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2019年5月26日(主)  キンボル神父様お説教「ジンバブエ/ローデシアの宣教の歴史とシルヴェイラ神父の殉教について」

2019年05月30日 | お説教・霊的講話
ジンバブエ/ローデシアの宣教の歴史とシルヴェイラ神父の殉教について
ポール・キンボル神父(聖ピオ十世会)




ザンベジの宣教は1877年に創設され、イエズス会の英国管区に委託されました。1879年、最初の長上であるアンリ・ドペルシャン神父の指導の下で最初の宣教師たちが、ケープ・コロニーのグラハムズタウンから出発しました。牡牛に引かれた4台の荷車で、5〜6カ月かけて、千マイル内陸にあるブラワヨまでの旅でした。そのころ、この国に鉄道はありませんでした。連絡手段は遅くて困難で、生活必需品の価格は大変なものでした。熱や窮乏から、多くのいのちが失われました。マタベレの原住民はまだキリスト教を受け入れる用意ができておらず、専制君主ロベングラの残酷な支配が、宣教師たちのあらゆる努力を実りのないものにしていました。ドペルシャン神父自身によって率いられた遠征隊は、ザンベジ川を超えて更に北に、より有望な地を探して進みました。しかし、さまざまな原因からこの試みは失敗に終わりました。ほかにも、オーガスタス・ロー神父の率いる遠征隊が300マイル東に進み、ポルトガル領との国境まで行きましたが、成功しませんでした。1893年、ロベングラ王は権力を奪われ、首都のブラワヨは占領され、マタベレランドは征服されました。宣教師たちは、新たな統治が保証した便宜を利用しました。宣教基地にふさわしい場所が選ばれました。聖ドミニコ修道女会が同じころにこの国に入り、公立病院の責務を担い、後には入植者の子どもたちのための学校を開きました。

1912年に書かれた「ザンベジ宣教知牧区」に関する「カトリック・エンサイクロペディア」の記事によると、宣教の進展は遅れるのを余儀なくされていました。異教徒としての慣習、特に一夫多妻を行っていた大人の原住民の人々からは、ほとんど期待はできませんでした。ですから、大きく成功する共同体をつくるという希望は、主に子どもたちの教育の上に打ち立てられねばなりませんでした。さらにまた、この仕事は、ジンバブエの物質的発展を遅らせてきた困難によって、繰り返し妨げられてきていました。その困難とは、国の内外における戦争や家畜の疫病、飢餓、イナゴの大量発生などでした。その一方で、鉄道の導入は、宣教基地の建設に対する大きな障害のひとつを取り除きました。一本の鉄道路線が、南から北までの宣教地区を縦断します。(1912年には)32人のイエズス会司祭と22人のイエズス会修道士、そしてマリアンヒル修道会の3人の司祭と6人の修道士がいました。ブラワヨ、ハラレ、グウェロ、ウムタリの各都市には、それぞれ一つの教会と一人の駐在司祭がいました。チシャワシャには、原住民のための大きな[イエズス会の]宣教基地がありました。聖ドミニコ修道女会は、チシャワシャの宣教基地に原住民の少女たちのための学校を持っていました。ヨーロッパ人の数は約1300人でした。南ローデシアでは、原住民の人口は概略でさえも分かっていませんでした。カトリックの人口は、だいたい740人のヨーロッパ人とインド人、そして1400人の原住民からなっていました。ローデシアで話されている四つの言語で何冊かの本が書かれました。ほとんどは、神父たちによる宣教師用文法書、カテキズム、祈祷書、聖書の物語でした。

他の多くの物質的動機もありましたが、この地域がローマによってイエズス会に委託された理由は、ここが、ジンバブエの最初の使徒であるイエズス会士、ゴンサロ・ダ・シルヴェイラ神父の労苦と殉教の地であったからでした。

アフリカ大陸におけるイエズス会の最初の殉教者ゴンサロ・ダ・シルヴェイラ神父は、ポルトガルのリスボンの近くに生まれました。彼は、ソルテリャ伯爵の十番目の子どもでした。母親は彼が生まれたときに亡くなり、父親もその後すぐに亡くなりました。彼は、結婚していた姉によって、王の宮廷の中の地位に就くように養育されました。姉の夫であるタヴォラ侯爵は、モガドウロ地区の「大領主」でした。幼いゴンサロは、貧しい人々を非常に愛しており、彼らに与えるべき施しをもっていないときは、彼らを自分の家に連れ帰り、自分の家族に必要な施しを乞い求めました。彼は貧しい人々の家を訪問し、食べ物や衣類、そしておもちゃを持っていきました。彼は、おもちゃにはまったく興味がなかったのです。

一度、彼と兄のアルヴァロが他愛のないいたずらをしたことがありました。それが侯爵に伝えられると、二人は伝えられたようなことをしたのかどうか尋ねられました。兄の方は決して関わっていないと否定しましたが、ゴンサロは自分のしたことを認めました。どちらが悪いのか突き止めようとして、侯爵は怒ってゴンサロに言いました。「悪いことをしただけでも十分なのに、さらに悪いことに、おまえは恥ずかしげもなくそれを告白するのか?」。「本当に恥ずかしく思っています、侯爵」とゴンサロは答えました。「それについては申し訳ありません。でも、うそをつくことによって罰から逃れようとしたとしたら、ぼくはその方がもっと申し訳なくて、恥ずかしく思うはずだったでしょう」。

ゴンサロは聖マルガリタ修道院のフランシスコ会士によって、17歳になる1542年まで教育を受け、更に勉学を修めるためにコインブラ大学に行きました。彼はそこで一年と少し過ごしたのち、1543年、他の多くの貴族の息子たちと共にイエズス会に入会しました。彼の兄の一人は、彼がこの召命に従うのをやめさせようと試みましたが、それは無駄に終わりました。その兄は、弟の議論を聞いた後、自分にもそのような召命がなかったことを悲しみながら弟のもとを去りました。

ゴンサロは丸太をまくらにして堅い床に寝ました。彼の部屋には、むき出しの四面の壁のそれぞれに一つずつ架けられた四つの十字架だけが飾られていました。彼は毎晩、血を流すまで修行をしました。けんそんのため、彼は一度、両方の眉毛を剃り、別の機会には気の狂った人のようなふりをしました。しかし、校長はローマの聖イグナチオ・ロヨラにこのような手紙を書きました。「ここに貴族出身の者が一人います。名前はゴンサロ・ダ・シルヴェイラです。大きなことをなし遂げるために生まれてきた、健全で落ち着いた判断のできる若者です。彼は永遠の真理を理解するようになり、その思いで奮い立っています。彼は心にその思いを刻印したかのようです。彼の体は力強く頑健で、厳しさが過ぎるため見張って抑えておく必要があります。しかし、正されたときには、彼は大変素直でうまく応じます。彼には特筆すべき賜物があります」。何年もの間、彼は殉教者になることを熱望しており、しばしば殉教の栄光について語っていました。一度、彼が病気のため死にそうになったとき、彼の管区長が彼のためにミサを捧げましたが、ミサの間に彼は突然具合がよくなりました。そのため、彼は、自分の名前を、彼が回復したその日を祝日とする聖人であるシルヴェストロの名前に変えるよう望みました。

彼は人気のある説教師になり、ある修道女は、シルヴェイラ神父が彼女の共同体に対して説教したときほど、聖歌隊席で皆が涙を流すのをこれまで見たことがなかったと言いました。一度、彼が偶然に説教台の釘に手を当ててしまい、それに気づかずに、説教の終わりまでひどく血を流したままだったこともありました。そのころ、説教はしばしば2、3時間という長さでしたが、聖週間の説教では12時間の間、彼は聴衆の注意を引き付け続けました。彼は人の忠告をよく受け入れ、目下の者たちにはやさしく忠告しました。彼がミサを捧げるときは、恍惚状態になり、どこまで進んでいたのかを侍者に聞かざるを得ませんでした。彼がロザリオを祈るとき、すべての「めでたし」で片膝をつきました。彼はしばしば、一日に2、3回告解に行きました。彼は、自分の兄に対して、兄の対トルコ艦隊戦での勝利を正確に予言しました。彼がある犯罪者の処刑に参列したとき、キリストの苦しみと死を自分にも分け与えて下さるよう祈ったところ、主は彼に、彼がいつか主の御名のために殉教者として死ぬことを約束されました。のちに、彼がミサ中、カリスを奉挙したとき、全会衆は彼の両手に血がついているのを見て、彼が将来、キリストへの信仰のために死ぬことになるしるしだと理解したのです。彼はリスボンで有名な説教師になり、そののち1555年、30歳という若さで、聖フランシスコ・ザビエルの後任としてインドの管区長に任命されました。この任命は、聖イグナチオによって死の数カ月前に承認されました。

彼は、リスボンからモザンビークまでの海旅についてこう書きました。「死は、死の床に臨んだ者でなければうまく描写することができないように、ポルトガルからインドまでの旅も、実際経験した者でなければ、それについて語ったり、更には信じることさえもできないものである」。シルヴェイラ神父のインドでの統治の任期は三年間続きました。彼は1549年にインドを去った聖フランシスコ・ザビエルにふさわしい後継者となりました。彼の使徒的な労苦と彼の下にいた100人のイエズス会士の労苦は大変な成功に恵まれましたが、彼は管区長の完璧な模範とはみなされてはいませんでした。彼はよく、天主は自分に対して、統治には不向きであるという素晴らしい恩寵を与えてくださった、と言っていました。どうやら、人間的な弱さに対する機転が利かなかったのです。

1560年、シルヴェイラ神父はモザンビークでの新たな宣教に呼ばれました。原住民の酋長ガンバが、ポルトガル人の商人によって新たに改宗した自分の息子に説得されて、自分の国にキリスト教の宣教師を要望していたのです。シルヴェイラ神父ともう一人の司祭であるフェルナンデス神父、そして一人の修道士が、1560年2月、モザンビークに到着し、2カ月後にガンバの住むオトングウェに向けて進みました。フェルナンデス神父はこの旅についての手紙の中で、シルヴェイラ神父が、船長の乗るもっと快適な船で移動することを受け入れなかったと不平を言っています。「シルヴェイラ神父は、船長の船に乗ることを拒否して、かわりに人が立ったり座ったり横になったりする余裕もない小さな船でソファラに行こうとしました。私はこんな乗り物で旅をすることの困難さや危険について神父に説明しましたが、その乗り物で行くという彼の望みは大変なもので、私たちがそれでもその乗り物で行くべきだという彼の望みは変わりませんでした。愛する兄弟たち、断言しますが、その乗り物には人が快適に過ごす余地がないことに加えて、揺れによって困難さが増したため、私はずっと疲れっぱなしだったのです」。シルヴェイラ神父は旅の間、四旬節中だったため、コメと豆しか食べようとしませんでした。到着すると、彼はマラリアによる熱で大変弱り、いのちの危険に陥りましたが、回復しました。最小限の要理教育ののち、ガンバと宮廷の人々、そして他の500人が改宗しました。シルヴェイラ神父はこれに勇気づけられて、南および中央アフリカを改宗させようとの希望を持ちました。そしてそのための最も簡単な方法は、南アフリカで最も力のある王、首都がジンバブエの北100マイルにあるモノモタパの王を改宗させることでした。シルヴェイラ神父は、その新たな宣教のために懸命に準備しました。その年の終わりにかけて、彼はモノモタパの首都に向けて遠征隊とともにザンベジ川を上りました。この首都は、ザンベジ川の南の支流の一つであるムジンゲジ川に近いヌパンデ集落にあったようです。彼は目的地に着くのに何百マイルも歩きました。仲介人としてモノモタパから大変な信頼を受けていたポルトガル人アントニオ・カイアドの助けを得て、1560年12月26日、シルヴェイラ神父は王の村に到着しました。そこで彼は、その地の若き酋長チサンフラ・ノゴモに会いました。彼の治める地域で金が発見されたため、彼は新たに「黄金の王」となったところでした。

王はこの宣教師に対して、砂金、牡牛と何人かの女奴隷という贈り物を申し出ました。ところが驚いたことに、シルヴェイラ神父はそれらの贈り物を断り、自分は酋長からの贈り物を求めているのではなく、酋長自身を求めていると言いました。酋長はこれに大変驚いて、酋長はこの来客の偉大さと権威を再認識したのです。数日後、シルヴェイラ神父がミサを捧げている小屋の前を、小酋長の一人が通りかかりました。彼は、シルヴェイラ神父の前に美しい女性が立っていると思って、これを目に留めました。彼はすぐ酋長のところに行って、司祭が愛らしい女性を連れてきていると告げました。そこで酋長は、シルヴェイラ神父に使いを送って、自分が聞いた美しい、神父の妻であろうと思ったその女性の美しさを自分にも見せてもらえるよう願いました。この聖なる宣教師は少し驚きましたが、使いが、話に出ていた妻として、祭壇の後ろにつるされている恩寵の聖母の大きな絵を指し示したとき、すぐに理解しました。これこそはシルヴェイラ神父にとってすばらしい機会であったので、神父は天に熱心な感謝を捧げました。彼は絵を高価な布で注意深く包んで、酋長の小屋へ運びました。しかし、酋長の熱心な目に絵を見せる前に、神父は少し説明をしました。神父は酋長に、天主という方について、善に報い悪を討つお方であり、私たちを私たち自身から救うため、そして私たちのために将来の幸せを勝ち取るため、天から下り、御自ら汚れなき御母の柔らかで優しい肉を身にまとい給うた御方であると説明しました。そして、これが、聖霊の浄配なるその聖なる童貞のことを描いたものです、と。その後、覆いを脇に引いて、絵の前に敬意を込めてひざまずきました。酋長はその光景にうっとりとし、絵から目をそらすことができませんでした。シルヴェイラ神父は、この絵のために簡素な聖堂をつくり、酋長の小屋の内部にそれを置きました。しかし、次の5日の間に、天主の御母はこのアフリカの酋長に生きている形でご出現になり、知らない言葉を話されました。酋長はシルヴェイラ神父にこのことを詳しく報告し、ご出現の言葉を自分が理解できないのを嘆きました。そこで宣教師は、洗礼によって霊魂が清められた者だけがこれを理解することができる、と答えました。2日後、酋長とその母は、自分たちが喜んで洗礼を受け、キリスト教徒の礼拝に加わるとの言葉を伝えてきました。彼らは信仰の基本的な真理について教えを受けて約3週間後に洗礼を受け、少し後には300人がそれに従いました。このことは、近くの村に住んでいたイスラム教徒の商人たちに嫉妬を起こさせました。今やポルトガル人たちがすべての貿易を抑えてしまうのではと恐れたからです。そこで彼らは、酋長の心に毒を仕込みました。彼らは王に対して、ポルトガル人たちはこの国を乗っ取ろうと企んでおり、シルヴェイラ神父はスパイであり、この国に干ばつと飢饉をもたらすために来た魔術師であって、その後王を殺すだろうと話したのです。酋長はこの嘘とばかげた話を信じ、シルヴェイラ神父を殺さねばならないと決心しました。

シルヴェイラ神父は酋長に変化が起きていることを感じました。酋長が神父を殺そうと計画していることをカイアドが突き止めたとき、カイアドは神父にすぐにここを去るように勧めましたが、神父はこの忠告を気に留めませんでした。それどころか、シルヴェイラ神父は自分の最期のための準備を行いました。1561年3月15日、神父は新たな改宗者50人に洗礼を授け、周囲の地域から呼び出したポルトガル商人たちの告解を聞き、彼らに自分のミサの道具を委託し、自分は磔刑像つき十字架だけを持つようにしました。その夜、神父は寝る前に、カイアドにこう言いました。「私は、イスラム教徒たちが私を殺す準備をしている以上に、もっと死ぬ準備ができています。私は若い王とその母を赦します。彼らは騙されてしまったのですから」。その後、カイアドは、しもべのうち二人に、夜いっぱいシルヴェイラ神父と一緒にいるように命じました。

シルヴェイラ神父は磔刑像つき十字架の前で祈り、夜遅くまで落ち着かず歩き回っているのを目撃されましたが、その後眠りにつきました。真夜中前に、殺人者たちが司祭の小屋を急襲し、ロープで神父の首を絞めて殺し、その後、死体を引いて、ムセンゲジ川に投げ入れました。彼の死に対して復讐するために送られた遠征隊が目的地に着くことはありませんでした。そして彼の使徒活動は、それを続けるべき宣教師がいなかったため、突然の終わりを迎えました。この殉教によって、イエズス会のモノモタパへの最初の宣教は終わりました。

1625年、イエズス会士であるアルフォンソ・レオ・デ・バルブダス神父が、インド総督によってザンベジ川流域に送られました。彼は、以下の説明が真実であると宣誓して報告しています。彼は、川の中にある島のところで止まりましたが、おそらく上流から流れ着き、この島に打ち上げられていた一本の丸太に気づきました。その丸太の上には色鮮やかな鳥が何羽も止まっていて、甘いメロディーで歌っていました。原住民の漁師たちが、鳥たちはいつもそこにいて互いに交代して歌っている、と彼に教えてくれました。神父は丸太に近づいてよく見るために島に上陸することを望みましたが、原住民たちは次のように彼に警告しました。島にはライオンやほかの動物たちがいて、誰も島にいれないようにしています。ずっと昔、デ・バルブダス神父と同じ修道服を着た一人の白人の男の遺体が、木の幹につながれて川を下ってきました。その幹がこの島に着き、一緒に死体も着きました。多くのライオンが草の中から出てきて、死体をつないでいたひもを切って、死体を森の中に引きずっていき、土手の上に丸太が残されました。そのときから、この丸太はさっき言った鳥たちにずっと守られてきました。さらに彼らが言うには、これらのことは、まだ生きている記憶の範囲で、60年前かそれ以前に起こったというのです。その人は、野獣でさえもがその遺体に敬意を払っていたのですから、非常に聖なる人であった、というのが言い伝えです、と。一人の年老いた漁師の話では、彼の記憶によると、近隣の酋長がこの話が本当かどうか確認しようと決心したのだそうです。多くの原住民が一方から島に近づき、そこにライオンたちの注意を引き付けました。一方、二人の原住民が反対側に上陸し、一本の高い木の一番上の枝にひそみました。二人はその位置から森の真ん中にある開けた土地を見ることができ、そこには黒い服を着た男性の死体があり、周りをライオンたちが囲んでいて、丸太の上の鳥のように交代で守っていました。二人はその日じゅう島に留まり、[翌日、]前の日に使ったのと同じ作戦で脱出しました。デ・バルブダス神父は、この死体がダ・シルヴェイラ神父以外の何者でもあろうはずがないと確信しました。シルヴェイラ神父の記憶が、この国のこれほどへんぴな場所であっても、原住民の心から消え去っていなかったのですから。

シルヴェイラ神父の死後344年経った1905年、彼の殉教を立証するため、そして彼の列福の手続きを開始するため、公式な調査が始まりました。最初に述べたように、ジンバブエのこの地域がローマにおいてイエズス会に委託された理由は、ここが、ジンバブエの最初の使徒であるイエズス会士、ゴンサロ・ダ・シルヴェイラ神父の労苦と殉教の地であったからでした。

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