです。教育の本分は、よく誤解されるように何かを教え込むことにあるのではないのです。
もともと人間には自らを成長させる本源的な力が備わっている。そして成長を熱烈に欲するのも人間の自然的欲求です。だから子どもは何でも真似たがる。真似て今の自分の以上の何かに近づくことに夢中になるのです。
教育はこの自然的欲求としての成長の手助けをすることにあるのであって、そのためには、成長を阻害しないための慎重な関わりも求められます。子どもが自ら考え、判断し、発展方向を見出していけるように配慮し、環境を整え、道筋をつけてあげる。そこに教育の本分がある。
もちろん、そのためにさまざまな知識を伝授することもあります。しかし知識の修得も、子どもが自ら主体的につかみとっていく方向性を確保できた時にもっとも効率よくなされていく。あくまで学ぶ主体は子ども自身だからです。

僕自身、わずか一時ですが、京都精華大学のアドミッション・オフィスに参加し、同大学に面接試験などで合格した受験生たちと大学入学まで対話していく「入学前教育」というプログラムを担うことで学生教育に携わったことがあります。
その時のメインテキストの一つが他ならぬ『日本の教育を考える』であり、実際に高校三年生を主体とした若者たちと対話しながら、僕自身もこの書の観点を自ら体験的に修得することができたのでしたが、その理想の生きたサンプルが僕には松蔭寮の日々であるように思えるのです。
もちろんこう書くと蒔田さんは必ず「褒めすぎだ」と言うに決まっているのですが、僕は教育の場とは本来、ドタバタしたものだと思うのです。若き当事者たちはいつも右往左往しており、周りで見つめる大人たちもハラハラドキドキであり続けるからです。
振り返れば誰しも分かるように、どうしたって若き日々には特有の辛さがあります。かつて高校生のときに恩師が「君たちには若さゆえの生理的憂悶があるのだ」と小林秀雄だかの一節を引きながら教えてくれたことがありましたが、それに寄り添う日々が予定調和的に進むはずがない。

だから生きた教育の場はいつも「想定外」の連続であり、奇想天外な事件に見舞われてばかりであり、奇人変人のオンパレードなのです。実は「普通の人」などどこにもおらず、誰もが「標準偏差」などから離れた奇人変人だからでもあります。自由な場が提供されれば当然にもその「本性」が出てくるのです。
松蔭寮に横溢してきた自由は、学生たちの「本性」を表に出すことへの自由でもありました。同時に自由には結果に責任をとることが伴うこともこの寮ははっきりと自覚してきた。だから寮で起こるさまざまなことを自ら決していく原則全員参加の寮会が重要視され、時には過酷なほどに時間をかけた討論が重ねられてきました。
本書にはそんな寮生たちの姿がたくさん反映しています。そして若者たちの成長を見守りながら、「非常事態」が発生するたびに登場する蒔田さんの姿も。
大人のみなさんにはぜひこれらの過程の中から、若者たちの自立心と成長への欲求を十二分に尊重し、なおかつ私たちがしっかりとした守り手として周りにいさえすれば、若者はこんなにも生き生きと育ち、輝いていける存在なのだということをこそシェアしていただきたいいと思います。


もう一点。今回、これまでも知ってきたはずの松蔭寮という女子寮の物語に接して、つくづく感じたのは、今やこの寮にこそ同志社の建学の精神が宿っているのではないかということです。
僕はかつて宇沢先生に同志社大学社会的共通資本研究センターに拾っていただいた縁で、この大学の設立史を研究したことがあります。その中で僕が深く尊敬するにいたったのが新島襄とともに同志社を設立した山本覚馬でした。
NHKの大河ドラマ『八重の桜』で描かれた新島八重のお兄さんです。大河ドラマにはその偉業の半分も描かれていませんでしたが、実際の山本覚馬は間違いなく日本で一番最初のフェミニストでした。
例えばドラマには描かれませんでしたが、彼は当時の日本で常識化していた売買春から女性たちを解放するために奔走し、明治5年に「芸娼妓解放令」を打ち立てさせるに至ります。そのために祇園の暴漢に襲われて滅多打ちされ、歩行ができなくなってしまうのですが、そうまでして覚馬は女性解放を推し進めようとしたのです。

しかも法の成立にも関わらず肝心の売買春は止みませんでした。法の解釈替えによって抜け道が作りだされてしまったためでしたが、それでも覚馬はひるみませんでした。法がダメなら人の心から磨き直すことが核心だと考え、キリスト教に近づいていき、ゴードンという宣教師から新島襄を紹介されたのです。
この時、キリスト教精神に基づいた教育機関を打ち立てたいという襄の熱き思いに覚馬は感動し、「新島君。君と僕は同志だ。僕たち同志の社を作りましょう」と語ったと伝えられています。同志社の名のおこりです。今出川の土地を寄進したのも覚馬でした。その年長の兄のもとに女傑として育ったのが八重であり、その彼女が襄のパートナーとなって、同志社建学を支えました。
覚馬の話にはつきないものがありますが、ともあれ同志社の建学の理念に強く込められていたものこそ女性解放の思想であり、自立した女性たちを育て上げることにあったことは間違いのないことです。そもそも覚馬は、同志社創設の前に日本で二番目の女子高である「新英学級及女紅場」も設立しています。現在の京都府立鴨沂高等学校ですが、同校は松蔭寮のすぐ北側に位置しています。
悲しいことに同志社大学はこうした覚馬の偉業をほとんど学生に伝えていないのですが、少なくとも覚馬は僕にとって心から尊敬してやまない人士であり、それもあって京都の東山がナラ枯れに襲われた時には、執念をもって若王子山にある覚馬の眠る同志社墓地に通い、周辺の木々の防除活動に奔走しました。蒔田さんはそんなときもいつも寮生を連れて駆けつけてくれて一緒に防除を担ってくれました。

今回、はたと思ったのは、この本の完成を一番喜んでいるのは、新島襄であり山本覚馬であり、八重であるかもしれないということです。
僭越ながら同志社人の方たちにはぜひこのことを己に問うてみていただきたいです。同志社大学は今、建学の理念に沿っているでしょうか。金融ゲームの跋扈する社会への知的批判拠点たりえず、体制に迎合的になり、建学の志に背を向けつつあるのではないでしょうか。
ましてやますます女性と男性の格差を広げつつある今の社会にまったく抗することができずにいるのではないでしょうか。キャンパスに「常に誠実、かつ真実であれ。大胆に自信を持って発言、行動せよ」という新島襄の言葉が掲げられてあるにも関わらずにです。


もっとも蒔田さん自身は本書の中で、新島襄の「諸君、人一人ハ大切ナリ。一人ハ大切ナリ」という言葉を紹介し次のように述べています。
 「繰り返す言葉に強い思いが溢れるこの人に心惹かれ、ちょっと恋して40年目。」「その人が夢見た学校で140年後、ごめんなさいJoe、今日も寮生たちを「大切ナリ」にできませんでしたと、鴨川のほとりを自転車で走りながらつぶやく、毎日の帰り道です。」(同書p228、229)

そうですね。もうこれ以上、褒めあげられても困りますよね。そうです。僕らの現実の日々は、いつも思い描いているうちのほんの少ししか実現できずに暮れてしまう。でもきっとそれは襄も覚馬も八重もそうだったのではとも思えます。
だからこそ大切なのはバトンを受け取って走ること、先人たちと共同で担っている壮大な事業として「今」を捉え、そうして出来る限りで良いから力一杯走って走って、次につなぐことなのだと思います。
そしてそれこそが実は最も楽しい生き方なのだというあらためての確信をこの本からいただけたように思えます。
すべての著者のみなさん、寮に関わられてきたみなさんに心からお礼をいいたいです。


最後に蒔田さんの結びの言葉をそのまま引用させてもらって、この拙い書評を閉じたいと思います。
 「私たちより若いすべての人たち、これから生まれてくる人たちに、「たった一人のあなたは大切ナリ」、あなたの命がなによりも大切と言い切れる世の中を手渡したい。それがこれからの私の夢。
  明日もまた一日を大切に、転んでこけて、一緒に生きていきましょう。」(同書p230)

*****

本書は以下から購入可能です。ぜひいますぐお申し込みを!

『大学生活の迷い方―― 女子寮ドタバタ日記 ――』
https://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?head=y&isbn=ISBN4-00-500787

 

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明日に向けて(964)『大学生活の迷い方-女子寮ドタバタ日記』を読んで(上)

2014年11月04日 22時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141104 22:00)

今回はポーランドに関する考察を一度横において、表題に掲げた本の書評にトライしたいと思います。
岩波ジュニア新書から出ている親友の蒔田直子さんの編著書です。同志社大学松蔭寮を舞台としたもので、蒔田さんの他、たくさんの元寮生が思いを込めた文章を寄稿してくれています。
一刷がでたのが先月10月21日。ポーランドへの出国の直前に蒔田さんに届けてもらい、バックにつめて旅に出ましたが、旅の間は読むことができず帰ってきてから一気に読了しました。
またちょうど出版と重なるように松蔭寮が創設から50年を迎えたために行われた同志社大学での展示にも帰国直後に行ってくることができました。

とくにかく何より面白い本です。ノリのよいテンポに誘われて一気に読み進むことができます。そして終盤に蒔田さんの深みのある素晴らしい振り返りに接し、感動のうちに読み終えることができます。
このライブ感は、どうしたって言葉では表現しきれないので、ぜひぜひご一読をお勧めします。若い人にもそうでない人にも読んで欲しい。
僕が一番、読んで欲しいと思ったのは9月に亡くなられてしまった恩師、宇沢弘文先生でした。なぜならここには宇沢先生が教育の場がもつべき理想として常に語られていたことがいきいきと表現されているからです。
自由とは何か、生きるとは何か、友とは何か、教育とは何か、そしてまた大学とは何か。その他、今、何かの問いを持ち、思い悩んでいる方にはとくにお勧めしたいです。きっとあなたの今への何かの刺激が得られると思います。


編著者の蒔田直子さんについて少し書きたいと思います。僕が彼女と出会ったのは2001年9・11事件の後、アメリカによるアフガニスタンへの「報復」攻撃が始まった時でした。
「報復」と言ったって、9・11事件にはアフガンの人は誰も参加していなかったし、アメリカが即座に掲げた「オサマ・ビン・ラディン」犯行説も何の証拠も開示されない断定でした。
当時のアフガン・タリバン政権は、「オサマ・ビン・ラディンが犯人だと言うなら証拠を示してくれ。そうでなければ客人を差し出すわけにはいかない」と言っただけなのに、アメリカは傲然とアフガン攻撃を始めてしまいました。
これに胸を痛めた京都の女性たちを中心に、9月30日にピースウォークが行われ、1人1人の参加で成り立つ「ピースウォーク京都」が結成されました。もちろんその中心に蒔田さんがいました。

ピースウォーク京都はさらに、この年の暮れにアフガニスタンに長いこと医療援助を行ってきたペシャワール会の中村哲医師を招いて講演会を行うことを提案しました。
中村哲さんは事件以前から壊滅的な干ばつに襲われていて国際援助が必要とされていたアフガニスタンに、世界最大の金持ち国アメリカが軍事侵攻を始めたことを全面的に批判しつつ、同時にけして悲嘆にくれることなくアフガンの人々の命を守ることを訴えていました。
中村さんによれば、日本円で2000円あれば一家10人が冬を越すための小麦と油が買えるという。緊急援助としてとにかくお金を集めて欲しい、自分たちが必ずそれを困窮する人々の手に届けると声をからして訴えられていました。
各地でそのために講演会が開かれていました。米軍の猛攻撃に抗して命をつなぐための小麦と油を送る、そのためにお金を集める。僕もこの行為に深く共鳴し、講演会のスタッフに加えてもらいました。

会議の場で初めて出会ったのが蒔田直子さんでした。蒔田さんとは馬が合うと言うかノリが近いというか、すぐに仲良しになり、僕自身もピースウォーク京都に加えてもらい、以降、たくさんのイベントを共にしてきました。
あのときの講演会は2000名参加で200万円が集まり、アフガンの人々の一部の命をつなぐお手伝いができたと思うのですが、それから今日までもう13年が経っており、その間にたくさんの濃い濃い時間が過ぎて行きました。時系列で書いていったらとんでもない長文になってしまうほどのいろんなことを共にしました。
残念ながらそれらは割愛せえざるを得ませんが、振り返ればいつも共有してきたのは、困っている人、苦しんでいる人をほおっておけない義侠心だったように思います。
ただし困ったことに彼女も僕も、義侠心は良いとしても、すぐに事態を客観的に見る視点を失い、後さき考えずに走り出してしまう性癖を持ってきました。だから誇れることもあるにせよ、周りに迷惑をかけたこともしばしばで、しかもいろいろと失敗も重ね、七転八倒してきました。

そんな蒔田さんを人に紹介する時に、僕は「嵐を呼ぶ女」と言っています。その度に彼女に「やめてよ」と言われますが、これ以外にぴったりくる形容詞を僕は知りません。
なぜ「嵐を呼ぶ女」なのか。人が人生の中で一度か二度は遭遇するかもしれない大事件に、だいたい三か月に一回ぐらいのペースで遭遇してきたからです。それがなぜかも本書を読めば分かるのですが、蒔田さんが他者(ひと)の生にいつも真剣に寄り添おうとするからです。だから必然的にいろいろな事件にディープに巻き込まれもする。
本書の中で「いかにも蒔田さんらしいなあ」と思ったところを紹介すると、ある夜中に蒔田さんの携帯に寮生の「アッコちゃん」から電話かかってきます。何かと思って電話をとると「私、今から死のうと思います」とアッコちゃん!
・・・みなさん。夜中に若い女性からそんな電話がかかってきたらどうしますか? この時、蒔田さんはアッコちゃんが寮の近く、鴨川の荒神橋の上にいると聞いて即座にこう答えるのです。

 「あのね、荒神橋から飛び降りても骨折して痛いだけだから、飛び降りたらあかん!
  鴨川に入っても寒いだけだから入水もあかん!
  そういう大切なことは夜中に決めたら駄目。
  帰って寝て明日起きてから考えよう。
  いったい何があったの?」

蒔田さんは本書の中で続けてこう綴っています。
 「これは、非常事態宣言である。『死にたいコール』は30年も寮にいたら何度も経験してきた。そのたびに心臓がバクバクと音をたてる」(以上、同書p15より)

蒔田さん自身は心臓が高鳴っていてけして余裕があるわけではない。でも蒔田さんの言葉には人生の修羅場をくぐってきた人の持つ度胸のすわりがあり、そこに圧倒的な説得力が生まれます。
何より彼女は、アッコちゃんの「死にたい」思いを即座には否定しない。だから「死なないで」とかは言わない。「それじゃ痛いだけだからやめなさい!」と妙な合理性でアッコちゃんを説き伏せて行く。
実際にこの時、蒔田さんは携帯電話の遠隔操作でアッコちゃんを寮へと誘導し、寝かすことに成功しています。
それは蒔田さんがアッコちゃんが感じている死にたくなるような「しんどさ」を深いところで理解してきたからできたこと。理解しながらでも生きることの素晴らしさを教えてあげたいといつも思っていたから実現できたことです。

本書の素晴らしさは、こうしたエピソードの披露のあとに、当事者の元寮生さんが登場して一文を寄稿していることにもあります。
アッコちゃんの寄稿した一文には「『同じ』だけど伝わらないということ 宇宙人少女A」というタイトルがつけられてます。彼女が抱えてきた「しんどさ」が綴られています。
アッコちゃんはその辛さを、蒔田さんだけでなく、松蔭寮の友人たちとの関わりの中からしだいに超えはじめ、克服していきます。素晴らしい過程です。
ぜひここだけでも読んで欲しいです。アッコちゃんをめぐるやりとりのこの章を読むためだけでも僕は本書を手にとる価値があると思います。

続く

*****

なお、本書は以下から購入可能です。ぜひいますぐお申し込みを!

『大学生活の迷い方―― 女子寮ドタバタ日記 ――』
https://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?head=y&isbn=ISBN4-00-500787

 


 

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明日に向けて(963)中世ポーランドの寛容の精神に学ぶ(ポーランドを訪れて-2)

2014年11月03日 23時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141103 23:30)

前回はポーランドなど世界のさまざまな地域の歴史について学び、主体化していく意義を書きました。今日はいよいよポーランドのことを書きたいと思います。
まず国名のことをおさえておきます。私たちは日本語でこの国をポーランドないしポーランド共和国と呼んでいますが、この国のポーランド語での正式名称は”Rzeczpospolita Polska”です。カタカナ表記するとジェチュポスポリタ・ポルスカ。略してPolska=ポルスカがよく使われています。
お土産などを見てもPolskaの刻印のあるものが多い。なのでポーランドの方とお会いした時には「ポルスカ」と呼称した方が喜んでいただけるように思います。

この国が位置している地域はざっくりと言ってドイツとロシアの間。ヨーロッパの東側、ヨーロッパの辺境とも言われることもあったようです。ただし現在の国境は第二次世界大戦の末に定められたもので、それまで大きな変動を繰り返しています。
ここで歴史を見る上で「国」という概念や国境というものに大きな注意を払わなければいけないことを踏まえておきたいと思います。
というのは私たちの国は、歴史が記されるようになって以降、一つの連続したつながりの中で「日本」のことを描けます。もちろんアイヌ民族など西から侵略を受けた側から考えたときに「日本史」は大きく書き換えなければならない側面を持っています。

それでも世界の中でこうして一つのつながりで国のことを説けるのはまれであり、歴史上、大きな存在を示しながらその後に衰退し消えていった「国」も「民族」もたくさんいたことを知ることが大切です。
とくに陸続きにたくさんの国や民族が存在している地域では、その境も激しく変動しています。そのため「国の歴史」としては描けない地域がたくさんあります。さらにイスラエルができる前のユダヤ人など、「国家」という枠組みで捉えようとするとそこから外れてしまう人々もいます。
さらにそもそも「国家」とは何かということ自身が大きな問題としてあります。現代の私たちが考えている「国家」や「民族」は、実は近代になって成立してきた概念であるからです。その点で私たちは今の「国家観」を相対化させながら、歴史と向かい合う必要があります。

この点を踏まえた上でですが、歴史を遡ると、この国が「ポーランド」として成立したのは紀元966年であるとされています。この国の支配者が西洋のキリスト教を受け入れ、ローマ教会に認知されたのがこの年でもあります。
その頃はほぼ現在の領土と同じ地域を支配していましたが、その後、次第に大きくなっていきます。14世紀末には北方のリトアニアと合併してポーランド=リトアニア連合を形成。1596年にはポーランド=リトアニア共和国となり、黄金時代を迎えます。
どう黄金だったのかと言うと、当時のヨーロッパで最強最大の勢力を持っていたというのです。支配地域も現在のベラルーシやウクライナ、リトアニアやバルト三国、さらにはロシアの一部にまで踏み込むほどの力を示していました。

この頃の歴史が現在のポーランドにどれほどの影響を与えているのか、まだポーランド史の学習の入り口にいるにすぎない僕にはよく分からないのですが、非常に感銘を受けたのは、この頃のポーランドが他のヨーロッパ諸国に比して宗教的に寛容な国だったことです。
とくにキリスト教圏で支配的であり続けてきたユダヤ人への差別的なあり方をとらず、1264年9月8日に「ユダヤ人の自由に関する一般憲章」(カリシュ法)が制定されており、ユダヤ人の人権の保護が強く歌われています。
さらに14世紀に起こったヨーロッパ全体へのペストの蔓延の中で、この病を広げたのはユダヤ人だというデマゴギーが流布され、各地で迫害が強まったのですが、この時にもポーランドでこうしたデマは沸き起こらず、結果として多くのユダヤ人がポーランドに移住していきました。

ペストに関しては、この時期、ポーランドではウォッカを飲用としてだけではなく、消毒に使う風習が一般化しており、トイレなどもウォッカで拭いていたため、ヨーロッパの中では劇的にペストの蔓延が免れたため、ユダヤ人の陰謀説というデマが起こりえなかったという説もあります。
ともあれこの時期、ポーランドにはヨーロッパ全体のユダヤ人の4分の3もが集まったとも言われており、そのユダヤ人たちが金融業に携わっているものが多かったため、次第にポーランドがヨーロッパの金融の中心的位置を占めるようにもなっていきました。
ちなみに金融は、歴史的に共同体と共同体の狭間から発生してきました。いや金融に先立つ商品がそうでした。共同体の中で自家消費しないものが増えたときに、余剰産物が商品として他の共同体との交換に回されたからです。

それがさらに金融へもつらなっていくのですが、その際、ヨーロッパでユダヤ人が金融業に多く携わるようになったのは、ユダヤ人が国家をもたず、またキリスト教圏に支配的なユダヤ人抑圧構造の中で、常に共同体の外に置かれていたため、必然的に共同体の間で発生する商品交換や金融がユダヤ人の手に集まっていった経緯があります。
こうした商品交換や金融に携わることは、中世社会では卑しいこととされました。シェークスピアの『ベニスの商人』などにその反映を見ることができますが、ヨーロッパ社会は、共同体と共同体のつなぎ役を必要とし、その役割を共同体の外にいるユダヤ人に押し付けつつ、しかしそのユダヤ人を差別し抑圧した矛盾構造の中にあったと言えます。
これに対して、この時期のポーランドはこうしたユダヤ人抑圧に与しなかったため、ユダヤ人の持つ金融力がポーランドに還元される必然性を持ったのであり、そのことがこの国の力の拡大に大きく寄与したのではないかと思われます。

ここまで書いてきただけで、もうお気づきかと思うのですが、僕がここでユダヤ人とポーランドの関わりのことを書くのは、第二次世界大戦の前夜においてもポーランドにはこうした脈絡から多くのユダヤ人が住んでいたからです。
そこに「ユダヤ人撲滅」という全く許しがたい主張を掲げたナチス・ドイツが1939年に殴り込み、占領政策を遂行したのでした。そしてナチスは強制収容所を作った。有名なアウシュビッツ他、幾つもです。そこはやがて絶滅収容所と言われるようになりました。ユダヤ人皆殺し作戦が実行に移されたのです。
今回の旅で僕はアウシュビッツ博物館にも行くことができたのですが、そこで知ったのは第二次世界大戦前夜にポーランドに住んでいたユダヤ人300万人のうち、生き残ったのが5万人だったというあまりに苛烈な現実でした。

かつてヨーロッパの中で最もユダヤ人に寛大な立場を示したポーランド、いや、「寛大」などという言い方もおかしいのです。当然にも保護されるべき人権の対象としてユダヤ人を対等な存在として扱ってきたこの国で、最も過酷なユダヤ人虐殺が起こってしまったのです。
もちろんしっかりと見据えておくべきことは、この虐殺はナチス・ドイツによってこそ行われたということです。この占領期、ポーランド人の多くはナチスの政策に非協力的で、ユダヤ人を匿う道を選んだと言われています。
このためナチスは、占領地域の中で唯一、ポーランドに対してだけ、ユダヤ人を匿った場合の極刑を宣告しています。それだけポーランド人の有形無形の抵抗にナチスは手を焼いたのだと思われます。現代のこの重大な歴史的事件については、後でまたじっくりと述べたいと思います。

もう一度、中世のヨーロッパに話を戻しましょう。この時期、ヨーロッパ全体も、東欧と言われる地域も、幾度も領土の取り合いをして「国家」の形も変えていくのですが、その中でポーランドは「ドイツ騎士団」と衝突していくようになります。
ドイツ騎士団はローマ法王に承認されたカソリックの騎士団ですが、特定の国家を持っていませんでした。もともとポーランドは首都のワルシャワ防衛のためにドイツ騎士団を招きよせたこともあるのですが、その後に仲たがいし、戦闘を繰り返していくようになります。
とくに14世紀末にグルンヴァルドの戦いといわれる大きな戦闘があり、ポーランドの勝利のうちに1414年、コンスタンツ公会議が開かれ、この戦いのことが話し合われます。

ヨーロッパの歴史は大変、複雑でこの時期のことを語るためには、そもそもローマ・カトリックがこの時期、大分裂(シスマ)を経験し、教皇が3人も分立していたことにも触れなくてはなりません。この公会議は大分裂状態に終止符を打つために行われたのですが、そこでドイツ騎士団とポーランド=リトアニア連合の戦いが大問題となったのです。
というのは何よりドイツ騎士団が、カソリックの国であるポーランドが、当時、キリスト教を採用しておらず異教徒の国であったリトアニアと連合したことへの非難の声を上げたのでした。異教徒と連合してキリスト教徒を討ったポーランドは天罰に値すべきだと主張したのです。
これに対して、ポーランド側が主張したのは、異教徒と言えど全く同じ人間であり、リトアニア人には自らの政府を持つ権利、平和に暮らす権利、財産に対する権利があり、これらを自衛する権利があるということでした。つまり宗教の枠を越えた人権を高らかに主張してドイツ騎士団に対抗したのです。

分裂から一本化の道を歩みつつあった教皇庁は、これに対して異教徒であるリトアニア人の諸権利の承認に関しては留保しつつも、ポーランド側の主張を認め、ドイツ騎士団の非難を却下したのでした。ポーランドはユダヤ人に対してだけでなく他の「異教徒」にも対等な権利を認めることが正義であると主張し、ローマ法王に認めさせたのです。この時期では画期的なことだと思えます。
しかしヨーロッパにはその後にカソリックの「堕落」への抗議=プロテストを唱えるキリスト教新派が登場し、さらに大きな変革を経ていくことなります。この大きな流れの中でポーランドは次第に力を失っていきます。なぜだったのかまだ僕には十分に分析できていませんが、最終的にポーランドは周辺国の力の増大の中で力を失い、1795年に三度目の分割を受けて消滅してしまうのです。
このため国家としてのポーランドは一度、歴史から消えてしまい、再登場は第一次世界大戦後まで待たねばならなくなります。その新生ポーランドもまた1939年、ナチス・ドイツとスターリンのソ連邦の密約のもとに東西から侵攻されて滅亡してしまうのでした。ポーランドは歴史上2回も分割による国家喪失を味わったのです。

その後にナチスの行った暴虐についてはすでに少し触れましたが、ただここまででも言えることは、戦乱に明け暮れるとともにユダヤ人への差別と抑圧を歴史的に繰り返してきたヨーロッパの歴史の中で、中世ポーランドには学ぶものが多いのではないかということです。
それは人類にとっての普遍的な何かの提起であったのではないか。そしてそれを可能とさせたものが何であったのかについて、私たちは学ぶものが大きくあるのではないかと思えます。
現在のポーランドにもそれは何かの形でつながっているのではないか。ポーランドはOECD諸国の中で日本についで犯罪の少ない平和な国であり、さらに日本を越えて、子どもたちの行儀がいい国としても評価されているといいます。実際、町を歩いていても安全性が高いことを実感しましたが、そこにこの中世の歴史の何かがつながっているのではないか。

まだ分からないことだらけなのですが、こうした歴史を持つポーランドにとってナチス・ドイツの占領、その後のソ連邦の支配下への組み込みとチェルノブイリ原発事故との遭遇、そして「社会主義の崩壊」とは何だったのかを次に考察してみたいと思います。

続く

なお今回の考察において、ウキペディアの「ポーランド」の項目が大変参考になりました。その他、書籍としては山川出版社の『ポーランド・ウクライナ・バルト史』を参照しました。
ただまだまだ研究分析が浅く、学んだものをそのまま順次原稿にしている段階であることを付記しておきます。学問的にはこの段階で文章化するのはご法度だとは思うですが、僕にはこうして学ぶ過程もまたみなさんとシェアしたいと思うのです。

 


 

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明日に向けて(962)核と戦争のない時代に世界全体で進もう!(ポーランドを訪れてー1)

2014年11月02日 23時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141102 23:30)

一昨日(10月31日)夕方にポーランドから帰国しました。
クラクフのホテルを現地時間朝8時に出て、バスで3時間揺られてヴロツワフへ。空港からドイツ・フランクフルト、韓国・インチョンをトランジットして関空を経て自宅に戻るまで28時間かかりました。
昨日は大半の時間を寝て過ごしましたが、まだジェットラグの影響が残っているようです・・・。

それはともあれ今回の旅でもとても大きな収穫を得ることができました。前半23日から26日は国際会議に参加。今年の国際連帯行動の集大成としてありましたが、後半の26日午後から29日までのポーランド見学でもとても大きなものを学びました。
国際会議についてはすでに発言内容の紹介などをしていますので、今回はポーランド訪問から学んだことについて書いておきたいと思うのですが、その前になぜこうした点を問題にするのかを整理しておきたいと思います。

というのは僕がポーランドについて語ろうと思うのは、それ自身が今年の3回におよぶ渡航の中でつかんできたことに大きく絡んでいるからです。
3月に僕が訪れたのはドイツとベラルーシとトルコでした。8月にはトルコだけに行きました。このうちベラルーシとトルコは初めて訪れた国でした。
ともに大変、印象深い訪問でしたが、中でもベラルーシをドイツの人々(核戦争防止国際医師の会 IPPNWドイツ支部)と訪れたのは僕にとってとても大事な体験でした。
なぜか。ベラルーシはウクライナと共に、かつてナチスドイツが、旧ソ連への侵攻を目指したバルバロッサ作戦の主要戦場となった地域であり、ナチスによって壊滅的な被害を与えられた地域だったからです。そこにドイツ人としてナチスの侵攻を真剣に捉え返そうとしてきたドイツの人々一緒に訪れたのです。

とくにチェルノブイリのすぐ北で、大変な汚染を被ったゴメリに訪れたときのこと、ベラルーシ側の歓迎レセプションの席上で、この旅を通して大変親しくなったアンゲリカ・クラウセンさん(IPPNWドイツ支部長)が次のようにスピーチされたことが今も脳裏に焼き付いています。
「私はかつてアウシュビッツを訪れたとき、あまりのショックから俄かに英語が話せなくなり、その場で迎えて下さった方との交流ができなくなってしまいました。今回、ゴメリに来るにあたっても私は同じことが起こるのではないかと心配していましたが、今はこうして英語でみなさんにお話することができています」
チェルノブイリ事故があったとき、ゴメリは片田舎で舗装された道路など一つもない地域でした。そのため道路の砂埃を通じて、放射能汚染が拡大してしまっていました。これに対して旧ソ連政府は真っ先にゴメリの道々の舗装化を命令し、実行させたそうです。
すると工事の為に掘り返した道路の下から、ナチスに虐殺された白骨遺体やらナチスのヘルメットなどが大量に出てきたと言います。ゴメリはナチスによって灰燼に帰すようなダメージを受け、そこから40年かけて舗装道路はなくともつつましやかな生活を再建したときに、チェルノブイリ原発事故に襲われたのです。

それはあまりに悲しく酷い悲劇の連続ですが、しかし一方でそうした悲劇にドイツの多くの人々が強い痛みを感じ、チェルノブイリ被害の救済に乗り出したのでした。
今回の会議中に聞いたことですが、今、ドイツの中でベラルーシやウクライナの被災者支援を行っている団体は、1000以上に達していると見積もられているそうです。会議を主宰したドイツのIBBは、そうした無数の団体をつなげ合わせるための努力を続けているそうです。
こうしたことに通じる話をゴメリで聞いたとき、僕の胸は打ち震えました。そしてアンゲリカさんにこうお話しました
「あなたの話を聞いて僕は日本軍のアジアへの侵略のことを思い出しました。日本軍は何千万ともいわれる人々を殺害しました。一方、日本はドイツと同じようにアメリカ軍による壊滅的な空襲も受けました。これらを通じて、いかなる戦争にも大義などないことをあなたたちドイツ人と私たち日本人が一番学んできたと思うのです」と。

初めてトルコに行った時もやはり僕は歴史に注目しました。恥ずかしながら生まれて初めてトルコの歴史を真剣に学びました。正確には高校生のときなどに記号として覚えた知識にやっとのことで血を通わせることができた体験でした。
とくに唸り声を上げざるを得なかったのが、トルコがかつてオスマン・トルコ帝国として領有していた地域のその後が、そのまま今日のヨーロッパ・中東などの「紛争」地域に重なっていることでした。
今、国内を二分する戦いが行われているウクライナの南部もかつてはオスマン・トルコの領土であり、なかでもクリミア半島はロシアとの激しい攻防に晒され続けてきたところでした。
さらにこの夏に激しいガザ攻撃が繰り返されたパレスチナと攻撃の当事者たるイスラエル、今まさに大変な戦闘の中にあるイラクやシリアもオスマン・トルコの領土でした。第一次世界大戦による敗北の中でこの帝国が崩壊したときに行われた「西欧列強」による激しい領地のもぎ取り合戦が、今の争いの根本要因になっているのです。

そしてそのトルコに日本の安倍政権が乗り込んで、原発を建てようとしている。しかもとても美しい黒海沿いの町の環境を破壊してです。
「違う、違う。まったく逆だ。この地域に日本が貢献できることは戦争のむなしさと平和の尊さをこそ伝えることだ。第二次世界大戦を通じて日本が学んだこと、過ちを捉え返してつかみとった不戦の誓いをこそ伝えることだ。安倍首相まったく逆のことを行っている」と僕は強く思いました。
もちろん安倍政権がトルコに直接的に行おうとしていることは、原発輸出であり、直接的に戦争にからむ問題ではありません。
しかしまさに今、トルコ対岸のウクライナ南部に激しい軍事的な緊張が現出しており、さらにトルコの南部国境地帯のイラク・シリアで激しい戦闘が起こっているときに、核兵器製造技術に直結する原発を輸出することには特別な意味が伴ってしまいます。

さらに僕が胸を痛めたのはトルコの中にあるありがたい親日感情や、イスラム圏全体に広がるそれこそ申し訳ないほどの日本への親しみの感情に対してでした。
これらの国々では私たちの国は、西洋白人国家の代表であるアメリカに原爆を二発も投下されながらも、戦後に経済復興を遂げ、産業大国として再生してきた国。しかも西欧各国のように軍事的に偉ぶることもなく平和外交を続けてきた国として写っています。
ペシャワール会の中村哲さんはこれを「美しき誤解」と語られ、「誤解がさめぬうちに瓢箪から駒で本物にしなければならない」と述べらていますが、僕も本当にそう思います。
ところが安倍政権はまったく逆の道を走っています。集団的自衛権行使でよりアメリカの理不尽な暴力に与しようとしており、さらには石油の安定的確保のためもあって、日本政府が伝統的に貫いてきたイスラエルとパレスチナ・アラブへの等距離外交を閉ざし、イスラエル寄りへと大きく舵を切ろうとすらしています。

さらにこれらを考えたときに見えてくるのは、このうち続く国際紛争と核エネルギーの使用が大きく結びついていることです。
核分裂によって得られる核エネルギーは同時に膨大な死の灰を生成させ、その処理の必然性を作り出してしまいます。それが1万年、いやそれ以上続くことを考えるならば、経済コストに合うとか合わないとか、そもそもそんな話が成立すらしないことは誰の眼にも明らかなのです。
しかしなぜこの単純な真理がまかり通らないのかと言えば、未来のことはともあれ、たった今、手っ取り早く膨大なエネルギーを手に入れ、目前の競争相手に打ち勝ちたいと各国の首脳たちが考えているからだと思います。
未来世代のことなど二の次。いや未来世代どころか数年後はどうなろうとそんなことはお構いなしに、今、一時の勝利を目指して奔走していく。そんな競争エネルギー、ないしは競争ヒステリーとでも言うべきものが現代世界を覆っている。

この世界の流れに抗していくには、こうした現代世界の陥っている構造そのものの捉え返しがなされなければならない。
そのために必要なのは一にも二にも歴史を学び直し、私たちの世界が陥ってきたさまざまな悲劇を、誰かれのせいにするのではなく、私たち自身が作りだしてきた問題として捉え返すことだと思うのです。
そしてこの捉え返しをもってこそ、国境や民族、人種等々の「垣根」を越えた連帯を形作っていく。本当の意味での普遍的な、ともに守るべき価値をつかみだし、共に歩んでいくことが可能になるのだと思えます。
僕には暴力の象徴としての核の支配するこの世紀、人類史上、もっとも大量の殺戮が繰り返されてきたこの100年の歴史を越えて行く可能性がこの中にあると思うのです。核と戦争のない時代はまさに世界的にしか実現できない。だからこそそこに向かいたいと心から思います。

そのためにどん欲に各国の歴史を学んでいく必要がありますが、そうした観点から見たとき、ドイツとロシアの間に位置してきたポーランドに学ぶことには格別な位置があります。
ポーランドは本当に特殊は位置を持っています。例えば第二次世界大戦との関係でいえば、ナチスが作りだした絶滅収容所たるアウシュビッツもそこにある。
今回、僕はこの収容所跡地に建てらえたアウシュビッツ博物館も訪問してきましたが、本当に深いことを学んでくることができました。

未来に向けて、ぜひこれらの体験をみなさんと共有したいと思うのです。

続く


 

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For tomorrow(961)For solidarity between Turkey and Japan

2014年10月29日 00時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)
by Toshiya MORITA (20141029 00:30)
 
I attended the International conference for a future after Chernobyl and Fukushima in Poland.
 
This conference was wonderful.
And we succeeded to make strong global tie.
 
I also made a presentation at its opening session.
I introduce you this presentation.
Please read it!
 
*****
 
For solidarity between Turkey and Japan
by Toshiya MORITA
20141023 in Poland
 

Thank you so much for inviting me to this conference.

I am a journalist, who lives in Kyoto, Japan. 

My father is one of survivors of Hiroshima Atomic bomb.

My mother is one of survivors of the Great Tokyo air raid during the World War 2.

So, I hate wars, especially nuclear weapons and I also hate nuclear power plants.

This is one of reasons why I have been working hard to protect people from radioactive exposure.

 

Last March, IBB invited me to Turkey as a witness of Fukushima nuclear disaster.

I wanted to talk to Turkish people too, because Japanese government wants to export nuclear power plant to the country.

 

After attending the opening session in Dortmund, I went to Turkey with Mr. Alper Oektem.

Ms.Pinar Demircan joined us in Istanbul. She is an activist in Turkey. She can speak fluent Japanese.

 

During my stay in Turkey, I visited Istanbul, Sinop and Izmir.

I made presentations about Fukushima nuclear disaster.

 

Fukushima’s crippled nuclear power plant has been broken down severely.

The radiation levels of reactor No.1~3 are so high that no one can enter inside of these reactors.

So we don't even know what is going on there.

 

Soon after March 11th, Japanese government calculated the worst-case scenario.

They understood that people within a 170-km radius of the broken nuclear power plant must be evacuated.

 

Most important thing is that this crisis has not passed yet.

The crippled plant can fall down when another earthquake hits it.

However, there are so many people still living in the dangerous zone.

They worry the high radiation level, but they cannot move out.

And both national and local governments encourage to stay, or even to come back to this dangerous zone.

This is the reality of the nuclear power plant disaster Japan faces today.

 

Of course, many Japanese people have been criticizing Japanese government.

They have been making a plenty of demonstrations.

 

A lot of young mothers have stood up against the government.

This is a rare phenomenon in Japan - Japanese ladies are known to be kind and modest.

However, I think this is a wonderful thing for our country.

These young women and mothers standing up against the authority is a symbol that Japan is changing!

  

These demonstrations have been made in many parts of Japan.

Many people gather and demonstrate in front of the prime minister's house in Tokyo every Friday evening.

Today, this Friday demonstrations are held in more than 150 cities.

 

I introduced these actions when I visited Turkey, and Turkish audience showed so much interest in my presentations.

I felt their strong sympathy.

It made me happy.

 

I was most impressed in Sinop.

The city is the planned construction site of a nuclear power plant.

I visited there on March 11th, the third anniversary of Fukushima disaster.

About 200 people came to hear my presentation, in the city of 40,000 residents.

After my presentation, every one stood up and applauded me.

The meeting was filled with excitement.

 

That day, the boy who was shot by gas bullet by Turkish police in 2013, passed away.

In 2013, Turkish people stood up against government to save the people's park in Istanbul.

The boy was a pedestrian, not a demonstrator.

But Turkish police shot so many gas bullets at people, and one of them hit the boy's head.

After our meeting, the demonstration started and I joined the demonstration too.

 

From these experiences, I learned how aggressive Turkish government is.

But I also learned that Turkish people stand against the government strongly.

Turkish people have power and they resist against their aggressive government strongly.

 

Next day, local people of Sinop took me to the planned site of a nuclear power plant.

It was such a beautiful site!

It is a resort place for Turkish people.

I thought we must stop construction of nuclear power plant at such a wonderful site.

I took many pictures of the place, hoping to share this information and make strong tie between Turkish people and Japanese people to stop exporting nuclear power plant. 


After visiting Turkey, I learned that Japanese government were trying to ratify an nuclear agreement between Turkey and Japan.

I contacted FoE (Friends of the Earth) Japan in Tokyo, one of NGOs working against exporting nuclear power plant.

We tried to persuade the Diet members to cancel that agreement.

We obtained the wonderful letter which was sent from Turkish anti-nuclear alliance to the Diet member, so we introduced it to the Diet members and Japanese people.

 

I also made many presentations and told Japanese audience how beautiful Sinop is.

I said it is our responsibility to prevent exporting nuclear power plant from Japan to Turkey.

 

Meanwhile, the mayor of Gerze city in Sinop asked me to come to Gerze to attend their anti-nuclear event.

I was very glad to hear that.

A woman who lives in Gerze listened to my speech in Sinop last March, and she persuaded the mayor to hold the similar meeting in Gerze.


Ms Yoshida of FoE JAPAN, Ms. Angelika Claussen, Mr. Alper of IPPNW Germany, and Ms. Martina Faseler of IBB also attended this event.

Of course Ms. Pinar joined us as very important key person for solidarity of Turks and Japanese people.I met a lot of nice local people in Sinop again.

We have made a very good team!

 

In Gerze, a summer festival was held and high school students showed us very nice dance.

After that performance, we held anti-nuclear event at the seaside.

I told local people same things I told in March presentation, and people listened to me very hard this time too.

After that, many participants joined the heated discussion.

Turkish people are very enthusiastic!

 

During the stay, we could also make a short trip to Erfelek and we met the mayor of Erfelek.

He said "Chernobyl disaster heavily polluted seaside of the Black sea in Turkey.

Nobody in this area is free from fear of cancer. So I absolutely oppose against nuclear power plant. I want to save local people," he said.

We promised to make strong cooperation.

We will fight together!

 

After this summer trip to Turkey, I have held meetings about Turkey many times.

I have asked Japanese people to join us.

I believe that nuclear issues are global issues.

So most important thing is our global solidarity.

For our future, I will visit Turkey again and again.

I hope I can contribute to build a strong tie between Turkish people and Japanese people.

Together, we work to save beautiful Sinop.

 

At the end of my speech, I'd like to share these words with you.

Power to the People!
 
Thank you.
 
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明日に向けて(960)トルコと日本民衆の連帯を広げる(ポーランド国際会議プレゼンから)

2014年10月28日 23時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141028 23:00)ポーランド現地時間

ポーランド・クラクフのホテルからです。
昨日もご報告したようにポーランドの国際会議は大変な成功を収めて終了しました。
僕自身もオープニングセッションとワークショップで発言して、日本民衆の行動を参加者に伝えることができ、まずまずの成果をあげられたと思っています。

今回はそのオープニングセッションでの発言内容をご紹介したいと思います。なお実際の発言は英語で行いました。まず日本語で原稿を書き、自分で英語に訳し、それを英語の堪能な平賀緑さんに直していただき、その上で、さらにもう一度、日本語に訳し直して今回の掲載にいたっています。英文も続けて掲載します。
なおこの発言は参加者の非常に大きな拍手で迎えていただくことができました。ポーランド会議の雰囲気が少しでもみなさんに伝われば嬉しいです。

*****
トルコと日本民衆の連帯を広げる!
2014年10月23日 ポーランドにて 守田敏也

この会議に呼んでいただいたことに感謝申し上げます。
 
私は日本の京都市在住のジャーナリストです。
私の父は広島原爆のサバイバーの一人です。母は東京大空襲のサバイバーの一人です。
私は戦争と核兵器、核エネルギーが大嫌いであり、そのためもあって福島原発事故以降、人々を放射線から守るために奔走してきました。
 
今年の3月にIBBが私を福島原発事故の証言者としてトルコに招いてくださいました。
私もトルコの人々にお話したいと思っていました。日本政府がトルコに原発を輸出しようとしているからです。
 
ドルトムントでのヨーロッパ・アクション・ウィークのオープニングセッションに参加後、私はアルパー・オクテムさんとともにトルコに向かいました。
プナールさんがイスタンブールで合流してくれました。彼女はトルコのアクティビストで流暢な日本語を話すことができます。
 
トルコ滞在中、私はイスタンブールシノップとイズミルを訪問し、福島原発事故についてのプレゼンテーションをしました。
福島原発は激しく壊れています。1号機から3号機の放射線値は非常に高くて誰も中に入れない状態です。そのため私たちは中で何が起こっているのかも十分には分かっていないのです。
事故直後に政府は事故が最悪化した場合のシナリオを計算しました。するとなんと原発から半径170キロ圏の人々が強制的に移住しなければならないことが分かりました。
 
最も肝心なことはこの危機が完全に去ってはいないことです。
激しく壊れている福島原発は、新たな地震に襲われた場合、倒壊する可能性があります。
しかし今なお、危険地帯にたくさんの人々が住んでいます。人々は高い放射線値を心配していますがなかなか動くことができません。
 
しかも政府も地方の行政組織も人々にそこに住み続けることを促し続け、さらには危険地帯に戻ることすら呼びかけています。
これが今、日本が直面している原発事故のリアリティです!
 
もちろん多くの日本の民衆が政府を力強く批判しています。たくさんのデモンストレーションが行われています。
とくにたくさんの若い母親たちが政府に抗して立ち上がっています。これは日本ではまれな現象です。
日本のレディたちは優しくしとやかなであると知られてきたからです。
私はこの女性たちの力強い立ち上がりは私たちの国にとって素晴しいことだと思っています。
権力に立ち向かうこの女性たちの姿は日本が今、確実に変わりつつあることを象徴しています。
 
各地でこうしたデモンストレーションが繰り広げられています。
とくに東京の首相官邸前では毎週金曜日にたくさんの人が集まりデモンストレーションが行われています。
今日、この金曜行動は150以上の都市で毎週、取り組まれています。
 
トルコを訪れて、私はこうした日本民衆のアクションのことを紹介しました。
トルコの人々は強い関心をもって聞いて下さいました。会場に広がる共感が私に伝わってきて、感動しました。
 
とくに感銘を受けたのはシノップでのことでした。
この町は原発の建設予定地とされているところです。ちょうど3月11日、福島原発事故から3年目の日に訪れました。およそ4万人の町で200人の方が集まってくださいました。
講演が終わるとみなさんが起ちあがって私に拍手してくださいました。凄い熱気でした。
 
実はこの日、2013年にトルコの警官隊にガス銃で撃たれた少年が亡くなってしまいました。
2013年にトルコの人々は、イスタンブールにある民衆の広場を守るために政府に対して立ち上がりました。
ところがその少年は、ただの通行人でデモ参加者ではありませんでした。しかしトルコ警察は人々めがけてたくさんのガス弾を発射し、その一つが少年の頭を直撃したのでした。
そのため講演会のあとに抗議のデモンストレーションが始まり、私も参加させてもらいました。
 
これらを通じて私が理解したのは、いかにトルコ政府が民衆に対して攻撃的であるかでした。
同時に私はトルコの人がけして負けることなく力強い抵抗を行っていることも学ぶことができました。
トルコの人々は強い力を持ち、政府の横暴に抗い続けています。
 
翌日にシノップの地元の方達が私を原発建設予定地に連れて行ってくださいました。とても美しい場でした。トルコの方たちのリゾート地にもなっているところでした。
私はこんな美しいところに絶対に原発を建ててはいけないと思いました。
この重要なことをたくさんの人とシェアしたい、そして原発輸出を食い止めるためのトルコと日本民衆の間の強い結びつきを作りたいと思ってたくさんの写真を撮ってきました。
 
トルコ訪問から帰って、私は日本政府がトルコとの原子力協定を国会で批准しようとしていることを知り、東京のFOE JAPANという団体とコンタクトしました。
原発輸出に抗して活発に行動してくれているNGOの一つです。
私たちは一緒に国会議員たちに協定を破棄するように説得しました。トルコの反原発同盟が国会議員に宛てた素晴しい手紙もまわし、また日本の民衆にも広く紹介しました。
 
また私は何度もトルコ訪問の報告会を開き、いかにシノップが美しいところであるのか、日本の人々に伝えました。
私は日本からトルコへの原発輸出を止めるのは私たちの義務であることも述べました。
 
そんなときシノップ県のゲゼル市長から夏祭りで原発建設反対イベントをやるので来てくれないかという話が舞い込みました。とても嬉しく思いました。
3月のシノップ訪問のときに、私の発言を聞いたゲルゼ市の女性が、ぜひ私をゲルゼにも呼ぼうと市長さんを説得してくださったのでした。
 
ここに東京のFOE JAPANの吉田明子さん、核戦争防止国際医師の会(IPPNW)ドイツ支部のアンゲリカ・クラウセンさん、アルパー・オクテムさん、IBBのマルチナ・ファゼラーさんもかけつけてくださいました。
もちろんプナールさんもトルコの日本民衆の連帯のキーパーソンとし合流してくれました。
現地では前回、シノップで会った素敵な地元の方たちとも再会できました。
これらを通じながら私たちは今、素晴しいチームを作り出しています!
 
ゲルゼでは夏祭りが行われて、高校生が素晴しい踊りを披露してくれました。
そのあとに海岸沿いの場で反原発イベントが開催されました。
私はここでも3月に訴えたことと同じことをお話しましたが、このときも多くの方が熱心に聞き入ってくださいました。
その後、たくさんの方が積極的にディスカッション。トルコの方たちはとても熱いです。
 
さらに今回のトルコ訪問方ではアルフレックという町へ訪ずれることができ、市長さんとお会いできました。
市長さんは「チェルノブイリ原発事故は、黒海沿岸を激しく汚染した。この地域でがんへの恐れを抱かずにすむ人はいない。
だから私は絶対に原発に反対だ。この地域の人々を守りたい」と力強く述べられました。
市長さんと私たちは今後、ともに共同して原発計画に抗していくことを約束しました。
 
この旅から帰ったあとも、私は何度もトルコ訪問の報告会を開催し、日本の人々に私たちと一緒になって行動することを訴えて続けています。
核の問題は世界的な問題です。そのため最も重要なのは私たち民衆のグローバルな連帯です。
私たちの未来のために、私は今後も何度もトルコに通い、トルコと日本の民衆の連帯に貢献したいと思います。
一緒になって美しいシノップを守るつもりです。
 
私の発言の最後に、みなさんとこの言葉をシェアしたいと思います。
Power to the People!
ありがとうございました!

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明日に向けて(959)ポーランド国際会議、大成功でした!

2014年10月27日 22時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141027 22:00)ポーランド現地時間

ポーランド国際会議、その後も順調に進み、大成功のもとに終わりました!1日目以降の流れを大まかに紹介します。

2日目は幾つかに分かれて会場のあるヴロツワフを観光しました。

これは会議の主催者であるドイツのIBBがドイツからベラルーシ、ウクライナにかけての地域を主な展開地域としており、その中心に位置するポーランドを今回会議に選んだため、少しでも参加者にポーランドを知って欲しいと企画されたものでした。

僕は近郊にあるシナゴーグとシフィドニツアの平和教会を訪れました。ここはシロンスク地方に位置しています。現在のポーランド南西部とチェコ北東部、ドイツ東部を含みシレジアとも呼ばれます。

ヨーロッパでは1618年から1648年まで三十年戦争と言われる戦いが巻き起こりました。プロテスタントとカソリックの宗教戦争の様相を呈しつつも、同時に当時のヨーロッパでもっとも支配的だったハプスブルグ家(カソリック)対諸侯の戦い、あるいは形成されつつあった近代ヨーロッパ諸国による発の世界大戦としての位置も持つ戦いで最終的にはハプスブルグ家の敗北に終わり、諸侯の地位が強化されました。

終戦によってウエストファリア条約が締結され、その後のヨーロッパの支配秩序を規定していくことになったのですが、このときシレジアはハプスブルグ家の支配地域として認定されました。ところがこの地域には多くのルター派(プロテスタント)の人々がすでに住んでいました。9割近くがプロテスタントだったとも言われています。ハプスブルグ家はここでの新たなプロテスタントの人々との争いを避けるため、自らはカソリックの支配者として統治しながらプロテスタント教会の設立を認めました。

しかし、教会の建設にレンガ等耐久材を使ってはならない、着工から1年以内に完成させねばならないなどの無理難題が課せられたため、教会は木造で建てられたのでした。天井もよくあるアーチ型等をとりようがなく、質素ながらしかし荘厳な雰囲気を作るための苦心が施されました。

教会はウエストファリアの平和にちなんで「平和教会」と名付けられ、地域に三つ作られました。その後、一つが消失したため、今では二つ残るのみですが、ユネスコによって世界遺産に登録されています。非常に深い歴史をもった教会で、ポーランドやヨーロッパの歴史の一部に触れる思いがしました。

 

3日目は朝7時半から、200名ぐらいの参加者のうちのキーパーソン30人ぐらいが集まって今後のことを討議。インターナショナル・チェルノブイリ・ネットワークの創設のことなどが話し合われました。

このネットワークはすでに8カ国の市民たちの参加によって進められてきていますが、今回の国際会議を機会に大きく広げようとのことで新たに「国際」という名前が冠されたとのこと。さらに日本やトルコにも入って欲しいという呼びかけがなされました。組織参加であるため日本ではFoE JAPANが呼びかけられ、会議に参加した吉田明子さんが持ち帰って討論することになりました。会議ではトルコのプナールさんも前向きな内容を発言しました。

その後、ホールに移動し、高木仁三郎さんの盟友、マイケル・シュナイダーさんが講演。これは凄く良かった!

何が良かったのかというと、核産業の動向を丹念に追いながら、いかに原子力産業が世界的に斜陽産業になっているのかが参加者の前に明らかにされたからです。僕もこうした視点を自分の講演などにもっと取り入れようと思いました。

ちなみにマイケル・シュナイダーさんに岩波ブックレット『内部被曝』をお渡ししました。息子さんが日本の大学で研究されているそうで、日本語も読めると聞いたからです。シュナイダーさんに頼まれて息子さん宛にサインをさせてもらいました。

その後、午後に幾つかに分かれてワークショップ!僕はヨーロッパとカザフスタンと日本における核の位置と民衆にいかに核の危険性を知ってもらうのかを語り合うセッションに参加し、日本の脱原発運動の成長についての報告をしました。

僕が強調したのは、これまで政治に一番参加しにくかった子育て世代の女性たちが日本の脱原発運動を力強くリードしていることです。これはオープニングセッションでも語ったことですが、今回はより詳しく説明し、会場の深い共感を得られました。ちなみに今回も京都で行われた「原発いらないコドモでも」の写真を使わせていただきました。

このセッションにはカザフスタン政府関係者も参加していました。セミパラチンスクが旧ソ連の核実験場に使われて沢山の人が被曝しているからです。

しかし政府関係者なので必ずしも原発には反対でもない。その点で難しさがありましたが、僕としては被曝の苦しみへの共感を全面的に押し出して、心からの連帯の意思を込めて自分の発言をしました。そうしたらセッション後にはとても親しくなれました。会議後に一緒に写真もとれて嬉しかったです。

ちなみにこうしたことが可能になったのは、またまたトルコのプナールさんか僕の通訳をしてくれたからです。彼女はアクティビストとして参加していて通訳者として呼ばれたのではなかったのですが、急遽、主催者の要求を受けて、英語通訳を引き受けてくれたのでした!

ただカザフスタン、セミパラチンスクのことについては僕の中で多くの宿題ができたとも思いました。とくにカザフスタンに入って被爆者調査をしている日本人科学者の活動について調べる必要がある。低線量被曝や内部被曝の影響がきちんと評価されているようには思えなかったからです。こうして点について京都の石田先生などに聞いて内容を深め、そこから得られた知見を可能な限り、カザフスタンに書き送りたいとも思いました。

さて、それやこれやいろいろありながらワークショップも終え、翌日は締めの最終セッションが行われたました。前日のそれぞれのワークショップの報告がなされるとともに、インターナショナル・チェルノブイリ・ネットワークに会議に参加していた複数のリクビダートルの方達が参加することが決まったこと等が報告されました。それらを通じながら、今後も一緒に頑張ろうと大いに盛り上がって終わりました。

なおこの会議にはベラルーシやウクライナから沢山のチェルノブイリ原発事故の当事者が招かれていました。リクビダートルの方も本当にたくさん招かれていた。科学者やジャーナリスト、知識人などが主体ではなく、現場の人々、現に被害を受け、その中から未来を展望しようとしている人々を主軸に据えて国際会議を運営しようとするドイツIBBの姿勢が強く現れていて、深く共感しました。もちろんリクビダートルの人々と数日間を一緒にできてたのは僕にとっても実に素敵な体験でした。

現場の人を主体にということで言えば、僕自身も、ジャーナリストというよりは、現場に関わっているアクティヴィストとして呼んでもらえました。そのため紹介も「ブロガー&アクティヴィスト」になっていました。それもまた嬉しいことでした。

この日は10時には散開になりました。あちこちで別れを告げる握手、ハグなどを行ったのち、それぞれに空港や駅にバスで向かっていったのですが、この帰りのバスの中で、僕はドイツから参加したアンゲリカ・クラウセンさんやアルパー・オクテムさん、ドイツ在住日本人の桂木忍さんとごろうさん(ごめんなさい。姓を失念しました!)。また東京から参加した吉田さんと一緒でした。ここでもまたミーティング開始。来年のヨーロッパ・アクション・ウィークでまたトルコで何かをしよう、積極的にIBBに持ちかけようと盛り上がりました。・・またトルコに行くことになったら光栄です。いや、なんとしても行きたいです!

ともあれ、4日間、素晴らしい場に参加できて本当に光栄でした!!

なお次回より、僕のオープニングセッションやワークショップでの発言内容などなどもご紹介します!

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