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明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(557)モニタリングポストの測定から見えてくるもの(上)

2012年10月12日 13時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121012 13:00)

10月5日に市民と科学者の内部被曝問題研究会、汚染・環境実態調査・検討部会、モニタリングポスト測定チームによる記者会見が行われました。僕もチームの一員として参加し、司会を担当しました。

会見場の自由報道協会には、たくさんのジャーナリスト、記者の方々が参加されました。この間の、自由報道協会の会見ではひさびさの満員状態だったとのこと。さっそく翌日、朝日新聞と、東京新聞が記事を掲載してくれましたが、その後にもマスコミの問い合わせがあり、雑誌などで追加記事がでる可能性があります。

この会見の様子は以下から見ることができます。
*USTREAM録画「市民と科学者の内部被曝者問題研究会(汚染・環境実態調査検討部会モニタリングポスト検証チーム)記者会見」
http://www.ustream.tv/recorded/25928641

今回の記者会見で中心的に発表したことは、福島県内のモニタリングポストの網羅的測定の結果、表示されている数値が、実測値した数値よりも傾向的に低く、住民の放射能環境を正しくモニターしているとはいえない点です。測定を行ったのは、福島県内の相馬市・南相馬市51箇所、郡山市48箇所、飯舘村18箇所です。

この発表の機軸的な点は、おって測定チームが報告してくださるそうです。それも転載したいと思いますが、ここでは会見の最後に矢ケ崎さんが語った内容を文字起こししてお伝えしておこうと思います。ここに今回の測定を通じて訴えようとした観点が鮮明に示されているからです。なお発言は、記者さんの質問に答えて行われたものです。

今回こうした行動に参加できたことはとても光栄です。放射線防護を推し進めるために、さらに福島県をはじめ、さまざまな地域での測定作業に参加を続けたいと思います。

記者会見における一問一答から
(文字起こしでは、会話体を文語体に直しています。必要に応じて語句も補っており、必ずしも発言そのままではありません。そのため文責は守田にあります)

記者による質問
配られた会見レジメの、「測定結果の特徴」のところに、チェルノブイリでの移住権利のことに触れられていますが、日本ではチェルノブイリのような明確な基準はできていません。今後、チェルノブイリのようなきちんとした避難の基準を提示していきたいというお考えはあるのでしょうか。

矢ケ崎さんの回答
これまで政府は、公衆に対する被曝基準を年間1ミリシーベルトとしてきました。事故後に政府はこれを20ミリシーベルトにつりあげました。けれども、わたしどもはこれは、命を守るという点では、たいへんな、民を捨てる行為だと思っています。

放射線に対する抵抗力が、事故が起こったら20倍になる特別な市民が日本にいるなどということはまったくありません。人間の放射線に対する抵抗力は、事故があってもなくても同じなのです。ですから1ミリシーベルトを20ミリシーベルトに切り上げるということは、生活の条件をきり縮められたということ、まさに命を削られたことに匹敵します。

福島であろうと、沖縄であろうと、すべての日本の市民が怒りを発しなければいけない、そういう法的な措置がとられてしまったのです。

今、日本は年間20ミリシーベルトで一応避難ということになっていますが、チェルノブイリ周辺3カ国では、「1ミリシーベルト以上で危ないから、移住したい人は自分の意志で申し出てください。5ミリシーベルト以上はそこにいてはなりません」という区分を行っています。

この点でも原理に即して言えば、命の放射線に対する抵抗力が、チェルノブイリ周辺の国よりも日本の方が20倍も優れているなどということはまったくありません。こういう点で、日本の市民はもっと基本的な視点で、命を守ることを掲げなければいけませんし、もちろん報道される方も、その視点で、市民の命ということを基準に、報道していただければ幸いだと思っています。

わたしどもは、市民の共同の力で、こういうことはすぐに是正しなければいけないと考えております。どうぞその点をきちんとご理解いただいて、闘うという言葉を使えば、少し言葉が不適切かもしれませんが、市民の権利を守るために報道機関がきちっと役割を果たしていただけたらありがたいと思っております。

命を守るということから言えば、事故が起こったら20ミリシーベルトでいいというような原理は、命ではなくて、原子力発電所の都合にあわせるもの、政府の賠償の都合にあわせるものです。賠償を1ミリシーベルト以上だったらたくさんの人にしなければいけないけれど、20ミリシーベルト以上だったら少しだけですむ、こういうことに法的な意味をもたせるということで、20ミリという基準が使われていますが、これはICRPという組織が勧告ということで言っていることです。このICRPは原子力発電所の防護はいたしますが、人の命の防護はいたしておりません。

その点で報道機関の方も、人の命を守る立場にあるのか、原子力発電所を擁護する立場にあるのか、きちんとこの点を見極めて、やはり主権在民の国の市民のための報道をする立場を貫いていただければと思います。

以上

 

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明日に向けて(556)原発災害に対する心得(上)

2012年10月09日 23時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121009 23:30)

10月5日に東京での記者会見に参加しました。記者会見の内容はたくさんのマスコミ紙面に反映されたようです。会見の様子は以下から見ることができますのでご覧ください。おって詳細な報告を出したいと思います。

*USTREAM録画「市民と科学者の内部被曝者問題研究会(汚染・環境実態調査検討部会モニタリングポスト検証チーム)記者会見」
 http://www.ustream.tv/recorded/25928641

さて7日に同志社大学のある寮に赴き、防災訓練に参加しました。僕の役どころは、避難訓練に続いて、原発災害に対する心得をお話することでしたが、学生さんたちがとても熱心に聞いてくださいました。「初めて自分の問題として考えた」という方もいたそうで、良かったです。
これにむけてレジュメを作りましたので、ここに貼り付けます。まずはこれをご覧ください。

***

原発災害に対する心得

知っておきたい心の防災袋(防災心理学の知恵)
1、災害時に避難を遅らせるもの
○正常性バイアス⇒避難すべき事実を認めず、事態は正常と考える。
○同調性バイアス⇒とっさのときに周りの行動に自分を合わせる。
○パニック過大評価バイアス⇒パニックを恐れて危険を伝えない。
○これらのバイアスの解除に最も効果的なのは避難訓練

2、知っておくべき人間の本能
○人は都合の悪い情報をカットしてしまう。
○人は「自分だけは地震(災害)で死なない」と思う。
○実は人は逃げない。
○パニックは簡単には起こらない。
○都市生活は危機本能を低下させる。
○携帯電話なしの現代人は弱い。
○日本人は自分を守る意識が低い。

3、災害時!とるべき行動
○周りが逃げなくても、逃げる!
○専門家が大丈夫と言っても、危機を感じたら逃げる。
○悪いことはまず知らせる!
○地震は予知できると過信しない。
○「以前はこうだった」ととらわれない。
○「もしかして」「念のため」を大事にする。
○災害時には空気を読まない。
○正しい情報・知識を手に入れる。


原発災害にどう対処するか
1、原発災害への備え
○災害対策で一番大切なのは避難訓練。原発災害に対しても避難訓練が有効。
何をするのかというと、災害がおこったときをシミュレーションしておく。
○家族・恋人などと落ち合う場所、逃げる場所を決めておく。
○持ち出すものを決めておき、すぐに持ち出せる用意をしておく。

2、情報の見方
○出てくる情報は、事故を過小評価したもの。過去の例から必ずそうなる。
○「直ちに健康に害はない」=「直ちにでなければ健康に害がある」。
○周囲数キロに避難勧告がでたときは、100キロでも危険と判断。

3、、避難の準備から実行へ
○災害を起した原発と自分の位置関係を把握。基本的には西に逃げる。
○マスク、傘、雨合羽必携。幾つか代えを持つ。
○お金で買えない一番大事なものを持ち出す。その場に戻ってこられないと想定することが大事。どうでもいいものは持っていかない。
○可能な限り、遠くに逃げる。逃げた先の行政を頼る。
○雨にあたることを極力避ける。降り始めの雨が一番危ない。
○二次災害を避けるべく、落ち着いて行動する。


放射線被曝についての心得
1、福島原発事故での放射能の流れと情報隠し
○福島原発事故では風の道=人の道に沿って放射能が流れた。
○被曝範囲は東北・関東の広範囲の地域。京都にも微量ながら降っている。
○SPEEDIの情報隠しなど、東電と政府の事故隠しが被曝を拡大した。

2、知っておくべき放射線の知恵
○放射能から出てくるのはα線、β線、γ線。体への危険度もこの順番。
○空気中でα線は45ミリ、β線は1mしかとばず、γ線は遠くまで飛ぶ。
○このため外部被曝はγ線のみ。内部被曝ですべてのものを浴びる。
○より怖いのは内部被曝。外部被曝の約600倍の威力がある。(ECRR)
○外部被曝を避けるには必要なのは、放射線源から離れること、線量の少ないところにいくこと。
○内部被曝を避けるために必要なのは、汚染されたチリの吸い込みを避けること、汚染されたものを飲食しないこと。

3、放射能との共存時代をいかに生きるのか
○元を断つ。
○被曝の影響と向き合う。被爆者差別とたたかう。
○あらゆる危険物質を避け、免疫力を高める。前向きに生きる。

***

さて、ここでこのレジュメをみなさんに公開するのは、ぜひこの「原発災害に対する心得」を今後のそれぞれの防災対策に役立てていただきたいと思うからです。

とくに今回共著したいのは「知っておきたい心の防災袋(防災心理学の知恵)」と「原発災害にどう対処するか」についてです。このうち前半は災害一般に対する防災心理学の提言ですから、あらゆる災害に通用することです。後半はこの防災心理学の知恵を、原発災害に適用したものです。

ですから「知っておきたい心の防災袋」は、あらゆる災害に通用しますから、ぜひいつでも見れるところにおいておき、繰り返し読んで、心に留めておいていただきたいものです。災害時に必ず役に立ちます。これを知っているかどうかで生きるか死ぬかの分かれ目にすらなりえます。

この知恵をとても分かりやすく解説している本を先に紹介しておきます。『人は皆「自分だけは死なない」と思っている 防災オンチの日本人』という本です。防災システム研究所所長山村武彦さんの著作で、宝島社から2005年に出版されています。


さてこれまでも何度も取り上げてきているのですが、私たちが災害対策として一番に心に留めておきべきことは、命の危機に遭遇することの少ない現代社会の生活を送っている私たちは、日常生活の中で危機に対処する訓練をしてこないので、いざとなったときに、心がロックして、危機への適切な対応ができなことです。

同書ではこれを「正常性バイアス」「同調性バイアス」「パニック過大評価バイアス」とまとめていますが、この中で最も大きな位置を持っているのが「正常性バイアス」です。バイアスとは偏見のことですから、危機に瀕しても、事態は正常なのだ、ないしは正常に戻るのだという「バイアス」を現実にかけてしまい、あくまで危機の認識を回避してしまうことです。

なぜこのようなメカニズムが働くのか。私たちの心にはいわば許容量があり、それを上回るものを受け入れようとすると、心が壊れてしまいます。そのために心理状態の安定を守るための措置として、現実に対する認識を歪め、心の平成を保とうとするのであり、いわばこれは私たちの一つの生活の知恵とも言えます。

災害のときにはこれが私たちに危機をもたらすのです。例えば今突然、異常を告げるベルが鳴ったとする。「大変だ!」と感じたら、私たちはすぐに必死の行動に移らなければならない。しかし「誤報じゃないの?」と考えたら、とりあえずは心穏やかにしていられるわけです。しかしそのことで避難のチャンスを失ってしまうかもしれません。

この「正常性バイアス」に輪をかけて、危険性を拡大するものが、「同調性バイアス」と「パニック過大評価バイアス」です。前者は何かの突発事態があったときに、周りの顔色をうかがい、それに従ってしまうことです。この場合、周囲が正常性バイアスに陥っていると、それに同調してしまうことになります。そうではなくて、自分の危機意識に基づいて行動することが大事です。

さらに危険なのが「パニック過大評価バイアス」で、そもそも現代人はなかなかパニックになりにくいのに、さらにパニック回避を理由に、伝えるべき事実を隠してしまったり、非常に軽く、穏当に伝えることで、正常性バイアスを強める結果を生んでしまうことです。とくにこれは行政など、災害情報を伝える側が、けして陥ってはならないバイアスです。

大事なのは、こうした「正常性バイアス」「同調性バイアス」「パニック過大評価バイアス」のロックをはずすことで、災害心理学が進めているのは、一にも二にも、実際の災害を想定した避難訓練を行うことです。

避難訓練を繰り返していると、危機に瀕した時の心のよりどころが生まれます。よりどころとは危機への対処法、あるいは自分がとりあえずばすべきことを知っていることです。そのことで、危機の認識を避けなくても、心の平成を保てるので、現実を歪めることなく正しい認識が行えるのです。もちろん平成といっても、危機を受け入れているわけで、心穏やかではありませんが、けして心が壊れるようなことはありません。

あらゆる避難訓練はそのためにも行われていることを知っておくことが大事です。そのため、避難訓練には積極的に参加し、そこで学んだんことを日常でも時々、反芻すると良いです。ここまでが災害一般においておさえておくべき内容です。私たちの国は自然災害大国ですから、これは私たちが豊かな人生を送るための必須の知恵です。

続く

 

 

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明日に向けて(555)モニタリングポストをめぐる記者会見に参加します!(10月5日)

2012年10月04日 08時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121004 08:30)

10月5日に、市民と科学者の内部被曝問題研究会、汚染・環境実態調査・検討部会、モニタリングポスト検証チームによる記者会見が行われます。僕も同チームの一員として記者会見に参加します。
以下内容をお知らせします。

*****

放射能モニタリングポストの実態調査―人為的指示値低減化操作の判明―内部被曝問題研、汚染・環境実態調査・検討部会、モニタリングポスト検証チーム

かねてから「モニタリングポスト」や「リアルタイム線量測定システム」設置に関して、業者との契約解除を行ったことが報じられました(朝日新聞:2011年11月19日朝刊)。その背後には文科省により「放射能測定計器の指示値を低減させるように」業者に対して指示し、圧力を掛けていたことなどがうわさされました。もし文部省により、計器の指示値に対する人為的な操作がなされるとすれば、それは国家的な犯罪を意味します。

内部被曝問題研、汚染・環境実態調査・検討部会、モニタリングポスト検証チーム(略称:モニタリングポスト検証チーム)はモニタリングポストの実態を解明すべく、系統的な測定をしてまいりました。その中途結果を皆様にお伝えし、チームとしての緊急記者会見を開き、まずデータ(の一部)を公表したいと思います。

現在、浜通り相馬・南相馬51か所、郡山48か所、飯舘18か所等のモニタリングポストの測定を行いました。測定中途で明確になった問題点は、いずれの地域でも極めて系統的に、①モニタリングポスト測定計器の指示値が10%から30%程度、低くなるように設定されていること、②モニタリングポスト周辺が除染されていて住民の受ける放射能環境より30%から50%ほど、低い測定値を出すように「環境整備」されていること、等です。以上のような、重大な測定結果を得ましたので、緊急に記者会見を行います。

日時:10月5日 15:00~場所:自由報道協会


(計器および測定方法)用いた放射線測定器: 校正済みのシンチレーションカウンター:HITACHI-ALOKA TCS172B、およびThermo社B20-ER
測定方法:モニタリングポスト計測器に最も近づけて測定、(密着して、いくら離れても最大10cm程度):この測定でモニタリングポスト計器の指示値と正しいメーターの指示値が比較できます。除染されている範囲内のモニタリングポストから2mと5mの地点での測定。モニタリングポストに近接した除染されていない地点での数か所測定の平均値:住民の曝されている実際の放射能環境がわかります。測定は、空間線量だけでなく、地表の測定、cps(ベクレル)測定等も行っています。

記者会見参加者
矢ヶ克馬 琉球大学名誉教授 市民と科学者の内部被曝問題研究会副理事長 同会 汚染・環境実態調査検討部会長
守田敏也  市民と科学者の内部被曝問題研究会常任理事 広報委員長 汚染・環境実態調査検討部会
吉田邦博  市民と科学者の内部被曝問題研究会 汚染・環境実態調査検討部会 安心安全プロジェクト
小柴信子  市民と科学者の内部被曝問題研究会 汚染・環境実態調査検討部会
小澤洋一  市民と科学者の内部被曝問題研究会 汚染・環境実態調査検討部会 ひまわりプロジェクト南相馬
中野目憲一 市民と科学者の内部被曝問題研究会 汚染・環境実態調査検討部会 ひまわりプロジェクト南相馬
横山龍二  市民と科学者の内部被曝問題研究会 汚染・環境実態調査検討部会 安心安全プロジェクト

 

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明日に向けて(554)呉秀妹阿媽のこと・・・福島原発事故と戦争の負の遺産(中)の5

2012年10月03日 16時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121003 16:00)

9月27日に台湾から帰国し、そのまま関空から兵庫県篠山市に向かいました。夜に篠山市で講演、その日は温泉のある「ささやま荘」に泊めさせていただき、翌朝、丹波市に移って午前10時から講演。その後、舞鶴市に移動。夕方から講演を行い、震災遺物(がれき)問題でのミーティングに23時半まで同席しました。翌日29日は宮津のイベントに参加。意義多い3日間を過ごしてきました。その詳細についてはすでに前回の記事でお知らせしています。

さて、ここでもう一度、台湾に戻って、今回の旅の一番の目的だった呉秀妹アマアのことを書きたいと思います。彼女は現在96歳。客家(ハッカ)の方で、台湾語と客家語を話されます。日本語は少しだけ話せるのですが、それがなんとも愛らしい。

幼いとき、貧しかったアマアは苦労を重ねた末に、騙されて性奴隷にされてしまい、中国戦線へと送られてしました。その後、台湾に帰国、やはり生活でとても苦労されましたが、その中で養女を育て、たくましく生きてこられました。

彼女が名乗りを上げたのは、婦援会の呼びかけに応えてです。といっても、十分な教育を受けられなかったアマアは、文字が読めない。婦援会の呼びかけ文もアマアの目に入ることはありませんでした。ところがあるとき、アマアが辛い過去を伝えたごくごく親しい方が、婦援会の呼びかけ文を読み、アマアに「これはあなたのことでは」と伝えてくれました。それで彼女は声を上げたのでした。

初めてアマアが婦援会を訪れたとき、彼女はうつむきがちで、多くを語らず、ひっこみがちであったそうです。ところが婦援会のさまざまな企画に関わっているうちにどんどん変わっていった。元気になり、よく笑うようになり、かつなんにでも積極的にチャレンジするようになりました。

婦援会の活動が素晴らしいのは、アマアたちの心身の傷を癒すためのさまざまなセラピーワークショップを繰り返してきたことです。例えばアマアたちに等身大の図を与えて、体の中の自分の好きなところに好きに色づけしてもらう。これは、心の中に入り込んだ、自らの体が汚されているという感覚から、アマアたちを解放するための試みでした。

あるいは結婚ができなかったり、いわんや結婚式をあげることができなかったアマアたちのために、ウェディングドレスを用意し、みんなで撮影会を行いました。その後、それぞれのアマアたちに、ウェディングドレスを着た写真が額にいれて送られましたが、どのアマアのお宅にいっても、それが一番大事に飾られていました。

アマアたちに生まれ変わったら何になりたいのかを聞いて、その夢をかなえてあげようとするドリーム・カム・トゥルー・プロジェクトもありました。このときシュウメイアマアはキャビン・アテンダント(CA)になりたいといった。アマアの言葉では飛行機の「小姐(シャオジエ・お姐さん)」です。

それで婦援会は、チャイナ航空に交渉。すぐにOKが出て、空港にある実際のCAの訓練に使う施設を貸していただきました。しかも専属の訓練士やヘアードレッサーが参加してくれて、簡単なレッスンがなされ、みんなが座っている模擬飛行室(客室の一部を再現したもの)に、チャイナ航空の制服で着飾ったアマアが颯爽と登場。

「離陸」にあたって、救命用具の使い方を説明したり、「飛行」に移ると、席をまわってお茶を配ったりします。やがて飛行機が「着陸」。アマアは乗客が出て行くのをお見送り。最後に、CAが持っているキャリーバックをひっぱってでてきて、みんなに手を振りました。婦援会とチャイナ航空の粋なはからいがとても嬉しかった。

そんな過程を経て、アマアの心はどんどん解放されていき、同時にこの問題をただそうとする強い意志も大きく育っていきました。婦援会の中にあって、アマアと私たちの橋渡しを一番してくれている素敵な女性、ウーホエリンさんも、実はアマアが名乗りを上げたころに婦援会に参加。アマアとともに歩んできたとのことで、アマアが変わってきた過程の素晴らしさをつぶさに話してくれました。

そんなアマアが日本にきて、私たちと会ってくれたのが2006年秋。その後、みんなで台湾を訪れ、あまたちとの交流を深めて、2008年秋にシュウメイアマアだけをお招きし、幾つかの証言をしてもらうとともに盛大なパーティーを開きました。このときもアマアにピンクのドレスを着てもらい、参加者が一人ずつ模擬の花をそのドレスに挨拶をしてはりつけていく催しをしました。

アマアは証言の中で、「私は名乗りをあげてよかった。こうして日本にこれて素敵な人たちに会えた。守田さんたちに会うことができた。今が一番幸せだ」と泣きながら語ってくれました。アマアをお招きして本当に良かったと思う一瞬でした。実行委のみんながもら泣きしてしまいました。

アマアの横顔示すエピソードにも事欠きません。はじめてアマアが来日したある夜、僕が宿舎から帰ろうとするときに、アマアがでてきて、僕の連れ合いの浅井桐子さんに「あなたの名前はなんていうんだい」と尋ねたことがありました。詳しくは(550)に書いてありますが、アマアは「今日はこの人が実の娘のように付き添ってくれたよ。お風呂で体もあらってくれたよ。私は子どもが生めなくて淋しかった。だから今日はとても嬉しかった。それなのに、私は名前も呼べなかったよ」と語ったのでした。

それに対して、僕が「僕はもうお母さんがないんだよ。だからアマアを本当のお母さんのように思っているよ」といったら、彼女は「でも私は貧しいんだよ。子どものお前たちに何も買って上げられないよ」といいます。「それじゃあ台湾にいくからアマアの手料理を食べさせて」というと、「私は料理が上手じゃないんだよ。おまえたちにおいしいものを食べさせてあげられないよ」という。

そういいながらポロポロと涙を流すアマアをみんなで囲み、みんなでもらい泣きしながら、温かい時間を過ごしました。今でも忘れられない思い出で、このことを前にも書きましたが、実はこの話は続きがあるのです。「お前たちに何も買って上げられない」と言ったアマア、それだけでは終わらなかったのです。翌日になるとアマアは、「おまえたちに金を買ってあげたい。金の売っているところに連れて行っておくれ」と言い出した。

なぜ金なのかというと、台湾では子どもが生まれたときに、お金持ちになれるようにと、金の指輪を買ってあげて、足の指にはめてあげたりすることがあるからなのだそうです。金を子どもに買い与えるのが親の甲斐性。だからアマアは金を買うという。しかも一度言い出したことは絶対に曲げない。

この日は間が悪かったのか良かったのか、金閣寺に観光にいくことになっていました。台湾のおばあさんたちも韓国のおばあさんたちも、金閣は見るととても喜んでくれるのですが、アマアもとても喜んでくれた。そうして境内で、なんども一緒に写真をとりながら一緒に歩いていき、やがて出口付近にあるお土産やさんに入ることになりました。

とたんにアマアの目が輝きだす。こちらは、「ま、まずい」と思い、陰にまわってごちゃごちゃ相談。「これはもう何かを買ってもらうしかない。できるだけ安いものにしよう」と決めて、アマアに金箔の入った小瓶を渡しました。それを手で振ったアマア、「金はこんなに軽くない!」と一蹴。高そうな商品に目を向けて手を伸ばします。それでやむをえず2000円ぐらいのペンダントを手に取り、浅井さんがこれが欲しいとアマアに。

「これ本物?これ金?」とアマアは繰り返す。金メッキなのでまあ嘘ではなかろうと「本物よ」と浅井さん。ようやくアマアとレジにいきましたが、値段を聞いてアマアの顔がくもりました。きっと「金はこんなに安くない!」と思ったのでしょう。

そこからの帰りの車。アマアたちとホエリンさんと僕が乗っていたのですが、アマアがまた金を売っているところに連れて行けと言い出す。僕が「京都は小さな町で金は売ってないんだよ」というと、「私は騙されない。日本は金持ちだ。それに金閣寺にはあんなに金があった。絶対にどこかで売っているはずだ」と譲らない。

ほとんど降参状態でした。ホエリンさんは、「私たちのアマアは頭がいいのよ。さあ、守田さん、どうする?」といたずらっぽく笑うばかり。とりあえず、この日はもう時間が遅かったので、それを理由に宿舎に帰りました。その後も、なんやかんやとスケジュールがあり、アマアも金を買いに連れて行けとは言い出せず、結局、この話はそのまま流れていきました。

ところが、アマアはそれで終わりにはしなかった。その後に私たちが再び台湾に訪問し、アマアの家に集まってパーティーをしたとき、アマアが浅井さんにプレゼントを持ってきた。なんと金のネックレスだったのです。それを首にはめてしまった。えーっ。どうしよう?断れない。とりあえずもらうしかない。ホエリンさんもここはもらってと笑いながら目で合図してくる。それでありがとうと伝えて日本まで持ち帰りました。

しかし日本に帰ってまじまじとみると、どう見てもかなり高価なものにしか見えない。これはなんとか返さないと思っていると、ホエリンさんから連絡が来ました。実はこのネックレスは、金を大切にしているアマアのために、お孫さんが買ったもの。どうも数十万円するらしい。アマアはこれを浅井さんにあげて、同じものを買い戻すつもりだったのだそうです。

ところがネックレスですから、同じものを探すのは難しくて、アマアが困っているとのこと。やはりとにかくこれはお返ししようと決めました。それで台湾に向かう東京の柴洋子さんにお願いし、「とてもありがたいのだけれど、気持ちだけもらっておくから」とお返ししました。アマアは納得してくれた様子で、金の話はようやくこれで一段落となりました。

このようにアマアはとてもプライドが高く、意志が強い。自分の思ったこと、とくに人への思いをどこまでも貫こうとする。恩を受けたら必ず何倍にもして返す。たどたどしい日本語で、かわいらしい言葉をたくさん発するのだけれど、アマアはただかわいいおばあちゃんなのではないのです。その心の中には、人生の荒波を不屈に生き抜いてきた精神力が脈々と波打っているのです。

そんなアマアをみて僕はたくさんのことを教えてもらうことができました。核心問題は人間は不幸や困難を越えられるということです。しかもどんなにひどい経験をしても、人を愛する心を維持できる。逞しく育ててくることができる。それはほとんど驚異の力です。でもアマアの中にそれがあるならば、同じ人間である私たちも、それを自分のものとできないはずはない。僕はそんな風に思ってきました。

というのは、この性奴隷問題に関わり始めて、僕は一度だけ、関わりを続けていくのはあまりにもしんどいと思ったことがあります。それは各地の戦線に送られた女性たちの被害実態をいろいろと調べていたときのことでした。前にも書いたように、被害女性たちの経験を比較することはできないことですが、それでも僕には中国での戦闘の最前線に送られた女性たちが一番過酷な体験をしたように思えました。なぜなら日本軍が最も獰猛で、殺戮だけでなく、略奪やレイプなどを繰り返していたかの地では、「慰安所」でもレイプが行われるだけでなく、残虐な殺戮が繰り返されていたからです。

その一例を書くので覚悟して読んで欲しいと思いますが、あるとき兵士のあまりに野蛮な振る舞いに抵抗した女性がいました。彼女は繰り返されたレイプの中で妊娠していました。彼女のやむにやまれぬ抵抗に激怒した兵士は、「慰安所」の女性たちすべてを広場に連れ出し、どうなるかの見せしめだとばかりに、彼女たちの前で抵抗した女性を日本刀で惨殺したのです。

そればかりか、腹を裂いて胎児の入っている子宮を取り出し、それをスライスした。それを居並ぶ女性たちの頭の上からかけていったのです。・・・「慰安所」というと、レイプをする場としか思い及びませんが、そればかりではない。鬱積した憤懣をはらすため、しばしばこうして女性をなぶり殺しにすることまでが行われたのでした。

僕はこうした事実を、京都精華大学の図書館の中で見つけた資料によって知りました。そこにはこれと違わないような残虐な例が他にもたくさん書いてあったのですが、それを読んで僕は、図書館の本棚と本棚の間のカーペットの上に座り込んでしまいました。閉じた本を抱えたまま、あまりのショックに立てなくなってしまいました。

そのとき浮かんできた感情は、怒りを通り越して、人間全般への絶望でした。人間とはこんなことをする生き物なのかと考えると、人の世を明るくしようとする努力のすべてが無駄なように感じられました。ああ、こんなことを見続けるのは辛すぎる。こんな惨劇はもう見たくない。この問題にこれ以上、触れたくないと、正直なところ僕はそう思いました。今でもあのときの図書館の風景が頭にこびりつています。

しかしその後にそんな気持ちを乗り越えて活動する中で、出会うことのできたたくさんのおばあさんたちの横顔は、そんな僕の思いを癒し、勇気を与えてくれるものばかりでした。何よりも深く心を揺るがされたのは、彼女たちが、兵士への恨みからではなく、人々、とくに若い人々への愛から立ち上がっていることでした。「もう二度と、若い人があんな思いをしてはいけない」。どの国のおばあさんも共通に語る言葉がこれでした。

正確に言えば、そのように強い意志と愛情を維持できたおばあさんたちだけが名乗りをあげることができたのです。「慰安婦」にされた女性は推定で20万人以上。その中の1%にも満たないほんの一握りの女性たちしか声をあげることができなかった。そして声をあげた女性たちはそのほとんどが、人生の荒波を乗り越え、くめど尽きせぬような生きることへの意志と人々への愛情を育て上げてきた方たちだったのです。

シュウメイアマアもその代表の一人です。だからこそ私たちは彼女に魅せられた。とくに私たち夫妻にとって、日本の娘とその夫・・・と呼ばれることはとても光栄でした。アマアは私たちにとって特別な存在になりました。そんなアマアを見舞うのが今回の旅だったのです。

さて呉秀妹阿媽(ウーシュウメイアマア)の家にようやく辿り着き、僕はいそいそと階段を駆け上りました。すでにたくさんの人が訪れていて玄関があいていました。僕はアマアの笑顔が早くみたくて玄関を走りぬけるように中に入りました。ちょうどそのとき、偶然にもアマアが車椅子で押されて自分の部屋からでてきて、顔が会いました。

しかしその瞬間に僕の甘い期待はもののみごとに裏切られてしまいました。アマアはまったく笑わなかったのです。その顔は、げっそりとやつれ、ほとんど半分ぐらいになってしまっていた。しかも表情には深い憂いが漂うばかりでした。僕のことを認識してくれたのかも良く分からなかった。

ショックでした。あまりに深いショックでした。ああ、アマアはこんなにも老いてしまった。あのかわいらしい笑顔がどこかに去ってしまった。ああ、淋しい。ああ、悲しい。・・・そんな思いが僕の胸をいっぺんに覆いつくしました。

続く

 

 

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明日に向けて(553)篠山、丹波、舞鶴、宮津の訪問を終えて

2012年09月30日 23時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20120930 23:30)

27日に予定通り帰国し、そのまま関空から兵庫県の篠山市に向かいました。ここで「どろんこキャラバンたんば」の方たちにお迎えいただき、講演会に向かいました。会場で先に夕御飯。実行委の方たちが一品を持ち寄って集まってくださいました。
ハンサム食堂の神谷さんが、僕が食べていると聞いて、酵素玄米をおにぎりにして持ってきてくださったのを始め、それぞれが新鮮な野菜などで作ったお惣菜を持ちよってくださいました。

この日の講演会は50名弱ぐらいの参加でしょうか。今回は内部被曝のメカニズムと危険性とともに、原発災害のときにどうするのかについてお話しました。篠山市は高浜原発から約50キロの町。深刻な原発災害があったとき、被害を受ける可能性は高い。そのことを踏まえた話をして欲しいという要請があったからです。

そこで強調したのは、災害心理学に言う「正常性バイアス」の問題でした。現代人は危機に瀕する可能性が少なくなっている。そのため危機に直面すると、しばしば危機を認めず、事態は正常なのだというバイアスを自分でかけてしまうことです。

災害心理学は、この正常性バイアスのロックを外さないと人は避難できないことを強調しています。ではそのためにはどうしたらいいのか。最も有効なのは避難訓練を繰り返すことです。では原発災害における避難訓練とは何か。「今日の集まりがその一つです」と僕はお話しました。

またぜひみなさんに家にかえって、避難訓練をして欲しいとお願いしました。ただし図上訓練でいい。ではどんなことを想定するのか。原発事故が起こったときにどこに逃げるのかを決めておくのです。その際、大事なのは家族がどこで落ち合うかです。家族の居場所が分からないというのが、しばしば避難を遅らす理由になるからです。

次に大事なのは、避難するときに持っていくものを決めておくことです。この点で参考になるのは、国連に勤めていて、あるときアフガニスタンで、急きょ、逃げなくてはならなくなった友人の経験です。そのとき彼女はお気に入りの服をバックにつめて逃げたそうです。それであとでそんなものはお金で買えたのにと大変後悔したという。

彼女は言いました。「人間、逃げるときはそこに戻ってこれなくなるとは考えたくない。だからついつい変なものを持ち出してしまう。そうではなくてお金で買えないもの、日記や手紙や写真や、自分の大事なものを、もう戻ってこれないと考えて持ち出すのが核心だ」と。非常に参考になる言葉です。みなさん、これらの話をとても真剣に聞いてくださいました。


さてこの日は「ささやま荘」に泊めていただきました。実は台湾に行っている間に、内部被曝問題研究会の実務がたくさんたまっていて、部屋で処理しようと思っていました。しかし温泉があり、旅の疲れを癒していたら、なんだかもういいやという気になり、翌朝に仕事をまわしてのんびりすることにしました。

ところがそうしてゆったりしていたら、台湾のおばあさんたちのことが思われ、とくにまだ報告を書いていませんが、最後に会った呉秀妹(ウーシュウメイ)阿媽が、あまりに老いてしまい、げっそり痩せてしまい、可愛かった笑顔が消え、終始、暗くうつむいていたことが胸に去来し、悲しくてたまらなくなり涙がポロポロでてきてしまいました。

それで実は篠山の話のときでも、自分が悲しみをおさえて前向きなことを話していたことが分かりました。まるで封印を解いたようになり、暫く涙が止まりませんでした。そんなとき、舞鶴復興ミーティングの今井葉波さんからメールが来たので、ちょっとそのことを書きました。

「僕はひょっとして篠山では、悲しみのためにパワーが落ちていたかもしれない。そうだとしたらとても申し訳ない。明日に向けて、一晩寝て、アジャストします」とメールしました。すると葉波さんは、あなたが悲しいのなら悲しいままでいいのではというメールを送ってきてくれました。ああそうだなと思いました。


それで翌日、悲しいといっても必要な事務仕事は朝おきてこなしましたが、その後に、神谷さんに丹波市に送っていただき、会場に入り、講演の始めにこのことを話しました。台湾にいってきて、おばあさんたちの老いている姿を見舞って、今、とても悲しい思いにいるということをお話したのです。

そうして僕は、原子力発電所と、性奴隷問題など、戦争のことが根底でつながっていると思うという、この間、深めてきた自論をお話しました。みなさん、とてもいい目で聞き入ってくださっていたように感じました。悲しみを隠さずに話して良かったなと思いました。


さて丹波市でのお話が終わってから、どろんこキャラバンたんばのみなさんが、お昼を食べに連れて行ってくださいました。それが車何台かをつらねて30分ぐらいも走っていく。それである谷の中をはいっていき、ついたのは10割そばをうってくれるお店でした。ここでのそばは本当に美味しかった。古い民家を使ったお店も心地よくとても気持ちがよくなりました。

その後、今度は舞鶴への移動です。車で丹波市を出て、京都府の福知山市を経て、舞鶴へ。今井さんのお宅で少しだけ横にならせていただいて、今度は舞鶴の市民会館につきました。ここでも有機農家の方が作ったおいしいおいしい野菜が入ったお弁当をいただけました。なんというグルメの旅・・・。

この日の一番の話は、舞鶴市のお隣の高浜町で行われようとしている、震災遺物(がれき)焼却問題です。しかも持ち込まれるのは、僕がボランティアで何回がいった大槌町のもの。それで大槌の写真をお見せして、震災遺物(がれき)が復興の邪魔をしているなどとはとても言えないことを説明しました。

大槌町は津波で大きな被害が出ていて、広大な更地が広がっていて、震災遺物をおくのに困りなどしていないのです。いや正確にはその広大な大地には、まだ解体を待っている建物がたくさん存在しているのです。復興の予算が足りないことがわかります。それどころか海沿いには津波で壊れた防波堤がまだそのままゴロゴロ転がっている。そんなものも手がついていないのです。

また震災遺物(がれき)だけでなく、膨大な放射能の降った東北・関東での焼却の危険性についてもお話しました。焼却炉の図を示し、それが放射能対応で作られてなどいないこと、だからあちこちから放射能が漏れてしまうこと、その結果、最初に危険性が焼却場職員の方に迫ってくることをお話しました。

この日の会合でとても大きかったのは、当事者である高浜町、あるいは大飯町の方がたくさんみえられたことです。現地の状況が厳しいので人数は書きませんが、とても沢山!とご報告しておきます。


この会合が終わってから、この間立ち上がった新しいネットワークのミーティングにも参加しました。とりあえずは「がれきネット若狭」の名で立ち上がり、「がれき」という言葉を変えようということで今、新しいネーミングが進行中ですが、ここには現地、若狭の方を中心に、丹波の方たち、福井県嶺北(敦賀市より北)の方たちなどが参加しています。

ちなみに丹波というのは広い概念で、市町村区分でいと、京都の京丹波町や南丹市などが加わっているのですが、今回のことなどを通じて、この方たちが、兵庫県の篠山市と丹波市とのつながりも深くしています。ここのミーティング、僕は23時半で失礼したのですが、なんと午前1時までやっておられたそうです!直前に迫った焼却を止めんとする情熱に感謝です。


この日の夜の宿は、葉波さんが管理人をしている「雲の上のゲストハウス」でした。舞鶴市のある山の中にあります。実は宿泊は2回目なのですが、前回はまるでプラネタリウムの中にいるような満点の星空を見れました。いやこの表現はおかしいですね。この星空を再現したのがプラネタリウム。でも当然、実物の方が100倍美しい。この日は残念ながら曇っていましたが静かな夜を過ごせました。

それで翌日29日。予定にはなかったのですが、葉波さんが宮津市の食べ物と放射能を話題とした楽しいイベントでライブをされるというのでついていくことにしました。そうしたら不思議なことに、前日に宮津市の自治会の方が講演を依頼してきてくださいました。せっかくだからお会いしましょうということになりました。

この企画は春に僕を綾部に呼んでくださった溝江さんという方が企画されたものでしたが、とにかく有機農、自然農の若い農家さんたちがたくさん出店して下さり、そこに子連れの若いお母さんたちがたくさんみえられて、ライブやトーク、それぞれの農家のお話が進む素敵なものでした。僕も一言をとのお願いを受けて少しだけお話しましたが、そのお礼にとまたまた凄くおいしい野菜たちを中心にしたご飯をいただいてしまいました。

それだけではありません。自然を大事にし、本当に美味しい野菜を作ってくださっているお店から、コシヒカリ2合を無料でいただき、野菜ひと袋を500円で供給していただきました。他にもロケットストーブだとか、手作り石鹸だとかそれやこれやが踊っていてとても楽しい場でした。午後3時過ぎのJR特急で京都に戻りましたが、帰りの電車の中で心地よい疲労に包まれました。


いろいろなことがあった3日間ですが、篠山市、丹波市、舞鶴市、宮津市と回って、どこもかしこも自然が美しく、なおかつ出てくる食べ物がおいしいことが印象的でした。これらの町の運動の中に、たくさんの有機農、自然農の方たちがいるのもとても印象的で、僕は若狭原発を囲むこれらの地域、日本の農村部の町々に、大きな可能性が宿っているのではないかとの思いを深くしました。

僕など、ここにくると土いじりのひとつも知らずに、環境のことを話している「頭でっかち」でしかありませんが、それでもここから何かが始められる、始まっているという実感を得ることができました。それだけに震災遺物の高浜町での焼却、埋め立てを止めたいし、同時に、原発立地地域にいろいろな意味での矛盾を押し付けてきた構造をかえていきたい、それをこの新たにどんどんつながりを増やしているこの地域の方たちと進めたいと思いました。

篠山、丹波、舞鶴、宮津で出会ったすべてのみなさんへの感謝を述べて、この文を閉じます。

 

 

 

 

 

 

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明日に向けて(552)タイヤル族のアマアのこと・・・福島原発事故と戦争の負の遺産(中)の4

2012年09月27日 01時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20120927 01:00)

今日(26日)は呉秀妹(ウーシュウメイ)アマアにお会いする日。その前に、台中に入院しているアマアを訪ねることになりました。朝10時30分の新幹線に乗って約1時間。台中の駅に着きましたが、ここはまだ市の郊外。さらにバスに30分乗って、目的の病院につきました。お会いしたアマアは、タイヤル族の方です。台湾島の中央山脈地帯にある苗栗(ミャオリ)県に住まわれていますが、今は入院されています。

アマアが受けた被害は次のような形でもたらされたものでした。あるときアマアの村の男性たちが「高砂義勇隊」として、他の国での日本軍の戦いに狩り出されました。アマアの夫もその一人でした。男たちが日本軍に連れ去られていなくなった村に、やがて日本人警察官が訪れ、夫たちにあわせてやると女性たちを集めました。

連れて行かれたのは日本軍の施設のそば。そこで女性たちはレイプを受けたのでした。軍は彼女たちがそこにとどまるために小さな小屋を建て、彼女たちを押し込めて、性奴隷を強制しました。

やがて夫たちが帰ってくることになり、その直前に、アマアたちは解放され、に戻ることが出来ました。アマアは帰ってきた夫に、辛かった日々のことを打ち明けました。夫は「自分がいないあいだに、あなたに辛い思いをさせた」と苦しみ、悲しみを分かち合ってくれたそうです。以降、アマアは夫が亡くなるまで仲良く寄り添い続けました。

このように山の女性たちへの性奴隷の強制は、人々に対する駐在所を通じた警察支配のもとに行われました。霧社事件を経て、警察官は人々にとってより怖い存在であり、逆らうことができませんでした。また警察官は、どこの家の男性が今、戦争に行っているとか、どこの家が困窮しているとかも知っていました。生活のすべてが把握されていたのです。その警察に軍が「慰安婦制度」への協力を依頼したとき、アマアたちには抵抗する術がありませんでした。

さて、このような過酷な仕打ちを受けた後、長い時間が経って、アマアは婦援会の呼びかけに応じ、日本政府を相手取った裁判に参加しました。名前は明らかにせず、訴状にはAなどの記号で登場しました。その後もアマアの住んでいたところが山の深いところで、台北に出るのも大変だったこともあり、アマアはそれほど表にはでませんでしたが、日本政府をただし、尊厳を取り戻すのだというしっかりとした意志を持ち続けてきました。

しかしそんなアマアにも老いが迫ってきました。次第に認知症が進むと共に、足に打撲傷をこうむったところ、血の循環が悪くてなかなか治らず、どんどん悪化してしまいました。大腿部より下の血の流れが非常に悪く、足の指先が黒くなってしまいました。同時に食欲もなくなってきてしまった。栄養素が十分にとれないことが回復をさらに遅らせ、長く入院することになりました。この入院がアマアには辛く、毎日のように、家に帰りたいと泣いて過ごしているのだそうです。

僕らが病院を訪れたのはそんな状態のアマアが横たわる病室でした。かたわらにはアマアの娘さんが雇ったインドネシア人のワーカーが付き添ってくれていました。彼女は30歳、お子さんが二人いる女性で、北京語を上手に話します。台湾の病院の付き添いのワーカーの多くがインドネシアの女性だとのこと。アジアの経済格差の一端を見る思いもしましたが、とりあえずは彼女の細やかな優しさが、アマアのためにありがたい気がしました。

僕らが入っていくと、アマアは、柴さんの顔をみて泣き出しました。たぶんそれまでが淋しく辛かったからだと思います。柴さんの顔を見て、気持ちが緩んだのでしょう。僕には泣きながら柴さんの訪問を喜んでくれているように思えました。「どうしたのアマア、泣かなくていいのよ。ねえ、泣かないで」。柴さんが枕辺によって優しく語りかけます。「私のことが分かる?日本からみんなできたのよ。アマア、よくなっておうちに帰ろうね。そうしたらアマアの家にまた遊びにいくからね」。アマアは日本語で「はい」と語って、うなづきます。

事前にホエリンさんから、アマアはもう娘さんのことしか分からないと聞いていたのですが、柴さんの語る日本語ははっきりと分かる様子。柴さんの顔もまじまじとみていて、しばらくするとまた目から涙が流れてきます。付き添いのインドネシアからきている彼女が優しく涙をふきとってくれる。のちにホエリンさんが確かめて、柴さんのことははっきりと認識してくれていることが分かりました。

でもアマアは多くを語れません。ときどき何かを話しますが、何語なのかがよく分からない。タロコ語のときもあり、北京語のときもあり、日本語のときもあり。でも僕が手を握り、「アマア、よくなってくださいね。きっとよくなりますよ」と語ると、しっかりとした日本語で「ありがとうございます」と答えてくださいました。そのときもアマアの目がウルウルとしていました。

僕はアマアとは初対面です。次に会えるかどうかも分かりません。でもこうして僕の人生の中で一度でもアマアとお会いしたことが、きっと彼女のためになるのだと僕は思います。そのためにも辛い過去と向き合って、尊厳の回復に立ち上がった彼女の生を、僕はしっかり受け止めようと思います。そしてその意義をさらに拡大するために、僕は今、こうしてみなさんにこのことを書き伝えています。

これを読んでくださり、アマアたちの闘いに共感を抱いてくれる人が増える分だけ、アマアの生は豊かになるのだと僕は思うのです。アマアの生き方は私たちの中に熱をもたらす。その熱が私たちを何かに駆り立てます。そしてその分だけ、世の中は温かくなるはずです。それはアマアの心が作り出している温かさです。どうかそんな風に考えて、アマアの思いを分かち持ち、それを何でもいいですから、世の中を少しでも温かくするためのエネルギーとしていただければと思います。

さて病院を出て、今度は新幹線ではなく在来線の台中駅にタクシーで辿り着きました。ここから呉秀妹アマアの待つ桃園県まで2時間の電車の旅。駅から再びタクシーでアマアのお宅に向かいました。僕にとっては3回目のアマアのお宅の訪問でした。

続く

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明日に向けて(551)タロコ族のアマアたちのこと・・・福島原発事故と戦争の負の遺産(中)の3

2012年09月26日 09時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20120926 09:00)

昨日午前11時に台北市の松山駅を出る特急に乗り、台湾東海岸の花蓮に向かいました。車中でお弁当やパンを食べながらの2時間の旅でした。花蓮につくとすぐにタクシーに乗り換えて、病院に向かいました。15分ほどでついた病院の一室に、イアン・アパイアマアが入院されていました。

イアンさんは、まだ少女だった17歳のときに、日本軍の手伝いに狩り出され、基地の近くの洞窟に連れ込まれててレイプされ、そのままそこでの性奴隷を強制されました。その場に通うことを強制されたのですが、彼女たちはそれを家族に話せなかった。タロコの厳しい掟のもと、結婚前に処女を失うと、激しい罰に会う可能性があったからです。

そうした社会的制約もあって、なかなか被害を訴えられなかった、タロコの被害女性たちが名乗りを上げたのは、韓国で初めて被害女性が名乗り出て、この問題が大きくクローズアップされたときのことでした。台湾婦女援助会が、同様の被害者はいなかと台湾全土にひろく呼びかけを行い、台湾の中からそれに応じて手をあげる人がではじめ、タロコの女性たちもようやく声をあげたのでした。

このとき手をあげた原住民の女性は全部で16人だったそうです。その中からカムアウトにいたった女性、カムアウトはできなかったけれども、尊厳を回復する運動には積極的に関わった女性、調査には協力したけれども、それ以上は動けなかった方などがいましたが、イワンさんは、自らの名をはっきりと告げ、それ以降に始まった日本政府を糾弾する運動の先頭に立たれたのでした。

彼女が普段話しているのはタロコ語、そのため彼女の証言のときには、おなじタロコ族で北京語の上手な方が通訳につき、タロコ語→北京語→日本語という通訳が行われますが、重要な部分になると、自ら日本語を上手にあやつって話されることもあります。

いつも威厳をたたえている彼女ですが、一緒にいると茶目っ気を披露してくれて、カメラを向けると必ずおどけたポーズをとってくれます。これは台湾のおばあさんたちに共通のことでもあるのですが、とくにイワンさんはおどけ方がうまい。

そんな彼女の病室に入ると、付き添いの娘さんと二人で静かに過ごされていました。今回は僕の連れ合いの浅井桐子さん、証言集会を共に担ってきた京都の村上麻衣さん、東京の柴洋子さん、ホエリンさんが一緒です。2010年秋に霧社まで訪れたときに、村上さんのお腹にいた2歳9ヶ月の灯(あかり)ちゃん、ホエリンの娘さんで2歳になる直前のリーシンちゃんも。この二人のかわいい子たちがいつも回りに笑いを広げてくれる。

病室にホエリンさん、柴さんが入っていくと、イワンさんの顔がほころびました。さらに僕と浅井さん、村上さんが入ってきたのを見て、一瞬、とても驚いた顔になり、続いてはじける笑顔を見せてくれました。「モリタさん・・・」僕の名前をしっかりと覚えていてくださいました。

お見舞いのお金(台湾ではお見舞いのときに赤い封筒に入れてお金を渡す風習があります。赤を使うのは、「よくなりましたね、お祝いです」の意です)とお土産を渡すと、遠い日本から来てくれて十分だ、こんなことをしなくていいのにと、ちょっと顔をしかめられました。そんなときの説得はホエリンさんが大得意。アマアの手にお金を握らせ、これで元気になってみんなを喜ばせてアマアを納得させました。

それからはとりとめもないお話。実は浅井さんは、この7月にもワークショップに参加しており、元気なイワンさんにお会いしています。ところがその後に、黄疸がはじまり、それが長引くので入院したところ、他にも悪いところが見つかったのだそうです。病状はまだまだよくはないらしい。

「この間、会ったときには元気だったのにねえ」と浅井さん。「でも顔色はいいね」と柴さんが語ると、「上等でしょう?」とイワンさん。台湾のおばあさんたちは好んで「上等」という日本語を使います。

そんなアマア、病状のよいときには家にかえることもできて、つい数日前も帰ったそうなのですが、家でぐっすり寝ることができたものの、翌日にはすぐに病院に戻ると言い出したそうです。病院に戻ってしっかりと病とたたかいたい。早く治療をしてもらってよくなりたいからとのことでした。アマア、病に前向きに立ち向かっているのですね。本当によくなって欲しいです。

ちょっと不思議なことがありました。ホエリンさんが、「何か心配なことはない?」と質問したときのこと。アマアは耳もちょっと遠いので、ホエリンさんが北京語で話し、付き添っていた娘さんが、タロコ語でアマアに伝え、タロコ語の答えが返り、北京語でホエリンさんに伝わり、英語になって僕らに届くのですが、アマアがタロコ語で答えたときに、なぜか僕らには意味が分かったのです。

これは「心配」という言葉が、タロコ語でも「シンパイ」と発音されていたためもあったと思いますが、なぜかこのとき、日本人一行には話の全体がすっとわかってしまった。台湾の部族の言葉にも、台湾語にもかなりの日本語が混じりこんでいるせいもあるのかもしれませんが、「シンパイ」という単語以外は分からないはずなのに、本当にすっと意味が入ってきた。

ともあれ、「ああ、アマアは心配なんかしないで、穏やかだけれどもここで前に向かって歩んでいるのだな」とそれが伝わってきて嬉しく思いました。アマアの手に点滴の針を何度も通した跡が残っていたので、そこを少しさすってあげました。そんな風にしながら、ゆっくりと時間がすぎていき、やがて病室を後にするときが来ました。みんなで記念撮影をし、アマアの手を握って、口々に「よくなってね」と伝えて、病室を出ました。

続いて向かったのはイワル・タナハさんのお宅でした。イワルさんは敬虔なクリスチャン。タロコ族にはクリスチャンが多い。彼女も知人が病で苦しんでいると聞いては、その家を訪ねてお祈りをあげてあげるような信徒さんです。でも彼女も最近は足が悪い。以前ほど活発には動けません。

その彼女の家を訪れるために、僕ははじめてタロコの方たちが多く住む地域を訪れることになりました。最初に驚いたのは、彼女たちの村をうしろから包み込んでいる山の圧倒的な存在感です。日本のどの山とも違う。急峻で背中に覆いかぶさるような威厳を持っている。畏敬の念が自然と沸いてくるような山です。

しかもはるか上のほうに霞がかかっている。何度も訪れている柴さんが、いつきても霞が見えるといっていましたが、それがさらに山の存在感を強いものにしています。そんな山が奥へ、奥へと連なっていることがわかります。

実はこの山をこちらから登って、えんえんと進んでいくと霧社につくのです。花蓮はそこから台湾の東海岸に降りてきた地域です。東海岸はいつも激しい台風に襲われてきたため、自然の荒々しさが、この急峻な山並みを作ったのかもしれません。典型的なリアス式海岸で、深く切れたった渓谷もある。かつてはこの地域も、漢族の入りにくいところだったのでしょう。自然の要害に囲まれて、タロコの人々はここに自分たちの楽園を築いてきたのかもしれません。

さてそんな急峻な山の裾野の家で、しかしイワルさんはとても穏やかな暮らしをされていました。私たちが入っていくと、ニコニコと笑わってくださいましたが、その目元はどこまでも穏やかです。あるいは信仰が彼女の精神生活を豊かにしているのかもしれません。

ここでも私たちはアマアを囲んで静かでやわらかい時間を過ごしました。子どもたちだけはキャッキャッとかしましい声をあげていましたが、イワルさんはかわいいねえと目を細めていました。アマア、いつまでもお元気でと握手をして、彼女の家を後にしました。

続いて花蓮を始めて訪れた僕のために、ホエリンさんが、少しだけ観光を入れてくれました。松園別館というハウスですが、旧日本軍が公館に使っていた建物が歴史遺産として展示されているものでした。台湾歴史百景の一つにも選ばれているのだとか。そこを訪れると、近くに高級将校が住んでいて、さまざまな儀式に使われた建物であることが分かりました。儀式の中には、特攻隊の兵士を集め、天皇から下賜されたお酒を出撃前に振舞うなどのことがされと書かれていました。

「そうなると、ここに慰安所もあったのでは?」そんな目で中を探索すると、本館の洋館の裏に、屋根が純日本風の建物のなごりが残されていました。名残というのは建物は往時のままには残っていなくて、ここを訪れた人々のためのカフェに変わっています。

しかしそれらに付されている展示案内を読み込んでいって、その一つに、「ここには階級の低い兵士たちが住んでいたり、慰安婦たちが住んでいて、ここで働いていた」というような記述がみられました。「やっぱりあったね、きっと特攻隊の兵士たちに前夜にいかせんたんだろうね」と話し合いました。

こうした話は実際に台湾の新竹という海軍基地に作られた慰安所で確認されています。そこには韓国のイヨンスさんというおばあさんが送り込まれました。彼女はある日自宅からさらわれて船に乗せられ、台湾に連れてこられて、特攻隊兵士の相手にした性奴隷をさせられたのでした。

こうした彼女たちの被害体験に比較は禁物なのかもしれませんが、特攻隊の兵士たちは、多くが純真な青年で、何より人を殺した経験のない若者でした。その点で、獰猛な殺戮部隊だった中国戦線の陸軍兵士たちとは様相を異ならせています。イヨンスさんも、さらわれて「慰安婦」にされた彼女の境遇を悲しんだ兵士と、ほのかな恋心を交わしています。

一度、イヨンスさんを我が家にお招きして泊まっていただいたことがあり、そのときに、僕が特攻隊について書かれた写真つきの書籍を彼女に見せてあげたのですが、航空帽をかぶって腕組みしている若い兵士たちの写真をみたせいか、彼女の夢枕に、かつて彼女と恋心をかわした兵士が立ったそうで、彼女は一晩中泣き明かしたと語っていました。

僕はその後、新竹の海軍基地から出撃した特攻機の記録を調べ、彼女との話から使われた機体を特定し、10数機の中の一機にまでその兵士の乗った飛行機を絞り込みましたが、それ以上、調べることが彼女の幸せにつながるのかどうかが分からなくて、そこまでで調査を終えたことがあります・・・。

そんなイヨンスさんの思い出から、この洋風の会館で、天皇から下された酒を飲み干している青年たちの顔が目に浮かぶような気がしました。そしてその彼らを迎えるためにそこに住まわされた女性たちの顔。彼女たちもあるいは韓国からの女性だったのかもしれません。

確かにその「行為」がここでなされながら、すべては霞の中に埋もれてしまっています。そのときここにいたおばあさんは、今、韓国のどこかでひっそりと生きているのかもしれない。そうであるとすればせめて幸せであって欲しいと思いました。ともあれしっかり記録しておかねばとビデオをもってぐるぐると建物の周りをめぐりました。

続けて、再びタクシーを飛ばして、タロコの方たちの住まう地域にもう一度行きました。イワル・タナハさんのおられたところとは離れたところで、その地域でとても印象的だったのは、町の中の家々の壁のいたるところに、タロコ族の姿をタイル模様のようなものであらわしたものがはめ込んであることでした。

「前からこうではなかったのよ」と柴さん。2004年に「タロコ族」として認められて以降、民族の尊厳をあらわしたこうしたものがたくさん設置されたのだそうです。タロコの誇りを全面に掲げている人々の息吹が伝わってきました。

お訪ねしたアマアは、僕にとっては初めての方でした。さまざまな事情からカムアウトはされていませんが、婦援会の活動は他のアマアたちと積極的に担ってきたのだそうです。カムアウトしたアマアたちを支えて頑張ってきたのですね。

そんなアマアはびっくりするほど日本語がお上手でした。ちょうどお連れ合いもいらしたのですが、このおじいさんも日本語が上手。話を聞いたら、夫婦の会話の多くが日本語なのだそうです。町の中での年寄りの挨拶も日本語が多いらしい。「こんにちは。どこにいくのなんて、毎日、話してるんだよ」とアマア。

「日本語が本当にお上手ですね」と語ったら、「私のときは小学校が3年しかなかったんだよ。少したったら6年になったんだけど、私は3年しか習えなかった」ととても残念そうに語られました。学校でもっとたくさんのことを習いたかったというアマアの気持ちが伝わってきました。

ここでもゆったりとしたやわらかい時間を過ごすことができました。アマアの家を去るときは、アマア、おじいさん、娘さん、それに飼い犬が並んで私たちを見送ってくださいました。アマアが終始、とても嬉しそうにしてくれていたので、来てよかったなと思いながら、アマアの家を離れました。

さてそれから花蓮から特急にのって帰ってきたので、台北到着は午後10時をまわっていました。僕は特急列車の中でレポートを書き続け、友人宅に帰って、まずはタロコ族のことを投稿しました。

そのとき、柴さんに被害の様子を質問したのですが、今、ここに紹介したアマアたちは、みなさん、いい仕事があると騙されて基地に連れて行かれ、軍が管理していた近くの洞窟に連れて行かれてレイプされたのだそうです。しかも次々と若い女性を呼び出していった。被害にあった少女は泣きながら戻ってきますが、その理由を友達に伝えることができない。

そうしてまた一人、また一人と日本軍兵士に呼び出されて、洞窟に連れ込まれ、レイプをされたのだそうです。そんな少女たち。それからみんなで手をつないで数珠繋ぎになり、おいおいと泣きながら自分たちの村への坂道を歩いていったそうです。「凄い聞き取りだったわよ」と柴さん。今、こうしてレポートを書いていてもその姿に涙が出てきてしまいます。

アマアたちを少しでも幸せに。そのためには、たとえ何時のことになろうとも、日本政府のきちんとした謝罪を引き出さなくてはいけない。そう再度、心に誓った花蓮への旅でした。

続く

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明日に向けて(550)台湾・霧社事件と原住民と「慰安婦」・・・福島原発事故と戦争の負の遺産(中)の2

2012年09月25日 23時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20120925 23:30)

台湾の友人宅にいます。今朝、ここで東京から来る柴洋子さんと合流し、電車で東海岸にある花蓮まで行ってきました。

花蓮にはタロコ族の方々が住んでいて、その中のイアン・アパイアマアとイワル・タナハアマア、そうしてもう一人のアマアを訪ねたのですが、昨夜、いつも威厳を称えながら、どこかお茶目なイアン・アパイさんが、病にかかって入院中であることを聞きました。ショックでした。あらためて多くのおばあさんたちが本当に弱ってきていることを感じました。

さて、今回はこのタロコ族のことについて書いておきます。台湾には中国大陸からわたってきた多くの漢族の方たちがいますが、それ以前にこの島に住んでいた方たちを「原住民」を総称しています。日本では「原住民」という言葉が差別的に使われてきたことから、「先住民」という言葉が使われるのが通例ですが、台湾ではほかならぬ「原住民」の方たちが、「先住民」だと先に生きていてもういないみたいなので「原住民」の方がいいと選択したそうで、この言葉が使われています。

台湾の原住民は現在では14族が台湾政府によって公認されているのですが、今もその区分けが新たに進んでいる最中です。タロコ族も、独立民族として認知されたのは2004年のことで、それまでは「タイヤル族」に含むものとされていました。しかし言語に違いがあり風習も違う。またほかならぬタロコの方たちから、自分たちは「タロコ族」だという声があがって新しく12番目の民族として台湾政府に認知されたという経緯を辿っています。

台湾の原住民は、その多くが山の民ですが、もともと山に住んでいたわけではない。大陸からたくさんの漢族が断続的に移住してくる中で、しだいに平地から押し出され、山にあがっていった経緯があります。それ以前には記録として残された歴史がなく、実態は分かっていません。各部族はそれぞれに独自の言語を持っており、近隣の部族間で言葉が通じることもありますが、台湾全体でみたときの統一言語はありませんでした。

日本は1895年から50年間にわたって台湾を植民地支配しましたが、このとき日本は原住民を「高砂族」として総称していました。そしてこの「高砂族」が第二次世界大戦に突き進んだ日本軍に重要な存在となっていったのですが、その遠い原因を形作ったのが、1930年10月に行われた霧社事件でした。霧社は、台湾中部の山岳地帯にある町で、現在は南投県仁愛郷に属します。

日本は台湾統治において、さまざまな文化政策も推し進め、その中には現在もなお台湾社会の中で評価されているものもあります。その一つが、日本語教育の普及によって、はじめて台湾全土の統一言語ができたこともその一つでした。それまでは大陸から移ってきた人々が話すビンナン語(現在の台湾語)、漢族の一部で、アジアのユダヤ人とも言われる客家(ハッカ)の人々が話す客家語、それぞれの原住民が話す言葉が乱立していて、共通言語がなかったのです。

日本語が初めての統一言語だったということに、なんとも複雑な思いを抱かざるをえませんが、そのため実際に、戦前に教育を受けた多くの方々が、流暢な日本語を話します。僕が出会ったおばあさんたちの多くも、日本語を話す。それも僕らがもう使わなくなった、古く、情緒のある日本語をです。

性奴隷の被害を受けたおばあさんたちが他に話す言語もそれぞれに違うので、おばあさんたちにとっても日本語が共通語であったりします。そのため高齢の漢語を話さないおばあさんたちからの聞き取りは、日本人が行った方がうまく進む場合もあります。

ただし受けることのできた教育によって、日本語能力が違っています。今回、メインにお会いするつもりできた呉秀妹アマアは、貧しく教育を十分に受けられなかったので、日本語は片言です。それでいつも「わたし、日本語、うまく話せない」と恥ずかしそうに言う。「話してるよ。上手だよ。よく分かるよ」という会話からいつも話が始まります。

ただし客家であるアマアは客家語と台湾語が話せます。北京語はあまりわかりませんが、これに片言でも日本語を話せるので、3つの言語が使えるわけです。このように台湾の多くの人々が複数の言語を話します。親戚が一同に集まると、一つの言葉では通じない人がいるのが普通のあり方だそうです。そのため会話の途中でしばしば言語が変わるのだとも聞きました。

日本統治下では、これ以外にも、水利工事を進めたこと、ダムを作って発電を始めたことなど、台湾社会の近代化の基礎が作られていきました。近代化自身がいいことであったかどうかという問題もありますが、今はそこには踏み込まないでおきます。

大事なことは、こうした近代化への「功績」がハイライトされることでみすごされがちだったのが、日本が過酷な原住民支配を行ったことでした。山の中に住み、独自の風習を持つ人々に対して、統一政府を持たない漢族は、支配をおよぼすことができませんでした。彼らは山の民を蕃族と呼び、文化的に見下しつつ、一歩でその存在を畏怖していました。

これに対して日本は軍や警察の力をも総動員して山の民を日本の統治の中に組み込んでいきました。その重要な基地となったのが、各地に作られた警察の駐在所と学校でした。暴力機構としての警察の存在と、一方での文化的統治の要としての学校の存在をもっての統治化は、次第に効果を及ぼし、日本による山岳民族の統治はひとたびは成功したかに思われました。

しかし山の民を見下し、何かにつけて暴力を振るう日本人警察官を中心とした支配は、山の民の尊厳をしばしば傷つけ、深い矛盾を作っていきました。そしてそれが爆発したのが、霧社事件でした。

霧社の部族長の息子を日本の役人がステッキで殴ったことをきっかけにして、この部族の人々による蜂起が発生。人々は駐在所を襲った後、ちょうど運動会を行っていた小学校に乱入し、日本人ばかりを狙って、140人も殺害しました。これにすぐに日本政府が対応。日本軍精鋭部隊をこの地に送り込んで、掃討作戦を行いました。

しかし山の人々は頑強な抵抗を行いました。急峻な山に立てこもり、縦横無尽に山を駆け巡る山の民を前に、近代的は兵器で武装した日本軍は苦戦。大砲の使用はもちろん、航空機や毒ガス兵器なども使用したものの、山の人々の俊敏さにはかないませんでした。

そこで日本軍は蜂起に参加しなかった山の民に目をつけ、掃討作戦への参加を要請、政治的圧力とともに金銭による勧誘や、待遇の改善の約束などを加え、多くの民が掃討作戦に狩り出されていきました。山の民に山の民をぶつけたのです。

日本軍を相手取っては、圧倒的な優位を示していた山の民はこのもとで次第に追い詰められていき、戦闘不能に陥って、やがて全面的に投降しました。その間に殺されたものが700名、投降者は500名だったといわれています。これらの人々は、その後、長きにわたって、過酷な監視下での生活を強いられました。

さてこの霧社事件から、日本軍は重要な教訓を引き出しました。山岳戦闘における山の民の圧倒的な戦闘力を積極的に活用すべきだということでした。これ以降、各地の部族の若者への軍からの勧誘が行われました。一部は正式な軍人として、一部は民間人のままの徴用として、若者たちの多くが「皇軍」に参加しました。彼らは日本軍が参戦したアジア各地での戦闘、とくに山岳地帯、森林地帯での戦いの最先端部隊の位置を担わされていくことになります。

そのなかでも有名なのが、1941年12月8日に開始されたフィリピン上陸作戦でした。この作戦でフィリピンのジャングルに入っていった部隊にはその先頭に台湾の山の民が立っていました。小さいころから大きな刀をもって山の中に入り、道なき道を切り開くことになれてきた彼らは、日本軍のジャングルの中での格好の水先案内人となりました。そのため多くの台湾の若者が、日本軍が展開する苛烈な戦線に送り込まれて命を落としていきました。

一方、男性たちがこぞって戦場に狩り出された山の民の村々には、日本人警察官がやってきて、女性たちに軍隊への奉仕を要請しました。夫や恋人、父親が日本軍に献身しているのだから、女性たちも献身せよというのです。そしてその中から、性的「奉仕」の強要がはじまりた。

さらに男性の多くが狩り出されてしまったことで、人々が生活に困ったことにもつけこまれました。日本軍は割りのいい仕事があるといっては、原住民の女性たちを軍のもとに連れて行き、レイプを行い、「慰安婦」の生活を強制していったのです。日本軍は山の民の戦闘力を利用すると同時に、男たちが留守になった村に入り込み、残された女性たちに性奴隷となることを強制したのでした。

これは同じ性奴隷とされた台湾の漢族の女性たちとの大きな違いでした。漢族の女性は、台湾の中で性奴隷を強要されることはあまりありませんでした。基地は地域との関係が強く、台湾人の兵士もいて、漢族の女性を台湾で「慰安婦」にすると、反発を生む可能性があると判断されたからです。そのため台湾の漢族の女性たちは、台湾以外の日本軍展開地に連れて行かれて、そこで性奴隷にされました。それに対し、原住民の女性たちは台湾の中で性奴隷たることを強いられたのです。

こうした歴史を作り出す一つの原因であった霧社事件の地を、僕は2010年の秋に訪問しました。台湾のおばあさんたちの支援組織である婦援会が、おばあさんたちのためのワークショップを、台中の日月潭という湖のそばで開き、そこに日本から何名かで参加させていただいたのですが、そのとき、僕の霧社をみたいという要望を聞いたホエリンさんが、おばあさんたちを伴った霧社見学をスケジュールにいれてくれたのです。

実は軽い気持ちで頼んでしまったのですが、霧社はずいぶん、山の上にありました。いつまで続くのかと思われるワインディングロードをえんえんとあがった先に霧社はあった。おばあさんたちを乗せた車で、この悪路を走らせてしまって申し訳ないと思いながら、僕は80年前にこの道を、「蕃族」討伐のために重武装で登っていった日本軍のことを思いました。

どこまでも続く深い山、それこそ霧がかかり見通しの悪い山々で、日本軍の兵士たちは、その山を自由にかける民を恐怖したことでしょう。そうして山の民は、自分たちの愛する山の精霊に祈りながら、登り寄せる日本軍を撃退するために果敢に戦ったのでしょう。

やがて車が霧社までつき、蜂起のリーダー、モーナ・ルダオをまつる碑などをみながら、僕はそこで行われた戦闘について思いをめぐらせました。そしてその場ではじめて、これまでもご一緒してきたイアル・タナハアマアのお父さんが、彼女がまだお母さんのおなかの中にいたときに、この事件で命を落としたのだということを聞きました。お父さんがどのような立場で亡くなったのかまでは分かりませんでしたが。

ちなみにこの蜂起を起こした部族は長い間、タイヤル族であるとされてきました。しかし実際はそうではなくて、セーダッカ族という人々なのでした。セーダッカ族は日本の学者によってタロコ族とともにタイヤル族の一員と分類され、「セーダッカ」という部族名はなかったのです。ところが最近になって、セーダッカの人々の自己認識が高まり、自分たちは独立の民族であると主張しはじめ、それが認められて、「セーダッカ族」が誕生しました。つい最近のことです。

こうしたことを背景にこの霧社事件をモチーフにした映画が台湾で作られました。その名も「セデック・バレ」です。多くの無名の人々が俳優として抜擢されたそうですが、主人公の妻であり、ヒロインの「オビン」をビビアンスーが演じました。

ちなみにそのオビンにもっとも早くから親しくなり、ベーシックな聞き取りを行ったのが、東京でアマアたちを長らく支援してきた「台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会」の中村ふじゑさんでした。今回も同行している柴洋子さんのお仲間で、僕も台湾の旅を何度かご一緒しています。

このようなことがあって霧社事件は僕にとって歴史の中の一つの「事件」ではすまなくなりました。僕が直接に交わってきた人々の近親者が主人公だった「事件」なのです。その捉えかえしが台湾の中で進んでいますが、日本の中でそれに手を染めたのは(最近の研究は知らないのですが)僕は中村ふじゑさんだけだったのではないかと思います。

だから今、それを僕が担いたい・・・そう2010年の秋に思いつつ、しかしその後の原発事故で、研究が途絶えてしまっていたのでした。あるいは今回はそれを再開させる旅なのかもしれない。そんなことを考えながら、花蓮へと向かいました。

続く

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明日に向けて(549)篠山市、丹波市、舞鶴市でお話します!(9月27日、28日)

2012年09月24日 01時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20120923 16:00)

明日から台湾に行ってきますが、帰ってきて、そのまま篠山市、丹波市、舞鶴市を訪問します。篠山市、丹波市は高浜原発から約50キロにある町、高浜町のとなりの舞鶴市はもっと近くて、20キロ圏内に入ってしまいます。
どちらもこの原発で深刻な事故が起こったら、大変な被害を被る町です。しかしご存知のように政府はその高浜町のとなりの大飯町で原発の再稼働を強行してしまいました。

この地域で想定される事故が恐ろしいのは、何といってもたくさんの原発が集合していることです。高浜、大飯、美浜、そしてその北にある敦賀半島には、敦賀原発ともんじゅがあります。福島第一原発事故が起きた時に、同時に第二原発や女川原発も危険な状態に陥りました。地震や津波が、広範な地域を襲ったからです。
そのためにこれらの地域では、こうした原発災害への備えを真剣に考えておく必要があります。まずは原発を止めることが一番大切ですが、政府が運転を強行している中で、では事故が起こったときにはどうするのか、本当に真剣に考えておく必要がある。
今回、とくに篠山市、丹波市ではこのことについて、みなさんと検討してきたいと思います。

同時に、すでにお知らせしたように、震災遺物(がれき)の広域処理が、なんと高浜町と敦賀市におしつけられようとしています。しかも急ピッチでそれが進められようとしている。原発をおしつけてきたところに震災遺物(がれき)を持ってくるのはなんとも許しがたい。
しかも持ち込まれようとしているのは、岩手県大槌町のもの。同町では、津波で壊された防波堤を作り直すために使いたい、鎮魂の森を作りたいと言っているにもかかわらず、こんなひどいことが強行されようとしているのです。
高浜町の隣の舞鶴市では、とくにこのことについて、みなさんと検討してきたいと思います。

お近くの方、どうかお越しください!
以下、案内を貼り付けておきます。

*****

守田敏也さんに聞こう!
原発50キロ圏内の私たちが知るべきこと

昨年の311東日本大震災から1年半。今もなお福島第一原発から大量の放射能が漏れ続けている。子どもたちは放射能を吸い込まないようマスクを付けて生活し、「外部被曝」を避けるために大好きな外遊びもできない。虫取り、川遊びなどはもちろんできない。そんな生活を強いられながら、見えない放射能と戦っている。そして「内部被曝」から子どもたちを守るために、周りの大人たちが日々の食事に気をつけ、体内に放射能を取り込まないように懸命の努力をしている。この現実を知っている人がどれだけいるだろうか?どれだけのメディが真実を報道しているのだろうか。

今この時も被曝している人がいることを忘れてはならない。

そんな取り返しのつかない事故の後、再稼働を始めた大飯原発。その大飯原発から50キロ圏内、丹波地方に住む私たちが「知るべきこと」「原子力災害対策」を守田敏也さんに学び、考えて活かしていきましょう。

守田敏也さん講演会

日時:9月27日(木)午後7時~9時
場所:篠山市民センター 1F多目的ルーム
兵庫県篠山市黒岡191 TEL:079-554-2188

資料代 500円

***

守田敏也さんを囲んで

日時:9月28日(金)午前10時~12時
場所:丹波市柏原住民センター 2F会議室
兵庫県丹波市柏原町柏原5528
TEL:0795-72-2552

資料代 500円 託児あります(要予約)
080-2533-6972(足立)23日までにご連絡ください。

主催 『放射能から子どもを守る丹波ネットワーク』加盟団体
どろんこキャラバン★たんば実行委員会
丹波篠山避難移住者ネットワーク・こっからネット
新しい風プロジェクト
3.11を憶念する会
ピースたんば
つなぎ村こどもプロジェクト
NPO法人バイオマスフォーラムたんば
NPO法人風和

後援 篠山市 丹波新聞社

なおチラシは以下から見れます。
どろんこキャラバン☆たんば オフィシャルブログ
http://doronkocaravantanba.seesaa.net/

*****

今、一番に知っておかなければならない事があります。

守田敏也講演会
「子どもたちを放射能から守る」
~東北被災地のこと、内部被曝のこと、ガレキのこと~

9月28日(金)
午後6時半開場
午後7時開演

舞鶴市中総合会館(中央公民館)
舞鶴市余部1167

参加費無料(運営費カンパを募っています)

主催 がれきねっと若狭

共催 復興ミーティング
   子どもたちのふるさとを守る「ままコモ会」ほか

お問い合わせ(今井)
hadashi088i4rest@yahoo.co.jp

以下は舞鶴市民新聞社の記事です。
http://www.maipress.co.jp/menu/topix.html

 

 


 

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明日に向けて(548)台湾のおばあさんのこと・・・福島原発事故は戦争の負の遺産とつながっている(中)

2012年09月23日 10時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20120923 09:30)

明日のお昼頃、関西空港から台湾に向けて飛び立ちます。27日までの短い旅です。
今回の旅の目的は、私たちの義理の親子のような関係にある呉秀妹阿媽(ウーシュウメイアマア)さんを訪ねることです。阿媽(アマア)とは台湾語で「おばあさん」のこと。秀妹阿媽と初めて出会ったのは2006年秋のこと。証言をしてもらうために京都にお招きしました。

そのとき大変、仲良くなり、2008年秋にもお招きしました。台湾にも何度か阿媽を訪ねていきました。阿媽は90歳を越えているのに、とても元気で好奇心も旺盛。新しいことを見ると何でも挑戦したがるとても可愛らしいおばあさんです。
ところが今年になってその阿媽が弱ってきました。だんだん衰弱してきて、ふっくらしていた顔がかなり痩せてしまった。夏になり、入退院を繰り返すようになり、ご飯もあまり食べれなくなったと聞きました。「これはお見舞いに行くしかない!」阿媽に「日本の娘」と呼ばれている連れ合いや、一緒に活動を担ってきた友人と相談し、急きょ、訪問を決意。
それを台湾に伝えたところ、阿媽はまた元気になってくれて、退院してくださり、自宅で私たちを待ってくれています。運の良いことに、阿媽の誕生日が9月24日なので、台湾の支援者も集まって、誕生日パーティーを開く予定です。

今回はそれとともに、花蓮というところにも行くことになりました。タロコ族の方たちが住んでいるところで、その中のイアン・アパイ阿媽が、秀妹阿媽が来てくださったときに、ご一緒してくださいました。これへの返礼として友人たちが2007年2月に花蓮を訪ねたのですが、僕は急用が入ってどうしても行けなかった。それだけに今回の訪問は嬉しいです。
この他、台中にも訪れて、やはり入院している他の阿媽をお見舞いします。この方は僕はお会いしたことがない方なのですが、新しく阿媽とお会いできるのもとても嬉しいことです。27日に関空に帰り着いて、そのまま兵庫県篠山市、丹波市、舞鶴市を訪れる慌ただしいスケジュールになってしまったのですが、阿媽たちと温かい時間を過ごしてこようと思います。

さて、今回、この阿媽たちのことを紹介したいと思うのですが、そのために2006年秋に、初めて阿媽たちをお招きしたあとに、僕があるところに書いた報告文を掲載することにしました。2006年12月に書いたものです。これを読んでいただけると、阿媽の人となり、また阿媽たちと接することの意味をご理解いただけると思うからです。長くなりますがどうかお読みください。

*****

台湾からアマアたちを迎えて 2006年12月
証言集会京都 守田敏也

「あなたの名前は何というんだい。名前を教えておくれ。名前が分からないから、今日はあなたのことを何て呼んだらいいか、分からなかったよ」
アマアたちに泊まっていただいた宿舎から、私が帰ろうとしたある晩のこと、呉秀妹(ウーシュウメイ)アマアが、パジャマ姿で玄関まで出てきて、こう語りだしました。アマアの話している言葉は台湾語、婦援会から付き添いできていた呉慧玲(ウーホエリン)さんが、英語で通訳してくれます。そこにみんなが集まってきました。
「あなた」とは私の連れ合いの浅井桐子さんのことです。彼女が「桐子と言うのよ」と答え、それが英語になり、台湾語になってアマアに伝わりますが、「きりこ」という発音は少し難しかったらしい。何度か「何て言うんだい?き・り・こ?」というやりとりが繰り返されました。やがてアマアは語りだします。「桐子は、今日は実の娘のようだったよ。こんなに優しくされたことはないよ。なのに私は名前も呼べなかったよ」。

この日、私たちは、アマアたちに秋の京都を楽しんでもらおうと、紅葉の名所として名高い鞍馬温泉にみなさんをお連れしました。そこに大阪での証言集会のために来日した、イオクソン・ハルモニが大阪の方たちと合流してくれました。
一行は、紅葉を楽しんだあとに、鞍馬温泉にゆっくりつかり、釜飯を食べて楽しい一時を過ごしました。その後に、蓮華寺というお寺によって抹茶を飲み、さらに衣料品店のユニクロによってショッピングも楽しみました。
宿舎に戻ってからは、アマアたちとハルモニを囲んで宴会を開き、シュウメイアマアも、かわいらしい美声を披露してくれた後のことでした。

「きりこはね。ずっと一緒にいてくれたんだよ。温泉でね、私の身体を洗ってくれたんだよ」「私はね、子どもが産めなかった。だからとても淋しかったんだよ。でも今日は実の娘がいるようだったよ。こんなに嬉しい日はなかった。」そう語りながら、シュウメイアマアは、ポロポロと涙を流します。
「洋服のお店でね。きりこは私のそばにいて選んでくれたんだよ。ホエリンはどこかにいってしまったよ。でもきりこがずっとそばにいたよ」。
私が語りました。「アマア、僕もね、もうお母さんがいないんだよ。だからアマアのことを本当のお母さんだと思っているよ」「ここにいるみんながね、アマアの娘や息子だよ」。すると若い仲間たちから「違う、違う、私たちは孫だよ」という声が出て、その場に笑いの渦がおこります。

「そうかい。そう思ってくれるかい。でもね、私は貧しいんだよ。息子や娘のお前に何もしてやれないよ」アマアはまたそういいながらポロポロと涙を流します。「いいのよ。こうして来てくれただけでいいのよ」と浅井さんが返すと「でも私は何かをしてあげたいんだよ」とアマア。「それなら台湾に行くから、アマアの手料理を食べさせて」。そう私が答えると「私は料理が上手じゃないんだよ。おまえたちにおいしいものを食べさせてあげられないよ」と言う。
「いいんだよ。何でもいいんだよ。台湾に会いにいくよ」。アマアは「ウン、ウン」とうなずいて、また涙を流しました。周りのみんなももらい泣きしながら、笑顔が絶えません。そのままゆっくりと時が過ぎて行きます。

やがて私は車に乗り込み、自宅に向かいました。ハンドルを握り、暗闇の中に照らし出された道路に目を凝らしながら、「ああ、良かったなあ」という気持ちがこみ上げてくることを感じました。アマアたちに京都に来てもらい、証言をしてもらうのは、直接には政府の謝罪を引き出して、この問題の解決を目指すためですが、今すぐそれを実現することはあまりに難しい。ならばせめて、アマアたちに日本に来て、自分の思いを語って良かったと思って欲しい。日本の若者が分かってくれた、思いが伝わったと感じて欲しい。そのために、心を尽くしたおもてなしをしよう。それが私たちのグループが心がけて来たことだったからです。
この日は来日から3日目。まだスケジュールの後半が残っていましたが、今回のアマアたちとの出会いが、すでに素晴らしいものになりつつあることを、私は感じていました。あと2日間、何でも望みを叶えてあげたいなと思いながら、私は車を走らせました。


「今度は台湾からおばあさんたちを呼ばない?」
そんな話が私たちの間で出てきたのは、2005年秋に、フィリピンからピラール・フリアスさんをお招きした前後のことでした。
私たち証言集会京都がスタートしたのは、2004年の春。この年は韓国から、イ・ヨンスハルモニをお招きしました。翌年、春にも、桜咲く京都を楽しんでいただきたくて、彼女に来ていただき、秋にはフリアスさんをお呼びしました。
春過ぎから準備として、フィリピンのことに関する学びを深めましたが、それぞれの国や地域によって、同時にまた連れ去られた戦場によって、被害女性の辿った体験が、大きく違うことを私たちは学びました。

一方で、辛い過去を、勇気を持って告発し、社会的正義の実現を求めて行動しているおばあさんたちには、共通の、深い、人間愛があることを感じました。このような経験を経たあとだったので、ある方から「台湾は支援組織もしっかりしていて、ユニークな活動を行っている。お呼びしてみては」と持ちかけられたとき、私たちは、二つ返事で応じることにしました。違う地域のおばあさんたちと交流することで、より私たち自身が成長できるようにも感じたのです。

台湾からお招きすることを決めてから、私たちはまず台湾の歴史を学び始めました。すぐさま分かったことは、私たちがほとんど何も台湾のことを理解していないことでした。またそこには台湾の複雑な歴史の問題自身も横たわっていることを知りました。
自分たちで文献を探したり、大学の研究者をお招きしてレクチャーを受けたり、台湾からの留学生と交流して話を聞いたり、いろいろな角度から学びを深めましたが、その中で私自身は、1997年に発行された『台湾を知る(原題は認識台湾)』という台湾国民中学歴史教科書の日本語版と出会いました。

そこにはこう書かれていました。「1997年の台湾で、大きな話題になった一つが、初めての台湾史教科書(国定)、つまり本書の登場である。「初めて」というと、日本人には意外かもしれないが、実は台湾の学校教育で、これまで「本国史」として教えるのは中国大陸の歴史だけだったのである」「この国における「民主化」とは文字通り、台湾の「民」がよその土地から来た政権の統治から脱却し、初めてこの島の「主人公」になったことを意味している。」
つまり台湾の人びと自身にとっても、歴史は、ようやく自分たちの手で書き始められたところなのでした。日本の植民地時代への評価も含めて、台湾では今、歴史の捉え返しが進行中であることが分かりました。

しかしそのことに触れて、私は考えてみれば、日本も大して変わらないという気持ちを強く持ちました。とくに現代史について、日本の学校ではまともに教えていません。第二次世界大戦についてもそうです。それどころかわずかに教科書にあった性奴隷問題に関する記述も、なくなりつつあります。
それは同時に、太平洋戦争末期において、アメリカが行った大量虐殺の歴史が不問にふされていることも意味します。今、日本は世界中でも際立った親米国家ですが、アメリカには広島・長崎に原爆を投下され、沖縄は島民の三分の一が亡くなる上陸戦をしかけられ、さらに全国80以上の都市が、空襲によって焼け野原にされました。
私はそのことを、アメリカに謝罪させる必要があると思っています。アメリカは民間人の大量虐殺であった原爆投下も、都市空襲も、いまだに悪かったとすら思っていないからです。そして朝鮮、ベトナム、アフガン、イラク等々、大量虐殺の戦闘を繰り返し続けています。

このことを不問に付して来たことと、日本のアジア侵略の徹底した反省を深められなかったこと、そのもっとも非人間的なあらわれである性奴隷問題に、政府の真摯な謝罪がなされていなことは、密接にからみあっているのではないか。私はそう思うのです。
私自身、広島原爆後に、陸軍兵士として救助にかけつけながら、爆心地に入らなかったために二次被曝をまぬがれた父と、東京深川に生まれ育ち、東京大空襲の爆心地にいながら奇跡的に助かった母の間から生まれた子どもです。その私のルーツを探ることと、アマアたちの受けた傷をとらえかえしていくことは一つにつながっている。台湾の歴史を捉え返し、書き換えて行くことは、私たちの歴史を書き換えることであり、よりよきアジアの未来を探ることだと感じたのです。


さてそのような準備を経ながら、だんだんと予定の日にちが近づきだしました。私たちは、台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会の柴洋子さんと連絡を取り、台湾のアマアたちのことをさまざまに教えてもらい、やがて婦援会のホエリンさんと直接メールのやりとりを始めました。
10月には二人のアマアと、ホエリンさんが埼玉を訪れるになったので、メンバーの浅井さんと村上麻衣さんが埼玉まででかけ、たくさんのことを学んで帰ってきました。
ホエリンさんとの連絡のメールは、浅井さんが担当しましたが、私が英訳を行ったので、だんだん自分がメールのやりとりを行っている気持ちになってきました。

ところが来日が迫ってくるのに、なかなか来られる方が決まりません。こちらはアマア一人と付き添いの方一人分の旅費を用意していると伝えていたのですが、決まらないのです。スケジュールのディティールを教えて欲しいというので、証言集会のあとにウェルカムパーティーを用意していることや、鞍馬温泉へ遊びにいくこと、証言は他に仏教大学にいくこと、観光にも案内することなど、一緒に楽しみたいことを伝えようとしました。
それに対する回答は、なんと3人のアマアがやって来るとのことでした。さきほど紹介した呉秀妹さん(91歳)と、陳樺(チンホア)さん(83歳)、イアン・アパイさん(78歳)です。それにホエリンさんの他、楊麗芳(ヤンリーファン)さん、高秀珠さんが付き添ってくるとのこと。2人の予定が6人です。渡航費用は2人でいいとのことでしたが(後に台湾政府から援助が出ていることを教えてもらいました)、これには驚きました。
「えーい、やるしかない」と決断。すぐさま車の手配などに入りました。大きなレンタカーを借りる、2台、いや3台の車を使うなど、候補が二転三転します。

と、ところが、肝心のフライトスケジュールがこれまたなかなか決まらない。迎えに行く時間がきまらず、車の手配ができません。いやそれどころか本当に来日できるのか、だんだん不安になってきます。
ホエリンさんに問い合わせたところ、どこかのんびりした回答が帰ってくる。それが一層不安を募らせるのですが、間際になって彼女からのメールにも焦りが反映しだします。「まだチケットが取れないので、スケジュールの確定はもう少し待って欲しい」そんなメールが届きましたが、とうとう直前になって「帰りのフライトがまだ取れません。ここまできたら、私たちが行けるかどうかは運にかかっています」というメールが。しかも“See you soon”(直訳は「すぐにお会いします」)と結ばれていたメールが“I hope see you soon”(直訳は「すぐにお会いできることを願っています」)に変わっている。ホ、ホープ?
結局、このメールを最後に、連絡は途絶え、不安を抱えながら関空まで出迎えることになりました。最悪の場合、埼玉の集会のときに撮ったビデオを流すしかないと腹をくくりつつ、空港に向かいましたが、そこには一行6人がちゃんと来て下さいました。合流できた時の嬉しさは一塩でした。

その後に、怒濤のような毎日が始まりました。その詳細は取材日記として書かせていただいて、台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会のホームページに載せていただきましたので、それにゆずりますが、とにかく毎日がハプニングの連続でした。
もっとも意外だったのは、アマアたちが3人ともとても元気だったこと。行動力があり、好奇心旺盛で、体力も抜群でした。高齢のおばあさんたちだからと、ふんだんにとってあった休憩時間は、すべて何かのスケジュールに変えられました。ホエリンさんが“Morita-san, Do we have time?”と尋ねてきては、あれをしたい、これをしたいと話してくるのです。その横でおばあさんたちが目をキラキラさせている感じがして、その都度、ご要望に応えることになりました。
今から思えば、アマアたちの身体の調子や疲れ具合を一番知っているのがホエリンさんでしたから、ざっくばらんに要望を出してもらえてとても良かった。結果的に、楽しそうにはしゃぐアマアたちの顔をたくさん見ることができました。紅葉や金閣寺を見て、日本語で「きれい、きれい」と語るアマアたちの顔、ショッピングにでかけて、たくさんの洋服を手につかんで、夢中になっている顔、どれも今でも思い出すと楽しくなります。

肝心の証言は、私たちの集会と、仏教大学での講演会の都合2回お話してもらいましたが、どれもが尊厳に溢れていて、強く感動させていただくものでした。そのすべてをご紹介したいところですが、あえてそのうちの一つを紹介したいのは、陳樺(チンホア)アマアの証言です。なぜなら彼女は、今回が初めての証言だったからです。とくに圧巻だったのは、二度目になる仏教大学でのお話でした。

彼女はフィリピンのセブ島に連れて行かれ、性奴隷の生活を強制されました。それだけでなく、フィリピン奪回のために大軍で押し寄せたアメリカ軍と、日本軍の戦闘に巻き込まれ、地獄のような戦場をさまよいます。私はフィリピンからフリアスさんをお招きする過程で、このセブ島やその対岸のレイテ島などで戦った、旧日本軍兵士のおじいさんからの聞き取りも行っていたため、とくにその背景がよく見えるような気がしました。
 
陳樺アマアは、戦闘の激しさを身振り手振りで表現しました。米軍は海から凄まじい艦砲射撃を加え、さらに徹底した空襲を加えて日本軍を圧倒していくのですが、アマアはそれを「かんぽうしゃげき」と日本語で語り、「パラパラパラ」と空襲や米軍の銃撃の様子を伝えました。装備の手薄な日本軍兵士とて、鉄兜ぐらいはかぶっています。そのなかを粗末な衣服で逃げねばならなかったアマアのみた地獄はどのようなものだったでしょうか。

そればかりか彼女たちは弱ったものから次々と日本軍に殺されていったのです。そして20数名いた彼女たちはとうとう2人になってしまいます。そこで米軍に投降した日本軍とともに米軍キャンプに収容されるのです。
ところがそこまで一緒だった女性が、そのキャンプの中で日本兵に殺されてしまいます。そのことを語りながら、アマアは号泣しました。過酷な地獄を励まし合って逃げたのでしょう。その友の死を彼女は、泣いて、泣いて、表現しました。
聞いている私も涙が止まりませんでした。20数名のなかの1名の生き残りは、この地域の日本軍兵士の生き残り率と気味が悪いぐらいに符合します。日本軍が遭遇した最も過酷な戦闘の中にアマアはいたのです。

この話を聞いているときに、私は不思議な気持ちに襲われました。被害女性たちが共通に受けたのは、言うまでもなく男性による性暴力です。その話を聞くとき、男性である私は、いつもどこかで申し訳ないような気持ちを抱かざるを得ませんでした。いや今でもやはりその側面は残ります。私たち男性は、自らの性に潜む暴力性と向き合い続ける必要があるのです。
私たちの証言集会では、このことを実行委メンバーの中嶋周さんが語りました。「男性ないし、自らを男性と思っている諸君。われわれはいつまで暴力的な存在として女性に向かい合い続けるのだろうか」「われわれは、身近な女性の歴史を自らの内に取り込んでいく必要がある。まずは女性の歴史に耳を傾ける必要がある」。すごい発言だなと思いました。正直なところ進んでいるなと思いました。そうあるべく努力をしてきたつもりでも、どこかでそこまで自信を持っていいきれないものが私の内にはある。

ところが戦場を逃げ惑う陳樺アマアの話を聞いているうちに、私にはそれが自分の身の上に起こっていることのように感じられました。まるで艦砲射撃の音が聞こえ、空からの攻撃が目に映るようでした。そして友の死。その痛みが我がものとなったとたん、それまでのアマアの痛みのすべてが自分の中に入ってきました。
騙されて船に乗せられ、戦場に送られ、レイプを受ける日々の痛みと苦しみ。同時にそこには、これまで耳にしてきた被害女性全ての痛みが流れ込んでくるような気がしました。私は私の内部が傷つけられ、深い悲しみに襲われました。そのとき私は、男性でも女性でもなく、日本人でも、韓国人でも、フィリピン人でも、台湾人でもなく、同時にそのすべてであるような錯覚の中にいました。陳樺アマアの体内に滞ってきた悲しみのエネルギーの放出が、私に何かの力を与え、越えられなかったハードルがいつの間にか無くなっていくような感じが私を包みました。
残念ながら、その感覚はすでに去り行き、私は今、やはり男性で日本人です。しかしあのとき垣間みたものを追いかけたいとそんな気がします。そこにはここ数年、この問題と向かい合う中での、私の質的変化の可能性がありました。今はただ、それを私に与えてくれたアマアのエネルギーに感謝するばかりです。

このようにしてアマアたちをお迎えした5日間は、あっという間に過ぎて行きました。それは夢のような素敵な日々でした。私たちは今、来京へのお礼をするために、2007年2月に台湾を訪問することを計画中です。
どなたとの再会も楽しみですが、とくに私が心にかけているのは、イアン・アパイアマアの山を訪れることです。アパイアマアは、独特の尊厳あふれる風貌を持ち、その上、いつも静かに笑っている方でした。その横に、アマアと同じ苦しみを受け、痛みを分け合ってきながら、先年、亡くなられた雷春芳(レイチュンファン)アマアの娘さんの高さんが寄り添っていました。
今回の短いお招きでは、タロコ族のなかで、被害女性として生きてきたアマアの思いに、十分、耳を傾ける時間を持つことができませんでした。それをアマアの愛する山に行って聞けたらと思うのです。そしてそのお話も、きっといつかまた、私の体内に流入してくるでしょう。

私たちは、彼女たちの受けた苦しみを、私たちの中に取り込むことで、人間的に豊かになり、平和を紡いでゆく力を、私たちの中に育んでいけるのだと思います。その可能性に触れることができることは喜びであり、誇りでもあります。そのことをしみじみと感じることのできた経験を、私は積極的に生かしていきたいと思います。

続く

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