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明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(573)平智之衆議院議員と対談します。(11月4日)

2012年11月02日 09時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121102 09:30)

11月4日に、大飯原発再稼働に反対して民主党を飛び出した衆議院議員、平智之さんと対談することになりました。

平さんは民主党にあって、「原発事故収束対策プロジェクトチーム」事務局次長として「禁原発」を訴えてきた方です。「禁原発」とは、「脱原発」といいながら、何年後には原発を止めるとかの時間稼ぎばかりを画策している他の議員たちの姿勢に対し、「即時廃炉」を明確にするための言葉。
このため野田首相による大飯原発再稼働強行決定に対して、二日後の6月18日に離党届けを提出。禁原発の意志を貫きました。

この時の思いを平さんは次のように語られています。
「再稼働に至り、もう私自身の一貫性が保てないと判断しました。党内で何を言っても、”ガス抜き”に使われるだけだと気がついたのです」
「これまで原発利権に巣くっていた政・官・財の『鉄のトライアングル』が原子力政策の変更を許さず、野田首相もこれに屈して続行を宣言したということ。これで、政権交代の意味はすべてなくなりましたね」(週刊金曜日20120803号)

そんな平議員が、京都から選出されている方であるということもあって、京都で放射線防護で奮闘してきたある友人から、この禁原発の思いに共感している、僕にも話をしてみてほしいとの話が舞い込みました。
それでともあれお時間を作っていただき、お会いすることになり、京都の平さんの事務所をおたずねしました。

しかしどんな話になったかというと、はじめはあまりかみ合いませんでした。平さんは国会でいかに原発を食い止めていく法律を作るかを考えていらっしゃいます。
僕はそれはそれで大事なことだとは思うけれども、正直なところ、国会の中のことは僕にはできることがないし、申し訳ないけれどもそれほど関心がありません。
すべての原発の即時廃炉を求めている点、また低線量被曝の危険性をしっかりと認識し、徹底した放射線防護を推し進めようとの方向性ではまったく違いがないものの、そこに向かうスタンスがあまりに違うように思えたのです。

その思いは、今もすべてが解消したわけではありません。そもそも僕には国会という場がよく分からない。なんというか、あまりに遠いい場だというのが正直なところです。とくにそこでの多数派形成ということに胡散臭さばかりを感じます。

漠然とした言い方ですが、どうも僕には、国会には、パワー崇拝が支配しているように思えてならない。「正しいことを言っていても、少数派であるかぎりはダメだ」とか言って、多数派を目指すうちにどんどん志が曲がっていく。
それは志よりもパワーに価値をおいているからではないか。その考えは、強ければいい、力があればいい、だから原発も持ちたい・・・と戦後日本が走ってきた考えと根っこを同じにしているのではないか。それがこびりついているのが国会なのではないかと思えてならないのです。

ただそれだけ言っていたら、国会議員という存在を全否定してしまうことになるし、そこで志を貫こうとする行為も全否定してしまうことになる。
それではあまりに傲慢だということはわかっています。でもそれでは国会の場で人はどう行動すればいいのか僕にはよく見えない。少数派でもいいではないか。志を曲げなければそれでいいではないかと思うのだけれど、それで議員を続けられるのかどうか僕にはわかりません。

そんな思いがあり、話の方向をどこに持っていったら良いのか、おそらくお互いに困っていた時間があったと思うのですが、あるところからピタッと一致する見解が得られました。それは今の世の中、この日本の状態が、私たち、男性が中心になっていることによってもたらされてるのではないかという点です。

平さんは言います。女性はダメなものはダメ、危ないものは危ないと発想する。男性は、ダメかもしれないけれども、電力はどうするのかとか、危ないかもしれなけれども、代替するものはあるかとか、そういう理屈(実は屁理屈)を持ってこられると、どうもそれにはまってしまう傾向がある。
それで官僚は、論議の本質からすれば枝葉のところに議論をずらし、細かい点に話をもっていこうとするのだけれど、男性はこれにはまりやすい。その挙句にダメなことはダメだと言い切れずに押し切られてしまうのだというのです。これを変えなければいけないとも。

「え、そう考えるのですか?それはいい。そういう考えなら何か一緒にできますね」と僕は説得されてしまった。ああ、なんだかこの人は僕がイメージしている「国会議員」っぽくないなと思いました。「禁原発」=ダメなものはダメ!それには共感するなあと思ったのです。

でも今になってもやはり僕には国会はかなり胡散臭い場に思えるし、そこで志を曲げずにどう動いていけばいいのかさっぱり分からない。多数派を目指し、「嫌な人たち」と組んでしまうことはないのか、その道しかなくなってしまうことはないのか、そのとき平さんはどうするのかという懸念もあります。
しかしだからといって国会なんか放り出してしまえとも言えず、ウーム・・・といううなりが僕にはある。

それで4日はこの思いそのものを平さんに聞いてみようという気になっています。
そもそも国会というところが分からないので、議員をされてきた平さんに謙虚に学んでみよう、その中で市民が国会に対して何かできるのか、そんなことを僕なりに考えてみようと思います。

そのため対談と言っても、僕が話をお聞きする場になってしまうかもしれませんが、その中から何か、私たち全体にとって有益なものを探しあてていきたいと思います。

というわけで、どのような結論にいたるのか、僕にも見えないところがありますが、どうかみなさんと一緒に、国会とは何か、そこに市民はいかなる影響を与えらるのか検討してみたいと思います。ともに考える場にぜひお越しください。

なお対談に先立って、それぞれに講演を行います。
平さんの演題は「電気は足りている。科学に基づいた禁原発論」です。
同じ内容になるかどうかわかりませんが、平さんの主張は以下の毎日新聞インタビューで読むことができます。
http://mainichi.jp/select/news/20120924mog00m040019000c.html

僕の演題は「大飯げんぱつ事故想定の際の避難訓練と心構え」です。
先日、同志社大学の寮で話した内容などをコンパクトにまとめてお話します。
記事を記しておきます。

明日に向けて(556)(569)(571)原発災害に対する心得(上、中、下)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/a276d3555af84468c1db19966b59cf16
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/0fd8fbc4681c2a073c73e4a0f95896bf
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/ed69f6466c0d72c16f70a371e599df31

順番では僕が先にお話し、次に平さん。休憩をはさんでトークセッションになります。
詳しい案内を以下に記しておきます!

*******
 
げんぱつ震災を生き延びる為の緊急対談
「わてら爆発しますえ、助けとくりゃす。地震来る前に止めとくりゃす。」byげんぱつ
 
講師 平 智之(衆議院議員)
   守田敏也(フリーライター)
 
11月4日(日)18:00開場 18:15~20:30(予約不要)
 
ひとまち交流館・京都 第5会議室(定員80名)カンパ制(500円程度)
 
託児アリ 2歳以上6歳まで(未就学児)
(8日前迄に要予約・10名程度 託児1000円)
 
問い合わせ 託児は要予約 :ママパパ&放射能バスターズ京都
kyoto.kodomo.inochi@gmail.com
 
プログラム
 
18:15~18:45
「大飯げんぱつ事故想定の際の避難訓練と心構え」:守田敏也
18:45~19:15
「電気は足りている。科学に基づいた禁原発論」:平智之
19:20~20:20
平智之さん&守田敏也さん トークセッション
20:20~20:45
質疑応答など
○プログラム内容は告知無く変更になる場合もございます。
 
平智之さん プロフィール
昭和34年京都市中京区生まれ、京都育ち。洛南高校・京都大学工学部卒業
米国UCLA大学院修了。KBS京都・関西TV「モーレツ科学教室」等タレント活動
喫茶店マスター、政策シンクタンク等を経て、現在、衆議院議員(京都1区)
同志社大学嘱託講師。平成24年7月3日に大飯原発再稼働に反対して民主党を離党
現在「禁原発」を唱える「平安党」の発足に尽力。
http://www.t-taira.net/
 
○ご参加のみなさまに講演をしっかりと聴いて頂きたいので、
18:10までにご着席ください!

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明日に向けて(572)11月3日イノチアクションでお話します。

2012年11月01日 23時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121101 23:30)

このところ少しく疲れが出て、「明日に向けて」の更新が滞りがちで申し訳ないと思っています。
体調を整えて、また情報発信を続けていきますので、よろしくお願いします。

さて今週末に二つのイベントに参加します。一つは11月3日大阪で行われる「イノチアクション」です。主催は「イノチコア」さんです。「関東からの避難者と避難を希望する関東在住者が中心となり発足したグループ」である点に特徴があります。

反原発と反放射能をはっきりと掲げており、震災遺物(がれき)焼却にも当然にも反対ですが、できるだけ多くの人と、ゆったり、おおらかにつながりたいと思われています。そんな思いや配慮は、HPやチラシをみるとよく分かります。
とくに「がれき」の問題で、政府による「放射能は怖くないキャンペーン」の中で、まだ問題がよく見えていない人ともつながりたい、話のきっかけを作りたい、そのためにはどんな形で企画をすすめるといいのか悩まれてきました。

そんな折に、たまたまメンバーが、京都の自然食レストラン、キッチン・ハリーナを訪れ、そのときに食事に行っていた僕との出会いがあって、内部被曝のことを現場で話して欲しいということになりました。
僕も、「イノチコア」さんたちが、多くの、さまざまな人たちとの、おおらかなつながりのもとで、反原発・反放射能のアクションを広げていきたい、そのためにも、アーティスティックな催しにしたいという思いに共感し、お話をさせていただくことにしました。

企画は二部に分かれています。15時から17時までパレード。続いて、17時から19時がお祭りです。僕はこのお祭りの冒頭で30分話をさせていただきます。もちろんパレードから参加します。
大阪のみなさん、関西のみなさん、イノチコアさんたちの新たな取り組みにぜひご注目ください。どうかご参加を!

以下、案内を貼り付けておきます。
下の方にある、「瓦礫焼却に反対の方々へ」もぜひお読みください!

(なおもう一つは11月4日の平智之衆議院議員との対談ですが、これについては次回、詳報を載せます!)

*********

反原発・反放射能デモパレードin大阪
11.3イノチアクション
http://inochicore.web.fc2.com/index.html

2012年11月3日 雨天決行
集合場所 大阪・西梅田公園

主催 イノチコア
協力 ゼロベクレルリンク、おかんとおとんの原発いらん宣言2011
   Twit No Nukes大阪、NO NUKES SPINNER'S ACTION
Special thanks/怒りのドラムデモ、イルコモンズ、アトミックサイト

私もあなたも一つのイノチ
芸術家も 宗教家も 農家も 漁師も 母も 父も 子も
教師も 医者も 政治家も 役人も 電力会社の人も
それらである前に一つのイノチ
山も 空も 花も 草木も 虫も 鳥も 獣も 大地も 水も 風も
私たちのイノチ
花咲かず虫這わぬ大地 魚泳がぬ水 鳥飛ばぬ空
そのような世界では人も生きられません
私たちは何者なのかを考えよう 私たちに何ができるのかを考えよう
いま イノチを見つめ すべてのイノチと生きるために

子どもも大人もみんなで歩こう、アートデモ!!
 
イノチの視点から放射能と原発に向き合えば、むずかしい議論などなくたって「放射能いらない、原発いらない」に決まっています。
言葉より直感、それがアートの力。 すべての人が表現者となれば世界は変わる、それが〈イノチコア〉のヴィジョン!
 
原発事故は、福島や東日本だけの問題ではありません。食品、瓦礫、肥料、飼料などで全国に拡散される放射能は、日本中すべての人にとっての大、大、大問題です。
関東から関西への避難者たちの呼びかけからこのアクションは始まりました。さまざまな地域や立場や感性の私たちが繋がることで、かならず大きな希望と力が生まれます。

しゃべれない動物に変わり声をあげ、動けない草木に変わり歩こう。大地の鼓動で太鼓を叩こう。あらゆるしがらみから自由になってカッコよく楽しく、子どももお年寄りも男も女も、イノチと歩こう! イノチと踊ろう!


「11.3イノチアクション」は、パレードとおまつりの二部制です
14:00
<集合>
★ドラム隊リズム合わせ
★コールの練習
★隊列を組む(当日にお好きなブロックにご参加頂けますが、14:30を過ぎると希望のブロックへ入れない可能性がありますのでお早めにお越し下さい。)

15:00~17:00
<一部> パレード
★途中入り途中抜けご自由にどうぞ。
★16:00ごろから公園で「おまつり」の出店を開きますので、そちらでパレードの到着をお待ち頂けます。

17:00~19:00
<二部> おまつり
★パレードの到着により、開始時間が遅れる可能性があります。
★ドラムサークル、ベクレルフリー屋台、バザー、など
★叩いたり踊ったり、食べたり交流したりとご自由にお楽しみ下さい。
★守田敏也さんによる放射能と内部被曝のミニ講演決定!

 

瓦礫焼却に反対の方々へ

イノチコアは瓦礫焼却反対です。
広域処理の是非以前にアスベストや放射性物質の付着する瓦礫焼却の安全性に疑問を持ちますので、関西であろうと東北であろうと焼却自体に反対致します。

イノチコアは関東からの避難者と避難を希望する関東在住者が中心となり発足したグループです。関東から避難した、または避難を希望する私たちは当然低線量被曝も危険との認識であり、避難先で瓦礫が焼却されるなどとは悪夢に他なりません。コアスタッフの中には、瓦礫が焼かれたら大阪から離れると話す者もいるくらいです。
しかし、私どもの主催する「イノチアクション」は反原発・反放射能の裾野を広げることに専心しており、その方向性を崩すことは出来ません。いったいイノチアクションで瓦礫問題をどう扱えるのか扱うべきか悩んでおりました。

そのような矢先に「市民と科学者の内部被曝問題研究会」常任理事であり、矢ヶ克馬さんと『内部被曝』共著されている守田敏也さんと知り合う縁に恵まれ、デモパレード後のミニ講演をお引き受け頂けました。
瓦礫焼却では、大気中に拡散された放射性物質を吸込んでの内部被曝が懸念されています。内部被曝の危険性を知れば瓦礫焼却の安全性について疑問を持つ方もいると思います。

大阪市での瓦礫試験焼却が11月に予定されていることを多くの人は知りません。突然、瓦礫焼却の問題点を並べたてて「瓦礫焼却に一緒に反対しよう」と詰め寄っても良い返事は得られないでしょう。切羽詰まった態度を見せれば見せるほど、敬遠される経験は皆さまもおありと思います。「11.3イノチアクション」では、あくまでも冷静に「瓦礫問題を周知させる」にお留め下さい。

実は、瓦礫焼却反対の方々数名よりご連絡頂きました。「反放射能を名乗るなら瓦礫焼却に反対しろ」「バッシングだろうが自由にやらせるべきだ」などのメールもございました。私どもの慎重な姿勢はそのような現状があってとご理解下さい。イノチコアとしては、以下を予定しています。

 (1)試験焼却が迫っている旨と、瓦礫焼却反対行動の案内をイノチコアの方からアナウンス致します。
 (2)守田敏也さんの内部被曝についてのミニ講演会時に、イノチコアおすすめの瓦礫焼却についてのチラシを配布します。

< ご注意 >
人それぞれの考えはあるとは存じますが、イノチコア主催の場においては私どもの考えを尊重して下さい。それが守れない方のご参加はご遠慮願います。
 
★資料・チラシの配布をされる方は、「11.3イノチアクション」という場や対象をご考慮下さるようお願いします。内容によっては配布をご遠慮頂く場合がございます。バッシング、揶揄、下品なものは例外無くお断りします。その判断はイノチコアが行い、理由は説明致しません。
 
★誰が相手であっても、感情に任せたヒステリックな態度や攻撃的な態度は絶対におやめ下さい。善意のボランティアであるスタッフへ絡むのも厳禁です。
 
★バッシング、揶揄、下品な幟、プラカード、作り物、腕章、コール、スピーチ、チラシ配布などはご遠慮下さい
 

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明日に向けて(571)原発災害に対する心得(下)

2012年10月28日 23時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121028 23:30)

原発災害に対する心得(下)、連載の最終回をお届けします。すでに(上)(中)でレジュメを掲載しましたので、今回はレジュメ全体は割愛し、取り上げる部分だけ紹介します。「3、避難の準備から実行へ」です。まずは以下に目を通してください。続けて講演の文字起こしにうつります。

***

避難の準備から実行へ
○災害を起した原発と自分の位置関係を把握。基本的には西に逃げる。
○マスク、傘、雨合羽必携。幾つか代えを持つ。
○お金で買えない一番大事なものを持ち出す。その場に戻ってこられないと想定することが大事。どうでもいいものは持っていかない。
○可能な限り、遠くに逃げる。逃げた先の行政を頼る。
○雨にあたることを極力避ける。降り始めの雨が一番危ない。
○二次災害を避けるべく、落ち着いて行動する。

***

同志社大学学生寮講演「原発災害に対する心得」(下)

まず「災害を起した原発と自分の位置関係を把握。基本的には西に逃げる」というところを見てください。ただ事故のときの雲の流れは、必ずしも西から東へではありません。
福島原発事故のときは、セシウムを中心にしてみるならば、最も濃い放射能を含んだ雲は原発から北西の飯舘村方面に流れていき、原発から60キロ離れた福島市まで到達してから大きく南南西に向きを変えて、グッと南下していきました。

都市でいうと、二本松市、郡山市、那須塩原市と通って、やや南西から西南西へと向きを変え、日光を経て前橋方面へと流れていっています。火山学を専攻していて火山灰の飛散などに詳しい群馬大学の早川由紀夫さんが書かれたマップがネットで紹介されています。
繰り返しバージョンアップもされているので、それなどを見て参考にして欲しいのですが、僕も今回の事故があるまで、雲がこのような動きをすることがあるとは知りませんでした。

日本の上空には西から東に強い気流が流れています。だから高い山の上、3000m級の山などで空を見ていると、西側の様子からその後の天候を推察することができます。西の空に雨雲がかかっていると、次第に東に流れてくるので、おおよそいつ頃雨が降るかの予想がつくのです。福島原発事故で、東日本に比べるならば西日本が被曝の影響が少なかったのも、この気流による面が大きいと思います。

ところが福島原発事故にはチェルノブイリ原発事故と比べたときに、雲の流れの面で大きな特徴がありました。というのはチェルノブイリ事故のときは、原子炉の大爆発と同時に、中に入っていた黒炭に火がついて大火災が起きたのです。
そのため放射能が空高くまい上げられました。それが上空を流れる気流にのり、ヨーロッパ中に濃い放射能が流れ、世界中にも放射能が拡散してしまいました。

これに対して福島原発事故では爆発があったり、ベントがなされたり、燃料プールの水が減って、そこから放射能が出たりしたわけですが、火災などはなかったので、放射能は地を這うように流れていきました。どこを通ったのかというと、地表を流れる風の道、つまり谷筋などに沿って流れていったのです。そこは同時に人の道でもあります。

とくに福島市に向かった流れは、国道114号線や399号線があって、浜通りの人々が福島市に出る道でした。南側には阿武隈山地がある。その北側に飯舘村などの高地があり、その低いところに街道があるわけですが、そうしたところに沿うように雲が流れています。

さらに福島市で大きく南に方向を変えるのですが、ここから暫くは恐ろしい程に新幹線の軌道に沿って雲が流れました。福島駅、郡山駅、那須塩原駅の上を通過しています。新幹線は阿武隈山地と吾妻連峰に挟まれた谷の底の、地盤の安定したところを走っていますが、その上に雲が流れていったのです。

それから考えると、地表の普段の風の流れを把握してマップにしておいて、季節ごとの変化などをおさえておくと、いざというときに役立つので、僕もどこからか予算を引き出して、それを作ることを検討したいと思っています。
例えば京都を中心に関西の風の流れマップを作っておけば、どちらに逃げるのがより有利なのかを判断できます。もちろん完全に予測するのは不可能で、賭けのようになる面もあります。その際、上空には西から東へと向かう風が流れていることは大きなポイントです。

この風の流れ、雲の流れを知っていないと、とんでもない悲劇に遭遇することにもなりかねません。今、見てきたように、原発から北西に向かう道、福島市への続く道は、もともと福島県の浜通りの人たちが福島市に出るときの通り道でした。
それで原発の事故のときもこの地域の人々はこの道を通って逃げました。沿岸部は津波の被害も甚大でしたからそのための避難でもありました。

その逃げ道にあたる街道に、3月15日に非常に濃い放射能が降りました。雨や雪になって落ちたのですが、政府も福島県もそのことを人々に一切教えなかった。そのため放射能が降った後にも人々がこの道に殺到し、交通渋滞が起きてしまいました。
たくさんの放射能が降ったその場に、わざわざ車で入っていって、そこに居並んでしまう事態になったのです。原発災害からの避難勧告が五月雨式に出たため、後から逃げた人が多かったことも要因でした。

このとき飯舘村の人々は、自分たちの村が放射能で汚染されていることなど知らずに、浜通りから逃げてくる人を助けました。農家が多かったので、備蓄していたコメを出して、炊き出しをしたそうです。それも家の中でやっていたら間に合わないので、庭先に出て、どんどんご飯を炊き、オニギリを作って、後から後から逃げてくる人々に差し出した。

ところがそのときにものすごい量の放射能が降っていたのです。そのため、あるおばあさんは、後になって「私が放射能を握って食べさせてしまった」と涙を流したそうです。
人々を助けようとした飯舘村の人々にそんな思いをさせただけでも、この情報隠しは本当に罪作りでした。これらは避けることのできた被曝だったのです。「ここに放射能が流れている」と一言伝えれば避けられたのです。こうしたことがあったことを知っておいてください。


次に「マスク、傘、雨合羽必携。幾つか代えを持つ」というところにいきます。放射能はマスクで防げるのかというと、全部は防げませんが、防げるものも多くあります。なのでマスクはしたほうが絶対に有利です。

放射線を発する放射性物質の一つ一つは、原子としてあり、いくつか集まって塊を作ったり、化合物になっていたり、イオン化していたりと複雑ですが、いずれにせよ、その物質だけで存在せずに空気中にあるチリやホコリに付着して、巨大な塊になって存在していることが多いです。それが大きくなればなるだけ危険性が増すわけで、そのためマスクはどんなものでもしないよりはしたほうがいわけです。

もちろん、よりキメの細かなマスクをした方が、より有利さが増しますが、ともあれしないよりはしたほうが断然いいと考えて、とにかく手に入るマスクを必ずするようにしてください。普段から常備しておくといいですね。

この際、有利なのは花粉症を持っていて、対策に苦労を重ねてきた方です。花粉症対策がそのまま放射能対策に適用できるからです。あらゆる微粒子が粘膜に入らないようにする。そのためにゴーグルなどを使っている方もいますが、あの対策をすれば、チリやホコリについてくる放射能をカットしやすいです。

同じように、インフルエンザ対策も放射能対策に適用できます。外出から帰ったあとの、うがい、手洗い、着替えなど、ぜひ花粉症やインフルエンザ対策をよく調べて、それを頭の中においておいてください。実際に花粉が飛んでいるときは、その花粉に放射性物質が付着して飛んでくるので、まさに花粉のカットが放射能のカットに直結します。

あとマスクはすぐに取り替える習慣をつけてください。マスクの仕方は結構、難しいのです。国連では伝染病などがある地域に派遣する職員には必ずマスクの仕方の指導をするそうです。
例えばマスクをはずすときは、両手で耳のゴムをはずし、そのままゴミ箱に捨てなくてはいけない。そうでないと、表面についている汚染物がどこかについてしまいかねないからです。それに触ったら、そこから汚染を受けてしまいます。

ところが実際に、マスクをして長時間経つと、途中で何かを食べたり、飲んだりしたくなります。そのときに外してしておいたりしがちですが、そのときに表面が触ったところを汚染してしまうわけです。ときにはマスクの表と裏がわからなくなって逆さまにつけてしまったりする。こうなったら元の木阿弥です。

ですからマスクは長い時間、同じものを使わないで、どんどん付け替えたほうが良い。インフルエンザ対策などでしっかりしたマスクが大量に安く売っていますから、それらを重ねて使うなど工夫をこらして、頻繁に変えていくとよいです。


次に、傘や雨合羽を使用して、できるだけ雨に当たらないようにしてください。とくに注意すべきは降り始めの雨です。雨は空気中のチリなどに付着して漂っている放射性物質を捕まえて地上に降ろしてきます。なので降り始めが一番、たくさんの放射性物質をつかまえて落ちてくるのです。

ただし経験的に分かることですが、雨は降り始めが一番避けにくいのですね。なので雨が降りそうだったら、あらかじめ合羽を着てしまうとか、傘をすぐにも出せるようにしておくと良いです。また降り始めから雨に当たらないように普段からシミュレーションしておくといいです。自分が用意した合羽で実験しておくのもよいですね。

最後に「二次災害を避けるべく、落ち着いて行動する」ことが大事です。もちろんこれは正常性バイアスにはまり込むことなく、実際の避難行動に移ってからのことです。この場合は危機をしっかり認識しているので、やはり焦りなども生じます。
そのため、いったん逃げようと決意できたら、そこからは心を落ち着け、交通事故などにも気をつけて行動してください。以上が避難の準備から実行に必要なことです。

***

講演内容は以上です。当日はこれに続いて、放射線被曝のメカニズムと、その防ぎ方をお話しましたが、ここでは割愛します。

ともあれ、これまで述べてきた「原発災害に対する心得」をぜひ、多くの方と共有し、話し合い、深めて欲しいと思います。ここにはアウトラインしか書いてないので、どんどん自分たちで工夫を加え、深めていって欲しいです。その際、より良い知恵が浮かんだらぜひ教えてください。

またこうした観点に基づいて、地図を広げて、シミュレーションを行ってください。また例えば旅行に出ているときに原発事故に遭遇したらどうするかとか、シミュレーションを広げていくことも可能です。それらを重ねていればいるだけ、実際の事故のときに役に立つし、他の災害にも応用が効くものが多いと思います。

みなさんの命を守るため、愛する人々の命を守るために、このささやかな「心得」がお役に立つことを祈りつつ、この連載を閉じます。

終わり

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明日に向けて(569)原発災害に対する心得(中)

2012年10月23日 23時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121023 23:00)

明日に向けて(556)で「原発災害に対する心得(上)」を書きました。これは10月7日に同志社大学のある寮で行った防災訓練でお話したことに基づいたものです。そこでは次のようなレジュメも配りました。

***

原発災害に対する心得
 
知っておきたい心の防災袋(防災心理学の知恵)
1、災害時に避難を遅らせるもの
○正常性バイアス⇒避難すべき事実を認めず、事態は正常と考える。
○同調性バイアス⇒とっさのときに周りの行動に自分を合わせる。
○パニック過大評価バイアス⇒パニックを恐れて危険を伝えない。
○これらのバイアスの解除に最も効果的なのは避難訓練
 
2、知っておくべき人間の本能
○人は都合の悪い情報をカットしてしまう。
○人は「自分だけは地震(災害)で死なない」と思う。
○実は人は逃げない。
○パニックは簡単には起こらない。
○都市生活は危機本能を低下させる。
○携帯電話なしの現代人は弱い。
○日本人は自分を守る意識が低い。
 
3、災害時!とるべき行動
○周りが逃げなくても、逃げる!
○専門家が大丈夫と言っても、危機を感じたら逃げる。
○悪いことはまず知らせる!
○地震は予知できると過信しない。
○「以前はこうだった」ととらわれない。
○「もしかして」「念のため」を大事にする。
○災害時には空気を読まない。
○正しい情報・知識を手に入れる。
 

原発災害にどう対処するか
1、原発災害への備え
○災害対策で一番大切なのは避難訓練。原発災害に対しても避難訓練が有効。
何をするのかというと、災害がおこったときをシミュレーションしておく。
○家族・恋人などと落ち合う場所、逃げる場所を決めておく。
○持ち出すものを決めておき、すぐに持ち出せる用意をしておく。
 
2、情報の見方
○出てくる情報は、事故を過小評価したもの。過去の例から必ずそうなる。
○「直ちに健康に害はない」=「直ちにでなければ健康に害がある」。
○周囲数キロに避難勧告がでたときは、100キロでも危険と判断。
 
3、、避難の準備から実行へ
○災害を起した原発と自分の位置関係を把握。基本的には西に逃げる。
○マスク、傘、雨合羽必携。幾つか代えを持つ。
○お金で買えない一番大事なものを持ち出す。その場に戻ってこられないと想定することが大事。どうでもいいものは持っていかない。
○可能な限り、遠くに逃げる。逃げた先の行政を頼る。
○雨にあたることを極力避ける。降り始めの雨が一番危ない。
○二次災害を避けるべく、落ち着いて行動する。
 

放射線被曝についての心得
1、福島原発事故での放射能の流れと情報隠し
○福島原発事故では風の道=人の道に沿って放射能が流れた。
○被曝範囲は東北・関東の広範囲の地域。京都にも微量ながら降っている。
○SPEEDIの情報隠しなど、東電と政府の事故隠しが被曝を拡大した。
 
2、知っておくべき放射線の知恵
○放射能から出てくるのはα線、β線、γ線。体への危険度もこの順番。
○空気中でα線は45ミリ、β線は1mしかとばず、γ線は遠くまで飛ぶ。
○このため外部被曝はγ線のみ。内部被曝ですべてのものを浴びる。
○より怖いのは内部被曝。外部被曝の約600倍の威力がある。(ECRR)
○外部被曝を避けるには必要なのは、放射線源から離れること、線量の少ないところにいくこと。
○内部被曝を避けるために必要なのは、汚染されたチリの吸い込みを避けること、汚染されたものを飲食しないこと。
 
3、放射能との共存時代をいかに生きるのか
○元を断つ。
○被曝の影響と向き合う。被爆者差別とたたかう。
○あらゆる危険物質を避け、免疫力を高める。前向きに生きる。

***

「原発災害に関する心得(上)」では、このうち「知っておきたい心の防災袋(防災心理学の知恵)」についてポイントとなることを書いておきました。今回の(中)では、「原発災害にどう対処するか」について述べていきたいと思います。この点は重要なので、当日行った講演を文字起こししてお伝えしようと思います。

(上)にあたるところで、僕が強調したのは、災害心理学によれば、避難を阻む最も大きな壁は、災害時に、災害の発生そのものを認めようとしない「正常性バイアス」であり、それを解除するにの有効なのは、事前に避難訓練をきちっと行っておくということでした。
それでは原発災害に対してはどのような避難訓練を行えば良いのかですが、それは事故が起こったときに、自分がどう行動するのか、きちっとシミュレーションしておくということです。


原発災害に向けたシミュレーション

ではシミュレーションではどういうことが重要なのか。「家族・恋人などと落ち合う場所、逃げる場所を決めておく」。これがぜひやっておいて欲しいことです。
もしも福井原発で事故が起こったときに、自分がどうするのか。僕が実際に連れ合いと打ち合わせていることをお教えすると、僕らは京都駅前のあるホテルのロビーで待ち合わせることにしています。その心は、電車が動いていたとすると、新幹線に飛び乗って西に逃げるということです。

しかし地震で電車が止まることがありますが、その場合でもバスは動きます。そうしたらバスターミナルからバスに乗ってとりあえず行けるところまで逃げる。行く先も考えてあります。四国の友人が農の営みをしているある地域です。もちろん「そのときは助けてね」と伝えてあります。反対に、「京都に避難するのが必要なら受け入れるよ」とも。こうやってあらかじめ「避難協定」を結んでおくといいのです。

実際に、福島原発の事故のときも、電車は止まりましたが、バスは動いていたのです。だからバスに乗って福島から逃げ出した人がたくさんいました。この中の大きな部分を占めたのが誰だか知っていますか?東京電力の社員の家族だったのです。
東京電力は、もうダメだから逃げろと、家族にだけ指示したのです。僕の友人は、東京電力の社員の家族の友人でもあったので、その人から「今、会社が逃げろと言っているので逃げて」という情報をもらったそうです。「バスが動いているからそれで逃げろ」とも。
ようするに東京電力はイザというときのシミュレーションをしていたということなのです。誰にも教えずに。ひどいですね。国民、住民には教えなかった。

あとは人がただちに避難に移れない大きな理由に、家族の居所が分からないということがあります。とくに小さなお子さんをもった親御さんは、子どもの安全が確認できないと、自分の避難ができない。むしろ子どもを探しにいって、災害に巻き込まれてしまったというケースが多いのです。

そのため小学生の子どもを持ったママさん、パパさんには、例えば学校に子どもがいるならば、「動かないでそこにいなさい。迎えにいくから」と決めておくことも大事です。もちろんそこが津波地域にあたる場合で、地震の直後なら別ですよ。

この点はケースバイケースですから、幾つかの想定をしてシミュレーションをしておく。それで家族と落ち合えるようにしておくのです。みなさんの場合は、学生さんですから、まだ子どもはいないと思うので、恋人とか、親しい友だちとかとあらかじめ話をして、いざ事故があったら一緒に逃げよう、だからどこで落ち合おうと決めておくといいです。


持ち出すものを決めておく

次に、災害のときに、これは原発災害だけのことではないですが、持ち出すものを決めておいてください。持ち出すものは一番大事なものです。これにも例があります。僕の友人で国連の職員をしている人がいます。アフガニスタンのある都市にいて、政情が不安定になり、事務所から緊急に逃げなくてはならなくなった。

それで彼女はとっさに、お気に入りの服をバックにつめて逃げたのだそうです。それで逃げた先でものすごく後悔した。なざ後悔したのかというと、そんなものは買い戻せるのです。では何をもって逃げるべきだったのかというと、写真や日記や手紙や、絶対にお金で買えない、自分のメモリーにとっての大事なものです。

それは全部、おいてきてしまったのだそうです。なぜおいてきてしまったのかというと、人はそこから逃げ出すときに、二度とそこに帰ってこれなくなるとは思いたくない。だからちょっと出て、すぐに戻ってくるようなつもりで出てしまうのだそうです。そうなると出た先の自分の格好の方が気になるから、お気に入りの服を持っていったのです。
ところが彼女が戻れるまでに1年以上かかりました。政情がまた変わって、事務所にまた戻れたのですが、内部は荒らされていて、自分の大事なものは残ってなかったそうです。

今、実際にも、福島原発の周りに住んでいた人たち、大熊町や双葉町の中には、一生、戻れない人たちもたくさんいます。でもこの人たちもほどんと、着の身着のままで出てしまったのです。だからこの人たちは、少しでもいいからどうしても家に帰らしてくれといって、放射能防護服を着て、「1時間だけいさせてあげましょう」とか言われて、家に入りました。それで最初に持ち出すのはアルバムだそうです。家族のメモリーが一番大事なのですね。

もちろん、大事なものは一人一人違うと思います。例えば卒論を書いている方なら、そのデータを持ち出し可能な媒体に記録しておいて、それを持って出ることをシミュレーションしておくといいのではと思います。学問をされている方にとっては、自分で書いた論文や、研究成果を持ち出せるようにしておくのが良いでしょうね。


危険な情報は隠される

レジュメを見てください。「出てくる情報は、事故を過小評価したもの。過去の例から必ずそうなる」。これも重要な点です。
これまでの原発事故のすべてに共通しているのは、当初、事故が非常に過小評価されていることです。これには二つの理由があります。一つには明確に事故隠しがあったということです。
福島原発事故では、スピーディーという、放射能の拡散予測の情報が隠されてしまいました。それでどうのようなことが起こったのかというと、福島市のお母さんたちが泣きながら話すことなのですが、実は原発から60キロ離れた福島市にも、とても濃い放射能が流れていったのですよね。
 
ところがそのことがまったく知らされなかった。福島市の人たちは、原発から60キロ離れていて、よもや自分たちが原発事故に巻き込まれるとは思っていなかったそうです。それで何が起こっていたのかというと、停電や断水が起こっていました。水が得られないので、福島市が給水車を出して、水を配り始めた。

その前にたくさんの人たちが並んでいたそうですが、若いお母さんたちは、他に子どもを見てくれる人がいないので、子どもの手をつないで、何時間も並んでいたのですが、実はそのときにたくさんの放射能が降ってしまったのです。もろに浴びてしまったのですね。
だから今、子どもの甲状腺がんの発生の可能性が非常に高いのではと思われていて、すでに福島市で、甲状腺がんになってしまった子が見つかっています。

僕の友人も医師で、検査に関わっていますが、ものすごい状態だといいます。これから間違いなく深刻な状況が訪れると思います。

それはそのときに外にいて並んでなかったら、それだけでもかなり違ったのです。ヨウ素剤を配って飲んでいたら、かなり防げた。ところがそれがなされなかった。残念ながらこの国はそういう国なので、自分で自分の命を守らないとダメです。


運転員や政府も「正常性バイアス」にとらわれる

一方で、意図的なものではなく、本当に間違えて過小評価してしまう場合もあります。原発に運転員の方や、責任者も、容易に「正常性バイアス」にかかるのです。原発の非常に重要な事故のすべてで共通しているのは、運転員がはじめに計器が壊れたと思っていることです。同じことが繰り返し起こったのですよ。

チェルノブイリの場合では、原子炉が爆発して、蓋があいていました。それですべての計器が瞬時にダメになった。そのときにどうしたのかと言うと、運転員の一人が、「計器が壊れたから現場を見に行ってくれ」と言っています。言われた人は、蓋があいた原子炉を見にいって、大量の放射線を浴びて、ほとんど即死しています。

同じことは必ず起こります。なぜかというと、原発はしょっちゅう事故や故障を起こしてるのです。とくにメーターが壊れることなど日常茶飯事です。だからいつも「また壊れたか」という感覚を持ってしまっています。計器の示す数値をみて、その度に事故を想定して動いているとやっていられないので、「ああ壊れた」と思うことが習い性になってしまっているのです。

それが原発が危ない理由の一つでもあるのですが、政府も実はそうなのです。政府は半分は意図的に隠しますが、半分は本当に「事故であって欲しくない」という意識が働いて、事故の過小評価に陥りがちなのです。

福島の事故のときも、菅首相が、斑目原子力安全委員長の「安全」という言葉を信じてしまったということがありました。ヘリコプターで原発を見に行ったときに、斑目さんが「首相、大丈夫です。原子炉は絶対に壊れません」と叫んだ。そうしたら菅さんはころっと信じてしまった。そのすぐ後に原子炉の爆発があったので、まったく動揺してしまったのでした。

事故が起こって欲しくない、事故はこれ以上進まないと思いたい、思いたいという願望から、「安全だ、安全だ」と自分の思い込みたくて、認識がずれていってしまっているという面もありました。当然なのです。それまで真剣に原発災害の危険性を考えてこなかったから、つまり避難訓練をまともにしたことがなかったから、正常性バイアスに捕まってしまうのです。これは傾向的に生じることです。原発が、事故も可能性を隠して、あるいは非常に小さく見積もることで運転にこぎ着けてきているからです。

そのために「周囲3キロは避難しろ」という言葉が出たら、それこそ100キロ圏はとりあえず避難した方がいいです。福井で何かあって、近くに避難指示が国から出たら、もうとにかく逃げてしまうのが勝ちですね。放射能が来る前に逃げてしまうのが勝ちなのです。これをぜひ覚えていてください。


今も続く「正常性バイアス」による心理的ロック

実はみなさん、知っていますか?東日本は壊滅するかもしれなかったのですよ。4号機に1000本以上の核燃料が入っています。それを冷やしている水が抜けてしまったのです。温度が上がりだしてもうどうにもならない寸前までいった。そのとき偶然に、その横にはってあった水の敷居板が壊れて水が流れ込んで、大きなことにならなかったのでした。

この段階で日本政府はこの危険性を察知しました。それでシミュレーションしました。なんと170キロ圏が強制避難だとされたそうです。避難対象は3000万人にもなった。自衛隊に避難のための命令が出たそうです。それで自衛隊の幹部は絶望したそうです。軍の総力をあげたって、せいぜい一度に1万人も動かせるかどうかも分からない。お手上げたったのです。

なおかつ4号機は今も大地震が来たら、かなり危ないです。他の原子炉だってそうです。そうなったら関東や東日本は壊滅するし、西日本にも、世界にも本当に深刻な影響がでます。本当にその危機が今、私たちの前にあるのです。
でもそれを見たくないので、多くの人たちが事故がもう終わったかのように振る舞い、政府の側もそれを直視したくないので「安全だ、安全だ」と繰り返しているのです。

そのため関東や東北で問題意識のある人は、4号機の倒壊に備えて、子どもまでパスポートをとっていたりします。仙台で話したあるお母さんたちは、4号機が倒壊したら、とにかく高速道路に乗って、一路、秋田空港を目指し、そこからアジアに出国することをシミュレーションしているそうです。そのように考えている人ほど、逃げられると思います。


放射能は見えない・・・しかし感じることはある

あと、原発事故で注意すべきことは、放射能が見えないことです。だからより正常性バイアスが働きやすい。津波は見えますよね。見えていても、正常性バイアスが働いている人は津波を認識できずに迅速な避難に移れないことがあります。放射能がやっかいなのは、見えないから余計に、「大丈夫だ、大したことはない」という心理的ロックが働きやすいのです。

ただし一般に放射能は、無味無臭だと言われますが、敏感な人は感じています。感じているだけではなく、子どもたちが激しい鼻血を出す例がたくさんありました。福島県内では当たり前、東京でもたくさんの子どもたちが鼻血を出しました。
どういう鼻血なのかというと、東京の町田市の5歳の男の子と例ですが、「25分から30分間、水道の蛇口を全開にしたような鼻血」だったそうです。

そういう鼻血を出した子どもでなくて、お母さん本人が出した話も直接、聞いたことがあります。「それでどうしたの?」と聞いたら、女子トイレに駆け込んで、便器を抱えていたそうです。ティッシュは論外、タオルもすぐにぐしょぐしょになって役に立たない。
これは被曝の影響です。鼻の粘膜に、放射性微粒子が付着して、ホットスポットができて、それで鼻血を出したのだと思います。

しかしこういう目に会った人は、かえって即刻逃げ出したり、防護体制を厳重にとったりするので、まだましだとも言えます。人間の感受性は人によってかなり大きく違うので、放射線に対してもかなり敏感な人もいれば、かなりの程度まで全然、感じない人もいるのだと思います。

感じる人では、喉がイガイガしたという人が多いですね。全身にじんましんのようなものが出たという人もいます。だから結構、人間は放射線の影響を五感でキャッチするのですね。より放射線が強いところにいると、口の中に金属を含んだような嫌な味もするそうです。これは空気中にあるいろいろな物質が、イオン化され、そのうちの金属性のものを舌が感知するようです。それで「ずっとつばを吐いていた」という経験も聞きました。だいたいそういう人ほど、感じたことを避難や放射線防護に結びつけています。

続く


 

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明日に向けて(568)これまでの幾つかの講演会を振り返って(感想文、取材記事、動画も貼り付けます)

2012年10月22日 22時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121022 22:00)

10月20日に京都市左京区の「茶山のさと」で講演しました。新日本婦人の会左京支部 高野団地班「旬の会」&第二中央病院班の共催の企画でした。
僕の講演は僕が京都市に住んでいるために、西日本で行われることの方が多いのですが、そのためもあって、多くの場合、東北・関東の被曝状況の確認から話をはじめます。そののち、福島市内で起こっていることを紹介します。
放射線の問題を語る場合、まずは今、現に起こっていること、今、現に苦しんでいる人々のことから知って欲しいと思うからです。それをシェアし、ともに解決の道を探りたいとも思うからです。

どの会場でも感じることですが、このように話し始めると、ほとんど必ず、会場の雰囲気がきゅっとしまって、集中力が高まり、みなさんの聴きとり力とでも言うべきものが上がることを感じます。
そのとき僕は、「わたしたちの国には優しい方が多いな」と感じます。誰もがきちんと現に起こっている事実を語れば、必ず耳を傾けてくださり、胸を痛めてくださいます。同時に、「こんなことが起こっているとは知らなかった」という、怒りとも悲しみともつかないような感想が聞こえてきます。

こうした講演会にはどなたにも来ていただきたいのですが、ぜひ積極的に参加して、僕を助けていただきたいと思うのは、東北・関東の出身者のみなさんです。もちろん避難者の方は大歓迎です。
20日も参加者の中に、山形の出身の方がおられました。質疑応答のときに、その方が、山形のおいしい新米のことを話されました。本当においしいので、友達に食べて欲しいと思ってあげたところ、「放射能は大丈夫?」と言われたそうです。そのことを十分に考えていなかったので、とてもショックだったと彼女は涙ながらに話してくださいました。

僕が答えたのは、「まずは放射能測定をするといいですよ」ということでした。測って安全が確認されれば、それを説明して手渡せばいいし、反対に安全でないことが確認されたら、それを地元の方と話すといい。まずは実態を知るのが大切だということです。
同時に、みなさんにこの涙のことを忘れないでくださいとも語りました。話していて思わず涙がでてきてしまうのが汚染の実態なのです。自分たちが誇りにしている郷土のおいしい食べ物に汚染の可能性があること、それほど悲しことはない。
こうした涙に対して、僕にはこの悲しみの責任を、国と東電にきちんととらせなければいけないという明確な答えがありますが、そうした答えがなくてもよいので、ぜひそうした声に多くの方に向き合って欲しいのです。

そのために、それぞれの地域で行われる学習会・講演会に、汚染を受けてしまった東北や関東の方、そこから避難してきている方が参加されることにはとても大きな意味があります。
僕はメッセンジャーとして、そうしたみなさんの気持ちを少しでも代弁したいとも思っていますが、当事者がいると、その場の空気はさらに濃くなり、温かくなります。悲しく、苦しい思いを、みんなでシェアしようという気持ちが生まれるからです。だからぜひ一緒に講演会・学習会を作っていただきたいと思います。

同時に、事実がもっときちんと伝わりさえすれば、私たちの国の市民はもっと立ち上がってくれる。そう僕は思います。そのためにもっといろいろなところでお話をしないといけないと思うのです。
どうかみなさま、僭越ですが、そのためにみなさんの地域に、僕をお呼びくださると嬉しいです。どこにでも出かけていってお話します。そのために今回は、幾つかの講演の記事、動画を貼り付けましたので、参考にしていただければと思います。
篠山市・丹波市での講演の記事(丹波新聞)、山水人(やまうと)で行った小浜市の中嶌哲演さんとの対談、企画TAIYO33OSAKAでの廣海緑朗さんとの対談(ロクローさんはノンベクレル定食屋を開いた方)、京都市北部クリーンセンター関連施設での講演の動画です。

またそんな気持ちを込めて、今日は20日の講演会の後にいただいた、幾つかの感想文を紹介しておきたいと思います。このときのみなさんの温かい気持ちもおすそ分けできればと思うからです。
放射線防護と脱原発を進めるためにはさまざまな行動が必要です。現に今、多くの方たちが各地で駆け回っていて、その一つ一つにとても共感しますが、そうした行動もまたこうした小さな話し合いに支えられているのだと思います。
市民が集い、痛み、悲しみをシェアしあい、それをなんとかしようとすれうときに、そこに熱が生まれます。それこそが僕は世の中を変える源だと思います。一緒に素敵な企画を重ねていきましょう。

*********

守田敏也さん講演会 感想文まとめ 10月20日


放射能が風の道に乗って広く飛散してしまっているのを初めて知りました。
日光に旅行に行こうと思っていたのですが、考え直そうかと思います。
これからの心配は、海に流れ、汚染された魚を食べることを避けられるかです。
将来のことを考えるとまず、「原発を止める事」につきますね。(K.S)


リアルな東北の実態をわかりやすくお聞きして「まだフクシマは終わってない」と気づきました。
もっと多くの人にわかりやすい話を私達もしなけりゃ!
福島の人が慣れっこになってると聞き、とても不安。
スーパーNのさんまは、添加物関係ないと思うが…海はつながっているので大丈夫なのか?
吉田所長はやっぱりガンなのか?
病院でバリウム飲んでるけど、それって内部被曝?


今まで学習会に参加する機会がなく、原発事故後一年半もたつまで、ろくな知識もありませんでした。
福島がどのようになっているのか想像できないことはありませんでしたが、日常生活は今までと変わらず、本当に今後チェルノブイリの事故と同じようなことが起こってくるのか、信じたくない気持ちもあったかもしれません。
目を覚まして現実をちゃんと見なければいけないと思いました。(K)


数値のことなども公表されていないのが問題。
風評被害を防ぐためということなのでしょうか。たてまえとして。
よくかんで食べて、3キロでも痩せたいです。


来てよかったです!
真実・事実を知ることって大事ですね。
私達東北人はみんな苦しんでいます。(東北に住んでいなくても)
だからこそ、今日みたいな真実の話を聞いて学習することが必要だと思いました。
いつもツイッターで知ってる守田さんって近くに住んではるんですね(感動☆彡)
また、ぜひお話聞きたいです!!(M.M)


福島の現状を詳しく知ることができました。ありがとうございました。
実は、福島市御山一本松に大学時代の後輩が住んでおり、案じられます。
福島の惨禍を忘れないよう心がけたく思います。
私たち、家庭の母は、日々の中で気づくこと気になっていること多いです。
私たちに出来るのは、今日の気づき、知ったことを色んなところで広めてゆく、拡散してゆくことと思います。
忘れてゆくので、時に聞き直さねばならないです。思い出し直して、ブックレット読みます。


福島から谷に沿って放射能が広がっていく道があって、関東界隈にまでも汚染が広がっていることがわかり、ショックです。
放射能に対する個々の考え方が大きく4つのパターンにわかれていて、人間関係がギクシャクするということも、深刻な被害のひとつだと思います。
実際、震災直後、1ヶ月ほど東京から京都へ避難してきた知人は、幼い子供のこと、今後の生活のことなどで、夫と意見が合わず、離婚の危機だとホロホロ泣いていました。
人間が考え出した原子力発電、人間の手に負えないのだから、早くやめてしまえばいいと私は思います。
既に、被曝しているので、今後の日本人は、病気や障害児が増えるだろうということも、素人でも想像が付きます。国を挙げて手厚い保障を考えて欲しいものです。
それが原発を許してきた国としてのせめてもの償いかと思います。
あと、母としての直感というのは、やっぱり大事だなあと改めて思いました。(T)


*****

篠山市・丹波市講演記事
2012年9月27日・28日
http://www.facebook.com/photo.php?fbid=367479196668932&set=p.367479196668932&type=1#!/photo.php?fbid=367479196668932&set=p.367479196668932&type=1&theater

*****

山水人2012 in わくせい広場
2012年9月1日

中嶌哲演×守田敏也対談

http://www.ustream.tv/recorded/25102848

http://www.ustream.tv/recorded/25104091

http://www.ustream.tv/recorded/25104389

http://www.ustream.tv/recorded/25104420

http://www.ustream.tv/recorded/25104581

http://www.ustream.tv/recorded/25104805

http://www.ustream.tv/recorded/25104931

http://www.ustream.tv/recorded/25105165


*****

TAIYO33OSAKA 場所UrBANGUILD(アバンギルド)
2012年8月25日(土)

守田敏也×廣海緑朗対談


http://www.ustream.tv/recorded/24948127#./24948127
http://www.ustream.tv/recorded/24948127#./24948678


*****

京都市北部クリーンセンター関連施設で講演
2012年7月29日


http://www.youtube.com/watch?v=uayb0RSLr3Q

http://www.youtube.com/watch?v=lu74D_4kyQQ&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=aok4N3FpsyQ&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=b6Vqwcnsf8E&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=2a-SYAtBsZ8&feature=relmfu

 

 

 

 

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明日に向けて(567)功利主義の検討(1)・・・哲学・倫理学に挑戦します!

2012年10月21日 22時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121021 22:30)

哲学を、思想を、倫理学を、論じなければいけないと思っています。

最近、忙しさにかまけて、学習量がかなり落ちてしまいました。忙しさの中には、そのときどきで自分がおいているプライオリティが反映しています。それを冷静に見つめてみると、今の僕は、目の前にある課題を追いかけるようになっていて、物事をその深いところから捉え、変革の可能性を探っていく姿勢が衰えてしまっています。

何というか、だからこそ、忙しさに苦しめられています。受動的なのです。これを打開するためには何が必要なのか。今ここで、今後の長い射程を視座にいれた思想的な捉え返しを進めることであると思えます。それが哲学、思想、倫理学を論じなければいけないと思う内在的な根拠です。

課題は日々押し寄せてきます。そのさまざまな課題に、多くの人が立ち向かってくれています。とても共感します。
僕もその一つ一つに駆けつけたいのだけれど、おそらく、今の僕の役割はそれをすることではなくて、現場で奮闘する人にタッチできない領域を切り開き、そこから言葉を贈ることだと思っています。そのためには文学も必要ですが、同時に哲学が求められていると僕は思います。だからこの領域にチャレンジします。


原子力産業が依拠する功利主義

さしあたってとりかかるべきは功利主義に対する検討です。なぜか。『内部被曝』共著者の矢ヶ克馬さんは、DAYS JAPAN最新号(2012年11月号)で、端的に次のように書いています。

***

功利主義は「公益が得られるならば、犠牲者が出てもしょうがない」という考え方で、日本国憲法、国連憲章、世界人権宣言、等で謳われている「基本的人権と人間の尊厳」の民主的社会の原理を真っ向から否定する考え方です」(同誌p26)

***

非常に端的な批判だと思います。
功利主義のスローガンは、最大多数の最大幸福です。社会的な幸福の総量が最も多い状態を目指すことがもっとも善であるという考え方です。現代の国家の多くはこの考え方を採用しています。

功利主義の弱点は、「配分の中身を問えない」ことにあると言われてきました。すべての人の幸福量を足し合わせて最大になるのが善だとすると、一部の人は不幸でも、より多数の人の幸福が非常に大きければ、この不幸が社会的に是認されてしまうことになるからです。それが幸福の「配分の中身を問えない」ということです。

この考えが適用されているのが、原子力産業です。原子力発電は被曝労働を前提とした体系です。燃料の加工から運転、点検などさまざまな点で、被曝を生み出します。また繰り返し事故を起こして、周辺環境への放射能漏れを起こしてきたし、常に大事故のリスクも抱えています。実際に、スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマと破局的な大事故も起こしました。

それだけではありません。原発は平常運転時でも微量の放射能を出し続けています。これらは周辺の環境を汚染し続けています。ドイツで行われた長期調査(kikk調査)で、原発の近くでは小児白血病の発生率が、有意に高いことが明らかになっています。

これらは公然たる事実です。ところがまさに「公益が得られるならば、犠牲者が出てもしょうがない」という功利主義の考え方が現代社会を支配しているがゆえに、こうした犠牲が省みられずに、運転が続けられているのです。

もちろんその際、犠牲が非常に小さくカウントされていたり、ある部分はまったく隠蔽されているという事実もあります。これに対しては思想的な批判ではなく、事実関係の暴露が必要です。そのことを僕はこれまで心がけてきたし、これからも行っていきたいと思います。

しかし同時に今、功利主義思想をきちんと批判していくとが問われていると強く思うのです。なぜなら被害や危険性の隠蔽だけでなく、少数者が犠牲になっても、社会的幸福の総量が大きくなればいいというこの冷酷な考え方に、私たちの社会が毒されているからです。


最大多数の最大幸福は何によって測られているのか

では社会的幸福の総量とはいかに測られているのでしょうか。本当はそんなもの、測ることはできないということが非常に重要なポイントなのですが、今はそれを脇においておいて、現代では事実上それが、GDP(国内総生産)によって表されていることを指摘したいと思います。

それで原発を止めてしまうと、やれ国際競争が弱くなると困るとか、産業が衰退するとかいうことが言われます。しかし例えば数十年前から比べると、GDPは圧倒的に多くなっているのに、現代では多くの若者が仕事にも就けずにワーキングプアの生活を送っています。仕事に就くことだけを考えるならは、高度経済成長期の方が、ずっと働きやすい社会でした。

もちろん、その時にはその時の矛盾があったので、今と比較して過去の方が社会が幸せに満ちていたと言いたいのではありませんが、ここで指摘したいのは、戦後67年間において、GDPの総額が確実に、ものすごい勢いで上がってきたのに、それで私たちの幸せがどんどん拡大してきたわけではないという点です。確実に増えたと言えるのは使用できる消費財の量と質のみです。


なぜなのか。まさに功利主義の罠にはまっているからだと僕は思います。幸福が金銭の多寡に置き換えられた上で、その総量は年々拡大してきたのに、その配分は著しく平等性を欠いています。
また同じく幸福の中身が具体的に検討されないで、常に数値に単純化して表されていること、また社会を担う人間も平均化され、数値化された単純な「幸福」の拡大を「配分」されているという錯覚を与えられてきたからです。

しかしGDPはいろいろな意味で矛盾に満ちています。例えばたくさんの人が病気になり、通院するようになり、医療費がたくさん支払われると、それでGDPは上がったことになります。名医が出てきて、薬もあまり使わないで治してしまうと、儲からないので、GDPは増えません。そのように「幸福」の中身の具体性が検証されないのです。


単純化と平均化の誤り

つまり功利主義は、幸福が、金銭的多寡に単純化されて測られ、それが国民・住民の中にどのように分配されたのか、その具体性は何ら問題にされずに、あたかも国民・住民が平均的にそれを受け取っているかのような錯覚を生み出してきたのです。そのために現実には多くの不幸が眼前として目の前にあるのに、無視されてしまうし、自分の幸せに直接につながっているわけではないGDPだとか、国際競争力だとかの強弱に、多くの人々が振り回されてもきたのです。

それが絶対に被曝することが確実な労働がなければなりたたない原発が、私たちの社会で容認されてきてしまった根拠なのですが、実はこうした単純化と平均化の考え方は、原子力産業が依って立つ放射線学の考え方にも深く浸透しています。


この点は、岩波ブックレット『内部被曝』の中で、矢ヶさんによって明快に指摘されています。第3章「誰が放射線のリスクを決めてきたのか」の冒頭の、「放射線によるリスクを単純化・平均化」というところです。少し引用します。

***

 内部被曝が見えなくされていることと、放射線の生命に対する被害が非常に軽く扱われていることに問題があります。そしてそれは、ICRPの二つの致命的な欠陥なのです。
 その一つは放射線被曝の具体性が切り捨てられ、単純化と平均化が行われていることです。この点は、内部被曝の危険性を隠してしまうことにつながっています。(p32)

 問題を放射線の持つエネルギーだけに抽象化しているので、それがどれだけの回数の電離(分子切断)をおこなうかということすら、具体的に考察しないのです。
どのような作用を人体に及ぼし、どのように推移していくかが、電離(分子切断)の具体的な分布のようすを捨て去り、平均化・単純化されているのです。これが私の指摘する「具体性の捨象と単純化・平均化」という誤りです。

***

このように、原子力産業は、少数者の犠牲を無視した功利主義に依拠して、原発の運転を行っているのですが、同時にその放射線被曝の評価においても、被害の具体性を捨象する功利主義の単純化・平均化と同じ発想を採用しているのです。もともと共通の価値観に支配された考え方なので、必然的に出てくる類似性であるとも言えます。

したがって功利主義を、その成り立ちに遡り、その発想の根幹にまで立ち入って、批判的に検討することは、内部被曝の科学を、私たちが取り戻していく上でも極めて重要な位置性を持っていると言えます。

この点については、ECRR(ヨーロッパ放射線リスク委員会)も注目しており、その2010年勧告でも一つの章をこの点の検討に費やしています。第4章「放射線リスクと倫理原理」の章です。

ここでも、このECRR2010年勧告で指摘された内容を考察するところから、さらに功利主義の検討を深めていきたいと思います。

続く

 


 

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明日に向けて(562)【誤報訂正・深謝】台湾の呉秀妹阿媽は危篤状態を脱しつつあります。

2012年10月15日 23時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121015 23:00)

みなさま。先週金曜日に、台湾の呉秀妹阿媽が逝去されたというメールを発信しましたが、大変な誤りでした。その段階で
阿媽は危篤状態で、あと2日と主治医が言っていたそうですが、さきほど、台湾より、「阿媽が持ち直した、こちらの呼びか
けにも答えてくれている」との報告がありました。とても嬉しいです。阿媽は今も生きています。

同時にみなさまには大変、申し訳ないことをしてしまいました。お詫びの言葉もありません。実は連れ合いのお義母さんも、
この時期に脳の緊急手術を受けることになり、二人で、彼女の実家に行っていました。幸い手術はうまくいったのですが、
連れ合いが病院のベッドサイドで台湾からの突然の電話を受け、「亡くなりそうだ」という内容を「亡くなった」と受け取っ
てしまい、情報の再確認ができないままに、僕が大変なショックを受けてそれを受け取り、情報発信してしまいました。
その後の訂正も遅れてしまい、本当に申し訳なく思っています。深くお詫びいたします。

阿媽が頑張ってくれている間に、さらに台湾のことを書きつぎます。

なお誤報を書いてしまった「明日に向けて(558)」はブログから削除し、欠番としました。

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明日に向けて(561)じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(肥田舜太郎さん談)下

2012年10月15日 21時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121015 21:00)

肥田さんの講演速記の3回目です。今回で最後です。今回は放射線被曝の実態を隠すアメリカに日本政府が協力してきたことへの怒りとともに、その中で私たちが自分の命を大事にすることに目覚めていないという肥田さんの鋭い指摘が続いています。

僕はここは非常に重要な点だと思います。私たちの国は、生産的労働に携わっている者が、病気やケガをしたときに、できるだけ早く現場に戻していく急性期医療はとても発達しています。
それ自身はとてもありがたいことですが、もっと身体を労わり、無理を溜め込まず、自分を大事にしていく精神はとても薄い。

これは僕などにも言えることですが、社会運動を担っている人の中でも、エコノミックアニマルさながらに、がんがん活動し、夜通しメールを書き、それで身体を悪くしてしまう例がたくさんあります。そうであってはいけないと肥田さんは説かれています。

自分の命を大切にしなくてはいけない。そのために命を長らえる生き方をしなくてはいけない。命を縮める生活をしてはいけないと肥田さんはさまざまにおっしゃっている。僕は自分を振り返って、まったくその通りだと思うのです。

自分の命を大切にできなければ、人の命を大切にできない。すべての命が差別されてはいけないように、自分の命も差別してはいけないし、軽く扱ってはいけないのです。にもかかわらずそこをなかなか守れないのが私たちの実情ではないでしょうか。

本当に今、この点を越えなければいけないと思います。そして自らが自分の命を大事にし、病にならない生活を実践する中で、より深刻な被曝をしてしまった方々に、勇気ある道をさししめせるようになる必要があります。

だから食べ物に気をつけることも大事だし、早寝早起きの励行も大事だし、温かい人間関係を保つように努力することもとても大事です。これに反するハラスメントやバッシングはストレスの大元であり、人間の心身を冷やしてしまう。

そうした暴力を許さない世の中を作ってこそ、私たちは命の尊厳を守れます。それでこそ現代における暴力の源とも言える、原発と核兵器を封じ込めていけると僕は思うのです。

僕は今後も、肥田さんの言葉を指針に歩んでいきたいと思います。素晴らしい話を送ってくださった肥田さんに心のそこからの感謝を捧げます。

**************
 
じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(下)
2012年10月8日  肥田舜太郎

その後、アメリカに行って、向こうの「ぶらぶら病」の患者を何人もみました。広島と同じです。原因は軍隊のときに、核実験に動員されて、爆発があるときは壕に隠れていて、爆発してから何分たったらこの部隊、次はこの部隊と射撃などを行った。
その後、除隊してしばらくしたら同じ病気が出てきた。気の利いたお医者さんが、みんなが核実験に動員されたことを知って、それに何か関連があると考えだした。でもアメリカ政府はあまりそれを研究するなと言ったのです。

日本の場合は、9月20日に兵隊を連れてマッカーサーが来た。今日から自分が日本の国民に指示を出す。すべて自分の命令でおまえたちは生きろ。それに違反したら厳罰に処するという。

そういう中で、最後にこういうことを言った。原爆を受けて広島、長崎ではたくさんの市民が死んで、今も体が悪いという人がいるだろう。しかしその内容はすべてアメリカの軍隊の機密である。絶対にそれを話してはいけない。被害を受けた人間は、どういう症状があるか、親にも言ってはいけない。それに反したら厳罰に処する。
進駐軍は怖いので、実際に誰も何も言わなくなった。

日本の医者、医学者、大学教授に、広島、長崎で原爆を受けた人間が、診察を受ける。そのときに診てはいいが、カルテに詳しく書いてはいけない。分からないことを論文に書いて、研究をしてはいけない。

だから医者はみんな、患者がきても、広島で被爆したと言いかけると、「それは言わんでください」という。「それを聞いたことがわかると、私は進駐軍にやられるので言わんでください」と言った。
その状態が7年間も続いた。このことを日本人は知らない。これがアメリカの占領の実態なのです。そういうことをしゃべるのはみんなやられた。

日本がアメリカに占領されて、非常に酷い目にあった7年間があることをみなさんはまったく知らずに過ごしている。7年たってアメリカが帰った後に、日本政府は国民に相談もなく安保条約を結んだ。それで米軍が沖縄などを使っている。その費用は全部日本人が払っているのです。宿舎にはみな風呂が4つも5つもある。

戦争に負けて、67年もそんなサービスをしなければいけない国がどこにありますか。
そういう政府があって、安保条約のために日本政府はアメリカに国土を提供し、税金で贅沢な暮らしをさせている。アメリカには何兆円というお金をポンと出す。1兆円あれば日本中の足りない保育園や幼稚園が全部建つのに。年寄りも行くところがない。

1兆というお金はどれほどでしょうか。1日100万円使ったら何年かかるか。源頼朝が鎌倉時代を作ってからこれまでよりももっとかかる。そんなものをアメリカに出すのが安保だ。それが岸首相のときに作られた。国民はそれをやめろと闘って負けてしまった。あのときに勝てばこんなことはなかった。

みなさんはいま生きていて、昔の年寄りから比べればいいと思っているかもしれない。しかしたくさんの若者は勤めるところがない。沖縄の若者は絶望の中にいる。そこにあのオスプレイという恐ろしい飛行機が来る。

止めろといても、人々は勝手に子どもを作る。人間の代わりは幾らでもある。だから日本の政治家は、「アメリカのことを聞いておけば俺の大臣の椅子は大丈夫だ」と思っている。
日本の政府には、日本人を生きている人間として尊重する気がない。日本の政府はだいだいそういう頭です。相手側の人間を殺すだけではない、兵隊もたくさん殺した。

私は戦地から戻ってきた兵隊をたくさん治した。そうすると治ってから自分が送りこまれた隊に帰っていく。戦争末期はそこに部隊がいるかわからないのに、それでも兵士は元の部隊に帰れと送られる。自分の戦場まで帰る。そんなことをしても平気なんだ、政府の連中は。そういう国だった。
その国に育ったみなさんは、自分の命に目覚めた人権を持った人になったでしょうか。

残念ながらそうではない。みなさんの多くは命を大事にしていない。病気になって初めて病院に行く。そこに命がけで勉強して、命を救ってくれる医者はいるのか。そんなものはいない。命に責任を持つ気持ちなんかない。それが学校で教える医療なのです。
目の前にいる人を助けるために懸命にやれという医療を習ってない。教科書に書いてあることをやるだけだ。私はその医療界で働いてきてよく知っている。

でも実際にそうした医療をやったら、みな30代、40代で死ぬ。だから特殊な人に当たらない限り、そういう医療しか受けられない。その一番の原因は、生まれたときからたったひとつしかない命の主人公は自分であり、その命のことは自分が守るしかないないのにそれを軽んじてきたことです。
なぜ病気になったのかを考えれば、生活の中に必ず原因があったはずだけれども、それを考えないできたのです。

福島の事故があって、みなさんはもうたくさんの放射能を体にいれています。みんなカタカナで書く「ヒバクシャ」なのです。一人もそれを逃れた人はいない。放射能は入った以上、量は少なくても、体に有害なのです。

政府とアメリカは無害だとさかんに宣伝しをしている。チェルノブイリのときもこれをやった。福島では、これから起こることが世界にも人々にもわからないように、外国の連中がたくさん入っている。「心配ない、おかしいことがあっても生活習慣のせいだ」とそういうことをやっている。

福島のことは、世界の人々にとってこれからの大きな課題なのです。真実が知られることを恐れている。逆にみなさんは、向こうが隠すのだから、それを必死に勉強する必要がある。それが分かると原発も核兵器ももう持てなくなる。その争いの中で、福島の人はこれからどうやって生きるかで悩んでいる。

講演に呼ばれた専門家の中で、どう生きるかを言える人は私以外にいない。多くの先生が言うのは「遠くに行け、汚れたものを食うな」ということだけだ。ではできない人はどうするのか、それには答えない。それを言えるのは僕だけだ。

その答えは放射線の害は、出るものを止めなければいけないということです。元を断つ。それからアメリカが持ってきている核兵器は全部持って帰ってもらう。丸腰の何ももたない国であればいい。アメリカに帰ってもらうことと、放射線の出る元を止めることを同時にやる。

あとは自分の命を自分で守る。「身体に悪いから、こういうことをしてはいけないよ」ということをしないで、どんなに辛くても健康生活を守る。放射線を使って人間を殺そうとする嫌な世の中で、自分の命は自分で守る。
医者を頼らない。薬を頼らない。薬なんて効くものなんかない。なんとかの薬を飲むよりも、病気にならないように工夫をして、長生きをしてきた年寄りの真似をするのです。

まず大事なのは早寝早起き。太陽が出て起きて、太陽が沈んで寝る。それで免疫が作られるようになった。私たちは太陽の恩恵で生きている。だから朝早く起きて、暗くなったら寝るのが大事なのです。

そういう意味で僕は、自分で自分の健康を守る話をしています。そうすると何をしていいか分からなかったかお母さんたちがどうしたらいいかが見えてきて自信が出ます。最近は若いきれいなお母さんが僕の手を触って、「先生の元気をもらいます」といって帰る。

その人は、ここにくるまでは心が真っ暗だった。でも明るい顔になって帰っていく。そうやって励ますことしかできないけれど、それができたのは、被爆者の団体に入って、「放射線に負けないで長生きしろ、落としたやつがびっくりするほど、みんなで長生きしようじゃないか」とみんなで必死になってきたからです。

そのために、長生きした人にどうしたらいいかを聞いた。それで出てきたのは早寝早起き、そして食いすぎないということです。僕は小さいときからご馳走が好きではありませんでした。素食が口にあった。ばあさんの作ってくれた野菜の煮つけなどを食べていた。それが良かったようです。

こういう話をすると、必ず聞かれるのは何を食べたらよいかということですが、人間がたべてきたものは何をたべてもよろしい。悪いのは食べ方です。食事は人間にとっての休息の時間です。みんなが働いときに勝手に休めない。みんなで食べるのが休息の時間だ。
だから休むのが健康のために一番いい食べ方だ。そのとき、普段あわない家族が顔をあわせるものだから、けんかをはじめる。これが一番、健康に悪い。食べるときはニコニコ笑って、一緒に飯を食うのがいいのです。

そろそろ時間が来ました。まとめは一つしかありません。今の状況を見ていると、これから50年は放射能が無くならないと思う。でもこれからみなさんの家に、みなさんのひ孫、やしゃごが、きれいな空気や水があると思って生まれてくる。この子たちに、少しでもきれいにして、この世の中を渡すのがあなたがたの任務だ。

原爆をあびた経験をもちながらなぜ日本は53基もの原発を作ったのか。日本人はみんな愚かだと世界では言っている。みなさんもその愚か者の一人です。だから今日、僕の話を聞いてしまったのだから、この国をきれいにするために働くことを約束してください。そのことをよく考えてください。
今日、私の話を聞いてしまったのは災難だと思って、明日から余生をそのために使ってください。

終わり

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明日に向けて(560)じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(肥田舜太郎さん談)中

2012年10月14日 22時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121014 22:00)

昨日に続いて、肥田さんの講演の続きをアップします。今回は広島被爆後に、肥田さんが初めて逃げてきた被爆者に遭遇し、やがて救護所となった小学校でたくさんの被爆者を診られた経験がメインです。

これを読むと、あらためて原爆の酷さ、放射線兵器の非人道性が浮かび上がってきます。僕はいつかはアメリカ政府にこれを謝罪させなければいけないと思います。サンフランシスコ講和条約において、日本国家は責任追及の権利を放棄してしまっていますが、それを越えて、あやまりはあやまりとして正さなくてはいけない。

それはアメリカ人のためでもあると思うのです。「他者の権利を踏みにじるものは、自分の権利を踏みにじられても声をあげることができない」・・・。だからアメリカの国民・住民の尊厳のためにも、アメリカ政府のこの戦争犯罪への謝罪は必要なのです。

以下、肥田さんのお話をお読みください。

**************
 
じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(中)
2012年10月8日  肥田舜太郎

被爆はしたけれど、ピカで焼き殺されず、家は潰れかかったけれども、ぺシャンコにならなかったので助かりました。
そこで子どもを立たせました。6歳の男の子でした。泥をはらって心臓の音を聞こうとする。聴診器がないので自分の耳を胸につけて音を聞いたら聞こえない。耳にも泥が詰まっていました。それをとったら音が聞こえた。

おじいさんが一人で留守番をしていました。すぐに病院に帰らねばと思いましたが、これをおじいさんに伝えなくてはいけない。
おじいさんに大きな声で「子どもはここにいるよ、元気で心配ないよ、俺は病院に帰るよ」と叫びました。聞こえたかどうか分からないから、赤ん坊の顔をピシャっとたたいて、ワーと泣かせて、それで病院に向かいました。

村は800戸ぐらいの家だった。村の人は全部、家を出てきていましたが、何が起こった分からない。いきなり村にゴーっ戸いう風が吹いて、そうなってしまった。その中を自転車に乗って、走って広島に帰りました。

そのさなかに初めて被爆者に会いました。とっても怖かったのを覚えています。当時は自動車がないのです。自転車を飛ばしていて気をつけなければならないのは荷車なのです。自動車のように向こうがよけてくれない。こっちがよけないと真っ直ぐにくる。
それが曲がり角からでてこないか気をつけていたら、向こうから上から下まで真っ黒な人が歩いてくる。着ているものがボロなのです。足が見えないボロを着ている。それが向こうから来る。

だんだん近くにくると、目がお饅頭のようになっている。鼻がない。全部口になっている。唇が焼けて腫れていたのです。怖いのです。それが手を前に出して歩いてくる。こっちは自転車ですから近づくと、ウッウッと言いながらこちらにくる。どうみても人間なのです。

そばに近づいて「助けて」としがみつかれたら怖い。なので自転車を降りて後ずさりしました。そうしたら自転車にぶつかって倒れた。「ああ、ごめんなさい」と助けようとしたら、身体が全部焼けていて触るところがない。体中にガラスも刺さっている。触れるところがない。

死にかかった人だから、どこかに触って励ましてやりたいのだけれど、触るところがない。それで「もう少ししたら村がある。そこまでいって助けてもらいなさい」と言いました。そうしたらそこで痙攣を起こして死んでしまいました。これが僕がみた最初の焼け死んだ方でした。

亡くなった人は仕方がない。自分は病院に行こうと手をあわせて自転車に乗ったら、向こうから同じような人が道いっぱいにやってくる。みんな焼けただれている。その中を「すいません、私は広島に行きますから」なんて言えるはずがない。
それで道の下に流れている大田川に飛び込みました。腰ぐらいまででした。それで川の中を広島に向かって歩いていった。

大田川が7本に分かれて、そこに橋がかかっていて、広島にいく。どの川を通っても広島の市内に入れる。一番左の川に入って、すぐ右の土手を登れば病院があると知っていました。
ところが進んでいくと真っ黒な煙が立っている。それが川の上を這ってくる。火事が起こっているのです。火事の場合はたくさん燃えると暴風のような風が吹く。川の水がすくい上げられる。

それでも「いかなきゃ」と思いました。軍人ですから。それで左の川に入って、初めての橋を越えて、上がって、病院があると思った。ところが燃えている家がある。そこから人が川に飛び込んでくるのです。
男も女も飛び込んでくる。私の頭の上から落ちてくる。川は浅いので先に落ちた人がそこで死んでいる。その上に人が落ちて、跳ねて、私の周りにドボンと落ちる。それで川を向こう岸に逃げていく。

私は川を上がろうとしたけれど、上からどんどん落ちてくるので上がれない。ただ飛び込んで死んでいるのを見ている。そのとき、私は医者でありながら何もできない。聴診器もない。でもここで人を助けなけりゃいけないと思った。
しかし自分には何もできない。そのとき「お前はここで何ができるのか、何もできないではないか。お前は村に帰って人を助けろ」という理屈がひらめきました。

でもその場で人がどんどん死ぬので、「さようなら」という勇気が出ない。それで長い間そこにいました。でもそこいても何もできない。最後に「さようなら」とおがんで川を反対にさかのぼって村に戻りました。

帰ってとても驚きました。村に入る道はそういう人がいっぱいいる。村の入り口が狭いから何人もそこで死んでいる。それを乗り越えて人が入っていく。みんな裸です。私は軍の靴を履いている。なかなか人を踏めない。やっとのことで村に入りました。
ちょっといくと小学校があった。その広い校庭に全部人が寝転がっている。何人かが座っている。生きている人は動いている。動かない人は死んでいました。

村の人がいないかと見たら誰もいなかったのですが、よく見ると校舎のそばに数人いて、私を見て走ってきました。「なんとかしてつかあさい」という。私一人では何にもできない。これから何万人が来る。みんながこれを面倒みるしかない。

村の中で働ける人間は、朝5時に広島に招集されて、アメリカ軍との市街戦にそなえて、建物を壊すことに行っているとのことでした。残っているのは、じいさまとばあさま、小学生だけだった。動ける人間はおらん。
でも「あんたらがみるしかない。生きている人間には米を食わせろ。俺がハンコをつくから軍隊のものを出せ」と言って、おむすびをたくさん作った。

でも僕らの大失敗で、おむすびを食べられる人は誰もいない。それでまたおむすびを集めて、お粥にした。小学生の男の子がそれを持ち、女の子がシャモジを持って、寝ている顔に上から入れた。でも女の子が怖がってしまった。顔が見れないのです。「ぼやぼやしないで入れろ」と叫んで食べさせました。

6日に6000人、7日に12000人、8日が22000人、9日が27000人が村にやってきた。正確ではないですが村の人がつけていた。とにかくどんどん流れ込んでくる。中には元気がよくて、さらに奥の村まで逃げる人もいる。
そこには列車が走っていたので、それに乗って、山陰地方まで逃げた人、京都や九州に逃げた人がいた。でも後から後から来るので村は超満員だった。

そんな中で僕たちは最初の3日間は死んだ人間を確認しました。死んだという確認だけを仕事にした。死んだら焼いて骨にする。名前が分かれば家族に渡す。「先生が何で死んだか言ってくれ」という。そんなことまったくわからない。
人間が大火傷したときに、全身の3分の1以上が焼けていたら助けられないと習っていた。どれをみても半分以上焼けている。大変なことでした。

ちょうど4日目の朝、はじめて火傷以外で死ぬ被爆者をみはじめた。はじめは5、6人の医者が診ていた。4日目に九州から応援の医師や衛生兵がきた。医者も20数名いて総勢100名を越えていた。みんな白い服をきて一人ひとり見てくれた。その中で40度の発熱をする人間をいっぱいみた。

内科で40度の熱はまず診たことがない。マラリアでたまにある。でも焼けている被爆者で40度はなんでか分からない。常識では一番高い熱を出すのは扁桃腺で39度8分ぐらいはでる。みんな扁桃腺が腫れたのではと確かめようとした。

みんな横を向いて寝ている。上を向くと心臓が苦しい。僕はひざまづいているから上からみると横顔しかみえない。自分が横になって顔を近づけて口の中を見るしかない。一人二人みて扁桃腺が腫れていればみんなそうだと思った。
でも口の中がとても臭い。息が止まりそうになります。腐っている臭いなのです。本人は生きているのに口の中が腐っている。

鼻と口から血が出ました。すごく残虐ですね。火傷していたのに血がでる。目からもタラタラ血が出る。こんなことはみたことがない。40度の熱が出て、血が出て、口が腐っている。それで我慢してやっとのことで一人の口の中をみたら、全部が真っ黒けになっている。

それがすごい臭いを発していてみていられない。この人がなぜ生きているのに腐り始めたのか分からない。何が起こっているのか考える。そうするとその人が苦しがって、ムシロの上で身をよじる。
それでなぜかみな、必ず頭を触る。そうすると髪の毛がすっと抜けてしまう。手で触った所がスルっと抜ける。とれたあとは真っ白になっている。毛根細胞まで一緒にとれて青くならない。こんな毛の抜け方はみたことがなかった。

男は髪の毛が抜けても不思議に思う力もない。女性がこれをやると、死にかかっている人が、手をあげて「私の髪が」と大きな声で泣き出す。初めて見ました。ものなんか言えるはずもないのに泣く。それが原爆にやられたあとの特殊症状です。

放射線の影響の急性症状では、まず高い熱が出る、まぶたから出血する、頭の毛が抜ける。患者から教わったのですが、周りに寝ているものが、自分の肘のう裏っかわを指す。動作で教える。
そこで見ると、焼けてない白い側に紫色の斑点が20も30も出ている。鉛筆の頭ではんこをつけたようなものがついている。

学校にいるときに、内科の年をとった先生が、「ここにいるものは、これからたくさん医師になるだろうが、これを診ることがあるのは諸君の中の半分ぐらいだろう」と言ったことを思い出しました。それは血液の病気で入院した患者が悪くなり、危篤になり、あと2、3日というときに、この斑点が出てくるのです。

先生が言ったのがそれだなと思ったけれど、なぜそれが起こるか分からない。これらが放射能の急性症状なのです。これがみんな出て死ぬのが当時の経験でした。大学で生徒に教える教科書にそれらが今でも書いてあります。でもこれを現実にみた教授は一人もいません。
そういうことで、私は、日本中の医者、世界中の医者の中で、急性症状で死んだ人をいっぱい診たのでそのことが分かった。

その次に不思議なことは、一緒に寝ているなかで「軍医殿、わしはピカにはあっとりません」というのがいた。「なんでここにいるんだ」と腹が立っていいました。

福山という町があります。新幹線が広島に入ってはじめに止まるところです。その町にいた兵隊だった。だから原爆にあってない。お昼に隊長さんが命令を受けて、広島市に救援に行った。トラックに乗せて、ずっと手前でとまって、兵隊は駆け足でスコップなどを持って、倒れている者や、家に挟まっている者を助けた。

それで当日と翌日、丸二日働いた。カンパンを食べ、水は市内の水道を飲んだ。それで被曝してしまって、9日の朝、気を失って倒れた。疲労と脱水の症状だった。仲間の医者がびっくりして抱き起こした。
それでかついて村まできて、被爆者の塊の中に置いていってしまった。そこに置いておけばいつか医者がくるだろう、そのときに本人が言えばいいとなった。

それで私がそこに行ったら足をひっぱった。私は「何でこんなところにいるんだ」と違う所に行ってしまった。3日後にまたそこに行った。それで「あの兵隊はどうした」と聞いたら「死にました」という。
「なんであれが死ぬんだ、被爆もしてないのに」。なんで死んだのか僕にも分からない。そうしたらここで死んでいく被爆した人間と同じ症状だったという。目から血がでて、口が腐って、頭の毛が抜けて、斑点が出て死んだ。

「なぜだ」。本能的に思ったのは、この病気は伝染るということでした。常識的にはそうしか思えない。でもそういったら大騒ぎになる。それで他の医師に聞くと、みんな同じものをみたという。それでこれは伝染る病気かもしれないといった。それまでも診てきたので、一番、伝染病が怖かった。

その日、院長が帰ってきたので話をした。もしそうなら、村の人を含めて、ここに来た人間がみんな伝染ってしまっている。調べろという。遺体の一つを解剖して腸の中を調べた。伝染病なら必ず所見があるはずだ。怖くてね。

兵隊の元気の良かったものの死骸を村の中に運んだ。電気をつけられない。兵隊に洋服をもたして、ろうそくをもたして、お腹をきって水で洗う。いっぱいバケツで水をもたして、腸をひっぱりだして、ろうそくの中でみる。そうしたら伝染病ではないことが分かった。それで伝染病ではないということで対応しようとなった。

ところがどんどん被爆をしてないというのが後から逃げてきた。死ぬまでいくのは少ないのだけれど、死ぬ直前の症状が出る。広島にやっと入って、自分の家がどこかわからないなかでやっと探しあてて、家族がどうなったかというと骨もない。どこに行って死んだのか。

子どもはそれぞれの学校にいた。だからそこに歩いていって探した。そこらへんにいた家族から、「その子どもならうちの子の同級生と一緒だったから良く知っているよ。西の方に逃げて、そこでそのクラスの子はみんな死んだ」とか聞く。彼は、何日も家族を訪ねて町の中を歩いた。それで数日後にかったるいという症状が出て動けなくなる。

症状を聞くとかったるいというだけだ。町で家族を探したら、今日はもう起き上がって歩けない。初めて「ぶらぶら病」の症状を聞いたときに聞いたのは「かったるい」でした。間接的に後から入って被曝した症状はかったるい、働けないでした。勤めている人も、ある日急に職場に行けなくなった。「ぶらぶら病」の症状は一人ひとり、みな違うのです。

続く

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明日に向けて(559)じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(肥田舜太郎さん談)上

2012年10月13日 22時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121013 22:00)

10月7日に、被爆医師、肥田舜太郎さんが、大津市で行われた滋賀県保険医協会主催の講演会でお話されました。僕も参加して、一番前の席に座ってノートパソコンを広げ、必死でノートテークしました。

肥田さんは、いつものことですが、立ったまま、2時間にわたって熱弁。話が進むに連れて聴衆を引き込み、時間が経つことも感じさせませんでした。まるで映画を見ているように、肥田さんの前に原爆投下後の広島があらわれ、被爆者の方たちが現れ、その中で奮戦する肥田さんの姿が現れました。

すべての言葉が印象的でしが、今、振り返って僕に胸に一番残っているのは、今回の事故のことで「講演に呼ばれた専門家の中で、とう生きるかを言える人は私以外にいない。言うのは遠くにいけ、汚れたものを食うなということだけだ。
ではできない人はどうするのか。それには答えない。それを言えるのは僕だけだ」と語り、放射線の害と立ち向かって生きる術を述べられたことでした。

実際に肥田さんは、繰り返しすでに被曝した人がどのように生きれば良いかを説かれます。どう放射線の害と闘うかです。その内容は本文に譲りますが、僕もこの肥田さんの言葉を自分の講演で必ず伝えるようにしています。

確かに放射線はまず防護すべき対象です。しかし、福島事故ではすでにものすごい被曝が起こってしまいました。だからその影響と立ち向かわなくてはいけない。個人的にも社会的にもです。だからこそ肥田さんは被曝医療の充実を訴えられています。

肥田さんが何千何万の被爆者とともに、一つの生き様として築きあげてきた「内部被曝と闘う知恵」を私たちはみんなでシェアし、伝え、磨き上げていくことが必要だと思います。

そのような思いから、この日の講演をノートテークしてきました。録音不許可だったため、僕の現場でのタイピング力の及ぶ範囲での再現になります。細部で間違いなどあるやもしれません。お気づきの方はご指摘ください。

講演は2時間。タイピングの量も多いので、3回にわけます。どうかお読みください。


**************

じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(上)
2012年10月8日  肥田舜太郎

ご紹介いただいた肥田舜太郎という内科の医者です。
広島の原爆のときに、現地にいて自分も被曝しながら、生き残って被爆者の方の医療を行った方はたくさんおられたのですが、みんな私より年が上で、全部亡くなりました。広島についていえば私がたった一人の被曝医師です。

そのために福島の事故が起こってから、日本中のマスコミの方が、広島を経験した医者でなければだめだということで私のところに来ました。100社以上がでした。その度に同じことを2時間ずつ話させられる。大変な苦痛でした。

同じぐらいの回数で、全国のお母さん方が、初めて放射線被害に不安を抱いて、どうやって生きていったら言いか知りたいということで、講演に行きました。取材と講演は合計で300回を越えます。1週間のうちに四日ぐらい取材に応じたり講演で話したりする生活を送ってきました。年を取って、こんな目にあうとは思いませんでしたが、確かに私でなければこれは話せない。また亡くなった被爆者の方の思いを伝えるためにとも思ってお話してきました。

私が広島で勤めていたのは日本で一番大きな陸軍病院でした。当時、日本から中国へ行く部隊も、南方に行く部隊も、全部、広島の宇品の港からでました。そのため、広島の婦人たちは、毎日船が出ますから、その度に、日の丸をもって見送りに行っていました。

その後、日本中の大都会が空襲を受けました。何百機に襲われ、焼夷弾で大都市はみな焼け野原になりました。私が広島に赴任したのは原爆が落とされた1年前の8月1日でした。
それからちょうど1年たった8月6日に原爆を受けました。それまでの間は、広島もよその町と同じように、朝から遅くまでB29がきました。1機でくることもあれば3機のときもある。何10機のときもありました。そのたびに避難することを繰り返しました。

しかし不思議なことに実弾が一発も落ちなかった。通るだけなのですね。戦争が終わってアメリカにいって、はじめて、むこうの記録を見ますと、広島に原爆を落とすこと前からが決められていました。
そのために空襲に来るたびに、弾を落とさないけれど、写真を撮り、広島市民が一番、屋根の外にいる時間を調べていた。自分の落とす爆弾が、直接、一番たくさんの人に影響を及ぼす時間を調べて、それで8時15分に落としたのです。

はじめて作った原爆を広島の人を使って実験する。日本人の身体を使って原子爆弾の威力を試す。それを記録に残して、原爆を使う戦争の資料にするつもりだった。あとからそれがわかりました。

あの原爆は熱が出ますから、直下で焼け死んだ人がたくさんいます。爆風も強い。大きな巨人がいて手のひらを広げてぐしゃっと下を潰したようなもので、家が潰れました。中にいた人は逃げる間もない。即死した人はまだ幸せですが、死ななかった人はつぶされやがて火が出て焼き殺された。これが目に見えた死に方です。

しかし放射線の被害は目に見えません。死に方も見えません。みなさんも今度の事故で放射線の話をなんども聞いたと思いますが、誰も見たことはない。お医者さんも放射線を治療に使いますが、機械を見たことはあっても何が出たかは見えません。
みなさんが裸になって「大きな粋を吸って、息をとめて」と言ったときに、カシャット音がする。そのときにみなさんの身体の中を放射線が通るのです。それで硬いところが陰になって映る。フィルムに骨が見える。身体の中のおできなども小さく写る。それで先生は体の中に起こったことを判断します。

昔は放射線がそんなに恐ろしいものだとは知らなかったから、患者さんに当たるだけでなくて、まわりにもれて、それを毎日受けている技師の方に影響が出てくる。皮膚がんになったり、白血病になったりする。それでわかってきました。
それで妊娠4ヶ月前のお母さんにはレントゲンをかけてはならないと決まりましたが、それは戦後、だいぶたってからでした。原爆が落とされた後もその恐ろしさが分からず、4ヶ月以下のお母さんにレントゲンをかけていたのです。広島でたくさんの人が死にながらそれが続いていた。

その理由は何か。僕たち医者は被爆者をみました。10日ごろに呉の海軍があの爆弾は原子爆弾だったといった。しかしなんだかわからない。しかし不思議な死に方をたくさんみました。
経験的にわかっていった。目で見てはじめて、自分にわからない人間の死に方があることがわかり、これが原爆の威力だなとみて勉強しました。それを知っている人は日本には誰もいなかった。

放射線は目に見えなさい。福島のことでも、人々がどんな被害を受けてどうなっていくのか誰もわからない。その放射線の影響が目に見えるような被害となったのは広島と長崎が最初です。福島では本当の被害が見えるようになるのはこれからです。今から本当に恐ろしいことがおこります。

これに備えた医療体制が必要ですが、今の政府の体制では間に合わない。患者が出てきてからでは遅いのです。それなのに、みんな無責任で何も起こらない、大丈夫だと言っている。
広島長崎で60年以上、人が放射線で殺されてきたのに、そのことから何も学ばないで、アメリカの言い分を信じ込んで、今でものんびりしている。

でも現実に今回の事故で放射線を浴びた人はいるので、ただ放射線の被害は恐ろしいとだけいっても、受けた人はどうしたらいいかわからない。放射線の被害に対しては治す医療はない。薬もない。
医師は見ているしかないのです。それを僕たちは繰り返しました。助けてあげたいけれど、助けられない。見ているしかない。それで死亡をしたことの確認をとる。法律上、医師がそれをしないといけないのでやらされました。

患者さんは、医師が身体を見てくれると、助けてくれると思う。死への不安で心持も乱れに乱れている。目の前の人が医師だと思えば助けてくれると思う。その人に何も出来ない。辛いですよ医者は。

病院でみているときは、死因がわかっていて、あと何日ぐらいだろうということで、家族に知らせる。本人も分かる。そのときは静かに死んでいく。しかしあのとき死んだ人はさっきまで元気だった。
いつものようにしていたら、ヒカッと光って、どこかに飛ばされて、しばらく気を失った。そのうちに気がついて、あたりを見ると、薄くもりで曇っている。

それが晴れてくると自分は町の中にいたのに、町がない、道がない。原っぱになっている。不思議に思って、どこにいるんだろうと思って立ち上がる。そうすると裸でズルズルに焼けている。ユラユラ揺れながら、血だらけで歩いてくる。
なんでこんなことになったのか。飛行機が来たことも知らない人が多い。爆弾を落とされたという認識もない。

おばあさんが、何時ものように洗濯をしていたら、ピカっと光った。同時に熱い。わっと思ったら10メートルぐらいふっとばされる。気を失ってなにも分からない。おばあさんが目が覚めたら、周りが何もない。というがあのとき被曝を受けた人の実感です。
何がおこったかもわからないうちに、体をたたきつけられて、聞いたこともない放射線で体が壊されて死んでいく。

診る方の私から言うと、病院にいたら死んでいた。病院は3秒と建っていなかった。ぺしゃんこになった。597人という人が猛烈な熱で焼き殺された。たった3人だけが息があって、崩れた建物から這って出て病院の表門から逃げた。這って歩くような格好で逃げましたが、後から出た火事で焼き殺された。

たった一人、生きのびた人が現在87歳で生きています。四国の小島という家で、家業の会社をやっていて奥さんとふたりで生きてきました。子どもはいない。そのまま長く生きて、奥さんが病院に入りましたが、今日もまだ元気に生きています。
今度の福島の問題でとても心配して、何十年もの間、病気が出たりひっこんだり、苦しみが続いていく、そのことを自分のことよりも心配しています。

そういうわけで、あのとき死んだほうが楽だったと思いながら、病気を繰り返して生きてきたのが被爆者です。一番若い人が67歳か68歳です。被爆者がどんなふうになったのかという話では、即死した人のことは何の役にも立たない。
原発事故でこれからも放射線の被害は出ます。日本の国ではこのままいけば、どこかで放射線の影響で死に絶えてしまいます。全部やめれば別です。

私が経験した、放射線の影響で苦しんで死んだ、死に方を教えます。ひとつは直下に近いところ、爆心地があって、そこから1キロ2キロまでは、直接の放射線の影響が強かったので、死ぬ人が多かった。

その人たちの死に方を私は原爆投下の後にたくさん見ました。そのとき私はたまたま往診にいった6キロ先の村にいたので、そこで被曝しました。それでもピカっという光と、熱は十分に感じました。びっくりするほど熱かった。
夏ですから反そでのシャツを着て、夜中に患者を見たら、スヤスヤしていました。私は朝早く病院に帰るつもりだったけれど、寝坊して8時に起きた。

その家にいてピカっと光って、焚き火にあたっていて、後ろからつきとばされて炎に入ったような熱さでした。すごく熱かった。後で見たらやけどはしていませんでした。熱さだけは今でも覚えている。だからどこか近くに爆弾が落ちたと思って、つぎに”ドカン”がくると思って、伏せていました。
でもドカンがこないので見た。そうしたら何が空に上がっていくのかを見ました。これを見た人はもう私しかいません。

ちょうど広島の上空に、青空の中に真っ赤な火の輪ができました。不思議で見つめていました。その上に真っ白な雲があがって、どんどん膨れていく。初めの火の輪はそのままです。雲が大きくなって内側から火の輪にくっついた。そうした大きな火の玉ができました。直系が7キロと本には書いてあります。
僕の印象では夕日がときどき大きくみえるときがあります。それが目の前にぼっとできた印象でした。初めて見るので怖いのです。縁側で座りなおして、何が起きてもすぐに逃げられるような覚悟で見ました。

そうしたら火の玉が上に雲になって、きりもなくどんどん上にあがっていく。下のほうは山があって広島の町は見えない。きのこ雲は写真でみると、下も雲になっていますが、あれは後からのものです。僕が見たときは下が火柱だった。上がきのこ雲になる。
不謹慎ですが、その火柱が五色に輝いてとってもきれいでした。あとで被爆者の前で、とってもきれいだったと言って、あの下で何人死んだのかと言われ、謝ったことがあります。

その火柱のついている一番下から、真っ黒な雲が出てきました。それが火柱がついている山の向こうにいっぱいに広がり、山を越えて、こちらに向かってくる。こちらは大田川の麓にいて、そこには森やらなんやらがある。
そこを渦巻きができて、それがこちらに迫ってくる。幅広い日本の山々の間を渦を巻きながら押し寄せてうる。僕のところに迫ってくる。

それが村のそばまできました。下の方に小学校があるのですが、その瓦が紙くずのように舞い上がりました。それが僕の見た最後で、つむじ風がまともに僕がいた家にきました。足元をすくわれて、家の中を飛んでいきました。
舞い上がって目の前に天井がある。その天井が風で吹きぬけた。その上の茅葺きが壊れて空が見えた。その次に壁にぶつかりました。そうしたら屋根が落ちてきた。泥も塗ってあってそれも落ちてきた。丈夫な農家だったので、家は潰れず、その中で子どもを捜して表にでました。

続く

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