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ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のお説教 二〇一二年六月三日 パリ

2012年06月21日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 聖ピオ十世会の+ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のパリでの堅振の時のお説教を日本語に訳して下さった方があります。私に自由な時間が与えられず、愛する兄弟姉妹の皆様にすぐにご紹介することが出来ませんでした。遅ればせながらご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。
 その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のお説教
二〇一二年六月三日 パリ、サン・ニコラ・ドゥ・シャルドネにて


フランス語音声の英訳を日本語に翻訳
http://www.gloria.tv/?media=296765


私には天と地の一切の権能が与えられている。だから、あなたたちは行ってすべての諸国に教えに行き、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさい。[訳注: 三位一体の祝日の聖福音より]

このみことばに、教会の使命と聖ピオ十世会の使命があります。ここにこそ、イエズス・キリストのおん力によって、すなわち、王たるキリスト、司祭なるキリスト、私たちの使命において支えてくださるお方のおん力によって、私たちが持つ信仰があります。私たちは司祭なるキリストのため、司祭職とこのお方の司祭たちのため、教会のため、王たるキリストのため戦い続けてきました。それはすなわち、カトリック国家のためであります。

親愛なる信者の皆さん、私たちはカトリック信仰を蝕んだ異端と戦った初代教会の聖人たちがしたように戦い続けましょう。ちょうど今日のありさまと似ています。聖三位一体に反対するアリウス派の誤謬と、今日、司祭職と私たちの主イエズス・キリストの統治に反対する数々の異端との間には、同じような類似があります。

では、諸聖人と司祭たちによって打ち負かされた古代の三つの異端を描写することで、わかりやすくこの比較をしてみましょう。

最初はアリウス派です。アリウスはカトリック信仰の一ドグマを否定したエジブトのアレクサンドリアの司祭でした。彼は「否! 天主のみことば、天主のおん子は天主と同等ではない、彼は天主ではない。天主のみことばは被造物である」と言いました。そして聖パウロの言葉を引用して、キリストはあらゆる被造物の最初の者である、と言いました。聖パウロは確かに、イエズス・キリストはすべての被造物の最初の者であると書きましたが、それは天主の計画において、天主は彼の創造物における最初の場所の中に彼を見たからです。天主の計画において、天主はおん子のご託身(受肉)を見たのでした。

アリウスは、「否、天主が肉をまとうことはふさわしくない、だから私は一つの新しい教義を発見した、みことばは天主ではない」と言いました。そこで、アリウスを断罪するため、天主のみことばは天主と同等である、天主のみことばはおん父と本性が同じであると宣言するため、一つの公会議、決定的な公会議、ニケア公会議が招集されました。私たちは毎日曜日に使徒信経でこのこと、"父と一体なり consubstantialem Patri." を告白します。

子なる天主であるみことばは、おん父と本性が同じであり、おん父とおん子は一つの本性を有し、唯一の天主です。この言葉(consubstantialis)は聖書の中にはない哲学用語であり、公会議の教父たちは、哲学的であり、異教に由来し、まったく別の事柄を意味するかも知れないこの言葉を使うことをためらいました。例えば、天主おん父と天主おん子は、一人の人間が使う二つの仮面であるかのような意味を与えてしまうのではないかと。つまり天主の内に、「天主おん父」の仮面と「天主おん子」の仮面を、代わる代わる付ける一つの人格があるのであると。


聖アタナジオですら、この「同じ本性 consubstantialem」という言葉を採用することに乗り気ではありませんでしたが、最後にはこの言葉を使い、アリウス派に反撃するため、ニケア公会議で使用しました。そのため彼は苦しみました。国を追放されたのです。つまり聖三位一体における聖アタナジオの信仰のために、父と子は完全に同等であるということを擁護するために、天主のみことばの神性を擁護するために、砂漠に避難しなければならなかったなど。


私たちもこのように戦わねばなりません。親愛なる信者の皆さん。聖アタナジオが容赦なくアリウス派に反撃したようにです。かなりの範囲で、彼は対アリウスとの戦いに勝利を収めました。ですから、この苦闘を戦うことを止めないようにしましょう。私の意見では、さらに二十年は続くだろうと思います。目下、私たちがくぐり抜けている危機は非常に重大です。ですからこの危機は長く続くでしょう。教会史は、長期に渡る教会の危機は七十年間続いたことを示しています。アリウス派、(東西の)大分裂などです。

ですから、公会議後の危機は、恐らく約七十年は続くでしょう、それはつまり、あと三十年は待たねばならないということです。勝利が早く来ることを期待しないように。私たちは勝利を得るでしょう、私たちの主は、私たちがその一部を成しているご自分の教会にすべての力を授けたからです。


その後にわき起こった二つめの異端は、ネストリウス派の異端です。ネストリウスはコンスタンチノープルの総大司教であり、みことばは託身しなかった、と前述の説と同じように宣言し、「それはあってはならないこと、スキャンダルである」と彼は言いました。「天主が人間の肉体をまとったと仮定することはあってはならないことである。イエズスの肉体! 純粋の霊である天主にとって、それはあってはならないことである。天主が肉体を持つなど仮にもあり得ない、それはこの時代の哲学に歯向かうことであり、私、ネストリウスは別のことを考えている。イエズス──人間イエズス──は、ご自分の功徳によって神性にふさわしい者となったのだと思う」と宣言したのでした。

だから、イエズスは天主に「なった」のだから、イエズスは天主である。イエズスが天主ならば、間違いなくネストリウスはカトリック信仰を告白したといえる、そうではないか? イエズスは天主である、しかしどうやって彼はそれを告白したか? イエズスは天主であるが、人間となった天主というより、天主となった人間であった。人間イエズスが天主となった──これはカトリック信仰でしょうか? イエズスが天主となったということはカトリック信仰でしょうか? いいえ、これは異端です。

これは残念なことに、三十年前、ラティスボンのある教授がはっきりと授業で教えていたことです[ラッツィンガー神父への婉曲な言及。公に異端を教えたその教授が現教皇である]。イエズスはまったくご自分を離脱させ、自分自身から離れ、ご自分の愛徳によって、ご自分を天主に結びつけ一体となり、天主になったのだと。


これは異端です。ネストリウス派の異端に非常によく似た説です。ですから私たちは、私たちが告白すべきカトリック信仰を告白することに非常に注意深くありましょう。親愛なる信者の皆さん、イエズスが天主であると告白するだけでは充分ではなく、彼が肉体をまとったということも言わねばなりません。ご託身の玄義によって天主は人となりました。聖人たち、例えば、アレキサンドリアの聖チリロはこのために戦いました。ネストリウスがこう言ったからです。「もしイエズスが天主でないなら、彼がただの人間であった(人から天主になった者)なら、童貞女は人間を生んだのだ。だから彼女は天主のおん母ではない。天主のおん母聖マリア、我らのために祈り給え! 否、マリアは、ただの人間イエズス・キリストの母である」と。

おお! 異端だ! 聖母への侮辱だ! 我々はいかにして彼女の神的母性(天主のおん母であること)を否定できようか? 聖チリロとエフェゾ公会議は抗議し、祝された童貞女は天主のおん母である、彼女は天主を生んだ、人となられた天主、イエズス・キリストを生んだ、と述べました。彼女が人となられた天主を生んだなら、彼女は天主の母である。彼女のおん子は天主、子なる天主である。

ここに、異端に意義を唱えることをためらわなかった聖人の姿があります。彼はこのために迫害され、それでもなお異端を攻撃し、カトリック信仰を明らかにしました。親愛なる信者の皆さん、今日、私たちはこのようにしなければなりません。信教の自由に異議を唱え、カトリック信仰を明らかにすること。信教の自由は、間違った宗教を告白する人々を尊敬することを私たちに望みますが、それはつまり、"国家は、人間の尊厳の名の下に誤謬に自由を与えるべき、すべての間違った宗教を告白するための自由を与えるべきだ" というのです。私たちは、否! イエズス・キリストが統治すべきである、と言います。彼がすべての人の心を統治し、公に国家を統治しなければなりません。国家はカトリック国家にならなければなりません。


ですから、私たちはこういった間違った人間の尊厳と信教の自由に異議を唱えなければなりません。国家はすべての人の自由に寛容でなければならない、と言いますが、それは不可能であり、誤謬であり、今日でも誤謬であることは変わりません。そうではなく,私たちは逆を支持しなければなりません──イエズスは公に国家を支配する権利を持っていると。これこそ、アレキサンドリアの聖チリロの例にならって、私たちが言い続けていることです。ローマが今日、私たちに合意と、教会内での公的な地位を提供しようと申し出をしているのだから、ということを考えないようにしましょう。それはつまり、公会議と相反する、この強固な真理の数々を放棄すべきであるということです。私たちは公会議とその誤謬と戦うことを止めてはなりません。

皆さんに教えたい三番目の例は、反聖霊派 pneumatomachians【ギリシア語で「霊に反対」という意味】についてです。エフェゾ公会議の後、人々は「聖霊は天主ではない」と言うようになりました。三番目の重大な異端です。「おん父は天主である、よろしい。おん子は天主である、よろしい。しかし、聖霊は天主ではない。聖霊は被造物である。その証拠に、イエズスは聖霊を私たちに送られたではないか。『慰め主、真理の霊を、私はあなたたちにおん父から送ろう』 その通りだ。イエズスが誰かを送るのなら、その者は被造物だ」 これが反聖霊派 pneumatomachians です。


親愛なる信者の皆さん、聖霊は天主ではないというのは真実でしょうか? 私は皆さんが、皆さんの信仰を告白する準備が、おん父とおん子と同じく聖霊は天主である、と告白する準備ができていることを望みます。皆さんが十字架のしるしをする時、父と子と聖霊とのみ名によりてするのであり、この三者は天主です。「父と子と聖霊とのみ名(name)──単数の名です──によりて」 三位における唯一の天主。聖霊は天主です。そこで、ポントゥスのカエサリアの聖バジリオは立ち上がり、この誤謬に抗議しました。「否! 聖霊はまことに天主である。我々は聖霊を、おん父とおん子を崇めるのと同じやり方で崇めなければならない」 彼はこの誤謬を告白する人々と戦い、勝利を収めました。

二十年もしくは三十年後に、危機が収束を迎え始めた時、聖バジリオは異端者たちは回心し始めているとみなしました。公会議支持者たちは回心し始めていると私たちが言えるならば──しかし事実はまったく逆です。一人もいません。どこでも、ローマでも教区でも、彼らは誰も回心していません。さて、聖バジリオは、反聖霊派 pneumatomachians と呼ばれた彼らが回心し始め、カトリック信仰に立ち戻るのを見て、彼らを攻撃するのをやめることを決心しました。聖バジリオは聖霊は天主であると言うことはできませんでした、なぜなら異端者たちがそういうのを好まなかったからです。ですから彼はそのことを、少し穏やかに表現しました。つまり、聖霊は「おん父とおん子とともに崇められるべき存在である」。聖霊はおん父とおん子とともに同じ栄光を受け取る。我々はおん父とおん子と同じように聖霊を崇めなければならない。我々はおん父とおん子と同じく聖霊にも栄光を帰すのである。「穏やかな表現」ながらも、この言葉はカトリック信仰を表現しています。曖昧ではありません。

聖霊が天主であるが故に聖霊をあがめなければならないのなら、すなわち、おん父とおん子と同じように聖霊にも栄光を帰さなければならないのなら、それは聖霊が天主であるからです。ですから、聖バジリオはカトリック教会に戻りたがっていた人々と一緒になって、曖昧な表現を使ったりはしませんでした。聖バジリオは、異端者たちがカトリック信仰全体を告白することを求めましたが、そのことを穏やかな言い方で表現しました。彼は慎み深く上品でしたが、まことの信仰をはっきりと告白しました。彼は曖昧な文書にサインをしようとはしませんでした。親愛なる信者の皆さん。これが私たちが今日しなければならないことです。曖昧な文書を拒否し、誤謬を断罪し、カトリック信仰を正しく告白しなければなりません。

いつの日か、二十五年後でしょうか、公会議を悔やみながら、終わらない大破壊、すなわち、空っぽの神学校、廃墟となったいくつもの教会、あらゆるところに背教と不道徳があるのを見るその時に、彼らは深く悔やむでしょう。そして彼らがそうするとき、心からの償いをしながら戻り始める時、私たちは彼らを助けるため「穏やかな」表現を使うことができます。しかしそれは今ではありません! この危機は今やそのまっただ中にあります。今、私たちは堅固でなければ、公会議の誤謬、特に王たるキリストの否定、王たるキリストの拒否を断罪しなければなりません。

親愛なる信者の皆さん、これが私たちの実行計画です。己を欺いても意味はありません。この危機が終わる見込みはまだまだありません。この危機は終結からほど遠いところにあります。戦いは長く続きます。ですから私たちは結束し、持ちこたえ、私たちの主イエズス・キリストのおん力におけるまったき信頼のうちに、完全なるカトリック信仰を告白し続ける必要があります。

私は、天においても地においても一切の権能を与えられた。故にあなたたちは行って、真理を述べ伝え、聖三位一体について述べ伝え、王たるキリストを述べ伝え、司祭なるキリストを述べ伝えなさい。同様に、あらゆる聖寵を持ち、分け与えてくださる天主なる私のおん母に信頼を持ちなさい。私が敵どもに勝利するのは彼女を通してである。私の教会にカトリック信仰を取り戻させるのは彼女を通してである。

私の母に、その信仰においてもけがれなき童貞女である彼女に信頼を持ちなさい。祝されたおん母が私たちの信仰をけがれなく(immaculate)保ってくださいますように。父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。


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1 コメント

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Unknown (ヨゼフィーナ)
2012-06-23 19:29:26
神父様、いつもありがとうございます。
このお説教の原文はこちらにあります。皆さまのご参考までに。SSPXイギリス管区のサイトです。

http://www.sspx.co.uk/index.php?option=com_content&view=article&id=420:bishop-tissier-de-mallerais-sermon-362012&catid=100:interviews&Itemid=69

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