Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会のシスター会

2017年01月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会のシスター会(Les Soeurs de la Fraternité Saint-Pie-X) を紹介するビデオをご紹介します。このフランス語でのビデオは、2010年から2014年の間に撮影されましたが、今まで公開されていませんでした。

これは聖ピオ十世会のシスター会が、マルセル・ルフェーブル大司教の求めに応じて自分の妹であったマリ・ガブリエル修道女(聖霊修道女会の総長補佐であったが創立のために辞任した)によって創立されてからの歴史を描いています。

「主よ、多くの聖なる修道者の召命を与え給え!」
「主よ、多くの聖なる修道者の召命を日本に与え給え!」

Ce film a été réalisé entre 2010 et 2014 à la demande de la communauté des Soeurs de la Fraternité Saint-Pie-X, par deux vidéastes bénévoles, et n'a jamais été publié. Il retrace l'histoire de cette communauté fondée à la demande de Mgr Marcel Lefebvre par sa soeur Mère Marie-Gabriel, qui venait de quitter la communauté des Soeurs du saint-Esprit après en avoir été assistante générale.
"Seigneur, donnez-nous beaucoup de saintes vocations religieuses!"







御降誕 いったいどなたが、何のためにいらっしゃるのか?

2017年01月10日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月23日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月23日(金)待降節の平日のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年12月23日、待降節の第4主日と同じミサをしています。この御ミサが終わりましたら、明日の夜歌う朝課の練習を、30分ほど公教要理の代わりとしてしようと思っています。


「全ての人は、主の救いを見るだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、あと数時間で、私たちの主イエズス・キリストが私たちの為に御降誕されるその喜びを祝いますけれども、その前に、私たちは主をますますよく受ける事ができますように、一体どなたが、一体何の為にいらっしゃるのかを一緒に黙想する事を提案したいと思います。

「天主様が、真の天主が真の人となった。これが私たちの主イエズス・キリストである。」

ここに真の宗教の核心が凝縮されています。御降誕のこの神秘は、この核心を私たちにより良く見せるものです。

真の宗教と、それに反対するものを反宗教だと言うとしたら、ここに「この真の天主が本当に人となった。私たちを愛するが為に人となった」という事に真の宗教の革新があるので、ここにこそ核心があるので、そのことを今日黙想致しましょう。

第1点は、「天主が人となった」という時の、この天主、真の天主というのは一体どういう方かを見なければなりません。

天主は、始めもなく、終わりもなく、無限の不変の存在で、変わる事のない存在であって、そして無限に幸せであって、無限の栄光に満ちておられる、聖父と聖子と聖霊の三位一体です。

始めもなく終わりもなく、ただこの無限に幸せの、完成された、もうこれ以上というものがない天主が、御自分の愛に満ちて、「自分の喜びを是非、他の者にも伝えたい」と、被造物を創る事を、御自分に似せた被造物を創る事を望まれました。そして知性と自由意思のある天使たちや人間を創る事をされました。

天主は人間を無から創造しました。それは人間を愛するが為であって、天主が非常に良い方であるからであって、私たち人間を天主と同じように幸せにする為でした。人間を創ったのは、私たちが人間が天主様の御助けによって、天主様の御憐れみによって、天主様の特別の力によって、天主の如くなる為でした。

そして私たちが永遠に幸せに、天主の如くなるというのは、非常に簡単な方法でなる事ができるように計らって下さいました。「善と悪の知識の木の実を食べてはならない。」ただそれだけでした。

しかし私たちの人祖は、アダムとエヴァは残念ながら、非常に不幸な事に、その天主の言葉を信ぜずに、疑って、そして天主に逆らい反逆して、敢えてその「してはいけない」という事をしてしまったのでした。

それにもかかわらず、その直後天主は私たちに、人類に罰を与えると同時に、地上の楽園から追放すると同時に、救い主を与える事をお約束されました。アダムとエヴァに服を着せて、御自分の御摂理によって保護を与えるという事のしるしとして、「救い主を与えるから、それを待つように」としました。

「救い主は、蛇の頭を踏む女から生まれた。」

人類が、天主の力なしには全く無力であって、天主の救いがどうしても必要だ、という事を自覚するまで待たなければなりませんでした。4000年間待たなければなりませんでした。

そして天主は、時が満ちて、本当に約束の通り、その必要がなかったにもかかわらず、憐れみと愛を以て、私たちの為に「人となろう」とされ、マリア様の御胎内に人となり、そしてクリスマスの日に、御降誕のその12月25日の真夜中に、マリア様からお生まれになりました。

私たちを愛するが為に、私たちをただ単に赦し、私たちの為に罪の償いを果たし、そして私たちを天主のように幸せにする為に、私たちに永遠の命を与える為に、人となられる事を御望みになりました。

その為に、私たちの罪を償うが為に、そのイエズス様の御生涯は、真の天主の御生涯は、その最初から、苦労と、苦難と、迫害と、貧困と、貧しさと、最初から最後まで、十字架と殉教の生涯でした。

イエズス様はそれをする義務はありませんでした。しなければならないという本能でもありませんでした。全く御自由に、人となって、私たちの罪の償いをする事を御望みになったのでした。

天主様が人間を無から創造した時に、天主は全く変わった事はありませんでした。ただ私たちは存在論的な変化がありました。何故かというと、無から有に変わったからです。天主様がイエズス様が人間となってお生まれになった時に、天主が人となった時に、天主は変わった事はありませんでした。天主は無限の不変の存在でした。ただ天主様が御自分の天主の本性を人間の本性と、イエズス様の天主の御言葉のペルソナにおいて結合させた時に、人間の本性が変わりました、存在論的に変わりました。人間の本性が今後、イエズス様を通して、天主と結合する事ができるようになりました。

これは無から有に、全く無かったものから有り始めたよりも、更に大きな変化、大変化でした。このような変化をイエズス様は私たちに与えようと、裏切って罪を犯した人類であるにもかかわらず、それを私たちに与えようとお望みになりました。

イエズス様こそが、イエズス様だけが唯一の、私たちを天主のようにする、私たちを真に永遠に幸せにする、天主の命を私たちに与える道です。イエズス様だけがそれへと続く真理です。イエズス様だけが私たちに本当の命を与える生命です。

イエズス様は仰いました、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らずに、誰も御父のもとに行く事はできない」と。またイエズス様は言いました、「永遠の命とは、唯一の天主御身を知り、御身の遣わしたイエズス・キリストを知る事である」と。

イエズス・キリストを通してのみ、初めて私たちは天主の命を得て、天主のように幸せになる事が、永遠に幸せになる事ができます。その道を示すが為に、イエズス様は私たちの為にお生まれになろうとします。明日の夜、真夜中にお生まれになります。これが私たちの信仰です。

この私たちの信仰は、反宗教が提示する偽りの知識とは全く別のものです。反宗教が私たちの真の宗教に対して、反対して提案する偽りの知識、偽の知識、嘘の知識というのは、蛇の昔人祖に与えた知識と同じです、「天主の言う事は信じるな、それは嘘だ。No!あなたたちはそれを食べても死なない。あなたたちはイエズス・キリストに従わなくても死なない。いや、むしろそうした方があなたたちの眼が開けるだろう。そうしてあなたたちは神々の如くなる、天主のようになる。だからそうした方が面白いよ、楽しいよ。その方がこの面白おかしく、自分の思い通りに生きる事ができるよ。」偽りの知識を、偽りの嘘の知識を、私たちに提示します。

反宗教は私たちに、イエズス・キリストではない、イエズス・キリストを通さない、イエズス・キリストという道・真理・命、以外のものを通して幸せになるように提案します。そしてそれを信じ込むように促します。

それが今世界で広がっているように、「あぁ、倫理・道徳などは場所と時によって変わるんだよ。だから昔はそうだったかも知れないけれども、今はこういう不倫もいいのだ。今はポルノのもいいのだ。今は時代が変わったから、これもいいのだ、あれもいいのだ。」「昔は天主を愛すると言ったけれども、今は自分を愛せばいいんだ。」「昔は天主のように、イエズス様を通して、掟を守って、天主のように天国に行って幸せになると言ったけれども、もはやそうではない。人間はみんな神だ。ただその事を知らないだけだ。神々のようになる事ができる秘密を教えてあげよう。」それがオカルトであったり、或いはNew Ageであったり、或いはその他いろいろな魔術であったり、占星術であったりします。

自分を愛するがあまり、天主をも軽蔑して、天主をも馬鹿にし、天主の言葉を信じない新しい知識を、古の蛇は私たちに今でも提案しようとします。これは昔に終わった話しではありません。今でもあります。

つい最近、何かニュースによると、日本では梅毒の患者が急増しているのだそうです。ちょうど黙示録に、「この世の終わりにはペストが広まる。多くの人々がペストで死ぬ」とありますけれども、まさに天主の掟を守らないところから来るペストが、人間の体を蝕んでいるように思われます。

アダムとエヴァは罪を犯して、蛇の言葉をまんまと信じてしまって、そして天主に逆らった時に、自分たちが全く守られていない、自分たちの無力、裸である事を感じました。

私たちは天主から守られていなければ一体何なのでしょうか?天主に逆らう事によって一体何を得る事ができるでしょうか?家族は崩壊し、社会は崩壊し、体は蝕まれ、私たちは全く無能であって、天主の助けがなければならない事を実感せざるを得ません。

数時間の後に、真の天主は人となって、私たちの為にお生まれになります。私たちへの巨大な愛を、無限の愛を以て人となられ、私たちの為に苦しむ為に、私たちの罪を償う為に、自ら進んで愛を以て人となって、貧しいまぐさ桶にくるまれようとされます。このイエズス様は私たちの信仰を、私たちにその真の救いに至る信仰を私たちに教えようと、動物の間で生まれようとされます。

願わくは、私たちがイエズス様の信仰を、真の宗教を、天主が人となり給うたその信仰を、いつも心に堅く信じている事ができますように。

そして、この世が提示するイエズス様の無い幸せ、イエズス様を通さない偽りの嘘の知識、そうして幸せなろうとする提案などを、私たちが「いや、そうではない。サタン退け!天主は人となって、苦しみを通して、十字架を通して、私たちが天国の道に行くことを教えてくれるから。」「私たちが食べなければならないのは、善と悪の知識の木の実ではなくて、十字架の命の、永遠の命の木の実だ。命の木から私たちは、十字架の木から真の実を取らなければならない。それは私たちの為に人となったパンであるイエズス・キリストであり、十字架のいけにえであるミサ聖祭であり、聖伝のミサである。そしてそれを私たちに真の信仰を与えて下さるマリア様だ」と言うことが出来ますように!

愛する兄弟の皆さん、この無限の愛である、人となったイエズス・キリスト様の愛の中に深く入る事に致しましょう。多くの人々がイエズス様を受け入れないかもしれません。少なくとも私たちがイエズス様を、私たちの貧しい宿に受け入れる事ができますように。

願わくは、このベトレヘムの動物たちのように、少なくともその息で、その体温で、イエズス様を温めて、イエズス様の傍にいる事ができますように。そして良いクリスマスを、聖なるクリスマスを迎える事ができますように、マリア様にお祈り致しましょう。

「全ての人は、主の救いを見るだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「天よ、露を滴らせよ」 露の四つの理由とは?

2017年01月09日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月22日(木)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月22日 待降節の平日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年12月22日、私たちの主イエズス・キリストの御誕生まであと残すところ48時間となりました。今日この御ミサが終わりましたら、いつものように聖体拝領後の祈りの後に、終課を一緒に歌いましょう。

終課の前には聖ピオ十世会の習慣に従って、一緒に「O Antiphona: O Rex gentium」を一緒に唱える事を提案します。


“Videbit omnis caro salutare Dei. ”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日この主日と同じミサをしています。このミサの構造を黙想しながら、来たる48時間後の御降誕の準備をする事に致しましょう。

ちょうど先週の土曜日には私たちは、待降節の四季の土曜日のミサを捧げて、そのミサの全体的な構造を見て、ちょうどこの待降節の四季の土曜日のミサは、待降節の要点であって、その頂点であって、その凝縮された形だ、という事を黙想しました。

実はこの前の土曜日に申し上げましたように、土曜日のミサは夜中から始まって、夜明けに終わったので、実はこの主日のミサが特に無かったのです。

しかしこのミサが午前中にするようになってから、「主日のミサをする」という事で、ミサは待降節の四季の斎日のミサの所から取られて作られました。ですからこれを見るとやはり、待降節の凝縮であるという事がわかります。

今日入祭誦では、イザヤの書から読まれました、「天よ、露を滴らせよ。雲よ、義人を降らせよ」という有名なイザヤが最初に出てきます。

この前も申し上げました通り、待降節の時に出てくる3人のどうしても切り離せない人物がいます。

それは預言者イザヤ。このイザヤは特に、「童貞が救い主を生むだろう。これがしるしとなる」と預言した方でした。救い主についての詳しい事を預言した方がイザヤでした。

第2が、救い主の直前に現れた先駆者洗者聖ヨハネ。

救い主を私たちに直接下さるマリア様。

入祭誦ではあたかも、教会の門の外に立ってその玄関の先で、「天よ、露を滴らせよ。雲よ、義人を降らせてほしい」と叫んでいる預言者の姿が出てきます。まさに入祭誦にふさわしい人物です。

Cornelius a Lapideという方によると、「このイザヤが、『露を滴らせよ』と言ったのは意味がある、四つの理由がある」と言います。

「何故かというと、露というのは、その起源がよく分からなくて隠れていて、何か知らないうちに露が生じている。それと同じように御託身も、イエズス・キリスト様が天主が人となって来られるのも、メシアとして来られるのも、その起源が一体どうやって天主は人となったのか、秘密に隠されているから。ちょうど露が結晶したのと同じようだから。」

「第2の理由は、ちょうど露が、きれいな純粋な蒸気が凝縮して水となったように、純粋な童貞女が母となったから、露ととても似ている。」

「第3の理由は、露というのは、非常に甘美で、多くの実りをもたらすものだけれども、ちょうど救い主の御恵みも、甘美で、多くの実りをもたらすもので、露に似ているから。」

「最後に、露というのは、一見するとキラキラ光って宝石のようで、ダイヤモンドのように光っている。ところで救世主というのは、人類に与えられた、天主と人類との契りの指輪を飾るダイヤモンドのようだから。イエズス・キリストは、その天主と人との結合のリング指輪を飾る宝石のようだから。だから『露を滴らせよ』と言うのはまさに相応しい」と言っています。

第2に、イザヤは教会の門で「救世主よ、来てくれ」と言っていましたが、福音では先駆者聖ヨハネが出てきます。書簡書ではその前の、その前日にあった叙階式の事を思い出させるかのように、司祭について、救い主が来たるべき、という事を語りますが、中心はやはり聖福音です。

聖福音で、洗者聖ヨハネが悔悛の洗礼を説教します。ちょうどミサのいけにえが捧げられる前に、奉献の祈りが捧げられる前に、司祭が説教台に立って、「悔悛せよ、罪の償いを果たせ、罪を泣け、祈りをせよ、主の道を準備せよ」と説教するように、洗者聖ヨハネが今回は福音の時に説教台に立って、「いけにえを捧げる前に、さぁ、悔悛の洗礼を受けよ、罪を償え、罪に泣け、罪の償いを果たせ、祈りを果たせ」と私たちに呼びかけています。

次に奉献の祈りが来ますが、奉献の祈りはこのすぐ後歌われるように、「“Ave Maria Gratia Plena”聖寵に充ち満ちた方、挨拶します。あなたは女の中で祝福され、御胎内の御子も祝されております。」マリア様を通してお恵みを受け、私たちはいけにえへと導かれます。

私たちの目の前で、いけにえが捧げられます。イエズス・キリストが人となって、私たちの目の前にパンの姿で、見かけはパンですけれども、真のイエズス・キリストの御体と御血が、私たちの前に現存致します。いけにえが捧げられ、御聖体が配られます。

御聖体拝領を私たちは受けると、イエズス様は私たちと共に在すから、まさに、「天主、我らと共に在す」です。そこでもう一度、教会の前で叫んでいたイザヤの預言が成就した事を思って、教会は御聖体拝領の時にイザヤの預言を取って、「見よ、童貞は身ごもって子供を産む。彼はエンマヌエルと呼ばれる“主、我らと共に在す”。 」

ちょうど私たちも、マリア様と同じようにイエズス様を拝領して、マリア様のように私たちの中にイエズス様を宿して、実に「主は、私たちと共に在す、エンマヌエルである」とマリア様と私たちの姿を重ねて、預言が成就した事を歌って、「さぁ、これからイエズス様の御光来を準備せよ。私たちの心をますますマリア様に倣って清めよ」と教会は私たちに招いています。

あと数時間で、私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお恵みを私たちは受けようとします。3人の人物に、イザヤに是非、太祖が求めていたその救世主を求めるその熱望を、祈り求める事に致しましょう。「天よ、露を滴らせよ。雲よ、義人を降らせよ。我が心に救世主を生み出すように助け給え。」

洗者聖ヨハネのお説教にも心を耳を傾ける事に致しましょう。「主の道を真っ直ぐにするように。イエズス・キリストの御旨をのみ、私たちが果たす事ができますように。この世の罪や、この世の楽しみへの愛着をますます取り離す事ができますように。この地上のものをもはや軽蔑して、天のものを愛する事ができますように。」

マリア様に、マリア様を通して、救い主が私たちに与えられますようにお祈り致しましょう。

“Videbit omnis caro salutare Dei. ”
「全ての人は、主の救いを見るだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

待降節第4主日のミサは待降節の”頂点”であるとは、どういうことか?

2017年01月08日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月18日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月18日 待降節第4主日のミサ
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2016年12月18日、待降節第4主日のミサをしております。今日のこのミサの後に、14時30分からいつもの通り公教要理の時間ですが、今日はグレゴリオ聖歌の有名な「O Antiphona」についてお話しをしようと考えています。16時からは晩課があります。
明日も朝7時からミサがあります。

来週も、来週の25日はクリスマスですがミサがあります。朝の9時00分と10時30分からです。日本では12月25日と1月1日が守るべき祝日ですので、クリスマスのミサに参列なさって下さい。真夜中のミサは大阪で、暁のミサと日中のミサはここで行います。

クリスマスの日は特別のプログラムを考えていて、ミサが終わった後には、ミサの後の祈りの後に、簡単な昼食を皆さんと取って、クリスマスのお祝いをしたいと思っています。クリスマスキャロルを歌ったり、或いは来年私たちが歌うファチマのマリア様の聖歌を歌ったり、14時30分から晩課を、クリスマスの晩課を皆さんと歌いたいと思っています。ご準備なさっていらして下さい。
公教会の掟によると、12月24日は大小斎の日でクリスマスイブは大小斎の日です。もしも守る事ができる方はどうぞなさって下さい。厳密に言うと、灰の水曜日と聖金曜日だけが日本では義務となっていますが、伝統的にクリスマスイブは大小斎で、聖ピオ十世会でもそれを守っています。もしも皆さんもそれにできる方はなさって下さい。



“Videbit omnis caro salutare Dei. ”
「全ての人は、主の救いを見るだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は遂に待降節第4主日で、あと数日後あと1週間の後に、主の御降誕をお祝いします。そこでまず、この典礼の中に深く入って、今日のミサの構造がどうなっているかを黙想する事を提案します。

何故かというと、第4主日は時には、もしも今日がクリスマスイブに当たってしまうと、これは無くなってしまってクリスマスイブのミサをしなければなりませんし、この第4主日は時にはほんの数日しかない時もあります。しかしこの第4主日のミサは待降節の頂点に立つものであって、その要点であって、その待降節の全てが凝縮されているものですので、是非その構図を見て、待降節とは一体何なのかを黙想する事を提案します。

その次に、私たちは残るこの数日をどうやって過ごすべきか、このクリスマスを来たる主日クリスマスをどうやって迎えるべきか、という具体的な遷善の決心を立てる事に致しましょう。

皆さんもよくご存知の通り、待降節の時に一番有名な3人の登場人物があります。

1人は預言者イザヤです。これは旧約の、主の来たる事を直接詳しく、「こうだ、こうだ、こうだ」と教えた人です。

第2は、主が来られたという事でその先駆者として送られた、イザヤの精神を持って先駆者として送られた洗者聖ヨハネです。

第3は、私たちにイエズス様を下さるこの直接の方マリア様です。

今日ミサにはこの3つの方が出てきます。

入祭誦を見て下さい。イザヤはあたかも教会の門の前に立って、まだ新約時代には入れないので、旧約時代であるので門の敷居に立って、ドアが開くか開かないかを待って、「さぁ、天よ、露を滴らせよ。雲よ、義人を降らせよ」と祈っています。

なぜ、「露を滴らせ」るのかというと、Cornelius a Lapideという有名な聖書の解釈によると教父によると、「4つの理由でそうだ」と言います。

「1つは、露というのは、その一体どこからその露が生じるのか分からない。それと同じように、天主様の御託身が一体どこからそうなるか、という事が一般の人には分からない。神秘の内にこの凝結されてこの露が生じるように、御託身も神秘の内に天主が人となったから、『露を滴らせよ』というこの『露』という言葉が非常に相応しい。」

「第2の理由は、露というのは、実は清い純粋な水蒸気の空気なのだけれども、霧よりももっと純粋な湿った空気なのだけれども、それが水となる。ところでマリア様は純粋で純粋で純粋で清らかな童貞女だけれども、それが母となった。これはちょうど露が生じたかのようだ。だから、『天よ、露を滴らせよ』と言うのは相応しい。」

「第3には、露というのは、とても甘美で、露がある所にはいつも湿り気があるので、多くの農産物ができて植物にとってとても良い。それと同じように、救い主が来られる御恵み、聖寵の御恵みというのも、聖寵の露のように優しく染み通って、多くの恵みを実りをもたらす。」

「第4の理由は、露というのは、一見するとピカピカと光って、丸くて、ダイヤモンドのような宝石のようだ。ところでイエズス・キリスト様が送られて来る、救い主が、天主が人となって救い主として送られてくるというのは、これは人類にとってダイヤモンドのようだ。ちょうど天主様と人類とが、救いの契約の契りを結んだ時の指輪に飾るダイヤモンドのようだ。だから『露』という言葉が相応しい」と言っています。

でもイザヤは教会の前で立って、「さぁ、早く義人を降らせよ」と言っていた人に過ぎません。

福音になると、既に洗者聖ヨハネが登場します。主の道を、すぐに来られる主の道を準備する為に送られた人です、先駆者です。

洗者聖ヨハネはちょうど、司祭がミサの前にこれからミサの前半が終わって、今からミサの聖変化をして、ミサの本当のいけにえが始まって、ミサの核心が始まる、というその直前にお説教をしますけれども、それと同じように、洗者聖ヨハネは教会の真ん中で説教台に立って、「さぁ、今から救い主がいけにえを捧げる。そのすぐ直前に、天主の子羊が、さぁこれをいけにえを捧げるその直前だ」という事で、「救い主がもう来た」という事で説教します。

何と説教をするかというと、罪の償いの為の悔悛の洗礼の説教をします、「主の道を整えよ、準備せよ。王はすぐもう間近に来られている。私はそのラッパ吹きだ。花婿を花嫁に連れて行くその役割をする仲人だ。さぁ、花嫁よ準備せよ。花婿は来た」と説教をします。

それからそのお説教が終わると、奉献“Offertorium”で、マリア様が御告げを受けた様子が語られます。大天使聖ガブリエルが、「めでたし、聖寵充ち満てる方。御身は女の内であなたは祝された方である」と。“Ave Gratia Plena.”

マリア様こそが、私たちをお恵みに於いて、「さぁ、いけにえの十字架の祭壇の方にいらっしゃい」と、「救い主はもうここに来ている」と教えて導いて下さいます。お恵みを与えようとしてマリア様が祈って下さっています。

ミサのいけにえが捧げられて、イエズス様は聖変化によって真に、本当に、私たちの前に現存されます。パンとブドウ酒のように見えますがしかし、真の天主の御体と御血が私たちの前に来られます。主は、私たちと共に在したのです。私たちは心から愛を込めて跪いて、主を礼拝致します。私たちは御聖体を拝領します。

もう主は本当に私たちと共に在すので、聖体拝領誦ではもう一度、イザヤの預言が引用されます、「主は、エンマヌエル“私たちと共に居られるだろう”と言われるだろう。」本当にこの預言が成就しているのです。

こうやって私たちはあたかも、マリア様の御告げを受けたその時と同じような状況で、今日、イエズス様を私たちの胸に、霊魂に、受けるのです。マリア様がちょうどご胎内にイエズス様をお運びしたように、私たちもイエズス様をこれから運んで、1週間を迎えようとします。そうする事によってクリスマスの日に私たちが、私たちの霊魂にもう一度生まれるイエズス様を準備するのです、よく受ける準備をするのです。

この第4主日のミサの構造はこうなっていて、待降節の凝縮があります。

人間の本性によればマリア様、童貞女マリア様からイエズス・キリスト様がお生まれになる、もうすぐお生まれになる。でもこのお生まれになるイエズス・キリストは、天主の本性によれば、永遠の御父の御子である。イエズス様は旧約聖書の間、何度も何度も、「どのようにやって来られるか」という事を約束されました。太祖たちはこれを喜びを以て待ち望んでいました。これが待降節です。

ダヴィドの部族から、肉に依って、時に於いて、イエズス・キリスト様は本当にお生まれになります。預言を全て1つ1つ成就させてお生まれになります。

天主の本性としては、永遠の天主の御子。しかし人となって、もうすぐ私たちの為に、私たちを贖う為に、私たちを罪の暗闇から解放する為に来られます。もうすぐあと数日で、天使たちはその喜びの為に歌を空で歌います。キリストの御誕生、御降誕を祝う歌声が空に響きます。教会もその時、特別のメロディーを以てクリスマスには御降誕の歌を歌います。ベトレヘムで、預言された通り救い主は、天主は人となって、人として私たちの為にお生まれになります。その時に全ての膝はかがめられて、この救い主を心から愛を以て礼拝しなければなりません。

人となった天主、天主が人となる、私たちの為に生まれて下さるその天主の愛は、私たちは全く想像を超えたものです、私たちにとって想像を超えたものです。

考えてもみて下さい。たとえアメリカの軍隊が、或いは中国の軍隊が、NATOの軍隊が何をしようとも、天使が1位あれば、そのような人間の武力もあっという間に粉々に蹴散らされてしまいます。このたった天使1位であってもそれほどの力を持っているのに、何千何万何億何兆、もう数を数えきれないほどの天使たちがイエズス様の前で跪いて、日々永遠に終わる事なく、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と讃美して従順に服従している、その王の王が、私たちを愛するがあまりに、私たちを天に導く為に、幼い子供となってもうすぐ来られるのです。私たちにその引き換えに天の喜びを与える為に。

もうすぐ教会はこのように発表します、宣言します、「世の創造の後から3199年の後、ノアの大洪水から2759年の後、アブラハムから2015年の後、モーゼがエジプトからイスラエルの民を脱出させて1510年の後に、ダヴィドが王となって1032年の後に、ダニエルの預言者ダニエルの預言によると65周年の後、ギリシャのオリンピックの第94回目、ローマの創立の752年の後、ローマ皇帝アウグストゥス・オクタヴィアーヌスの在位42年、全世界に地中海に平和が行き渡ったその時に、人類の歴史の第6の時期に、人類の全歴史の夕方、永遠の天主、天主の御父の御子、真の天主が、人類にその御自分の御訪問によって、御恵みによって聖化する為に、聖なるものとする為に、この地上に来られる事を望みになった。イエズス・キリストは聖霊によって童貞マリアの胎内に宿り、9ヶ月の後に、ユダ族のベトレヘムにおいて、童貞聖マリアからお生まれになる。」

ですから愛する兄弟の皆さん、どうぞ何も恐れないで下さい。主はすぐに私たちを救う為にやって来られます。司祭の入堂の時に私たちは聖歌を歌いました、「喜べ、主は来たり給う。喜べ、さぁ主は来たり給う。喜べ」主はすぐに来られます。皆さんはすぐにその主の栄光をご覧になるでしょう。

この世の邪悪と罪とを破壊して罪の赦しを与える為に、私たちの為に御自分をいけにえとして捧げる為に、主はお生まれになります。この主の到来は確実なものです。平和の王はその道を進めておられます。すぐ近くに来ています。先駆者がもう既に現れました。時は来ています。私たちの顔を上げて、その主の贖いが近いという事をどうぞ待望して下さい。
ちょうど御聖体拝領にもう既に歌うように、主は私たちと共におられます。

ではこの1週間、クリスマス主の御降誕を準備して、私たちは一体何をしなければならないでしょうか?2つ提案します。

1つは、私たちは洗者聖ヨハネのお説教を聞いて、悔悛の心を起こすという事です。今まで私たちは主が来る事を邪魔するような、その主の道に来るのを邪魔するような妨害物をたくさん置いていたのではないか。汚いものや嫌なものを、見苦しいものを置いてきたのではないか。主が通る為に道を開けて、広くしてきれいに直すべきではないか。祈りと犠牲の心をもって、主の心を私たちの心とすべきではないか。悔悛の心をぜひ持つように致しましょう。

第2は、これはクリスマスの私たちの長い伝統ですけれども、イエズス様に是非クリスマスのプレゼントを差し上げる事にしましょう。イエズス様が一番喜ぶプレゼントを、祈りとイエズス様の御旨に適う事をする、愛徳と、犠牲と、忍耐と、謙遜と、イエズス様に倣う特別の霊的なプレゼントを準備致しましょう。「イエズス様がいらっしゃるのでそのプレゼントに、私はこの従順を、この犠牲を、この辛い事をお捧げ致します。イエズス様も私を愛する為に、辛い寒いまぐさ桶で生まれて来られました。」

多くの人はイエズス様にプレゼントする事を考えるどころか、生まれる場所さえも与えませんでした。

「イエズス様、どうぞ私の心に生まれて下さい。心を大きく開いています、どうぞ来て下さい」と祈る事に致しましょう。

最後にマリア様に是非、イエズス様を私たちに下さるようにお祈り致しましょう。

“Videbit omnis caro salutare Dei. ”
「全ての人は、主の救いを見るだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

全ての人は、主の救いを見るだろう。

2017年01月07日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月17日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月17日 待降節の四季の斎日 土曜日のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年12月17日、待降節の四季の斎日の土曜日です。このミサの後に、いつものように公教要理を提案します。

来週もミサがあります。木・金・土、12月22日・23日・24日で、23日は国民の祝日で天皇陛下の誕生日ですので、午前中の10時30分からあります。24日は土曜日でいつものように、クリスマスイブで10時30分からあります。9時からは洗礼を受ける方が2人いらっしゃいますので、たくさんお祈りをなさって下さい。24日の夜の午後の21時からクリスマスの朝課、主の御降誕の聖務日課の朝課をグレゴリオ聖歌で歌って、そして真夜中の24日の午後11時59分から、25日の0時の1分前から司祭がここを入場して、イエズス様を置いて、そしてミサを始めようと思っています。どうぞいらして下さい。日本の公教会の規定によると、12月25日のクリスマスは守るべき祝日ですので、是非いらして下さい。
聖ピオ十世会では、四季の斎日と、そしてクリスマスの前日12月24日は、大小斎の日ですので、もしも皆さん守る事ができれば一緒に大小斎を守って下さい。



“Videbit omnis caro salutare Dei. ”
「全ての人は、主の救いを見るだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は四季の斎日の土曜日のミサを捧げています。今日私も生まれて初めて、全て最初から最後までグレゴリオ聖歌でこの四季の斎日を歌ミサでする事ができて、この四季の斎日のミサの中に深く入る事にしましょう。

そこで今日は、この四季の斎日がどういう歴史を持っていて、どんなに特別のミサだったのか、何でこんなに長かったのか、一体四季の斎日のこの土曜日のミサの特徴は一体何なのか、それを黙想し、

何でこんなお祈りをして、こんなに読書をするのかを黙想し、

最後に、私たちがクリスマスの日まで、イエズス様の御降誕まで、どんな気持ちで、どんな心の準備をして、準備しなければ御降誕を迎えなければならないか、という遷善の決心を立てる事に致しましょう。


皆さんも今日、今見た通り、今日の四季の斎日のミサはとても特別です。何故かというと、たくさんの読書と、聖歌と、お祈りがあって、たくさん跪いたり、たくさん立ったり座ったりしたからです。

何故かというとこれは、昔々から迫害時代から、カトリック教会の初期の時代からローマでは、12月のこの日にだけ叙階式を行っていたのです。

叙階式をどこで行ったかというと、聖ペトロが殉教したそのバチカンの丘で、そこで行いました。何故かというと、この聖ペトロの大聖堂が一番ローマの中で大きくて、叙階をしようとする何百人もの聖職者たちを受けて、そしてその家族たちを受け入れる事ができるからです。

考えてもみて下さい。トンスラを今日受ける人が500名、守門になる人が600名、或いは読師になる人が400名、等々と何百名の人たちが代わる代わるにこう叙階を受けていって、そして唯一の、この初期の段階では唯一の12月の叙階の日でした。

そこで後には、四季の斎日の土曜日には叙階式をするようになったとしても、この12月だけは特別の機会でした。そこで復活祭の夜と同じように、四季の斎日のこの土曜日も特別な日として設定されていました。ちょうど聖週間の聖土曜日にはミサが無いように、実はこの四季の斎日のこの土曜日にもミサが無くて、ちょうど復活祭の徹夜祭の夜中に洗礼式があって、大人が多く洗礼を受けたように、ちょうどこの12月の四季の斎日の土曜日に、多くの人々が聖職者となり、そして司祭となり、叙階を受けていったのです。

そして古代から、この1日中この四季の斎日の土曜日には、断食をして、お祈りして、そして夜中からこのミサを始めて、次々と叙階をしていって、そして叙階式が終わってミサが終わる頃には、長い長い長い、今でもエコンでは叙階式が3時間とか4時間かかりますけれども、その人数の多さやその儀式の長さから、ちょうどこのミサが終わる頃に夜明けになって、そして実は主日のミサと同じように考えられていたのです。

そこで今日のミサには、「夜中、夜」というのと、「光」という、2つの事がよくテーマになっています。まさにここにこそ、待降節、イエズス様を救い主を待っている夜中の夜の状態が、イエズス様の正義の太陽の到来によって照らされる、という事を私たちが実感する事ができるように、典礼は配慮されていたのでした。

ではこの今日のミサの特徴というのは、待降節とクリスマスが一緒になっているような凝縮された、ギュッと詰まっているようなもので、待降節の長い暗闇の中を長い叙階式で過ごした後に、寒くてお腹が減ってもうヘトヘトで、お祈りして、そうするとミサが終わった頃に夜明けがあって、御聖体も拝領できて、そして「あぁ、イエズス様が来られた。喜びに喜べ」というその待降節が凝縮された形である、というのが少し外観できたかと思いますが、では詳しく、パッと空を飛ぶようにミサを眺めてみます。

すると入祭誦では、「来て、そして御身の御顔を見せて下さい。」「キリストの光を輝かせて下さい。御降誕の光を私たちに輝かせて下さい」と願っている教会の姿があります。

集祷文では、5つの集祷文の中には、「主の御来臨」とか、或いは「主の御誕生」とか、或いはまたもう1つ「御来臨」「すぐ近くに来ている」「お祝い」とか「主の訪れ」として、「主が私たちを訪れて下さる」という、御降誕を待ち望む待降節の気分が深く入っています。

読書は5つあって、その内の4つはイザヤの書から取られています。イザヤというのは、預言者イザヤは待降節の重要な人物です。来たるべき救い主を告げ知らせるべき、準備させるべき重要な人物ですから、ここで取られています。

最初の読書では、「光が、エジプトの暗い異教の地に照らされて、そして彼らが癒やされる」という事が読まれますが、これはこの「光」というのが「イエズス様の救い」の事を表しています。

第2の読書では、「救い主が来られる事によって天主の新しい王国ができて、そこは新しいエデンとなる。その新しいエデンではこんなに美しい奇跡的な平和が起こる」という事が描かれています。

そして第3の預言では、「勝利者がこの地上に来られる。救い主が来られる」と預言されています。

第4の預言では、「アッシリアの」バルバロ神父様のミサ典書では「チロ」と書かれていますが、或いは「キロ」とか或いは「キルス」という王様がいるのですけれども、この方がバビロンにいたユダヤ人たちを聖地に返すので、救い主の典型、この前表として理解されています。そこでこの、「ちょうどこのキロが捕囚の状態から解放したように、イエズス・キリストももうすぐやって来て、私たちの悪魔の囚われの状態から解放して下さる」という預言をしています。

歌われるのは詩編の18番から取られているのですけれども、バルバロ神父様のミサ典書にはこの番号が少し、18ではなく78となっているのですけども、実は本当は18番なのです。そしてそこから取られていますが、「太陽が、夜のテントから所から出てきて燦然と輝く。」つまり、「マリア様から生まれて、燦然と正義の太陽イエズス様が輝く」とか、或いは「花嫁が自分の寝床から出てくる」とか、或いはイエズス様のシンボルである「太陽がすぐやって来る」という事が歌われます。

もちろんこれは、叙階式が終わって、この夜のミサが終わった後に朝日が昇る、というその事も暗示しています。「待降節の暗闇の次に、御降誕の光が来る」という事の暗示です。

最後の第5のダニエル書は、これは四季の斎日の土曜日には必ず最後に読まれるもので、これは「3人の子供たちが竈に入れられるんだけれども、決して傷を受けずに讃美の歌を歌った」というものです。これは古代から、復活とそして殉教のイメージとしていつも考えられていました。

書簡では、「イエズス様、キリストが戻られる」という事が読まれます。「イエズス・キリスト様は私たちを裁く為に再臨する」と。「しかし、イエズス様が来られる前にものすごい暗闇があるだろう、反キリストの時代があるだろう。しかし、イエズス様がその御自分の光を以てその暗闇を打ち払い、そして勝利する。」これもやはり、夜から朝日が昇る、或いは待降節がクリスマスの光によって、御降誕の光によって変わる、という事を意味しています。

次に福音では、「先駆者がやって来た。歴史的にどこの地方で、正確にどこの国で、どこの場所で、何年何月何日、誰の王の時代に、」詳しい状況のうちに、「さぁ、先駆者聖ヨハネが説教を始めた。救い主の到来を告げ知らせた。主の道を準備するように話し始めた。さぁ、王は近い。王の御光来を告げ知らせる前触れがラッパを鳴らしてきた。さぁ、王は王様はすぐ近くに待っている、すぐ来る」と。「主の道を早く準備しなければならない。」

そこでこれから説教の後に歌われる奉献では、「シオンの娘よ、喜べ。エルサレムの娘よ、さぁ告げ知らせよ。主は近い、主は来る。もうすぐだ、喜べ」と、喜びの伝えを私たちに知らせています。

ここで、ミサの前半の部分で待降節の準備が終わりで、これからミサのいけにえが捧げられます。イエズス様は確かに、私たちの御前にパンの姿で、パンとブドウ酒の外見を持ってお生まれになります。私たちの御元に近寄ります。そして御恵みをもって私たちを照らして下さいます。どれほど喜ばなければならない事でしょうか。

イエズス様のその一体、イエズス様が一体どなたかを考えれば考えるほど、イエズス様が私たちをどれほど愛して下さっているか、その愛の巨大さを考えれば考えるほど、イエズス様が「私たちのもとに来たい」という望みの巨大さを考えれば考えるほど、イエズス様が私たちに「恵みたい」と思っているその御恵みの莫大さを思えば思うほど、私たちはどれほど感謝をしなければならないでしょうか、喜ばなければならないでしょうか。

「シオンの娘よ、喜べ。エルサレムの娘よ、喜べ。新大阪の聖母の汚れなき御心の娘たちよ、喜べ」と。イエズス様が私たちの心に生まれるという事が、今現実のものとなりつつあるのです。いけにえを捧げる事によって、ミサのいけにえによって、イエズス様は到来されるのです。

「王は来たり給うた。お前たちの為に来たり給うた。もう聖なる方、救い主、王の王は、他でもないお前たちの為に来たのだ」とミサは歌っています。

そして御聖体拝領の祈りではやはり、「太陽は昇った。奇跡の太陽は私たちの所に来た。そして高く、その天のいと高き所からまたもっといと高き所まで私たちを照らし出す。」そして実に周りを見ると、本当に太陽が上がってきた、明るくなってきた、夜明けだ、さぁ、もうクリスマスだ、喜ぼう。

これがこのミサの特別の作りとなっています。

そして私たちに何をメッセージで教えたいかというと、「喜び」なのです。「キリストは御降誕は近い。イエズス様の御降臨は近い。」

皆さん、実はこの前の主日はGaudeteの主日と言っていて、その時にはカトリックの典礼では非常に例外的に、紫の祭服ではなくバラ色の祭服を着るように司祭に命じました。何故かというとこの「紫」は、「罪の痛悔」とか「悔悛」とか、その罪を犯してしまったという事の悲しみと悔悛のしるしであって、償いと苦悩の苦行のしるしですけれども、「まあ、そんなに悲しむな。主は近い。だから白が混ざった、喜びの白が混ざったバラ色でもう喜ぶように」とさえも教えていました。典礼の色さえも変えて、私たちに喜びを伝えようとしました。

今日の四季の斎日のこの土曜日は、別の形で私たちにその喜びを伝えています。

では、今日はどのような決心を立てなければならないでしょうか?

私たちもますます、この待降節の精神に深く入って、主の御降臨を喜びに喜んで待ち望む事に致しましょう。クリスマスの日には悲しくあってはいけません。クリスマスの日には今の喜びをはるかに超えた喜びでなければなりません。そしてこのクリスマスの大きな喜びを既に私たちは感じ取るように致しましょう。

何故クリスマスにそれほど私たちが喜ばなければならないかという事は、何故かというと天国で私たちが生まれる時に、「本当の喜びが何か」という事を私たちが実感する事をイエズス様が望んでおられるからです、教会は望んでいるからです。

では私たちは、この本当のクリスマスの喜びを得る為に、まずイエズス様を受けなければなりません。イエズス様を受ける事ができるように、喜びをもたらすイエズス様を受ける事ができるように、心をますますイエズス様のようにイエズス化させて、イエズス様のお望みのように、イエズス様の考えるように、イエズス様のなさるように、私たちも心をイエズス様のようにますます変えていく事に致しましょう。謙遜と、愛と、そして柔和と、忍耐、祈りと犠牲の心をますます、イエズス様にチューンを合わせて波長を合わせて、このイエズス様の声をよく聞き取る事ができるように致しましょう。

その為にも私たちの全て、心から全てイエズス様に反対するようなもの、怒りや、心配や、或いは憎しみ、或いは不安など、全てイエズス様にお委ね致しましょう。

イエズス様にプレゼントを準備致しましょう。クリスマスの時にはイエズス様に特別のプレゼントをしなければなりません。何故かというとイエズス様は私たちの心にお生まれになろうと、霊的に生まれようと来られるのですから、そして御聖体でイエズス様は本当に私たちの中に来られるのですから、自分御自身を私たちに全くプレゼントしてしまうのですから、私たちもイエズス様にプレゼントをお返事しなければなりません、クリスマスの為に。そのクリスマスのプレゼントを準備しなければなりません。

どんなプレゼントが良いでしょうか?お祈りのプレゼントや、犠牲のプレゼントや、従順のプレゼント。イエズス様が一番喜ぶ事は何かを考えて、私たちはプレゼントの計画を立てましょう。

イエズス様を受けるには秘密があります、それはマリア様です。マリア様がいらっしゃらなければイエズス様を受ける事ができません。イエズス様を受けるが為にもマリア様をお受け致しましょう。

多くの人は残念ながら、この素晴らしい、私たちの本当の喜びをもたらして下さる王の王イエズス様を受けようとしません。残念ながら。イエズス様はどれほど悲しまれる事でしょうか。「今年のクリスマスこそ受け入れられたい」と思っても、「来るな。」「あっち行け」とイエズス様は追い払われています。マリア様と共に追い払われています。

ですから私たちはその人たちに代わって、マリア様を通して、イエズス様をお受けする事に致しましょう。

「全ての人は、主の救いを見るだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

わが天主よ、われ、信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。われ、信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、御身を愛さぬ人々のため、御身に御赦しを願い奉る。

2017年01月06日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 主の御公現の祝日、おめでとうございます。

 2017年はファチマ100周年です。そこで今年は、私たちの聖伝のミサの後の祈りの時(御聖体拝領の祈りの感謝の祈りの直後、教皇様のための祈りや司祭のための祈りの直前)に、次のファチマの天使の祈りを皆で唱えようと思います。特に最初の祈りは短いので天使のやったとおり3回繰り返して唱えたいと思います。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


「わが天主よ、われ、信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。われ、信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、御身を愛さぬ人々のため、御身に御赦しを願い奉る。」

【シスター・ルシアの手記によるポルトガル語原文】
Meu Deus! Eu creio, adoro, espero e amo-Vos. Peço-Vos perdão para os que não crêem, não adoram, não esperam e Vos não amam.

【参考資料:フランス語訳】
Mon Dieu, je crois, j'adore, j'espère et je Vous aime. Je Vous demande pardon pour ceux qui ne croient pas, qui n'adorent pas, qui n'espèrent pas, et qui ne Vous aiment pas.


「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊い御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

【シスター・ルシアの手記によるポルトガル語原文】
Santíssima Trindade, Padre, Filho, Espírito Santo, (adoro-Vos profundamente e) ofereço-Vos o preciosíssimo Corpo, Sangue, Alma e Divindade de Jesus Cristo, presente em todos os Sacrários da terra, em reparação dos ultrajes, sacrilégios e indiferenças com que Ele mesmo é ofendido. E pelos méritos infinitos do Seu Santíssimo Coração e do Coração Imaculado de Maria, peço-Vos a conversão dos pobres pecadores.

【参考資料:フランス語訳】
Très Sainte Trinité, Père, Fils et Saint-Esprit, je Vous adore profondément et je Vous offre le très précieux Corps, Sang, Âme et Divinité de Jésus-Christ présent dans tous les tabernacles du monde, en réparation des outrages, sacrilèges et indifférences par lesquels il est Lui-même offensé. Par les mérites infinis de Son Très Saint-Cœur et du Cœur Immaculé de Marie, je Vous demande la conversion des pauvres pécheurs.



待降節の重要な3人の登場人物

2017年01月05日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月16日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月16日 待降節の四季の斎日 金曜日のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年12月16日、待降節の四季の斎日の金曜日の御ミサをしています。聖エウゼビオの殉教者の記念を行っております。今日は四季の斎日の金曜日ですので、聖ピオ十世会ではこの金曜日と土曜、水・金・土と大小斎を守らなければなりません。これは日本では決まりはありませんが、もしも一緒にこの犠牲を捧げたいと思う方はどうぞなさって下さい。

今日は平日のミサを歌ミサをしています。序誦のトーンが荘厳調からFerial Tone、平日の調子になります。何か耳で聞いたところではこの死者ミサとかで使われるような調子になります。どうぞご了解下さい。今日のこの御ミサの後にいつものように聖体拝領の後の祈りをして、終課を一緒に唱える事に致しましょう。明日も朝10時30分からミサがあります。

来週もミサがあります。来週は木・金・土と続けてミサがあります。木曜日は18時00分から、金曜日は祝日ですので10時30分から、金曜日23日天皇誕生日には10時30分から、土曜日にはやはり10時30分からミサがあります。特に土曜日には2人の方が洗礼を受けようと今準備されているので、どうぞ良い洗礼式がなされるように皆さんの心からのお祈りをお願い致します。


「胎内で、私の子供が喜びに踊った。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は四季の斎日の金曜日で、ここではマリア様の御訪問の部分を読みました。これは四季の斎日の水・金・土と続くシリーズのその真ん中で、第1が天使の御告げ、第2場面の金曜日がこの御訪問、第3は洗者聖ヨハネがその主の道を準備する、という3つの場面の内の1つです。

そこで今日は聖福音に従って、教会の精神に従って、待降節の主な3つの登場人物を見て黙想しましょう。

1つはイザヤ、預言者イザヤです。これは遙か旧約の時代から、「主が来る」という事を告げた方です。今日の書簡はイザヤの預言書から取られています。

第2が洗者聖ヨハネです。主の道を準備する為に送られた洗者聖ヨハネです。

第3がマリア様です。

今日のこのミサでは、この3人が主の道を準備する為に私たちに遣わされて来ました。

預言者イザヤは私たちに、「イエッセの枝から花が咲く。イエッセの根から枝が出て、それに花が咲く。」この「枝」というのはマリア様の事で、この「花」はイエズス様の事です。

「この花の上に7つの霊が留まる。」聖霊の7つの賜物をイザヤはここで言及します。イエズス様は私たちをこの聖霊の7つの賜物の精神に従って贖おうとされます。

実は明日から、「O Antifona」という有名なAntifonaを晩課の時に、MagnificatのAntifonaとして歌うのですけれども、「この7つのAntifonaは、7つの聖霊の賜物の事を意味している」と言われています。

第2の登場人物は洗者聖ヨハネです。洗者聖ヨハネは私たちに、「主を、イエズス様をどのように受け入れるべきか」という事を教えてくれます。

マリア様の声を聞くと、既に洗者聖ヨハネは「胎内で喜びに踊った」と聖エリザベトは言っています。イエズス様の到来をすでに理解して、洗者聖ヨハネはその御恵みを受けて喜びに踊ったのでした。実はこのGaudeteの主日、待降節第3主日では、やはりこの「喜び」という事がテーマでした。洗者聖ヨハネは私たちにこの喜びを教えています。

この喜びは、この地上の事の喜びで、地上の快楽とか、地上の持ち物をたくさん詰め込んだ積み上げた、かき集めたから喜んだのではなく、美味しいものを食べたから、きれいな服を着たから、褒められたからではなく、人間からちやほやされたから喜ぶのではなく、そうではなくて、「主によって私たちが罪を赦されて、永遠の命を受ける事ができる、永遠の命の為に、主が私たちの為に近くに来られた、私たちの為に与えられた」という超自然の喜びです。

この喜びは、この地上の多くの場合、地上の喜びとの引き換えに与えられるものです。私たちが十字架と犠牲と祈りを捧げる事によって、多くの場合与えられる超自然の喜びです。

この喜びを与える為に、私たちの主は来られました。今日のミサの入祭誦では、「主は、すぐ近くに来られている」と言っています。私たちはですからますます喜ばなければなりません。

洗者聖ヨハネは聖人になって、ユダヤの人たちに洗礼を授けながらこう言う事でしょう、「主の道を正しくせよ。主の道を準備せよ。救い主は来られる。」ある時にはこう言います、「お前たちの中に既に、あなたたちが知らない者が来ている。主は救い主は来ているのだけれども、お前たちはその事を知らない」と。ユダヤ人たちにとってはなんという厳しい叱責の言葉だったでしょうか。

洗者聖ヨハネは子供の時からイエズス様が訪問されて、胎内にいた時からすでに主を知って、主が来られたという事で喜び踊ったにもかかわらず、ユダヤ人たちは主がこんなに近くにその彼らの間に在す事、居るにもかかわらず、全く知らずに無関心で、その事に気が付かずに、その何の事もなかったかのようにしていたからです。

私たちは洗者聖ヨハネに是非お祈りしなければなりません。私たちも洗者聖ヨハネのように敏感にイエズス様の御降来を感じ取って、「イエズス様が来られた!」と私たちが喜ぶ事ができますように。ユダヤ人たちのように無関心や、或いはバーゲンセールとかクリスマスセールの事だけで、その本質を見失う事がないように、超自然の喜びに満たされる事ができますように。洗者聖ヨハネが私たちに、「あぁ、イエズス様は私たちの所に実は来ているのに、お前たちは分かっていない」と叱責する事がないように、主を認める事ができるようにお祈り致しましょう。

と言っても私たちは実は、洗者聖ヨハネが言っているように、主が私たちの中におられる、例えばミサの時に私たちと共におられる、或いは御聖体において私たちの中に来られるとしても、「実は、本当は主がどれほど私たちを愛しておられるのか、私たちの為にどれほど愛に燃えておられるのかについてよく分かっていない」と言わなければなりません。

イエズス様は永遠の昔から、私たちを愛するがあまり、無から私たちを創造されました、天主の命を与える為に。私たちの祖先がその天主の計画を破壊して、「嫌だ!」と言ったにもかかわらず、私たちの全人類の罪を償う為に、敢えて苦しむ為に、死を受ける為に、幼い子供となって来ようとされました。この無限の愛と憐れみを、私たちは言葉では知っていますが、でも本当のところそれがどれほど深いものか、よく理解し尽くしていないと言わざるを得ません。

イエズス様が無限の天主であって、そのイエズス様の前には天使たちが、何千何万もの天使たちが膝をかがめて、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と日々永久に讃美しているその天主様が、私たちを愛するが為に、寒い馬小屋で、貧しく赤子として、生まれる所もなく、それでもお生まれになろうとされたその無限の愛を、私たちは完全に理解し尽くす事はできないと言わなければなりません。

そればかりではありません。私たちを愛するがあまりに人間となったのみか、十字架の上に付けられて、尊き御血潮を全て流し尽くして、私たちが本当ならば受けなければならない苦しみを、罪の償いを果たし尽くして、さらにその聖心を開いて、「さぁ、私の心の中に聖心の中に入っておいで。傷の中から私の中に入っておいで。永遠の命をあげよう。罪を赦そう。さぁ、私はその為に、お前の為にやって来た。さぁ、その為に生まれて来たのだ」と招いておられるイエズス様の愛を、憐れみを、私たちは理解し尽くす事はできません。

イエズス様のその無限の愛は、更に、私たちの中に生まれる為に、私たちと共にいる為に、本当にエンマヌエルとなる為に、御聖体さえも作り出して、私たちと共に1つになりたいと思いました。

洗者聖ヨハネが、「お前たちの中に、お前たちの知らない人が立っている。イエズス様の無限の愛をお前たちは知らない」と言っても、それも無限の愛かもしれません。洗者聖ヨハネに是非、イエズス様の愛を理解させて下さるようにお祈り致しましょう。イエズス様の道を準備する事ができるお恵みを乞い求めましょう。

第3の方はマリア様です。マリア様はイエズス様を抱いて、イエズス様と共にイエズス様を携えて聖エリザベトをまず訪問されました。天使のお告げを受けてすぐに発って急いで山を通って、3日かかって、長い道のりを歩いてエリザベトの家まで行きました。聖エリザベトはすぐにマリア様とイエズス様の事を理解しました。「あぁ、主の御母が私の所を訪問してくれるなんて、それはなんて偉大な事でしょうか!」

マリア様は私たちに、イエズス様を持って私たちにイエズス様を下さいます。もしもクリスマスに御降誕の御恵みを私たちが受けるならば、受けたいと思うならば、超自然の喜びを受けたいと思うならば、イエズス様の御恵みの御訪問を受けたいと思うならば、御降誕のその御恵みの聖寵の深みにますます浸透したいと思うならば、マリア様をまず喜んで迎えなければなりません。マリア様を喜んで迎える事によって初めて、イエズス様が私たちに御恵みをもたらす事ができるからです。

マリア様は「山を通ってユダヤの街に行った」と書かれていますが、教父は、「この『急いで山に向かった』というのは、『山』というのはキリストの事だから、マリア様はキリストに向かって行ったのだ」と解釈しました。私たちもキリストに向かって早く急いで向かわなければなりません。御降誕の喜びを受け入れる準備をしなければなりません。

もしも聖ヨハネがマリア様の訪問を受けてこれほど喜んだのならば、私たちにこの喜びを今、今日四季の斎日の金曜日に私たちにこの喜びを伝えようとするならば、「主は近い」とその喜びを伝えようとするならば、私たちはこの喜びにどっぷりと浸る事に致しましょう。主は私たちに無限の愛を持って来ておられます。その主はもうすぐに私たちの門のすぐ近くに立って、扉を叩こうとしています、「さぁ、大きな贈り物を持ってやって来た。さぁ、私が入るのを許してほしい」と。喜んでドアを大きく開けて、「イエズス様、すぐ来て下さい、私の心に入って来て下さい!私がイエズス様のその愛の深さを喜びをもって理解する事ができるように御恵みを下さい!」とお願い致しましょう。

もしも既に、クリスマスの前からこれほどの喜びを教会が私たちに与えたいと思うならば、クリスマスの日はどれほど喜びに満たされる事でしょうか。天国で永遠のクリスマスを迎える時には、その天上の喜びはどれほど偉大な事でしょうか。私たちが本当に主の愛を、無限の愛を理解して、それを目の前に見て、永遠も足りないほど日々主の憐れみと愛に、無限の愛に讃美する事ができる喜びはどれほど大きな事でしょうか。

その準備の為に、ぜひ洗者聖ヨハネとマリア様に準備のお恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

主よ、私たちの心を目覚まして、御一人子の道を準備させるようにさせて下さい。

2017年01月03日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月4日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月4日 待降節第2主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年12月4日、待降節第2主日のミサをしております。今日のこのミサの後に、いつものように 14時30分から公教要理の続きがあって、今回は、聖書が、確かに 4人の福音史家、そして聖パウロが書いたものである、という事について話をしたいと思っています。

16時からは主日の第2晩課があります。明日は朝の7時から御ミサがあります。12月は東京では主日のミサが3回あって、今日と、次は2週間後の18日と、そして クリスマスの25日です。どうぞ皆さんいらして下さい。


“Excita, Domine,corda nostra ad praeparandas Unigeniti tui vias.”
「主よ、私たちの心を目覚まして、御一人子の道を準備させるようにさせて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、「待降節のこの第2の主日を一言でまとめると、これは、『主がエルサレムにやって来る』とまとめられると言える」と、典礼学者たちは口を揃えて言います。ドン・ゲランジェに始まり、他の多くの典礼学者がそう言います。

そこで、何故この典礼はそんなにイエルサレムとかかわっているのか?エルサレムとは一体何なのか?

そして私たちは、そのエルサレムに来られる主を準備する為に一体どうしなければならないのか?典礼は何をしようと教えているのか?

それで最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

エルサレムというのは、単なる昔のユダヤの首都であった、平和のビジョンという意味の街だけではありません。イエズス様の選ばれた新しいエルサレム、つまりカトリック教会の事も、地上のキリストの教会の事も、そして天上のキリストの神秘体の事も表しています。そしてこれは王である、王の王であるイエズス・キリストの花嫁を表しています。

ちょうどこの典礼学者のエルサレムの話をこう読むと、パリにある素晴らしい、これは私の思うには、人類の作った最高傑作の1つである、サント・シャペル(Sainte Chapelle)の事をどうしても思い出さざるを得ません。これは典礼学者が言った事ではないのですけれども、ぜひ聞いて下さい。皆さんも是非パリに行ったら、ノートルダム寺院のすぐ近くにあるサント・シャペルという所に行って下さい。

サント・シャペルというのは、フランスの王ルイ9世が、聖なる王ルイ9世がコンスタンティノープルにあったイエズス様の茨の冠を購入して、その国家財産のほぼ全てを使って購入して、その茨の冠を入れる為の教会として建てたものなのです。私がそこのサント・シャペルに訪問した時に、フランス人のガイドの方は、その茨の冠がどれほど高かったかという事を示す為に、「その茨の冠のお金で、サント・シャペルが2個半造る事ができた」と言うのです。

サント・シャペルというのはかなり大きな教会で、人がもしかしたら700名とか1000名くらい入る事ができるかもしれません。2階になっているのです。1階はちょうどこの児童会館くらいの高さだと思いますが、壁があって小さな窓がありますが、非常に素朴な質素な、そしてきれいに飾られた普通の教会なのです。ところが2階に上がると、15mのガラスの壁が、壁がなくて全てステンドグラスで囲まれていて、柱だけで屋根を支えています。そのステンドグラスがあまりにも高くて、1000を超えるステンドグラスが付いています。光の教会のような感じで、まさに地上にいた教会から、天上に行くと光に輝く天国の教会をイメージして造られたのだそうです。旧約時代の天地創造から、聖ルイ王が茨の冠をどうやってコンスタンティノープルから持って来たこのパリに到着したか、というまでの模様がステンドグラスで物語られています。

その美しさはもう時を忘れて、ずっとこの光の加減が変わって、太陽が動く毎に変わって、床が色んな色に変わって、そのきれいな光の眩い様子を見てうっとりしているだけで、時間が経つのを忘れてしまうかのようです。本当に天国に、時間が止まっている天国にいるかのようです。おそらく王様はここでミサを、荘厳ミサをして、グレゴリオ聖歌をきれいに歌ったり、王室の聖歌隊がきれいなハーモニーでポリフォニーを歌ったり、或いはおそらくエルサレムかどこからの素晴らしい香が焚かれて、とても良い匂いがして、荘厳な儀式が捧げられたかと思います。まさにそこは天国だったかもしれません。



ちょうどそのように典礼学者は、「エルサレムにも色々な層があって、最初はユダヤのエルサレムだけれども、これはもう時代遅れになって、これはもう賞味期限が切れてしまった。もうそこで、もうそれは過去のものとなってしまった。しかしこの土台の上に、ちょうど過去考古学者がいろんな発掘をすると、昔の都市の上に、都市が戦争か何かで負けて敵によって破壊されて、その上に新しい土地が作られてという風に、その古いエルサレムの上に新しいキリスト教徒のエルサレムが作られた。

イエズス様がこの御降誕の時に私たちのもとにやって来る、このエルサレムというのはこのキリスト教のエルサレムの事だ。このサント・シャペルのいわば1階にある、地上に住んでいる私たちキリスト教徒のもとにイエズス様はやって来る。しかしこれは同時に、最後の審判の時にキリスト教徒に、『あぁ、よくやった。お前たちの全ての過去の苦しい思い、犠牲、祈りは、私に快いものだった。さぁ、報いを受けなさい。さぁ、天国の称讃を受けなさい、栄光を受けなさい、光を受けなさい、永遠の休みを受けなさい』と言われる、天の光に輝くエルサレムをも、地上のエルサレムキリスト教のエルサレムの上に更に置かれた、天上のエルサレムの事も意味している」と言います。

この天上のエルサレムを私たちに与える為にも、世の終わりに最後の日に審判の日に、主はもう一度来たり給うのです。

そればかりでありません。典礼学者によると、「第4層がある」と言うのです。「その第4層は、最も最高のエルサレムであって、それは私たちの霊魂の事だ」と言います。ちょうどこれは私が思うのですけれども、サント・シャペルには祭壇の一番大切な所に、特別の宝物を置く所があります。それはコンスタンティノープルから運ばれてきた茨の冠を収めてあった特別の所ですけれども、その祭壇の上にあります。それは最も大切な所で、もう聖ルイの、王様の最高の宝でした。

ですから聖ルイ王をはじめ、その後の王様たちは皆、寝る時も首に7つの鍵を首にかけてそして寝ていて、その7つの鍵がなければその茨の冠のドアは開かなかったのだそうです。サント・シャペルの最も大切なものはこの茨の冠もそうでした。

ちょうどそれと同じように、典礼学者も、「エルサレムの最も崇高な、エルサレムの最も大切で王の王であるイエズス様が、花嫁を、きれいに着飾った花嫁のその中に入りたい、そしてその最高の行くべき場所は、私たちの霊魂の中だ。その霊魂の中にこそ入りたい、深く入りたい」と説明しています。

だからこそ今日この集祷文で、「主よ、私たちの心を目覚めさせて、主の御一人子の道を私たちに準備させて下さい。」「これは、私たちの心が浄められて、主を受け入れる事ができるようにする為です」と説明しています。

私たちの主を受け入れる事が準備できるのはどんなに幸せでしょうか。

ですからアレルヤ誦も、「『さぁ、主の家に行こう』と言われて私たちは喜んだ。さぁ、一緒に行こう」と言われていますけれども、「これは天のエルサレムの事であって、イエズス様が私たちの心の中に入って来られる事である」と説明しています。

第2のポイントは、このではその準備の為にどうやったら良いのでしょうか?

「これは福音が説明している」と言います。「福音は、聖ヨハネはイエズス様の先駆者として、主の道を準備する為に遣わされた者である。イザヤの聖書によって遣わされた者であるから、その聖ヨハネのように準備をしなければならない」と言います。

もちろんこのイエズス様は、ヨハネから送られた弟子たちに、「さぁ、今何が起こっているか見なさい。旧約聖書に預言されているように、目が見えない人は見え、耳が聞こえない人は聞こえ、歩けなかった人は歩くようになり、死人は生き返っているじゃないか。旧約聖書に預言されている通りだ。」イエズス様は、「俺がそうだ」とは言わずに、「さぁ、事実を見なさい。そして頭を使って結論を出しなさい」と非常に謙遜に仰っているのですけれども、それと同じように教会は、イエズス様のその御来臨の業が霊的であるという事を教えようとしています。つまり私たちの主が来られる為に、主は私たちによっていつも霊的に、毎日のようにでも奇跡を行って下さっている、癒やしの奇跡を行って下さっている。

例えば、今まで超自然な真理が、天国の事がよく分からなかった人が、「あぁ、天国はある。天主様は在します。永遠の命がある」というのが分かるようになった、「あぁ、罪を犯してはいけない」と思うようになったとか、死人がよみがえるというのは、今まで罪に染まっていた人たちがそれを捨てて、聖なる道に戻るという事でなくて何でしょうか。或いは足のなえた人が、それでも天国の方に向かって道を進める事ができるとか、霊的な、「私たちの中に行われる霊的な超自然の癒やしと御恵みの事を話している」と言います。「だからそのイエズス様を受け入れよう」と。「ベトレヘムの人々のようにイエズス様に、『来てはいけない、あっちに行け、しっしっ』と追い払ってはいけない。」

「さぁイエズス様、私たちの心に来て下さい。私たちは心をきれいに準備して、あなたを受け入れたいと思っています。『お恵みを持って来たい』というイエズス様を受け入れたいと思うのです」と仰って下さい。癩病を受けた人が浄められるというのも、まさにこれです。罪を浄められて、イエズス様を受け入れるという事です。

では、この罪の浄めというのはどのようになるのでしょうか?

「それはちょうど、昇階誦が言っている」と言います。昇階誦は、「主は、聖人たちを自分のいけにえの周りに集める。いけにえの周りに秩序付けられたその聖人たちを集める」と言います。

或いは、「聖体拝領後の祈りにある」と言います。聖体拝領後の祈りは、「主よ、私たちにこの地上のものを軽蔑して、天上のものを愛さしめ給え。この儚い地上のものではなく、永遠のものを望まさせて下さい。」「つまり、この地上のものを捧げていけにえとして、天の黄金、天の変わる事のないものを望まさせて下さいと祈らさせている、これも準備だ。」

そして「密誦もそうだ」と言います。密誦では、「私たちが全く、私たちのみじめさ、私たちは全くに無に等しい、私たちがやる事は例えどんな事でも、主の目から見れば欠点だらけで、ほとんど価値がないように思われる。だから私たちは主の憐れみと主の御恵みをひたすらに乞い求める」という祈りです。これも地上の私たちの技術とか能力とかではなく、天上の御恵みをひたすらに求める、という事の表れです。

洗者聖ヨハネも私たちにこの事を教えています。「霊的に主の来たる道を真っ直ぐにせよ。罪を去って、この地上のものから天国に心を上げよ」と教えています。

では第3に、私たちは一体遷善の決心をどう立てたら良いでしょうか?

クリスマスの時まで主の御降誕まで、私たちも今日の典礼の精神の中に深く入り、「私たちの心も天のエルサレムだ」という事を自覚致しましょう。そして天国のエルサレムに行くには十字架が必要だ、いけにえが必要だという事を自覚致しましょう。

だからこそ典礼学者によると、指定巡礼教会といって、教皇様がこの典礼の重要な日にはこの教会でミサをするというのがありますけれども、今日の指定巡礼教会は、エルサレムの聖十字架教会。「エルサレムの聖十字架教会、これはつまり、私たちがエルサレムに行く為には十字架を担わなければならない、十字架を通して、天のエルサレムに行く事ができるという事を教えている」と言います。

ではどうしたら良いでしょうか?

私たちも、天に心を上げる為にたくさんのお祈りを唱えましょう、ロザリオを捧げて下さい。第2には十字架を愛して、私たちの日々の務めや、苦しい事や、辛い事や、悲しい事、嫌なことも十字架として捧げて下さい。イエズス様は最初にお生まれになった時から十字架の生活を始められました。ベトレヘムで十字架だらけの殉教の生活を始められました。これで私たちが一体どんな生活を送らなければならないかを教えて下さっています。

例えば私たちにはどのような十字架があるでしょうか?

「あぁ、」朝起きたらまず十字架を切る、お祈りをする。もしかしたら私たちは誘惑を受けて、「あぁ、」朝起きたらすぐにiphoneを持って携帯で、「あぁ、朴槿恵はどうなったかな」とか、「あぁ、北方領土はどうなったかな」とか、「あぁ、トランプは」とか、「東京オリンピックは」などともしかしたら、「あぁ、最新のニュース」とか、「最新の受けたメッセージ」とか、「あぁ、Emailは受けたかな?」と思うかもしれませんが、「あっ、どっこい。」天上にまず心を向けて、お祈りから1日を始めるのはどうでしょうか。

最後にマリア様に心を向けましょう。12月8日はマリア様の無原罪の御宿りの祝日です。マリア様はこれを以て、全く地上の罪から離れた清い模範を見せて下さっています。私たちもマリア様の無原罪の御宿りの取次ぎによって、天上にいつも心を向けている事ができますように、主の道を準備する事ができるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

A solis ortus cardine ~ クリスマスの季節の聖務日課

2017年01月02日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお喜びを申し上げます。

クリスマスの季節には聖務日課で A solis ortus cardine という賛歌を歌います。この賛歌については、以前このブログで拙訳を付けて愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介したことがあります。

これは、5世紀の人であるチェリウス・デドゥリウス(Coelius Sedulius)が作詞した詩で、もともとは、23番まであり、その最初がラテン語のアルファベットのAから始まり、Zで終わっていて、このような詩をアベチェダリウス(abecedarius)といいます。元の詩は、イエズス・キリストのご誕生から御復活までを歌っています。聖務日課には、最初の7節が取られています。

そこで、元々の詩を23番までご紹介いたします。

SEDULIUS作 A SOLIS ORTUS CARDINE

A solis ortus cardine
Adusque terre limitem
Christum canamus principem
Natum Maria virgine.

Beatus auctor seculi
Servile corpus induit,
Ut carne carnem liberans
Non perderet, quos condidit.

Caste parentis viscera
Celestis intrat gratia,
Venter puelle baiulat
Secreta, que non noverat.
【聖務日課では、教皇ウルバノ八世の命により、1632年に変更が加えられ、Caste parentis visceraの代わりに、Clausae parentis visceraと唱えます。】

Domus pudici pectoris
Templum repente fit Dei,
Intacta nesciens virum
Verbo creavit filium
【聖務日課では、Verbo creavit filiumの代わりに、Concepit alvo Filium.と唱えます。】


Enixa est puerpera,
Quem Gabriel predixerat ,
Quem matris alvo gestiens
Clausus Johannes senserat.
【聖務日課では、次のようになります。
Enititur est puerpera
quem Gabriel praedixerat,
Quem ventre Matris gestiens,
Baptista clausum senserat.】


Feno iacere pertulit,
Presepe non abhorruit
Parvoque lacte pastus est,
Per quem nec ales esurit.
【聖務日課では、Parvoque lacte pastus est,の代わりに、Et lacte modico pastus est.と歌います。】

Gaudet chorus celestium,
Et angeli canunt Deum,
Palamque fit pastoribus
Pastor creator omnium .

Hostis Herodes impie,
Christum venire quid times?
Non eripit mortalia,
Qui regna dat celestia.

Ibant magi, qua venerant,
Stellam sequentes previam,
Lumen requirunt lumine,
Deum fatentur munere .

Katerva matrum personat
Collisa deflens pignora,
Quorum tyrannus milia
Christo sacravit victimam.

Lavacra puri gurgitis
Celestis agnus attigit ,
Peccata qui mundi tulit
Nos abluendo sustulit.

Miraculis dedit fidem
Habere se Deum patrem,
Infirma sanans corpora
Et suscitans cadavera.

Novum genus potentie!
Aque rubescunt hydrie,
Vinumque iussa fundere
Mutavit unda originem .

Orat salutem servulo
Nixus genu centurio,
Credentis ardor plurimus
Extinxit ignes febrium

Petrus per undas arubulat
Christi levatus dextera;
Natura quam negaverat,
Fides paravit semitam.

Quarta die iam fetides
Vitam recepit Lazarus
Mortisque liber vinculis
Factus superstes est sibi.

Rivos cruoris torridi
Contacta vestis obstruit:
Fletu rigante supplicis
Arent fluenta sanguinis.

Solutus omni corpore
Iussus repente surgere
Suis vicissim gressibus
Eger vehebat lectulum,

Tunc ille Judas carnifex
Ausus magistrum tradere
Pacem ferebat osculo,
Quam non habebat pectore

Verax datur fallacibus,
Pium flagellat impius,
Crucique fixus innocens
Coniunctus est latronibus

Xeromurram post sabbatum
Quedam vehebant compares,
Quas allocutus angelus
Vivum sepulcro non tegi .

Ymnis, venite, dulcibus
Omnes canamus subditum
Christi triumpho tartarum,
Qui nos redemit venditus.

Zelum draconis invidi
Et os leonis pessimi
Calcavit unicus Dei
Seseque celis reddidit.


天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月22-26日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年01月01日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

私たちの主イエズス・キリストの御降誕と新年のお喜びを申し上げます。

御降誕の前日(12月24日)には大阪で、9時から始まった洗礼式で2名の方々が洗礼を受け、31名の方々が10時半からの聖伝のミサに与るお恵みを得ました。
12月24日には午後の9時からは予定通り朝課を全て歌いました。
25日の真夜中からは、深夜ミサを始めました。外国からの方々が初めての日本でのクリスマスだったけれど、聖伝のミサだったから自国でクリスマスに与ったのと同じように感じた、とおっしゃって下さいました。ラテン語の聖伝のミサだから、世界中どこでも同じで、家に戻ってきた感じがしますね。

12月25日には朝の9時から「曉のミサ」を捧げました。多くの方々が既に集ってミサ聖祭に与っておられました。残念ながら、9時のミサだけでお帰りになった方々も私の知る限り5名ほどおられましたが、その他の方々は10時半からの歌ミサにも与りました。
10時半からの歌ミサには、68名の方々がミサに与ることが出来ました。(帰ってしまった方々を入れると73名です!大阪での前日のミサに与った方々と合わせると100名以上が聖伝のミサのお恵みに与ることが出来ました。)その方々を通して日本中にミサの祝福が伝わるので天主様に感謝です!
晩課も、大変うまく皆で歌い、ビックリです!

私たちも取り入れたローマの習慣に従って、ミサ聖祭の後は、幼きイエズスの御像に接吻をする儀式も行いました。

本当は12月26日にマニラに戻る予定でしたが、台風のために、飛行機がキャンセルに成り、その都合で28日に戻りました。マニラの教会のほうは、強い雨が降っただけで特に被害はなかったそうです。

では良き新年、ファチマ百周年の2017年をお迎え下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
Dear Father
How are you? I suppose you should be exhausted!
I want to thanks again for your kindness.
This is our first Christmas being outside our country, but we felt really as if we were at home.
You and all people were very nice with us.
This is what's incredible about traditional mass, it was exactly same as in home. (...)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

この度は、クリスマスの3回の御ミサ、22日からの御ミサ、洗礼式、朝課など本当に色々ありがとうございました!!m(_ _)m
東京と大阪の両方でクリスマスの御ミサを捧げて下さるという非常にハードなスケジュールを、私たち日本信者の為に奔走して下さり本当にありがとうございます!非常な御恵みでクリスマスを迎える事ができました!天主様に感謝!マリア様に感謝!ヨゼフ様に感謝!

そしていつもいつも素晴らしく色々準備して下さり、教会の為に奔走して下さるヨゼフさん御一家にも心より感謝を申し上げます。

私たちの中にお生まれ下さったイエズス様の御降誕の神秘の中に深く入り、良き御降誕節を過ごすことができますように!

デオ・グラチアス!



【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

【所感】
日本でのクリスマスのミッションをありがとうございました。
大阪では、22日23日24日と御降誕の真夜中の御ミサに与ることができました。
私たちの心に、幼き天主イエズス様をお迎えすることができました。
天主様に感謝!聖母マリア様に感謝!聖ヨゼフ様に感謝!申し上げます。
また、美しく飾られた御聖堂で、お二人の方が洗礼のお恵をいただきました。
大阪では2011年以来の受洗のお恵みではなかったでしょうか?
おふたりの受洗者のお祝いに、たくさんのご家族が駆けつけてくださいました。
ああ、教会には多くの家族が必要だなあと、改めて感じました。

24日の夜9時から御聖櫃に在す御聖体の御前でグレゴリアン聖歌で「朝課」を歌ってお捧げできましたことが、大変嬉しかったです。
朝課の後、クリスマスキャロルを引き続いて歌って、馬小屋に、幼き天主イエズス様をお迎えいたしました。

聖堂はロラテ・チェリ(天の露)のような、天からの恩恵が降り注いでいるかのような「デコレーション」が聖堂内の壁一面に施されていて、
天主の第二のペルソナであられる「永遠の御言葉、天主の聖子」の御降誕という人類最大のお恵みを、ずうーっと感じることができました。

真夜中の御ミサの後、軽食を神父様と信徒みなで頂戴したあと、わずか2-3時間後の朝6時の始発の新幹線で、
東京へ移動された小野田神父様の愛徳に、その慈父のお姿に、ただただ心から感謝申し上げます。
御降誕の3回の御ミサを全て、日本の信徒に与えてくださいました。

「馬小屋」は、貧しく、汚れた、天主への愛に冷え切った、あまりにも粗末な「私の心」を象徴していて、
そこに聖ヨゼフ様がマリア様を連れてきてくださり、そこでマリア様が天主イエズス様をお生みになって、私たちにイエズス様をお与えくださったことと、
天主イエズス様をいただく、「御聖体拝領」(霊的聖体拝領)とは「同じ」だ!と気付きまして、
何年か前から、「御聖体拝領」(霊的聖体拝領)の前に心を準備する「祈り」をするようになりました。
それまでは、聖グリニヨン・ド・モンフォールの「聖母マリアへの真の信心」のとおりに「御聖体拝領」をしていましたが、
聖ヨゼフ様の御助けもいただきたく思うようになりました・・・。
神父様、私のこの信心は間違っていないでしょうか?(^_^;)

「いとも尊き聖ヨゼフ様、2016年前の馬小屋に、イエズス様とマリア様をお連れなさった聖ヨゼフ様、
私の心は馬小屋よりも貧しく、罪に汚れたものなれども、どうぞこれを浄めしつらえてください。
ひとえに御身の御功徳と御あわれみとによりて、イエズス様とマリア様を私の心にお連れください。
聖ヨゼフ様、御身こそイエズス様とマリア様をお連れくださる御者なればなり。

インマクラータよ、どうぞ御身の汚れ無き御心をお貸しくださいまして、
聖子イエズス様を御聖体拝領させてください。
そしていつも、御身の汚れ無き御心を我が心とさせてください。
私の思い、言葉、行いを全て支配したまえ。
インマクラータよ、御身こそイエズス様をお与えくださる御者なればなり。

天主イエズス様、私は全く弱き者、不忠実なるしもべにして、全くふさわしくない者ですが、
ただ天主の愛を信じ、天主のあわれみに寄りすがり、御身に近づきます。
ひとえにマリア様の汚れ無き御心に免じて、私の心においでください。
我は何をも持たざれども、我が心を主に捧げ奉る。
願わくは御身の至聖なる聖心を我に与え給いて、インマクラータを愛せしめたまえ、
インマクラータに仕えしめたまえ、インマクラータに全てを捧げさせたまえ。」
文体もでたらめで、恐縮です(^_^;)

幼き天主イエズス様、我らをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。

【お返事】
御聖体拝領と霊的聖体拝領の前の準備の祈り、とても素晴らしいと思います。
聖母と共に、聖母の内に、聖母によって、聖ヨゼフの慈父の御助けを持ってイエズス・キリストを私たちの霊魂に受けるのこそ、正に、もっとも効果的でイエズス様のお望みのやり方です!
どうぞ続けて下さい。私も見習って、聖ヨゼフにもお願いします!


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の参加者数はこれまでの最高記録です!
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

10時半のミサの参列者数
男: 23人(内、子供4人)
女: 45人(内、子供7人)
計: 68人(内、子供11人)

軽食会の参加者数
男: 9人(内、子供1人)
女: 11人(内、子供1人)
計: 20人

第二晩課の参加者数
男: 6人
女: 10人
計: 16人



【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!

神父様、こんにちは。
フィリピンには大きな台風が上陸したそうですが、神父様は無事に修道院まで戻られましたでしょうか。またフィリピンにいる皆様はご無事でしょうか。
お祈りしております。

御ミサのレポートをお送りいたします。
今回も日本で御ミサを捧げてくださり、本当にありがとうございます! 神父様がハードスケジュールの中、東京にいらしてくださったので
御ミサに与ることができました。本当にありがとうございます。 また、今回、御降誕の主日の暁のミサと日中のミサを合わせると73人の方々が御ミサにいらっしゃったと伺いました!!!! イエズス様の御降誕を多くの方々と共にお祝いできたことを天主様に感謝いたします。

御ミサのレポート
これだ! とわかったこと
今回は2つあります。

1つ目は、御降誕の大祝日には司祭は3つの御ミサを捧げることを許されているが、この3つの御ミサは3つの誕生・神秘を祝っており、その意味について
・真夜中のミサ(第一の誕生の記念)永遠における今日、まだ天主が「光あれ」と仰るよりも前、永遠の夜において御父から御子が御生まれになっていることを記念する。これは、聖三位一体の神秘である。
・暁のミサ(第二の誕生の記念)12月25日のベトレヘムにて、童貞聖母マリア様から、肉を取り赤子として、私たちの為に生まれたことを記念する。イエズス様は、御父のことを教える為に、天主の愛を私たちの知らせる為にお生まれになった。
・日中のミサ(第三の誕生の記念)は、イエズス様が私たちの霊魂において誕生したい、と望んでいらっしゃることを記念する。この第三の誕生に、第一と第二の誕生の全てが含まれている。

永遠の王の王は、御父の愛を目に見えるものとし、私たちに知らせるため最も愛されやすい、私たちに怖れを抱かせないような赤ちゃんの姿で、まるで私たちの霊魂のような貧しい馬小屋に御生まれになった。これは人類における深い燃えるような愛によるもので、三位一体の全てのペルソナが関わっているが、特に聖霊の働きによるものだった。(「・・・すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ・・・」使徒信経)
ということです。

もう1つは、この燃えるような愛、自らを人間の赤ちゃんとして現わし、私たちの霊魂に生まれることを強く望まれる天主の愛を、多くの人が信じようとせず、希望せず、理解せず、愛せず、さらに反対に無関心や冒涜をもって天主に報いていること、が分かりました。

御降誕の主日に捧げられる3つの御ミサの意味を初めて知ることができ、嬉しかったです。また、天主様の燃えるような愛に本当に感動いたしました。デオグラチアス! しかし、特に現代において多くの人が、そのような天主へ無知、無関心を持って報いていることも確かな事実であることも再確認いたしました。私自身もまた、時に天主様の存在に無関心であり、反省いたしました。

世間では「クリスマス」というとパーティーやプレゼントのイメージで本当は何を記念しているのか、意味しているのか注目されることは、以前にも増してますます少なくなっているように感じます。無知が回復されなければ上智に至ることは有り得ないと思うので、これは大きな損失だと思います。ロザリオのお祈りと犠牲と、不思議のメダイをひろめることによって、ますます多くの日本の方達がイエズス様の御誕生と愛とを知り、そしてカトリックの聖伝に出会うことができますように。拙いながらも祈らねばならないと改めて思いました。

2016 年も残すところあと数日となり、来たる2017年にむけてより良い準備ができますようマリア様のご助力を願いつつお祈りしております。
次の東京の御ミサは聖家族の祝日です。また、多くの方々が御ミサにあずかることができますように、多くのカトリックの家族が誕生しますようにお祈りしつつ、怠らず、良い祝日を迎える準備をしたいと思います。

+In Mary Immaculate,



【報告】
十アヴェ マリア インマクラータ!

小野田神父様

イエズス様の御降誕おめでとうございます。
この度 聖伝におけるご降誕祭における暁のミサと日中のミサに 初めて与る恵みを受けました、ありがとうございます。
神父様には真夜中のミサを大阪で捧げられてそのまま東京においでくださり、強行スケジュールだったことと思います。ありがとうございます。

今日の御ミサは特別な御ミサでした。典礼暦の初めに 準備してイエズス様をお迎えできますことを 心から感謝いたしました。
この三回捧げられるクリスマスミサには それぞれ意味があると伺いました。最初の真夜中の御ミサは 永遠の夜における誕生と聖霊による童貞聖マリア様におけるイエズス様のご誕生、そして暁のミサはベトレヘムにおける真夜中のイエズス様のご誕生で羊飼いたちに姿をあらわし御父へ行く道を 御父の神秘を教えてくださる、そして第三の日中のミサにおいてはイエズス様が今日御父の燃えるような私たちへの愛によって世界中の人間の霊魂にお生まれになりたいと願われたがゆえとのことです。そして最も愛されやすい形になろうとされ幼子の人間の赤ちゃんの御姿をとられたとのこと、あらためて三位一体の天主様に心から感謝を申し上げました。「燃えるような愛の技・人間に対する正気を失ったような愛の技であり永遠の天主の御言葉は私たちを愛するあまり燃えておられる!」。どれほど熱烈な愛で御父は人間を愛されているだろうかという神父様のお説教を拝聴しながら、普段あまり御父からの愛のことを考えない自分を反省しました。毎日の生活のなかでつい自分のみじめさの方ばかりに目が行きがちになることを省み、天主様の人間への愛の強さを教えられて胸を打たれました。

そして この恵みに感謝するなら 他の人のためにも、まだイエズス様を信じることなく礼拝することなく希望することなく愛することのなき人々のためにも、どうかイエズス様がその霊魂のもとに受け入れられますようと祈ってくださいというお話を伺って、まだイエズス様の愛を知らない人たちのため祈らなければと思いました。 自分はイエズス様の愛を知っているとの思い込みが余計その心を閉ざさせている霊魂のためにも 祈りたいと思いました。もし私の霊魂がそうであるなら どうかその過ちから立ち直らせてくださいますように!と。 そして 今日御生まれになる! との御言葉の通り、いつも今日!心を浄めて心を開いて イエズス様をお迎えできるように過ごさなければと 思いました。

待降節の間 祈りの中ではとてもこのようなひどい霊魂のうちにはいらしていただくことはできないだろうと苦しく思いながらも それをも犠牲としてお捧げし この御降誕および主日のミサに与ることができました。聖堂は少しづつ礼拝する方々で満ちていっぱいになってしまいました。喜びでいっぱいになるようでした。 クリスマスには 犠牲をお捧げし大小斎をして心も体も浄めてご降誕祭に臨むようにするという伝統的な慣わしのことを初めて教えていただきました。十分にはできないながらも そのような準備をしてご降誕祭のミサに与ることができて とてもよかったです。本当に この貧しい霊魂にイエズス様をお迎えできますようにと祈りながらその時をお待ちして ご聖体拝領を行うことが出来ましたことを心から感謝します。また 幼子イエズス様への小さな御手への接吻を初めてさせていただきました。

イエズス様は この地上のみじめな単なる被造物に過ぎなく いずれ朽ち果てる身の人間の私の内においでくださり、霊魂を聖化してくださると感じられました。霊魂のことを考えることも それがあるかどうかを考えることもしない方がどれほど多いことでしょう。それは全く塵に埋もれていてその人には見えなくなっているかのようです。けれど 天主様は人間には霊魂を与えてくださいました。そしてそれをカトリックの信仰によって この正しく準備されたご聖体拝領という人の考えつくことできない方法で、聖化してくださるご予定だったのだ、と この日はまことに感じられました。本当にもったいないことです。自分自身で努力しようとしたところで 霊魂の聖化などということをこれっぽちもできるわけがありません。造り主である天主様のご計画によって、イエズス様の豊かな贖いによって、ただそのことへの信仰によってのみ 人間のみじめな霊魂が聖化され天国で御父を賛美しその栄光を礼拝することができるようになるのだと思うと、このようなお恵みをいただいて 感謝に耐えません。ご降誕祭を毎年祝うということは単に救い主が御生まれになったという記念として行われるのではなく、このようなはっきりとした意味を持って毎年御ミサに与るべき大切な勤めであったということを 知ることできたように思います。この恵みを 簡単に失ってしまうことがないよう どれほど気を付けて毎日過ごさなければならいか 私はまだ 十分に理解しておりません。

これまで このようなことをクリスマスミサで 感じたことがなく、お恵みに感謝いたします。

なお、もう数日で2017年に入りますが、今日来年のカレンダーの付録を読んでいましたら、ベネディクト15世教皇様の祈りに聖母がお答えくださって 8日後にファチマの三人の牧童の前に御出現くださったと書いてあることに とりわけ心を惹かれました。なぜなら、このことが 聖母が私たちの祈りにいつも耳を傾けてくださっていることを 教えてくださっているから。私のこの一つの祈りが何の役に立つことだろう、このテロや難民や政治の混乱や信仰への攻撃に満ちた世界の方に目を向けると、つい自分の無力さばかりを痛感してしまいます。天主様には何事もできる、最後には聖母が勝利をなさる!ということを 信じているといっても、外に目を向けるときの不安や驚愕・心の痛みは とても大きいし無力感は蔓延しているように思います。でも、確かに聖母は祈りに耳を傾けてくださっている、ということを この部分で教えられるからです。

世界のなかで信仰が打ち捨てられ、それによって恵みの通路を塞いでしまったのは 人間の側の落ち度でしかないのに、信仰を捨てず信仰を以って祈るベネディクト15世教皇様の尊い祈りにこたえてくださった ファチマのマリア様の呼びかけはまだ 続いているように思います。日本においては 30年近く前には ファチマの本はまだ判断のわからない本の一つであるかのようでそれでも当時その本で熱心に祈り周りにもファチマのマリア様のことを伝えたいと熱意を持っていた人が昔はその本を読んだわね、でももう過去のことよねというの言葉を 何人もの人から聞きました。そういう中で、日本で今 こうしてファチマのマリア様の呼びかけのことを 尊い御ミサのお説教の中で拝聴できることは 本当に幸せであり、そして実行しなければならないと思います。

マリア様は この正しく人間の霊魂を聖化することを阻むすべてのことに抵抗するように努めて、天国への望みを失わないようにと おっしゃてくださっているようにも思えます。世界のために祈るということは、一人でも多くの霊魂が救われるようにとの祈りです。伝統的な典礼と祈りがどれほど大切かを こうして知ることができて、自分の考えや態度がその聖なるものを阻むことになっていないか汚してしまってはいないかと気を付けなければならないと感じました。

ちょうど黙示録のことを学んだあと、現実を見る目が新しくされたとき、ショックはとても大きいものでした。『伝統的な典礼は私たちの霊魂を聖化し守るように形作られていたのだ!それなのにそれが今壊され続けている!』ということは実際に聖伝の御ミサに与ることがなければ、黙示録の中の警告もすぐ理解しずらかったかもしれません。”人間の霊魂を聖化することを阻もうとする力”に これまで どれほど取り囲まれていて騙されていたままであったことかと 気づかされています。また、「ごまかされているままの方がなにかと摩擦が少ないので楽であるかもしれないのに、本当のことを受け止めようとすると辛くなるのです」と、信仰の大切な友に、その苦しさを打ち明けましたが、そのように心を打ち明けて慰められ励ましていただける友人がいることはなんと幸せかと気づかされました。これまでは 一人で本当のことを考え求め続けてきたので。

「周りの人に、御父の燃えるような愛を 伝えることができますように。」マリア様は祈りに答えてくださるのですから、しっかりと祈らなければと思います。

イエズスの至聖なるみ心よ 我らのために祈り給え!聖マリアの汚れなきみ心よ 我らのために祈り給え!



【お便り】
先日は美しい御ミサを、ありがとうございました。食事の後、みんなでCarolingをしたのがとても楽しく、いい思い出になりました(⌒▽⌒)

東京で初めてのX'masミサは、こんなに沢山の人でほんとうに良かったですね~(^_^)



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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