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ぼちぼち日記

大切な日々のこと

『妊娠カレンダー』

2006-08-11 16:27:12 | わたしの読書
妊娠カレンダー』 小川洋子

『麦ふみクーツェ』を読んでから、ずっと、主人公のお父さんのことが気になってしかたがなかった。この世界のすべてを数字を通して理解し、数字を通して愛する彼。数字でしか、自分を表現できない彼。そんな、数学者の世界をのぞいてみたい。そう思ったとき、小川洋子著の『博士の愛した数式』を思い出しました。
映画になったことで、ちょっと、読む気持ちが萎えていたのだけれど、きっと、今こそ読むべき時!と、勝手に運命を感じています。
ところが、この本は、とてもとても人気があるらしく、図書館では、予約の列。仕方ないので、同著作者の『妊娠カレンダー』という本を借りてきました。著者は、この本で芥川賞をとったとのこと。うむむ。最初に、こっちに挑戦だ!

不思議で怖い短編が三つ。中でも、『妊娠カレンダー』は、強烈だ。
美しく、我がままな姉。姉の我がままに翻弄されながらも、姉が結婚してからもなお、一緒に暮らしている妹。奇妙な共同生活だ。
その姉が、妊娠した。ひどいツワリ。そして、ツワリの後に訪れた恐ろしい程の食欲。どんどん変わっていく姉を、妹は、どんな風に見つめていたのだろう?
姉の中の赤ん坊を、「遺伝子」としてしか考えることができない妹は、なんと、ジャムが食べたいという姉に、農薬づけのグレープフルーツのジャムを作り続け、赤ん坊を壊したいと思うようになる。
いよいよ、赤ちゃんが生まれるという日。病院に運ばれた姉を追い、病院に入った妹の、壊れた遺伝子を見に行こうという言葉が、すごい。
ジャムによって破壊し続けることで、生まれてくる「遺伝子」は、姉夫婦だけのものではなく、妹のものにもなるというのだろうか(考えすぎかな?)。妹の異常な心理状態が、ジワジワと伝わってきて、背筋が寒くなる物語でした。

私が気に入ったのは、2話目に収録された『ドミトリイ』。主人公の女性が、かつて自分の入っていた学生寮を、いとこの男の子に紹介するという話だ。
寮の管理人である、両手・左足の無い「老人」との再会。
寮から忽然と消えた大学生は、どこに行ったのか?どうして、主人公の女性は、寮に引越しした「いとこ」に、それ以降、会うことができないのか?
管理人が、すべての鍵を握っているようで、握っていないようで・・・そんな不気味さのまま、物語は終わる。桐野夏生の『柔らかな頬』を思い出した。これは、最後まで犯人不在のサスペンス。いやいや、事件が、本当に起こったのかもわからないサスペンス。不思議な不気味さだった。

『麦ふみクーツェ』

2006-08-05 17:46:06 | わたしの読書
麦ふみクーツェ』 いしいしんじ

この本、好き。それが、率直な感想だ。『トリツカレ男』も『ぶらんこ乗り』も、もちろん好きだけれど、それを越えた「好き」が存在する。
どうしてだろう?と、妹と話していて、この本が描いているのが「希望」だからじゃないか?ということに、辿り着いた。だからだろうか?読んだあとの、この爽快感。
しかし、途中までは、ちっとも希望じゃなかったのだ。
どちらかと言えば、恐怖だった。「ねこ」と呼ばれる主人公が、どんどんと追い詰められていく恐怖。いしいしんじ氏独特の無国籍の世界に加え、話を追うごとに加えられていくエピソードは、読む者の恐怖心をあおっていく。

「ねこ」と呼ばれる、主人公の「ぼく」は、異常なほどに背が高く、病弱で、学校のみんなから無視されている。ぼくは、小さな港町の吹奏楽を率いるティンパニストのおじいちゃんの影響を受け、音楽家としての道を歩み始める。
学校の先生で、数学者で、数字でしか表現することが出来ない父さん。「ぼく」の学校での唯一の居場所、三面記事のスクラップをしている学校の用務員さん。そして、盲目のボクサー・ちょうちょおじさん。盲目で、頭がイカレちゃってる天才チェロリストの先生。その娘、みどり色。ぼくが知らないうちに、ぼくの住んでいた町をめちゃくちゃにし、父さんを水の中に放り込んでしまった・セールスマン。
とん、たたん、とん――と、響く麦ふみクーツェの音に導かれながら、「ぼく」は、その個性的で、変わった登場人物たちと共に、成長していく。

印象に残った言葉がある。盲目の天才チェロリストの先生が、ぼく・「ねこ」に尋ねるシーンだ。
「へんてこで、よわいやつはさ。けっきょくんとこ、ひとりなんだ。ひとりで生きてくためにさ、へんてこは、それぞれじぶんのわざをみがかなきゃなんない。そのわざのせいで、よけい目立っちゃって、いっそうひどいめにあうかもしんないよ。
でもさ、それがわかっててもさ、へんてこは、わざをさ、みがかないわけにいかないんだよ

それは、どうしてだと思う?ねこは、答える。
「それは、それがつまりへんてこさに誇りをもっていられる、たったひとつの方法だから」

いしいしんじ氏は、つくづく、へんてこな人が好きなんだなあと思う。へんてこな人、個性的すぎて、世の中からはじき出されてしまった人に、限りない愛情と尊敬を注いでいるように思える。でも、誰が変で、誰が普通なんだろう?
生きていくと、必ず、何処かで壁にぶつかる。自分の価値観を根底から崩されるような挫折や、屈辱を味わうこともある。そんなときに、大切なのはなんだろう?
そんな、言葉では、とても表現できない何かを、でも、確実に、手にできたような気がする。
この本を読んで、いしいしんじ氏の作品が、図書館のヤングアダルトのコーナーに並んでいる意味が、なんとなくわかった。
中学生、高校生の頃の私が読んだら、どんな風に思っただろうか?子どもたちは、この「希望」を、どんな形で手にとるだろうか?そんなことを考えた一冊でした。


『右の心臓』

2006-07-18 21:08:14 | わたしの読書

『右の心臓』 佐野洋子

佐野洋子さんのエッセイが好き。
始めて読んだとき、この人は、絵と全く同じ文章を書く人だなあと感心した。毒々しいとはこのこと。あちらこちらに、所構わず噛み付いて、仕舞いには、ぎゃあぎゃあと泣き出してしまう。
読み手は、「あ~あ」と呆れたり、的を得ていて大笑いなんてこともある。そして、いつも、この人と友だちになりたいなあ~と思う(無礼者でゴメンなさい)。
この人と一緒にいたら、きっと、世の中の色は、すべて違う色になっちゃうような気がするのだ。

今回のエッセイでは、少女の頃の洋子さんが、嫉妬し、意地悪し、軽蔑し、愛しいと思い、愛されたいと思う。
あまりに赤裸々に綴ってあるので、その醜さに、ゲンナリする人もいるかもしれない。コジキの子がいれば、汚い!こっちにこなければいい!と思い、弟が死んだときと兄が死んだときとでは、母親の悲しみ方が違うと分析し、自分がとった賞の授賞式に、お化粧してスマシテやってくる母親を軽蔑する。知的障害の子を怖いと感じ、それを隠そうとする大人を不思議に思う。
だけど、私は、こんな幼い洋子さんを愛してやまない。子どもって、こういう残酷なものだなと思う。もちろん、自分のことだけれど・・・。

今回、エッセイの中に度々登場してきた、亡きお兄さんのことが多く描かれていて、エッセイファンとしては、とうとう、お兄さんのことを詳しく知ることができるのだという、ドキドキを味わうことにもなった。
お兄さんの死の日。それを迎える幼い洋子さんの心模様が、彼女独特の激しい文章で語られる。そして、死の後の洋子さん。
この人は、きっと、ず~っと、このことを引きずって生きてきたんだろうなあと思う。感情がストレートすぎて、もらい泣きすることもないというのが、佐野エッセイなのだが・・・読んでいるうちに、ふと『100万回生きた猫』を思い出した。

昔の子どもは、いつも身近に死があった。家族が死に、近所の人が死ねば、みんなで埋める、火葬する。お父さんが、飼っている動物をさばき、それを手伝わされる。かわいがっていたうさぎをシメルとき、耳を持っているように命じられ、気持ち悪くなってしまう洋子さんが、夜、「うさぎ鍋」をおいしいと言って食べる場面には、感じるものがある。
彼女の絵本の中に描かれるブラックユーモアや、絵の迫力の原動力を感じることができる、そんな一冊でした。


『こころ』

2006-07-17 05:27:52 | わたしの読書

こころ』 夏目漱石

この物語と出会った時のことを、今もはっきりと覚えている。
高校の現代国語の授業中。教科書に載っていたこの物語の抜粋に、あっという間に夢中になってしまった。もちろん、そうなると先生の授業なんて上の空。先生、あの時は、本当にごめんなさい(笑)。
中学生の頃から海外文学に傾倒し、日本の文学史を飾る作品を、全くといって読まなかった私が、素直におもしろいと思ったのが、この『こころ』だった。

男と女の愛情がもたらす悲劇に、きっと、高校生の私は、今の私には、想像できないほどの、興味と嫌悪と憧れを抱いていたのだろうと思う。
だって、何十年ぶりに再読した『こころ』は、あの頃のドキドキが、すっかり失われていたから・・・・・。恋愛そのものへのドキドキ感が、消えてしまっているんだなあ。ちょっとだけ寂しい。
その代わりといってはなんだが、主人公や、主人公が慕う先生の小さな心の動きが、よく理解できる。先生が、友人を出し抜いて、プロポーズをしてしまう場面。その友人が自殺してしまってからの人生。その罪の意識にさいなまれ、結局は、自殺してしまう先生の心模様。私には、それが理解できる。

中学生の頃、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読んで、主人公の行動が全く理解できなかった私は、ひどく憤慨して、母のところにとんでいった。「こんな考え方、間違っているよね!」。
同調してくれると思った母は、けれど、そうは言わなかった。
「大人になってから、もう一度、読んでごらん。」
今、そのときの母の言葉が響いている。

今だからこそ、感じることができる物語の醍醐味に、ふむふむと感じ入り、そのたびに、青かった私を思い出す。あの頃の私は、なんて、青臭くて、馬鹿者だったんだろうと思ったり、懐かしく思ったり、その繊細さをうらやましく思ったり。
こういう体験ができるもの、若いときに、多くの本を読むことができたから。
本だけは、よく買ってくれた両親に感謝しつつ(そのときは、洋服の方も、もっと買って欲しかったんだけれど)・・・・・。そのおもしろさを、今度は私が、息子に、図書館のお話し会に通ってきてくれる子どもたちに、教えていってあげる番だなあと、つくづく思ったのでした。
本との出合いは、一生の宝物なのだなあ。


『雪屋のロッスさん』

2006-07-15 06:05:18 | わたしの読書

雪屋のロッスさん』 いしいしんじ

魔法が足りない。そんなことをぼんやり思った。『ぶらんこ乗り』の印象が強すぎたのだ。ほとんど、麻薬患者のような感じで、あの陶酔感を期待していた私には、ちょっとだけ、がっかりした部分もあったと思う。
それでも、いしいしんじの不思議な世界は、しっかりと存在しています。
私にとってのいしいしんじは、こちらの世界とあちらの世界のハザマの世界。それは、非現実的な物語だけれど、しっかりと、こちら側に結びついている。

そんなハザマの短編が30もつまった本。何が描きたいのか理解できない・・・それが魅力というのもおかしいけれど、そんな、不思議ないしいしんじワールドに、どっぷりとつかりました。印象深かったのは、『似顔絵描きのローばあさん』と『しょうろ豚のルル』。
さて、次は、いよいよ『麦ふみクーツェ』に挑戦です。


『ぶらんこ乗り』

2006-07-12 16:49:31 | わたしの読書

ぶらんこ乗り』 いいし しんじ

私は、整った文章が好きだ。そういう美しい文章を読むと、それを書いた人が作家であろうと、友だちであろうと、同僚であろうと、もう、ウットリしてしまう。
そんな私だから、この本を開いたとき、正直に言って「ぽか~ん」としてしまった。だって、そこには、お世辞でも、美しいとは言えない文章が並んでいたから。
私は、一度読むのをやめて、遠くからページを眺めてみた。
平仮名だらけで、まるで、あちらこちらに言葉がとっちらかっているような、そんな感じ。これは、まるで何かの呪文か何かじゃないか?そんな気までしてきた。
いや、きっと、呪文だったんだと思う。だって、私は、魔法にかけられたように、その、ちっとも私好みじゃない文章に、のめりこんでしまったのだから。そのうちに、なんだかわからない涙が溢れてきて、まだ、何の事件も起こらない、ほんの序章のうちから、私は、ホロホロと泣き出してしまった。

これは、小学生の女の子と天才と謳われた弟との、切ない思い出の物語だ。
(3歳から物語を書き始めたという)天才の弟くんの書いた物語をちりばめて、話は、どんどんと進んでいく。
在りえない夢のような物語。けれど、それは、私の幼い頃の思い出と、何度も何度もリンクする。それは断片であり、なんのツナガリもないのだけれど、何故か、何度も何度も頭の中に浮かんで、消えた。切なくて、切なくて、たまらない。

これは、いったいどういうことだろう?
全く、この物語の説明になっていないのだけれど、最後には、オイオイと泣き出してしまった私が、はっと気づくと、なんと、一日で読了していた。これは、本当に久しぶりのこと。
その日、息子は、旦那と一緒におじいちゃんの家に遊びに行っていたし、私は、友人との約束が雨で流れてしまっていたし、そんな偶然も重なって、魔法にかかったように読み干してしまったのです。
この本を読んだ誰もが、私と同じような体験をするのだろうか?もしかしたら、つまらなくて読めません!という人もいるかもしれない。
実際・・・その本良かったの?なんて質問を受けたら、もう、「わからない」としか答えられないのだ。不思議な不思議な一冊だった。説明のつかない一冊だった。完全に、いしいしんじの世界に、ハマッテいます。


『ノラや』

2006-07-01 15:06:03 | わたしの読書
ノラや
内田百・旺文社文庫

作家・角田光代さんのインタヴュー記事の中で、「内田百」という名前を見つけ、読んでみたいと思った。しかし、何の知識もない私。
まずは、図書館の予約サイトにて、一番読みやすそうなものを探すことに・・・。
『ノラや』。題名に一目ぼれです!
そして、公民館で手渡された古ぼけた文庫の表紙には、なんとも愛嬌のある「猫」の絵が・・・。 そう。これは、作家「内田百」の愛猫の失踪の顛末と、そのときの日記です。

動物を飼ったことの無い人が読んだら、「この人、どうかしちゃってるんじゃないの?」と思うこと間違いなし(笑)。
百先生は、気の毒な位に意気消沈し、ご飯も喉も通らなくなり、夜も眠れなくなり、何をしていても愛猫「ノラ」を想い出し、涙します。そう。泣いてばかりいて、仕事も出来なくなるほどに。
私も、実家の猫が病気になったと連絡を受けただけで、涙にくれてしまう人間なので、気持ちは痛い程わかるのだけれど・・・

軽快な文章運びのせいでしょうか?内田先生、ごめんなさい!思わず笑いがこみあげてきて、我慢できない箇所が何度もありました。
周りの人を巻き込んでの意気消沈ぶりもそうですが、ノラの回想場面では、あまりの猫っかわいがりブリに、噴出すことシバシバ。
刊行は、昭和32年!!!
おお~!私が、この世に生まれる10年(プラス?年)も前じゃありませんか!とても、そうとは思えない面白さなのです。
面白いものは、時代を超えるのですね。
そして、猫(ペット?)を想う気持ちもまた、時代を超えちゃうのです。

『猫語の教科書』

2006-06-23 05:02:07 | わたしの読書

猫語の教科書』 ポール・ギャリコ

これは、猫による猫のための教科書である。
いかにして、人間の家をのっとるのかについて、いかにして、おいしいものを頂戴できるかについて、いかにして、フカフカのベッドで寝れるかについて、その方法を、具体的に教授してくれている。なんと、人間についての考察では、男女の違いにも触れ、対応策が書かれている。

猫を飼っている人は、もちろんのこと、猫が好きな人なら誰でも、大笑いしながら?納得しながら?読むことでしょう。「猫のことなんて、なんとも思ってないわ」という人にもお勧め。明日には、猫と一緒に暮らしてみたいと思うことでしょう。
私は、実家の猫ちゃん達との暮らしを思い出して、大笑い。すっかり、幸せな気分にななっちゃいました。本当に猫って、魅力的~♪

よほど、楽しそうに読んでいたのでしょうね。そのうちに「なに?なに?」と息子が覗き込んできました。あんまりしつこいので、「子ども向きの本じゃないからね。」と前置きしつつ、一章を朗読。かなり長かったのですが、息子は、大喜びで聞いておりました。そして、「もっと読んで!」と。
ううむ。この量を読み聞かせするのは、ちと無理があるような気が・・・
それでも、図書館から「次に予約が入っていますから」コールがかかるまでは、借り続けてあげようかしら。それほど、魅力的な本でした(笑)。


『トリツカレ男』

2006-06-21 08:52:22 | わたしの読書
トリツカレ男』 いしいしんじ

以前、『おりの中の秘密』を読んだときに、初めてその存在を知った、図書館の隅のヤングアダルトコーナー。家庭の本棚程もない小さな、小さなコーナー。どうして、こんなに良い本が、こんな隅、漫画や視聴用のCDコーナーの向こう側に置かれているのか?については、今も納得いかないのだが・・・・・おかげで、いつでも在庫が揃っているというのが、ちょっと嬉しい。そんな訳で、その中で多くの部分を占める「いしいしんじ」氏の作品。

主人公ジュゼッペのあだ名は「トリツカレ男」という。その名の通り、何かに「トリツカレ」てしまうと、すべてを忘れてしまう男だ。オペラ、三段跳び、サングラス集め、語学の通信教育・・・
ときたところで、どきっとした。あら、私もかなりのトリツカレ女だわ。
英会話、読書、書道、これは、今。昔、ダイエット、一人旅、自転車、水泳にトリツカレていたときもある。英会話教室に通いつめたっけなあ。7万円もする自転車を買ったっけなあ。ああ、奇異な主人公が、一気に身近に思えてきた。
さてさて、その主人公が、ある日、恋に落ちた。恋にトリツカレてしまったのだ。
恋にトリツカレたトリツカレ男。彼女のことだけを考え、彼女のためだけに行動するトリツカレ男の片思いは壮絶だ。トリツカレ男は、彼女のために、彼女の理想の男になっていく。その一途な想いは、痛々しい程だ。けれど、最後に待っていたのは・・・

一風変わった、トリツカレ男の恋愛物語。
人は、こんなにも、自分以外の人のために犠牲になれるものだろうか?決して、見返りを求めない愛。切ないけれど、愛って、トリツカレルって、なんだか素敵なことなんだなって思う。

『遊んで、遊んで、遊びました』

2006-06-13 06:53:15 | わたしの読書

遊んで、遊んで、遊びました~リンドグレーンからの贈りもの
シャスティーン・ユンググレーン著
うらた あつこ訳

すっかり、リンドグレーンの大ファンになってしまった親子に、紹介して頂いた一冊。ようやく、借りてくることが出来ました!
それにしても・・・その本を手にした瞬間のおかしさったら!なんと、おばあちゃんリンドグレーンが、木に登っているではありませんか!さ、さすが!
私の読んでいる横では、息子が、その「おばあちゃんリンドグレーン」の姿に、目をキラキラと輝かせておりました。「これ、リンドグレーン?何歳のとき?すげえ!すげえ!」と。

さて、インパクトの強い表紙をめくった先には、リンドグレーンが、どんなに幸福な子ども時代を過ごしたのか、どのようにして物語が出来たのかについてインタビューした記事が、彼女の作り出した物語の抜粋と共に書かれていました。
驚いたのは、なんと、エーミールの悪戯も、ピッピの考え出す奇抜な遊びも、すべて、リンドグレーンの経験に基づいているということ。そこには、彼女の少女時代が生き生きと綴られていて、まぶしい程でした。

一気に読み上げた後、ほっと一息ついて読んだ訳者あとがき。
彼女は、リンドグレーンの作品からは、どれも「子どもであることのすばらしさ」が伝わってくる書いています。子どもであることのすばらしさ!繰り返して読みながら、何故か、ぼろぼろと涙がこぼれました。ああ、子どもは、子どもであること、ただ、それだけで素晴らしいのだなあ!
親は、ときに手助けしながら、見守っていくのが役目。自由に、彼らの想像力にまかせ、「遊んで、遊んで、遊ばせてあげる!」のが役目。それって、当たり前で、簡単なようで・・・でも、この現代の日本では、一番、難しかったりします。


私は、リンドグレーンや、その両親のように、「危ないからやめなさい!」と言わないで見守り続けることができるだろうか?
私は、「うちの子は、遊んで、遊んで、遊ばせる!」と、いつでも、胸を張って言えるだろうか?(ああ!「ゲームを買ってあげないと、仲間ハズレにされるかもしれないわよ」と進言された時の、私の動揺っぷり!思い出すなあ~)
もしも自信がなくなったら、もしも不安になったら、また、この本を読み返そう。リンドグレーンの素敵な言葉に、また会いに来よう!


『23分間の奇跡』

2006-06-11 20:48:43 | わたしの読書

『23分間の奇跡』ジェームズ・クラベル / 青島幸男 訳

『最後の授業』という物語を教科書で読んだのは、小学校、何年生の時だっただろうか?今でも、しっかりと挿絵を思い浮かべることができる。黒板に書かれた「Viva La France!」の文字。・・・不思議な位に、よく覚えている。
そう考えると、子どもの頃に読む本というのは、ものすごい影響力を持っているのだなあ。あの物語を読んだことがきっかけで、戦争を描いた本を、片っ端から読んだのだっけ。中学生になって、ヒットラーを描いた本を探して読んだのも、この本が、きっかけだったのかもしれない。きっとそうだ。それほど、強烈な印象を与えた物語だった。
そうやって、幼い頃を思い出していく作業は、なんだか、自分のルーツを探っているようでおもしろい。まさに、その鍵を開けてくれたのが、この本『23分の奇跡』。読むのには、たぶん23分もかからない。ましろさんの素敵な書評ブログで見つけた本だ。

青島氏のあとがきによれば、これは、『最後の授業』の続編であり、『最初の授業』だ。敗戦により占領下におかれ、学校が、敵国の教師に占領される。今までの価値観が、一瞬のうちに破壊される瞬間。それは、たった23分の間に起こる奇跡だ。
泣きながら教室を去る教師に代わって入ってきた、新しい教室の主。彼女は、可愛らしく微笑み、語りかけ、いとも簡単に、築き上げられてきた子どもたちの価値観を破壊してしまう。静かに、優しく、誰も傷つけず、けれど、確実に破壊する。
ここからは、きっと簡単だ。幼い子どもたちは、何の疑いもなく、その新しい先生の正義を学んでいくだろう。そして、いつかそれは、子どもたち自身の正義となり、価値観となる。
なんて恐ろしい物語なのだろう。聡明な、若い(まだ19歳の)教師の言葉が、私の価値観まで揺さぶってくる。何が正しくて、何が企みなのか?その境がわからなくなって、何度も、後ろにもどって読み返した。

本を閉じて、はたと考える。
さあ。私のこの価値観は、どこからやってきたものだろうか?


『誕生日の子どもたち』

2006-06-05 05:42:49 | わたしの読書
『誕生日の子どもたち』トルーマン・カーポティ /村上春樹 訳

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読了してから、春樹氏の翻訳本を読んでいこうと心にきめた。まずは、おじゃましている書評のブログで、素敵に紹介されているのを見つけたカーポティの作品から!
ちなみに、ファンとしては、どうにも我慢が出来ず、「訳者あとがき」から読んでしまった。カーポティさん、ごめんなさい。そう。村上春樹訳だから読んだということは、事実なのだけれど、でも、想像していた以上に素晴らしい作品だった。

6つの短編で構成されている物語は、どれも、子どもがテーマだ。子どもの純粋で、無垢な心は、ほんのささいなことで傷つき、逆に、相手を簡単に傷つけてしまう。子どもの頃、その純粋さゆえに、傷つかなかった人がいるだろうか?傷つけたことがない人がいるだろうか?
カーポティの紡ぎ出した繊細な文章が、自らの幼い日の思い出を蘇らせる。ぽつん、ぽつんと、幼い日の心の在り様が浮かんできて、胸がチクチクとウズキダス。

誰かを傷つけて、誰かに傷つけられて、私たちは大きくなる。
だから何?それを、今更、思い出して何になる?
たしかに、それは、中年にさしかかった(あら、立派な中年かしら?)今の私が、生きていくためには、何の意味も持たない。たぶん。だって、ちっとも前向きでないし、ちっとも生産的じゃない。
けれど、その、幼い頃の心の痛みを掘り返す行為に、何故か、快感のようなものを覚えている自分がいる。嫌な思い出のハズなのに・・・
幼い頃の記憶を、殆ど忘れているに等しい私なのだけれど(だから、能天気なのだろうか)、何故か、人を傷つけたときの心の痛みだけは、しっかりと残っている。それを、1つ1つ丁寧に(まるで、まるめた答案用紙を手で伸ばしていくみたいに)広げていく。愚かさとか、幼さとか、醜さとか、そんなものを、冷静に見つめている自分がいる。

その行為が何を意味するのか、ちっとも判らないけれど・・・きっとまた、カーポティの作品を読んでしまいそうな気がする。まるで、麻薬みたいに。

『いちばん美しいクモの巣』

2006-05-31 23:26:18 | わたしの読書

『いちばん美しいクモの巣』・詩人が贈る絵本
アーシュラ・K. ル=グウィン作
長田弘訳

主人公は、なんと・・・クモ。ちっぽけなクモ。
リーゼという名前の彼女は、かつて、王様が住んでいた城に暮らしている。
今は、もう誰もいないその場所に、彼女は、自分だけの巣をかけていた。リーゼは、ほかのクモとは違う。新しい結び方、新しい形。工夫をこらし、ようやく作られる美しい巣。ものを創り出す喜び、創造することの素晴らしさを、彼女は知っている。そしてそれは、多くの人々に感動を与えるのだが・・・
皮肉なことに、リーゼの想いとは別に、ハエを捕るための巣は、芸術作品となって、ガラスケースの中へ入れられてしまうのだ。
物語の最後に、リーゼは、これまで知らなかった一番の「美」を見つける。 リーゼの見つけた「美」。それは、私がいつも暮らしている何気ない世界だ。

私は、クモの巣を、ゆっくりと見上げたことがあっただろうか?クモの巣の向こうに見えるお日様の光や、クモの巣に光る露の輝き。ゆっくりと、立ち止まって見たことがあるだろうか?
改めてクモ見る・・・小さなそれが、愛らしい生き物に思えてくる!え!びっくり。
1つの新しい視点が、私にもたらしてくれたもの。
それは、たかがクモの巣。でも、それを知った今と、知らなかった昔とでは、世界は、随分、違うものになる。本って、すごいなと思う。

詩人・長田弘が選んだのであろう、この絵本は、(彼の詩が、いつも、私の心に気付きを与え、新しい風を吹き込み、新しい視点を与えてくれるように)今まで、足を止めることのなかった場所に、私を導いてくれた。


『ぼくのうちに波がきた』

2006-05-17 14:36:49 | わたしの読書
  ぼくのうちに波がきた
キャサリン・コーワン文、マーク・ブエナー絵、中村邦生訳
今日は、お話し会のサークルの定例会。その中で、好きな本・気になる本を持ち寄って、紹介しあう勉強会がある。今日は、私が、絵本を紹介をする当番の日。
紹介した絵本は、『ぼくのうちに波がきた』。岩波書店から出版されている、スケールの大きい、不思議な魅力たっぷりの本だ。
仲間(といっても、先輩ばかり)も、すっかり、この不思議な世界に惹き込まれたようだったが、紹介した私自身も、久しぶりに読み返して感動してしまった。

海水浴に行き、波を家に連れて帰ることにした少年。少年は、すっかり、波に夢中になってしまう。しかし、そんな楽しい生活は、長くは続かない。
潮の満ち引きのように、気分の変わりやすい波が、荒れ狂い始めたのだ。とうとう手に負えなくなって、少年と家族は、家を出ていくことに。さあ、少年と波は・・・!?

海育ちの私にとって、海は、とても身近な存在だ。
この本を読む度に、海と共に過ごした素晴らしい日々を思い出す。自然の中には、楽しいと怖いが裏表のようにして存在している。
そんな、楽しい思い出と、怖かった思い出が、交互に蘇ってきて、こんなナンセンスな話が、何故か、リアルに感じるから不思議だ。
ちょっぴり怖い、不思議ワールド。空想力豊かな子どもたちは、このナンセンスを、私より、もっと身近に感じるかもしれない。さらなる空想に導いてくれるラストシーンは、必見だ。
息子に読んだのは、2・3年前だったかな?うん。息子とも、また読んでみよう!

『対岸の彼女』

2006-05-13 05:10:44 | わたしの読書

角田光代

NHKの番組『ようこそ先輩』で観た角田光代は、小さくて、可愛らしい女の子だった。女の子。そう、女の人でなく、彼女は女の子だった。「小説を書いてみよう」そんな題材で進められた授業は、とても楽しいもので、この人の書く小説を読んでみたい!素直にそう思った。しかし、さすが直木賞作家。図書館で予約して、ようやく我が手元へやってきた時には、放送から、かなりの時間がたっていた。しかも「次に予約が入っていますから」との注文つき(笑)。

主人公の小夜子は、娘を持つ母親。女独特の人間関係が嫌で、結婚と同時に仕事をやめてしまった。けれど、今は、公園での人間関係にストレスを感じる毎日。公園ジプシーとして公園を転々と歩き、雨の日には、公園に行くことから開放され、ほっとする。その娘もまた、友だち関係を作ることが苦手だ。
そんな毎日をリセットするために、まるで、公園を代えるのと同じように、小夜子は仕事を探す。採用されたのは、同年齢の女社長の旅行会社。まかされる仕事は、新規参入するという掃除代行部門だった。
「お掃除おばさん」「君じゃなくても 出きる仕事」旦那にそう言われ、自分自身でも、これが、私の探していたものだったのか?と自問自答する小夜子。けれど、次第に、そこに大切なものを見つけていく。それは、幼い頃から、人間関係を上手に成立させることばかりに悩み、見失っていた自分。

女独特の社会。女独特の悩み。・・・たぶん、そうなんじゃないかと思う。自分と重ねあわさる言葉が、いくつもあって、どきっとする言葉が、いくつもあって。もう何年かしたら40歳に手が届いてしまうという私が、まるで少女みたいな気持ちになっていった。笑ってしまう位に。
「なんのために私たちは歳を重ねるんだろう」小夜子の心の叫びが、大きくコダマする。いつの間にか、少女にもどってしまった私は、自分でも驚くほどに、ぼろぼろと涙を流していた。自分が、小夜子のようだった気もするし、違った気もする。けれど、たぶん・・・背負ってきたもの、見てきたものは同じだ。そうやって、生きてる。女って、最低?
いや、女って最高!ラストで魅せる小夜子の素敵な笑顔と汗に、思わず、大きくうなずいた。

追記・
調べてみたら、作者は私と1つしか歳が違わない!素敵なインタヴュー記事を見つけ、さらに、彼女を好きになった。よし、他の作品も読んでみよう!・・・予約に追われるんだろうけど。