『カモ少年と謎のペンフレンド』ダニエル・ぺナック 中井珠子訳
英語が、からきし出来ないカモは、お母さんとの約束で、3ヶ月で英語をマスターすることになる。
そのためにと、お母さんが探してきたのが、ペンフレンド紹介所。
英国の少女・キャサリンと文通をはじめたカモは、文通にのめりこむ。病的なまでに!!
カモの親友のぼくは、そんなカモを心配し、文通相手の少女の正体をつきとめようと奮闘する。
そして知るのだ。なんと、その手紙が、18世紀の英国から届いたものだということに!
はたして、少女の正体は・・・。
正直に言うと、途中、人物関係がわかりずらい箇所がいくつかあった。
(それは、私の読解力によるものだけれど)
読み返して、ちゃんと読みこなそうと思ったのだけれど、ドキドキ・ハラハラが強すぎて、とても
戻るなんてことをやっている暇はなかった。
ちょっとぐらい、読み飛ばしてもいいや!ペンフレンドの正体を早く知りたい!!
と、読み飛ばし、そしてたどりついた、少女の正体・・・・・・・。
えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
ちょっと、拍子抜けしてしまったのは、推理小説に慣れた「大人」だからかな。
それにしても、そうきたかー。全然、気付かなかった。
個人的には、この結末は、拍子抜け。
でも、それまでのドキドキ・ハラハラを思えば、まあ、許せるかもしれない。
悔しかったことが一つ。
18世紀の英国に暮す少女とHという名前に、「あれ?」と思わなかったこと。
あーあ。中学生のとき、あんなに夢中になったのにな。
でも、内容も覚えてないから、仕方がないか。
それにしても、読みながら、気付いた人っているのかしら。
そういう人が読んだら、どんな風に楽しむんだろう・・・。ちょっと羨ましい。
「きみは いつから おとなになったんだろう」という、長田弘さんの詩を思い出す。
先日、一年前まで、ランドセルを背負っていた息子が、いつの間にか、思春期の壁を
必死に登っているのだと知った。
大人になれば、たいした壁じゃないってわかるのに、その壁の下にいるときは、それは、
そびえ立つ巨大な壁にしか見えない。終わりが見えない。
たいした壁じゃないと教えても、当の本人には、伝わらない。
前兆は、不眠だった。
部活の試合が近いことからくる緊張からだと、単純に思っていたのだけれど(本人も)、
試合結果が最悪だったことが拍車をかけ、朝まで眠れなくなり、教科書を開けなく
なるということにつながり・・・とうとう、登校前に、布団をかぶって泣き出してしまう。
ああ、このまま学校に行けなくなるのだろうか?
そう思ったけれど、息子は、歯をくいしばってふんばり、学校に行った。
自分は、どんなに努力しても、何も出来ない。
何も出来ない人間の生きている価値って、なんなんだ?
その思いが彼を縛りつけ、努力することが怖くなった彼。
そして、ついに、自分の存在を否定するようになってしまった。
自分に「駄目」のレッテルを貼ってしまった彼には、何を言っても届かない。
届かないのだから、自分自身で立ち上がるしかない。
でも、どうやって立ち上がれば良いのか、自分でもわからない。堂々巡り。
唯一の救いは友人で、友人が、彼を学校に導いてくれる。
歯を食いしばって登校していくのも、友人達がいてくれるからだ。
だから、私は、その後ろ姿を見守るしかない。
わかっているけど、少しでも、何か出来ないだろうかと悩む母は、せめて、
良い本でも贈れないだろうか?と考えた。
どんなに反抗しても、本だけは、母の選書を迷わず手にとってくれるから。
検索して、よりみちパンセというシリーズに、中高生の悩み事相談の本が出ているのを知る。
よしこれだ!ここに、息子が探している答えがあるかもしれない!!
でも、果たして、これは、私が息子に手渡すべき本なのか?なんとなく、心にひっかかって
なかなか、図書館に足が向かないでいた。
そんなとき、朝日新聞の朝刊に、翻訳家・清水真砂子さんの記事を見つけた。
それは、「ゲド戦記」の翻訳で知られる清水さんが、34年間勤めた青山学院女子短大
「子ども学科」で、最終講義を行ったという記事。(以下、記事を抜粋)
見出しは「生きてごらん 大丈夫」だった。
清水さんは、いう。
「子どもだから黄金時代なんてうそばっかり。子どもぐらい縛られて不自由な存在はない。」
大人になれば、よろいを着ることを覚えるけれど、幼い子どもはよろいを持たず、素肌を
ヒリヒリさせている。はぐらかす術ももっていない。
そんな子どもが本を読む。現実よりもっとえげつない大人がいて、もっとすてきな大人がいる。
「こんなに世界って広いんだ」と感じ取ることができるという。
すぐれた子どもの本は「大きくなるって楽しいことだよ。生きてごらん、大丈夫」と背中を
押してくれるもの。
記事を読んで、一人、オイオイ泣いて、自分の間違いをつくづく思った。
そして、昔、同じ間違いをしたことを思い出した。
小学校を目前に控え、緊張している引っ込み思案の息子に、強くなって欲しいという願いを
込めて読んだ「ラチとらいおん」。
母の想いが、息子を傷つけ、本当は素敵な絵本を、最悪の本にしてしまった。
その時の失敗から、我が家に出来た無言のルール。
「本に、何かを期待しない。本を読むときは、感想を言いあわない。」
なのに、私は、また失敗をするところだった。
この記事が、私の肩を掴んで、振り返らせてくれなければ、きっと、繰り返していただろう。
もちろん、人生相談の本が語ってくれる言葉が、助けてくれることもある。
でも、それは、私が差し出すものじゃない。きっと、それは、自分で出会うものだ。
図書館とか、友だちとか。。。
私が、手渡してあげる本は、清水さんの言うような本でなくては、いけない。
そうだよ。だって、答えは、自分で見つけるものだから。。。
記事を読んで、泣いて泣いて・・・考えた。
そうだ。息子に頼まれていたホーキング博士の本を借りてこよう!
いつも訪れる素敵な公民館の図書室で、司書さんが薦めてくれる棚に置かれていた本。
読んだことがない本を手渡すことは、はじめてだったけれど
(ことり文庫さんの薦める本は、私が読まなくても手渡していたけれど)
ここの図書室の司書さんならと借りてきた。
すっかり夢中になった息子に、早くニ巻をと言われていたのだった。
そうそう、それと一緒に、あの本はどうだろうかと思う。
「穴」 ルイス・サッカー幸田敦子 訳
息子の悩みを解決する答えなんて、そこには、書かれていないけれど。
でも、なんだか、パワーがわいてくる本。
「シカゴよりこわい町」は、どうだろう。「スターガール」も、いいかもしれない。
本を薦めるときは、やっぱり、こうでなくちゃね。
清水先生、ありがとうございます。記事を切り抜いて、手帳に貼りました。
『みずうみ』 いしいしんじ
3章からなる物語。
それぞれが別の物語であり、それぞれが、「みずうみ」を通して繋がっている。
いや、繋がっている「気」がする。
ああ、本当に、なんという本だったろう。
1章と2章は、特に強烈?鮮烈?忘れろと言われても、たぶん、忘れることはできない。
穏やかな気持ちで3分の2ぐらいを読み、その後、気持ち悪くなるような感覚を覚える瞬間がある。
その後、「なんなんだ、これは!」と、頭の中で叫びながらも、読むことをやめられない。
最後の3分の1は、まるで、何かに追われるようにして、一気に駆け抜ける。
良い表現ではないのだけれど、気がふれるって、狂うって、こんな感じなのかなーって、
その、最後の追われている時に、何度も思った。
終わりも、突然だ。
「さあ、次のページ!」と、勢いよくページをめくったら、そこに、何も書かれていない。
・・・・・・・・・・あ、終わったんだ。どっと、疲れる。
特に、2章は、あまりに緊張しすぎて、読み終わった後、ぐったりしてしまった。
今も、口の中から、異物を吐き出したくなる衝動にかられる。
3章は、それまでの章とは、雰囲気が違う物語。
途中、何度も眠くなったのは、読むのが辛かったからなのか、それとも、主人公達と共に、
洞窟の中をボートで進んでいるからなのか・・・わからない。
水。白い人。眠気。鯉。バザー・・・・・。
前の章と繋がる言葉に誘われて、ようやく、最後まで読むことができる。
最後まで読んで、本を閉じてしまってから、ようやく、3章もまた、すごい物語だったなあと
いう思いが、どこからともなく込み上げてくる。コポリ、コポリ。
今回、何より驚いたのは、いしいワールドに、はじめて、具体的な地名が出てきたこと。
主人公が、日本に暮していることが、ニューヨークに暮していることがわかる。
それが、何を意味するのか?どこが、喪失と再生の物語だったのか?
正直、何一つわからない。
わかるのは、何故か、無償に、また読みたいという思いにトリツカレテいる、ということだけ。
この本を読みながら、いしいさんの感覚の中に、ズブズブと入って、沈んでいく自分がいる。
溺れているはずのに、苦しくないのだ。快感にも似た・・・何か。
未来も過去もなく、喪失も再生もなく、ただただ、すべての物事が、ぐちゃぐちゃに
混ざり合って、響き合って、キラキラと輝いている世界。
もしかしたら、私たちの意識のずっと奥のところは、そんな風なのかもしれない。
(だから、気がふれたら、こんな感じだろうかと思ったのかな?)
究極の「いしいワールド」。これは、個人的な意見ですが・・・
はじめての方は、別の作品から、入ることをおススメします。
もちろん、勇気のある方は、別です。
『なにをたべてきたの?』岸田衿子(著), 長野博一(絵)
今の娘と同じ頃の息子に、何度も、読んであげた絵本でした。
食いしん坊の娘も、もちろん、大好き♪
なにより、この絵本で繰り返される言葉が気に入っていて、実は、絵本を読む回数より
絵本で使われている文章を、日常で、使うことの方が多いのでした。
娘さん、ご飯をたくさん食べた時に、決まって言います。
「ぼく、なんだか、大きくなったみたーい!」
決まって、家族の誰かが答えます。
「何を食べてきたの?」
この絵本のことなら、誰より知っている兄さんは、食事とは関係ないときにでも言います。
「あれー?ちゃん、なんだか、大きくなったみたい。」
娘さん、大喜び
「うん、ぼくね、大きくなったみたーい!」
はじめて読んであげた時は、ちじれっけの豚くんが苦手で、「こわいよう。こわいよう。」と、
逃げ出していた娘でしたが、最近は、そんなことより、
繰り返される「なにを食べてきたの?」の楽しみが、勝っているようです。
もうすぐ3歳になる娘さん。
本当に、大きくなって、もう、抱っこするのがやっとです。
でも、娘は、もっと、もっと、大きくなりたくて仕方がありません。
大きくなったら、なりたいものがあるんですって。
なりたいものは、なんと・・・・・・・・・・・・・・・・・・お兄ちゃん!
残念ながら、お兄ちゃんが、かっこいいとか、優しいからとかではないようです。
(よく、年が離れているから、喧嘩しないでいいわね・・・と言われるけれど、どっこい、
我が家の中学一年生は、2歳児が泣くまで、からかったり、仕返ししたりするのです。)
お兄ちゃんになったら、やりたいことがイッパイの娘さん。
例えば、オヤツを自分の部屋で食べるとか 洗濯物に手が届くとか
油性のマジックで書いてもいいとか
そんな娘さん、最近の一番の悩みは、なんと・・・・・・・おちんちんが生えてくるかどうか?
何かあるたびに、「ちゃんと生えてくる?」と、聞いてくるから、困ります。
先日、「あら!ちゃん、大きくなったみたい!」と、いつものように声をかけたら
おちんちんが、生えてきたかを確認していました。
・・・・・・・・・・・生えないってわかったときが、大きくなったとき?でしょうか。
『たんぽぽのお酒』レイ・ブラッドベリ
ずっと、ものすごい勢いで、本を読み続けていたのだけれど、この本を開いてから、ぱたりと
止まってしまいました。
減速。どころではなく、ストップです。
まず、一ページ読んで、全く、本当に全く、言葉が頭に入ってこないことに気がつきました。
どうしたんだろう・・・と焦りながら、もう一度、さらに、もう一度、読み返しました。
なんと、3日かかって、数ページ。頭を抱えました。
もしかして、今までの本は、ナナメ読みで、読みこなしてきたのだろうか?
だから、難しい本に、頭が切り替わらないのか?
それとも、この物語が、私には合わないのだろうか?
戸惑いながら、気付いたら、3週間以上も、この本と格闘していました。
(他に、予約を入れる人がいなくて良かった!)
3週間。半分以上も読み終えていた自分に、心底、驚きました。(永遠に終わらないのかと思った!)
そして、読んでいる間中、子ども時代を思い出すときに感じる、あの初夏の夕暮れの時間を
ずっと、感じていることに気がつきました。
あの匂い、風、幸せの感覚。
そう。この本を読んでいる間中、私は、幸せを感じていたのです。
ようやく、読み終えたとき、頭に浮かんだのは、「時間」という言葉。
きりとられた「時間」が、まるで、パッチワークのように、散りばめられた本でした。
しかも、その並べ方は、たぶん、何も意図せず、思いつくまま。
これがまた、後から考えると、最高に良いのです。
再読したら、それぞれの物語が、前とは違う場所に収まっているような、そんな気さえします。
本当に、この本は、なんだったのでしょうか。
これは、小説なんだろうか?・・・・・・いや、これは、小説という名の「詩」に違いない。
風景の描写一つとってみても、これを「詩」といわずに、なんと言うのでしょうか。
だから、この本は、頭で読むのではなく、感性で読まないといけないのです。
(きっと、その読み方に面食らって、慣れるまで、なかなか進まなかったのでしょう)
面白い児童書を読むと、必ず、子どものときに出会いたかったと、子どもたちに嫉妬
してしまう私ですが、この本に関しては、正直、よくわかりません。
子どもの感性で読んだら、いったい、どうなっちゃうのか、想像もつかないのです。
でも、もしかしたら・・・・・・・ちっとも、不思議な本に思わないかもしれないな。
気に入っている「老女と若者の恋」についての話や、「蝋人形にされた魔女」の話など
たぶん、子どもの頃の私にとっては、何の不思議もない話だったかもしれず。
こんなこと考えて、毎日暮していたような、そんな気がしてならず。
なんだか、あの頃が、まぶしくて、まぶしくて・・・それこそ、切り取っておきたいぐらい!
佐野洋子さんに「子どもの頃が、一番良かったと思いだしたら、あんたも年寄りだよ!」
と、言われてしまいそうだけれど(笑)
こんな不思議な、素敵な本と出会わせて下さった方々に感謝しつつ・・・・・
未だに、うまく感想が書けない自分に呆れつつ・・・・・
2月になりました。
娘さん 来月は、3歳ですって 早いなー。
この頃の息子といえば、一日中、砂場にいるか、プラレールをしているかでした。
プラレールで遊ぶと言っても、寝そべって、線路の上を走る電車の車輪を、ただただ、見つめるだけ。
近所の「電車好き」友だちが遊びにきても、同じ線路の左右に分かれて寝そべって
ただひたすらに、車輪を見つめるという、女脳では、到底理解できない遊びしかしませんでした。
でも、娘のやることは、よく理解できます。同じ作りの脳だと思います(苦笑)。
最近の娘さん、朝は、広告を広げるところから始まります
いつもは、裏が白い広告を探し出し、お絵かき。
でも、今日は、名前と住所欄のついた広告を見つけ、そこに、文字を書き込んでいました。
ただの線?いやいや、文字です
広告を整理していて、その中に、この線、いや、文字を見つけると、ホントおかしくなっちゃう。
夜、一人で整理しているときは、特に、おかしさが込み上げます。
こういうことって、ホント、息子はやらなかったなー。
どうして、ここに字を入れるんだって、わかるんだろう?子どもの勘って、すごい。
というか、大人のやることを、ものすごく注意して見ているんだなあ・・・と感心しちゃう。
(ワルイコトハデキマセン!)
色々と書いたら、ハマっている「ハサミ」で、周りをぐるりと一周、チョキチョキ。
なんと、「おかあさしゃ、おら(ほら)、蟹しゃんだよー。」ですって
たしかに!ひたすら切り込みを入れていくと、角の辺りが、ハサミに見えてきます。
横の辺りは、うん、足だ。
ハサミ。
左利きなので、右で切ることを教えるのが、とても大変でした。
「このハサミは、右手用だから、右手で切るの。」
「ハサミは、親指が上にくるように、立てて切るんだよ。」
いくら教えても、負けず嫌いの娘は、
「平気!ほあ(ほら)、切れるじゃん!」と、口応えするので、なかなか、覚えることができません。
それでも、一週間で覚えたのは、さすがです。さーすが、子ども。
幼稚園のお道具箱は、左利き用を買ってあげたけれど、家では、右で頑張ってもらう予定デス。
そして、女の子の遊びの王道。「ごっこ遊び」。
一人で、熱心にやっているなあ~と思ったら、パンダちゃんを寝かしつけていました。
先日、お友だちが遊びに来てくれて、2歳と3歳さんが、二人で何をするかと思ったら、お買い物ごっこ。
線路をひたすら眺めて過ごし、一言も口をきかない男の子とは違います。
女の子の遊びは、それなりに関わりがあり、わかったような会話があり おしゃべりがメインです。
(よって、ときどき、小競り合いがあります・笑)
お友だちのママが、帰り道に
「今度は、○ちゃんのお家に遊びにきてね。」と言ってくれたら、娘さん、
「うん。喧嘩しないよ。」ですって
こんなに小さい頃から、喧嘩すると大人は喜ばないって思うんだなあとビックリ。
「喧嘩したっていいのよ。それで仲良くなるんだから。」
と、ママが言ってくれて・・・・・・。
はてさて、娘さん、何を思ったでしょう。
「よっしゃー!」とか、思ってたりして
『満月をまって』
メアリー・リン・レイ作 バーバラ・クーニー絵
掛川 恭子訳
ずっと読んでみたいと思っていた、クーニーの絵本。
けれど、息子が絵本を離れてしまってから、手にとる機会を逸していました。
今回、ある本を借りてきたきっかけに、この本を借りてきました。
その本は、まだ、読めていないのですが(その前に大作を読み始めてしまい)、先に、
こちらを読み終えました。
美しい自然や人々の営みを、ただただ、描いた絵本だと、勝手に思い込んでいたので、
(たしかに、それも素晴らしいのですが)
主人公の少年の心の揺れに接し、激しく動揺してしまいました。
そして、おじさんの言葉。そこから繋がって、最後、少年が、自らの進むべき道を見つける
場面では、涙が止まりませんでした。
本当に素晴らしかった。
「風にえらばれた人」に、私もなりたいと、心から思いました。
そういう仕事に、自分の子どもたちが出会えたら、どれだけ幸せだろうかと思いました。
いつか、必ず、子どもたちにプレゼントしたい。そう思いました。
それにしても、物語と絵が、これほどまでに、互いを魅せあう絵本があるでしょうか。
どちらか一方では、これほどまでに感動できなかったと断言できます。素晴らしい。
クーニーの絵本。少しずつ借りてこようと決めました。